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2021-06-17 29:24

【GMV 399】誰に私は怒られるのが嫌なのか?

怒った相手に怒られた人になってしまう
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
どうしても専門用語になっちゃうんですけど、しかもまだ何の解決も見ていない話なんですが、
専門用語に、精神分析の専門用語に転移というのがあるんですよ。
これは必ず起こることとされていて、長く喋ったりしていると、
カウンセラーと1対1で密室で長くやり取りしたりしているから起こることなんですけど、
例えば私が行って、父との関係みたいなものがそこに再生されてしまうみたいな。
精神分析が私の親父になっちゃって、そうすると私は自分、親父対子供の時の自分みたいになるわけですよね。
これを転移と言うんですが、そうするとだんだん相手の人も精神科医の言うことも親父っぽくなっていくという現象が起こるんですよ。
これといわゆる同一詞という言葉もあるんですけど、これと同一詞ってどう違うんだろうと、
違いはいっぱい、それこそネットにも本にもあるんですけれども、
違いがあるということは困擾されやすいということでもあると思うんですけど、
なぜこのことを一生懸命僕が考え始めたかというとですね、
先日も起こったことなんですけど、夢見たんですね。
その夢の中で私が好きな女の子が出てきていて、その子が徹底的に私のことを目の前で無視するんですよ。
いることはもちろんわかっているんですけれども、徹底的に無視されるんですね。
その子はわざわざ他の男の人と喋っていて、
こういう男になったら良くないからとかって言うんですよ、私のことを指して。
すげえきついなという感じで思ってたんですね。
これですごい思い出すものがあって、なんだろうこの感じと思って、
すごい苦痛に満ちている夢だったんですね。
僕がよく昔見ていた悪夢という話とはだいぶ違っていて、
別に悪夢は悪夢だと思うんですが、悪夢という感じには僕は抱かなくて、
なんか本当につらい夢だなというのを思い出したんですよ。
目が覚めた時はこれきついなと思って、でもすごい良い夢だったなと思ったんですよ。
何が良い夢かというと、僕よく思うんですけれども、
自分というグッドワイブスでよく本当のことはわからないということの中の一つに、
自分というものはわからないというのがあるんですね。
私あれはなかなか自分は生活を安定させているせいもあるんですけれども、
意識の幅の不礼のあまり広くない人間だなと思うことがあって、
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ところが夢の中に行くと大幅に不礼が起こるんですよね。
さっきのも殺意を抱く感じになっていくわけですよ。
ああいう体験ってなかなかできないじゃないですか。
あまり現実にしたくもないしね。
だからいろんな自分というものを体験できますよね、そういう夢を見ると。
つくづくその時僕が思ったの一つには、自分というのは幅が広いと。
言ってみれば得体が知れないじゃないですか。
自分というのはだいたいこういうもんだというところからかなり逸脱していたんですよ、あれは。
そのかなり逸脱というのもでも確かに自分なんですよね。
こういう時にグッドワイブスのいわゆる自分というものを自分はよく知らないんだというのがよくわかる気がするし、
私はこのことはよく昔からですね、自分の触れ幅がでかい体験というものは意識的には難しいところもあるので、
不意に気づくことはあるんですよね。
例えば私なんかがそうですけど娘に殺意を抱くみたいなのが出てくる時があるんですよ、夢じゃなくて。
そういう時に自分というのは得体が知れないって思うんですよ。
それは私はいい体験だと思うんですね。
少々心理的に、少々というかかなりきつくても、自分の幅というのは知れば知るほど悪いことはないと。
そのこと自体についてはですね。
これはよくかわいはようさんなんかが指摘していることですけれども、
人間というのはもう無限にその中の、その一人の中に無限の人がいるんだって思っておいた方がいいみたいなことを割と書かれてるんですけど、
そういうことをですね、読んだだけではなかなかピンとこないじゃないですか。
でも突然あの大人しかった人が突然あんなことをみたいな話ってあるじゃないですか。
そういうことだと思うんですよね。
自分というものは別に固定したものでも確定したものでもないわけだから、
何になってしまっても不思議はない。
それは他人についても全く同じことが言えるので、
人が変化しないっていうのはすごい騙されている感じってあるので、
夢の中の体験とはいえですね、いいと思うんですよね。
で、そのきついなと思ったので、やっぱりなんできついと思ったんだろうと。
きついシチュエーションだけど思ったのが、
自分がまるで幼児みたいになってしまうっていうのが僕は嫌だったんですね。
その時一番何が嫌だったかというと、自分がまるで幼児みたいになってしまうと。
これって東映制同一誌ってやつだよなと思うんですよ。
結局幼児になってしまうのは何かっていうと、僕は二つあったと思うんですね。
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一つは母親だったと思うんです。
で、うちの母はああいうことしたかなと思うと、
したなと思い出すんですよ、やっぱりした。
あれは今で言うとちょっと虐待メーターことになっちゃうかもしれないけど、
当時だったら常識的だった。
普通にですね、罰なんですよ。
失跡の代わりにどうこした場合は無視するという失跡方式を取るわけですね。
無視するというか、あからさまに嫌悪感を示すんだけれども相手にしない。
いないものとして扱うみたいな。
あれ、時々あの人はやったなというのを思い出して。
夢を通じて思い出すっていうのは、夢が記憶を何かやってるわけですよね。
それがただ母親と自分というよりは私の好きなこと、大人になった私なんだけど、
自分はもう感覚的にはその母親の時の幼児になった感じになっちゃうんで、
これだなっていう、これが自分かなり嫌なんだということを思い出したんですよね。
で、このことを例えばメッセンジャーとかSNSのやつでも何でもいいんですけど、
既読するみたいなのをされた時に私はこれを思い出しちゃうんだと。
だから、ということは似たような人もきっといるに違いないという感じがするんですよ。
わかんないですけどね。
自分の場合はきっとこれを遠くで思い出してる、このことを連想するから既読するみたいなのに、
意味もない心の痛みを感じるに違いないと思ったんですよ。
で、面白いことにですね、やっぱりこの夢体験をきっかけにですね、既読するは全く気にならなくなったんですよ。
こういうことが起きるんで、この種の体験っていうのはやっぱりいいと思うんですよね。
夢というのはこういうところで貴重だと思うんですよ。
で、もう一つ思い出したことがあって、母も去ることながら、これをすごく使った幼稚園の先生のことを思い出した。
すっかり忘れてたんですよ。
あの人は結構ひどかったわと。
で、これを思い出したのは僕にとって大きくて、必ずしもやっぱ母親じゃないんですよね。
そして、自分が幼児のようになってしまうっていうことをすごく私が嫌がってるのも、
まさにその幼稚園の思い出があるからに違いないんですよね。
幼稚園まさに幼児じゃないですか。
あの時の無力感みたいなものを、両手両足縛り付けられた感みたいなのになってしまう。
縛り付けられたわけじゃないんですよ。
ただ、いないものとして扱われるっていうことを幼児がやられると、かなり困る。
その困惑と羞恥心みたいなものを全部一斉に思い出すから、
例えば、妻に幼児っぽく扱われるとか、
そういう強い怒りの態度を取られるっていうことに対する私の嫌がってるものは、
こういうところに多分かなり遠い要因があるんだと。
これは大変良かったですね。
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その夢見て実に良かったと思いました。
もう一つあって、
だからこれを転移というべきなのか、
東洋性同一種と考えるべきなのかを、
今ちょっといろいろ文献漁っているところなわけですね。
別にこれを区別しなければいけないかということもないんですけど、
考えてみると、この二つっていうのはどうもやっぱり、
こういう経験を通じてみると似てるなと思うんですね。
要するに私が厳しい、特に女性なのかな、厳しい女性にぶつかると、
繰り返し引き起こしてしまうパターンみたいなものがあると考えると、
ちょっと同一誌っぽいんですよ、これは。
だけれども、ここに母親との関係を思い出すということになると、
これはもう転移だよなという感じがするんですね。
その二つって確かに違う気もするんだけれども、
実際に私が体感することはほぼ同じような感じもしなくもなくて、
そういうのが大変引っかかっているということがあります。
でも一つ大事だなと思ったのが、夢見ているとき、
その夢見ているとき、きついなあというのがずっとあったんですよね。
もういい加減にしてくれないかなみたいな、
そういう中でサチになっちゃうんですけど、
その時に思ったのが、夢を見ているとグッドワイブスが使えないんですね、私は。
私はですね、これは。
で、思ったんですよ。
だからつまり、私の場合は、
ですが他の人には適用できないかもだと思うんですけど、
グッドワイブスがやれているということは起きているというふうに考えて
差し支えないと、そういう判断が効くんですね。
グッドワイブスができなくなるということは、
おそらく夢を見ているんだ。
これ、倉園圭三さんのグッドワイブスの言葉に一つあるのが、
夢を見ている人に罪はないというのがあるんですよ。
非常にこのことと考え合わせると、私の中では結構意味深になってきて、
つまり夢を見ているとグッドワイブスが使えないというのは、
グッドワイブスを使えているということは、
使えているというのも変なんだけど、
夢を見てはいないということになるわけだから、
覚醒度を高めるという意味と接近していくわけじゃないですか。
そのことが非常に自分の中でしっくりきたんですよ。
これはもう余談みたいなものなんですけど、
夢見の最中はおそらくなんですが、
なぜグッドワイブスが私は適用できないかというと、
前頭用、特に前頭善也と言われている部分が多分、
ほぼ少なくとも自由意志の下にないと思うんですよ。
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夢というのは大体やっぱり非常に情動が、
僕にしても感情の触れが大きくて、
多分これは偏見経と呼ばれているところ、
その状態もこの番組中よく言いますけど、
要するに割と原始的なところが活発になりやすい状態で、
前頭用は多分それこそ眠りについている。
グッドワイブスができないときは大体起きていても似たような感じになっていて、
多分なんですが、
島秘室っていうのかな、島っていうのは島秘室とも言うのかもしれない。
アイランドですね。あの字を当てるんですけど、
あれが活性化できないんじゃないかなと疑っているところなんですね。
その辺があるんですよね。
前頭用とはまだ違うんだけれども、
その辺の機能が多分起きてこないと。
グッドワイブスはできない気がする。
これも余談なんですけど、
トロッコ問題ってあるじゃないですか。
このまま走らせていくと5人の人が死んじゃいますと。
でもここでカーブをかけると3人の人を殺すことになるけど、
5人の人は助かります。
どうしますかっていうような問題ですね。
この問題を見せられると多くの人は、
自由野って言ったかな、前頭用なんですけど、
が活性化するっていう研究があって、
だからこういうことってあるじゃないですか、時々。
昔911のテロの時、
ブッシュ大統領がこの後ビルに突っ込んでくる飛行機があったら、
空軍に撃墜させたかっていうのに対して、
ギリギリの決断になるみたいな答えをしたんですけど、
そういう時におそらく自由野っていうのが動くんですよね。
三浦彩子さんの塩刈り峠を思い出させられるような話ですけれども。
っていうことはつまり、
野ってのはそういう事態を想定して作られてる面があると思うんですね。
想定して作られてるって言い方は明らかに間違ってるという気もするんですが、
でも少なくともそういうようなことっていうのは、
人類は経験してきたと思わざるを得ませんよね。
ここが活性化するような脳を持っているということは、
この判断を人はしなきゃいけないと、
しなきゃいけないというか、
でもしてきたっていうことになるんだと思うんですよね。
なんかこの辺は集合無意識みたいな話と関係する気がするんですけど、
あれはすごく言語的な用語ですけれども。
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っていうようなところもなかなか起きないと思うんですよ、
夢を見ている最中というのは。
でもさっきの好きな子に無視されてるというのは、
非常に社会的なシチュエーションではありますよね。
決してそれは個人的な事柄だけではないような気がするんです。
相手がどういうふうに思ってこうやって怒っているのか、
相手の怒りはどうやれば解けるのかみたいなことを、
私は夢の中で一生懸命考えていた気がするんですよ。
だから全部が全部前頭用が寝ていれば、
そんなことは考えつかないはずなので、
何かやっぱりあったと思うんですよね。
さっきの犠牲にしてでも何かを生かすみたいな、
そのこと自体がモラルを問われるじゃないですか。
尊徳感情で考えていいのかみたいな。
だけどそのままいくと明らかに犠牲者が増えるという時に、
要するにどっちを取っても必ずある種の非難を浴びそうな状況。
そういうことって、だからダブルバインドがかかるんですけれども、
あったわけですよ。
これ多分自分が幼稚園児で先生だとしても、
おもねるとかって言うじゃないですか。
相手の甲に取り入ろうとすれば舌で相手の怒りをかいそうだし、
だからといって席立てないみたいな状況。
これって相手のことが好きでもなんでもなければですね、
悩むことはないはずなんですよ。
だからこの好きっていうのが、よく愛憎って言いますけど、
好きっていうのが前提にある夢なんで、
好きというのは常念が多分そのイリュージョンを作り出しているはずなんですよね。
そうするとこの好きという常念を作り出しているっていうその流れをですね、
やめてしまえば脳が苦しむ理由は何もないわけですよ。
だからこの苦しみっていうのは、
夢見なのでどうなってるかっていうのは全然わかんないですけど、
コントロールはできていないのだし、
そこに何らかの意図を認めているわけですよね。
トータルで考えてみれば。
誰がどんな意図を認めているっていうのは無理があるんですけれども、
脳的にはですね、わざわざ余計なエネルギーを使って、
そういうダブルバインドが自分にかかるような仕組みを一つ成立させているっていうのはあったと思うんですね。
で、その中で爆発しそうになるわけですよ、怒りみたいなものがね。
でも私は結局夢から覚めるまで爆発させなかったんで、
そこにも何かあったはずなんですよね。
抑制が非常に強くかかるような何かが。
それは相手に対する行為なんでしょうけど、
その行為がですね、母にはあったとして、その女の子にもあったとして、
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幼稚園の先生にはなかった気がするんですよ、明らかに。
ただ怖かっただけ。
だから定義と言おうと、同一誌と言おうと構わないんですけれども、
明らかにこれは幼稚園の時のシチュエーションを思い起こしているから、
自分が幼稚園児みたいになった、そういう苦しみを感じていたにもかかわらずですね、
その人はやっぱり幼稚園の先生とは違うわけですよね。
夢の中でもすでに行為があったからね。
僕はその幼稚園の先生には、今思い出して思い出すんですけど、
行為がまるでなかったんですよ。あいつは嫌いでした。
で、今どうしてるかな。
まあいいんですけれども、
つまり、完全に同一誌しているわけではないんですよね。
やっぱり母親みたいなものが出てきているんで、非常に定義的でもあるんですよね。
この辺、さっき言った、最初の方に言った通り、まとまりがついてないです。
ただ、まとまらない話なんじゃないかなとも思っています。
結局、私が好きな女の子だって言いましたけれども、誰だか分からないんですよ。
ここが夢なんですよね。
誰だか分からないということは、もしかするとそれは母だった可能性もあるわけですよ。
そして同時に、その幼稚園の先生だった可能性もあるんですよ。
多分、混ざっている。
だから、自分も幼稚園児になってみたり、大人になってみたりが重なっちゃっているわけですね。
ここに幅があると私は言ったんだけど、結局ある程度は過去の自分なわけですから、
今今の自分ではないので、幅があると言ったって何かをただ思い出しているだけとも言えなくもないんですね。
ただ、なかなか自分ではすっかり忘れていたようなこともそこに含まれているので、
自分というのはやっぱり得体は知れないなと。
本当に名前も思い出しましたけど、名字の方だけですね。
名前も思い出しましたけれども、本当ここ15年以上は完璧に忘れていましたから、
その出来事あたり付近もですね。
私、幼稚園って転校したばっかりだったので最初は、年中の時と年長の時と、年中の時は途中からだったんですね。
その辺なんとなく覚えているんですよ。
年中の先生は当時はすごく優しくていい先生だったんだけど、年長の先生はすごい厳しくておぞましい先生だったんです、当時はね。
ところが後々考えてみると、あの年中の先生結構いろいろ私にとって問題があったようなっていうのは、後から思い出すとそういう気がしてくるんですね。
この2人の先生も私の記憶の中で混ざっちゃってるんですよ、変なことに。
顔はもうですね、年長の方がやや僕が物心ついているので年長の方は漠然と思い出せるんですけど、年中の先生は顔が全く思い出せないんですよ。
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多分あれですよね、私はイメージする能力が弱いんで、ほとんどのっぺら棒みたいになっちゃったんですね。
こういう人って夢の対象としてはうってつけじゃないですか、私多分この人の夢、自覚なくしょっちゅう見てると思うんですね。
名前も顔も思い出せないんですよ。ただ優しかったと思ってたという記憶しかないんですね、女の先生だった。
当時はほぼさんっていうふうに言われているぐらいで、幼稚園の先生といえども男の先生は1人だけいないからなんですよね。
結構大きな幼稚園だったんですけど、思い出せない。
この思い出せない人というのはですね、誰にでもなれちゃうじゃないですか。
この人のイメージって私はいろんなところできっと使ってるに違いない。
内的対象っていう言葉は最近出しませんけども、まさにあれこそ内的対象にうってつけの人で、
要するに人だということしかわかってないということなので、誰にでもなれちゃうわけですよね。
そして多分特に女性についてはいろんな人にこの人の影を当ててる気がします。
自分の自覚を形成するにあたってですね。まさにイリュージョンであり、意味づけなんですよね。
優しい人というのはちょっと疑わしいという感じを私が抱いているのも多分この先生が理由になっています。
もしかすると一体優しくも疑わしくもなんともなかった可能性あるんですけどね。
完全に私のイマジネーションだけで練り上げているような産物ですね、これは。
そうやって考えていくうちに一つ非常によくわかったのが、私が怒られるのが怖い。
怒られるのが怖いと結構長らく言ってきた話って実はここに多分かなりの部分があって、
怒られること自体は実はなんてことないんだということが最近ようやくよくわかってきたんですよ。
怒られることは怖くないんですよ。
特に私は男性の怒りを買った時にはそれほど気をつけていないなというのをいつも自覚しているんですね。
女性の方が嫌だと。理由はもう単純なんですよね。
幼稚園児になりたくないんですよ、いろんな意味で。
私多分幼稚園児になるということが嫌なんだと思います。
幼稚園の思い出が全然良くなかった。
青森県からすぐに引っ越してきた関係上、黙りのことで結構難しいことがあったり、
とにかく幼稚園というのはあまり良い思い出がないので、そのことがまず一つ間違いなくあるんですよね。
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幼稚園の先生は言った通りどちらも女性だったので、このことは絶対あるんですよ。
思い出したくないんですよね、幼稚園時代のことを。
幼稚園児にさせられてしまう。
これが多分母に怒られる、妻に怒られる、その他諸々、
僕がかなり長らく抱えてしまっている面倒臭さなんだと思うんです。
思い出してみるとですね、小学校ではそんなに嫌な思いがまずない。
あと小学校の先生はどっちかというと4対2ぐらいで男の先生だった。
この2つはやっぱり大きいんですよね。
しかも小学校ということになってくると記憶もだいぶ確かじゃないですか。
顔も名前もそこそこ思い出せるんですよ。
幼稚園の時は顔と名前がもう曖昧になっちゃっている。
幼稚園の年長の先生の顔と苗字だけが何とかかろうじて思い出せるに留まっているので、
何人でも慣れてしまうんですよね、彼女たちは、私の中で。
そうするとその何かになった瞬間にだいたい腹を立てているとか、
既読スルーされているという時に私は自分が幼稚園児に戻っちゃうわけですよ、記憶の中で。
あるいはそれが揺り戻されるというのかな。
それが私の無力感に直結して、幼稚園児は今の私に比べれば当然無力ですからね、いろんな意味で。
これなんだろうなと。
この前の記憶となってくると青森県時代みたいになるじゃないですか。
なるんですよ。もう全然思い出せませんから、ほとんどのことは。
ほぼほぼそれほど重要じゃないと。
たぶんここが僕が思い出せて、かつこれを人はトラウマって呼ぶんでしょうけど、
私はそうは思わないんですよね。
何か特別な出来事があったとか、最近そうじゃないトラウマもあるっていう話になって、
またトラウマの定義を広げてきてますけれども、
私はそれはあまり良いことじゃないと思うんですよね。
病気っていうものの定義を増やしたり、数を増やしたり、種類を増やしたり、
定義を広げたりするということになると、
割と何でもそこに入り込んでしまうじゃないですか。
そこまで深刻な問題にしない方が本当は良いだろうなというのが、
自分に関しては少なくともあって、
幼稚園時代にあったことが良いことだったか、嫌なことだったかについて、
今更云々しようという気にはあまりならないんですよ。
ただこういうことが起こるっていうのは興味深い。
結局これは夢をベースに、夢をベースにじゃないな、きっかけに、
いろいろ揺り覚まされた事柄だったんですけど、
非常にそれがですね、最近考えていることによくマッチしていて、
大変役に立ったということなんですよ。
やっぱりああいうきんとくるきつさって大事だなというふうに本当思いました。
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グッドバイブス、起きていればグッドバイブスで、
この人は恐れているんだからとか何とか言っておけば、
言っておけばというのは良くないですけど、
この人の恐れを取ればいい、まさにそうなんですけれども、
そういうことは全く考えつかないどころか、
実行できる感じにも一切ならない。
本当に夢の中だからなんだと思うんですけど、
自分幼稚園児のようになっちゃってたんですよね。
完全にただ固まってしまう。
起きていればああはならないですよね、実際のところ。
言い返したり反論したり腹を立てたりどっか行ったり、
全部選択肢の中にけんとうつくんですよ。
多分夢だからどっかに行くとかもないわけですよ。
自分どこにも行けないですからね。
非常にだからシチュエーションが狭められているからこそ、
体験できる感情みたいなのであって、
非常にそれがですね、
自分の得体の知れなさですよね。
自分というのは無限に存在するんだっていうのを
つくづく感じさせられる。
普段はああいう自分がいるなんて、
いそうなもんだと思うけれども、
やっぱりああいう自分にはならないから、
なるっていうイメージもつきにくい。
でも確かになったわけですから、
例えば夢とはいえですね、なったわけだから、
なるんだっていうことなんですよ。
本当かわいはよさんなんかファンタジーなんで、
自分がカッパになってみたり、
それこそ変身の虫になってみたりするっていうことなんですけど、
それに十分匹敵するよなっていう感じが
する体験だったわけです。
だから自分が今こういうことをしゃべっていられて、
夢を見ている人に罪はないなんて
思っていられるということは
起きているっていうことなんですよね。
しかし起きていてもこれができなくなるということは
やっぱりあることで、
その時はまさに夢を見ている人に罪はない
っていう感じがするんですよ。
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