これは2012年ですので、もう14年前ですかね。
14年前。まだ井口さんがその頃はロッテの選手としていらっしゃる。
そうなんですね。現役が。
私、ロッテのベンチで、ロッテの千葉のマリンスタジアムのベンチで、
井口さんに取材した記憶がありますので、まだロッテの頃ですね。
その時にちょうどその頃、2000本アンダを国防さんが目指しているということで、
お話を聞かせていただきました。
井口さんにお話を聞いて、一番最初ですね。
おっしゃってたのは、国防さんの背中をずっと見て歩んできた野球人生って言っても過言じゃないですね。
みたいなお話をされていました。
先ほど言ったように、青山学院大の後輩として、
あとフォークスの後輩として、プロに入ってプロから羽ばたいていくフォークスですね。
その過程も国防さんの後ろを背中を見るというか、ついていくような形ですね。
あと、球界屈指のスラッガーとして、上り詰めていく歩みも結構一緒じゃないかなと思うんですけどもですね。
改めて、井口さんから先輩としての国防さん、何が思い浮かびますかというお話を聞いたときに、
おっしゃってたのは、差もありなんというか、常に練習に打ち込む姿だったらしいですね。
練習熱心な国防さんらしいんですけども。
まず、大学時代のお話をしてくださいました。
青学大の野球部に入部したのが1993年だったそうなんですけど、
その頃入部したときに、首相としていたのが4年生の国防さん。
1年生、4年生の間柄になるんですね。
そうです。
感じた印象が、野球に取り組む姿勢が一人だけずば抜けていたそうです。
存在感が圧倒的で、周囲に与える影響力に衝撃を受けたというお話をしています。
とにかく高校野球から大学に入るということで、一つ段階を踏むということで、
やっぱり体つきからまず全然違うんですね。
その段階を踏んだ上で、たぶん大人びて感じたというところがあるんだと思うんです。
ただ井口さんですね。入学して、入部して、大学1年生のすぐ春からですね。
ショートのレギュラー。
やっぱりそういうことですね。すごいですよね。
そのとき国防さんは、そのときサン・ルイシュだった。
なので1年生、4年生、キャプテンと新入部員ですけども、
三友館を一緒に組んで、その春に初の大学野球日本一に輝くんです。
青学大が日本一になったとき、そのとき三友館を組んでたのが、
井口さんがショート。サードが国防さん。
さっき言った圧倒的な存在感ってお話ししましたけども、
やっぱりそうやって日本一になるという結果が出て、
井口さんの中で革新というものが生まれたというか、
もっと国防先輩を見習わないといけないと思った話です。
特にどの部分でっていうところでいくと、
ウェイトトレーニングの部分で影響を受けました。
その打ち方投げ方とはまたちょっと違うんですね。
そうですね。
金トレーナーですね。
昔といえば、今でこそ大谷翔平選手なんか、
筋骨流の体、ウェイトトレーニングの重要性というのが認識されてますけども、
昔って結構スイング、素振りをするとか。
野球の動きの中で筋力をつけるというところが主流だったんですね。
ですけど、その頃、国保さんって結構筋力トレーニング、実は力入れてたんですよ。
国保さんその頃、4年生で、電池プレスありますよね。
こうやって寝っ転がっていくんですよね。
これ120キロをラクラクと持ち上げていたそうなんです。
これに対して、井口さんは1年春からショートのレギュラーなんですけども、
入部当時はそのベンチプレス65キロ持ったんです。
半分。
違うもんなんですか。
1年生、4年生とはいえですね。
そうですね。
ですから、やっぱり野球というのが筋力というか、そこの部分がそれほどトレーニングとして求められていなかったっていうのが、
1993年ですから、今から30年くらい前ですね。
そうなんだなというふうに思います。
追いつき追い越せでその筋力トレーニングなさって、
井口さんも4年生の時には国保さんを上回る130キロまでパワーアップして。
さすがですね。
すごいですね。
4年で。
そういうトレーニングなんかは、井口さん国保さんを見習ったそうなんですけども、
タイプとしてはですね、国保さんは結構、私国保担当してプロ野球でも知ってますけども、
結構感情とか情熱というかファッションを全面に押し出すタイプなんですよ。
それ分かりますよね。
そうですね、イメージで。
対して井口さんってどちらかといえば、うちに秘めるタイプ。
温厚な感じがしますよね。
そうですね、練習を一生懸命やってる姿を見せるのが、見せないのが美学みたいなところがあるような、
そういう性格とか考え方の違いはあったんです。
ただ、それでもその野球人としての奇跡はすごく、先ほども伝えましたけど似通っていたんです。
国保さんが1992年のバルセレナ五輪に出たんですけども、
その4年後の1996年のアトランタ五輪には井口さん出た。
国保さんがバルセレナ五輪で銅メダルなら、井口さんはアトランタ五輪で銀メダル。
あと追うように、97年にフォークスを逆指名し、ドラフト1位でフォークスに入団した。
逆指名だったんですね。
逆指名ドラフトですね。
フォークスに逆指名した理由の一つとして、こうおっしゃってました。
国保さんがいた球団だったことも決め手の一つでしたねと。
こういうふうに取材におっしゃってました。
そこから二人こうやって上昇軍団に歩む二人。
井口さん、国保さん、松中さん、そして定島さん。
二人で上昇軍団を作っていくんですけども。
2003年オフに国保さん、フォークス離れましたよね。
その後、またこれも追うようにというか、本当に似通ってるんですけど。
井口さんは2005年からアメリカに渡ってホワイトソックス。
そうですね。
メジャーに行きましたもんね。
やっぱりフォークスを離れるということではまた似通っていまして。
二隷子として世界一を経験されてますよね。
私が取材した時はロッテ。
2009年からまたロッテに身を置くという日本球団に身を置くというところでは。
国保さんが巨人に一度出られてフォークスに戻るように。
フォークスを一回離れてもまた日本の球団でというところでも
こういう二階を結構人生を歩まれているというところですね。
私が取材した時、井口さんは日米で積み上げたアンダが通算1805本だったんですよ、当時は。
2012年の時ですね。
それで井口さんが、国保さんが2000アンダにもう迫ってるということで
そのことについてどう思いまれますかということを僕が聞いた時に
井口さんが言ってたのは国保さんはあれだけ大きな怪我をして
ここまで長くレギュラーを張り続けているのはすごいことです。
僕も日米2000アンダまで200本を切ったその当時ですね。
だから励みにしています。
常に先を走ってきた先輩に一歩でも近づく
そういう気持ちをそこでお話しされていたのをすごく覚えてますね。
井口さんは結局最終的に日米通算では2254アンダ。
やっぱすごいですね。
だから国保さんも2000アンダ達成なさいましたし
井口さんも2000アンダ達成したということで
すごく歩みが似ているというかですね。
その後現役を引退なさった後も井口さんロッテで監督なさってますね。
国保さんは今フォークスで監督をなさってますし
非常に考え方とかタイプは違うんですけど
似通った歩みをしている。
その中に僕自身井口さん
言葉でこういうふうに取材をした時にきちんとおっしゃってましたように
やっぱり国保さんの歩み
特に大学に入った時の国保さんの姿
これが野球人生の中で井口さんの中で
何らかの影響を与えたんじゃないかなと
僕自身は思うんですよね。