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こんばんは、シンガーソングライターのマーライオンです。本日のマーライオンのにやにやRadio、2月12日月曜日夜の9時の配信です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
いやー、3連休、皆様いかがお過ごしでしょうか。お仕事の方お疲れ様です。はい、あのー、3連休
もう寒いなということで、ちょっと僕も今、渋谷のWWWに向けてですね
いろいろとリハーサルですとか、いろんなもの調整をしているところで、3日間ね、結局ずっと
家にいたんですよ。家にいて。で、今これ収録してるの、ちょっと夜中なんですけど、あのー
ようやくね、あのー、ちょっといろんな手筈というか、そういったものが
落ち着いたかなということで、はい、あのー、ちょっと一息
緑茶を入れまして、ちょっと僕の好きな緑茶を今入れて
一息、一息ついてるとこです。はい、皆元気?
あのー、テイラスヒトのライブをね、金曜日の夜に行ってきて、あのー、ピックをね、手に入れたんですよ。
前回のね、あのー、ポッドキャスト、ニヤニヤレディオにも話しましたけど、あのー、聞き、自分で聞き返したらすっげー嬉しそうでさ、自分が。
本当にテンション上がってるなと思って。やっぱり声に出ますね。やっぱりあのー、気持ちの部分というか、はい。
まあそういう感じでね、あのー、やってまいりますけれども、この3日間はですね、この3連休は、このニヤニヤレディオで、ゆくゆく
配信するんですけれども、今年マライオンが、音楽活動15周年ということで、15周年をお祝いということで、
ゆかりのある方々に、久しぶりに会いに行ってですね、ちょっと話を聞くという企画を、ちょっとこれから始めようと思っているんですけれども、
あの、もうね、2組か、2組収録してて、まあ合計3組、3人かな、3人もお話しし終えてるんですけど、なかなかね、あのこう、自分の人生、振り返る機会ってあんまりないじゃないですか。
あのー、やっぱり生きてて。で、15年、2009年の3月25日からマライオンっていうのを始めまして、
まあそれが当時16歳、あの高校2年生の時だったんですけど、あ、ここ2年生にもなってんか、ここ1年生の終わりの春ですね、春休みの時。
ほんと高校2年生に上がる直前の春休みに、人生でね、あのー、初めてライブをしようということで、あの決意して。
当時ね、あのー、僕全然ギターも弾けなかったし歌も全然歌えなかったもんで、もともと高校生活ではね、あのバックホーンっていうバンドとか、
こう、モンゴル800とか、まあいわゆるバンプオブチキンとか、まあいわゆるあの、今の、えっと、90年代生まれが通ってるような邦楽ロックが大好きで、まあ今も好きですけど、
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まあそういった音楽に影響されて、まあ楽器を始めてっていう風に、まああのー、流れ流れてね、いろいろ始めるんですけど、まあ当時はね、僕あの射撃っていうスポーツね、射撃部っていうとこで、まあ部活動をやってて、
あの銃撃つのすごい好きだったんですけど、あの銃撃つのってなかなかないじゃないですか、まあやっぱりね、普段の生活で銃撃ったりすることってね、なかなかできないもんだから、
なんかその、中高一貫校のね、あの学校を通ってたんですけど、中学1年生の時に、まあもともとほんとはテニス部に入りたかったんですけど、なぜか僕が入学した年にテニスコートを工事するみたいな感じで、なんか、
なんかね、3、4面あった、それで大きな中学高校だったんですけど、あのね、結構マンモス高っていうか、大きな学校だったんですけど、なんかたまたまテニスコートが潰れた年に入学しちゃって、
でなんか練習もできないみたいな、でなんかそれで新入生を、もうその丸1年、あの入部させないぞみたいな、なんかそういうルールになっちゃって、えーみたいな、テニスやりたくてこの学校入ったんですけど、みたいな感じになって、
まあ結局テニスするのを諦めて、まあもともとね、小学校の時にずっとテニスやってたんですけど、結構好きだったんですけど、あのまあ今も好きですけどね、あの中学校入ってからまあ射撃部っていうのを始めて、まあそっからこう、
射撃の生活をするんですよ。でなんか、射撃って結構なんていうか、体育会系の部活の中でも一番下のヒエラルキーっていうかね、一番下にいる部活動で、
まああんまこう暗いっていうかなんだろうな、ちょっとこう虐げられるっていうか、こうなんだろうな、馬鹿にされがちみたいな、射撃なのか射撃なのかみたいなとこが言われがちな、まあ言われるといじられやすい部活だったんですけど、
まあその部活動の先輩とかね、あの同期の仲間が結構面白い人がたくさんいて、まあラジオすごい好きだったりとか漫画好きだったりとか、音楽好きな人とかも結構多くて、まあそういうのもあって、
あの楽器を始めることになるんですけど、で当時ねその高校1年生ぐらいの時から楽器を結構本格的に始めて、バンドとか始めようとして、
それはね、スクローブロックっていうラジオ番組があるんですけど、その番組で当時あのバンドのねコンテストであのセンコーライオットっていうねコンテストが始まって、
でなんかこう、まあ1位リスナーとしてはね、参加してみたいなみたいな感じでこうバンドを始めるんですけど、まあ初年度はね応募すらもできなかったんですよ、なんかまあバンド組もうとしたけど、
結局なんかオリジナルで曲作ったりするっていうのがなかなかできなくて、あのなんかこう、なんだろうこう、うまくいかなかったんですけど、2年目の時にこう、
あの頑張ろうということで、高校1年生の時は普通にコピー盤をしてたんですね、バックホーンの、まあ僕バックホーンってバンド、それ大好きで、あのやってる、あの好きだったんですけど、でそのバックホーンのコピー盤をやってたんですけど、
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演奏とか歌が下手でクビになりまして、めちゃくちゃね寂しかったんですよこれ当時、文化祭の、
えっとね文化祭の本番のねライブの日の前日にね、なんかこう、文化祭終わったらもうやらないみたいな、クビだみたいになっちゃって、うわーみたいな、でなんか今だったらね、なんかバンドなんてさ、組んで壊してっていうものだから、全然そんな気にすることないんですけど、
当時はやっぱりさ、その、なんだろうな、そこだけじゃないですか世界が、やっぱそこだけの世界で、拒絶、なんかこうメンバー、まあ友人でもあるけど、メンバーから拒絶されたみたいなね、やっぱこう気持ち、別に拒絶、すごい拒絶されたわけじゃないんですよ、普通に会ったら喋るけど、
あーでもなんか、バンドはできないんだ、みたいなその、ちょっとした絶望感みたいなのにすごいこう苛まれて、これは一人でもう音楽やるしかないんじゃないかということで、まああの、決意するんですね、でただあの一人で音楽やるなんて、まあ高校生で当時ね、やってる人っていう、まあいたのかもしれないけど全然、当時全然調べられ、もしなかったし、会ったこともなくて、
でなんかいろんなことをちょっと考えたり、なんかオカリナ吹きながら弾き語りしてみようかなと、なんかね、いろいろこう、なんだろうな、こう、木を照らったようなことをちょっとまあやろうとするんですけど、でもなかなかうまく形にならないんですよ、まあやろうとしても、全然なんか、AとBを目指してもGになっちゃうみたいな感じになっちゃって、そうそうそう、なんかそういうのがあって、で、まあ音楽をね、もうちょっとやめるか、みたいな、
で最後に、なんか街中のライブハウスで、ライブやってみたいな、みたいな気持ちがあったんですよ、当時で、えっとね、2009年の1月ぐらいかな、あの年明けたぐらいの時か、あ、年明けじゃないか、年明けの、2008年の年末ぐらいに、魔法のアイランドってね、あのー、サイトがたくさんありましたけど、
魔法のアイランドで、なんか高校生のバンドを募集してる、高校生のイベンターみたいな、イベント制作をやってる人がいて、で、その人がなんかこう、高校生のバンド募集、みたいな、ね、ノルマ何円、みたいな感じで書いてあって、まあお金払ったらライブできますよ、みたいなイベントやってたんですよ、まあそれが行く、あの後の、今ね、あのソニーミュージック出身の、あの録音エンジニア、まあレコーディングエンジニアにもなった、これなかさんって方が、そのイベントをね、一人で、そのサイトを切り盛りしてて、
一人でイベント制作やってた方なんですけど、そのこれなかさんのイベントに僕が出ることになりまして、今じゃね、あのアイドルのミックスとか録音とかされてる方なんですけど、すごいね、あのー、そうそう、なんかこう、その方もずっと今も続けてるってことで、こう、なんかこう、ね、あっつ、なんか胸が熱いんですけど、その、それでこれなかさんって方がいて、で、そのイベントに、まあその始めましてっつって連絡して、出ることになるんですよ、で、それが2009年の3月25日と、で、なんか、やっぱ出演されてて、
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出演するからにはね、あのー、やっぱりこう、なんて言うんだろうな、やっぱり名義が必要だってことで、で、当時ね、まあなんかこう、まあ辞めるつもりだったから、最初で最後のつもりで、ライブをしようってことで、まあなんかこう、昔からね、こう、シンガポールのお土産とかそれもらってたんですよ、近所の友達が、結構シンガポールに行く家庭が多くて、で、それで、そう、なんかそのマーライオンって単語が、まあずっと頭から、こう、残って、頭に残ってて、幼少期からね、まあ、自分も
ね、あの、マー君ってこう、あだ名でね、小さい頃から育ってたんで、まあ、繋がりで、まあまあライオンって呼ぶ、ね、名付けるかっつって、軽い気持ちでね、名付けて、こう、始め、あの、エントリーするわけですよ、ライブに。で、2009年の3月の25日ですか、下北山のKVBというね、あのー、ライブハウスが当時ありまして、今、今ですと下北山の地下松っていうね、ライブハウスになっているんですけども、そこで、えーと、マーライオンの初ライブがありました。
で、当時ね、共演のバンドも高校生のバンドが、っていうことで、まあ、いわゆる東京のバンドですよ。で、結構かっこよかったんですよ。で、かっこよかったし、あとね、一つのバンドはね、ちょっと名前忘れちゃったんですけど、あのね、もうめちゃめちゃなんだろうな、こう、なんだろう、なんかこう、すごい友達がめちゃくちゃ多いみたいな人たちで、なんかすごいキャッキャしててめちゃくちゃいいな、みたいな。
で、なんか、ソロでライブするもんだから、楽屋とか一応あるんですけど、まあ、すごい手持ちぶさなんですよね。なんか全然、こう、一人で行くわけだし、しかもそれ横浜から下北沢までなんで、だいたい1時間半とか、結構距離あって、よくね、今思えば、なんで下北にしたんだろうって思うんですけど、まあ、下北っていう町に行ってみたかったんですよね。
で、その、ゆくゆくその、なんだろうな、その、なんだろう、ライブ、まあその、ライブをね、まずその、するのが3月になるんですけど、まあ、ちょっとね、遡ってね、2月、えっとね、10月、11月ぐらい、2008年の10月、11月ぐらいに、あの、あれなんですよ、あの、申請かまってじゃんっていうバンドを、たまたま下北で、創立記念日でね、学校が休校で、で、なんかね、
あの、大学のオープンキャンパスになんか、行事で行かなきゃいけないみたいな、なんか予定があったんですよ。学校行事、絶対にどこかしらのオープンキャンパスに行かなきゃいけないみたいなイベントがあって、で、それで、東京に行く予定があったんですよね。で、あの、たまたまその、下北と近い大学に行った帰りにね、寄ったんすよ、下北の。で、そこで、あの、申請かまってじゃんってバンドを、たまたま、まあまだね、売れる前ですけど、
見ることになって、で、そこで、もう痛く感動して、あの、チリトリって曲がそう、ほんと大好きで、もう、ドギも抜かれましたね、当時、あの、やっぱりその、パソコン持ってライブしてたんですよね。で、当時そういうバンドって全然いなくて、まあ今だったらいっぱいいるかもしれないけど、あの、パソコン持ってバンドでライブするんだみたいなのが、そこがまず、まあ2008年、2009年の時だと、結構こう衝撃で、
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で、その後にね、ライブハウスの店員さんとかと仲良くなって、なんか、ああ、なんか横浜から来た高校生なんだみたいな、で、なんか、ソフトドリンクをおごってあげるみたいな感じで、オレンジジュース系、飲ましてもらって、で、それで、のこさんって、あのね、かまってじゃんののこさんって、ボーガルの方がいるんですけど、のこさんに感想伝えた時に、ちょっとね、悩み相談したんすよね。
音楽やるか、悩んでますみたいな。そしたらね、のこさんがすごい背中を押してくれて、絶対やった方がいいみたいな。それで、後の僕のね、全国流通版のアルバムに、おびコメントでね、のこさんのコメントいただくんですけど、まあそこで、結構大きなきっかけをもらい、まあ自分でね、ライブしようということで、まあそのさっき話をした、あの、これながら高校生のイベントにノルマ払って出るんですよ。
で、そこで今度は、ザ・ラブ人間ってね、あのバンドをやってる、あの方、2人、キーボードのツネさんって方と、まあ今、地下松のね、社長やってますけど、やってる方と、ラブ人間のボーカルの金田さんが働いてて、まあそこで出会うわけですね。で、僕は、その3月25日のライブをやったらもう、やめよう、楽器をやめようと思ってたんですよ。もう全然向いてないな、向いてないしな、みたいな。
そしたらなんかね、続けた方がいいね、とりあえずやり続けた方がいい、みたいなことを言われて、すごい嬉しくて。
で、なんかライブも、なんだろ、別になんか別にすごい別にいいライブあったかわかんないけど、でもすごいなんか楽しんでくれる人がいたんですよね、その当時。
で、すごいそれが嬉しくて、なんかそれが、なんかね、すごい嬉しかったんですよね。なんかこう、初めて触れ合う、なんか外の人っていうか、あとその、なんだろうな、学校の立ち振る舞いっていうかさ、この会話とかで、こう、なんだろ、その判断されないみたいな、音楽の良し悪しとかで会話が生まれて、なんかこう交流が生まれる感じとかも、なんかすごい新鮮で楽しかったんですよね、ライブハウスで。
で、すごいそれが2009年のその3月のライブがあって、で、そこからこうライブ活動をちょっと始めるんですよ。
で、そこそなんか、あのー、ライブハウスのね、方に紹介してもらって、なんか別の、いろん、別の場所でライブさせてもらうことになったりとか。
でね、だんだんこう、その次、5月かな、その次ね、5月とか4月末とかにね、下北ライブして、学校帰りにね、ライブしたらこう、あのー、姫野玉さんっていうね、あのー、ま、今度ニヤニヤレディオのトークショーでも一緒に喋りますけれども、その姫野ちゃんに会いまして。
で、彼女も2009年の4月から、もうほんと3月4月から、あのー、その時は姫野明儀でね、あのー、地下アイドルの活動を始めるんですけど、その姫野ちゃんと初めてお会いして、まあまあね、同い年だと思わなかったけど、そのね、あんなキラキラした、ね、あのー、かわいい、かわいらしいあのー、同級生、しかも同級生っていうのがね、なかなかなくて、すごい新鮮で、東京にはこんな人がたくさんいるのかって思ったけど、全然そんなたくさんいるわけじゃなくて、
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あの姫野ちゃんが特殊なね、特殊なっていうか素敵なね、方だったっていうわけなんですけど、まあそういったこう、いろんなこう仲間っていうかね、
同い年の友達ができ始めるんですよね。で、それで、ただ1年ぐらいね、あのー、ライブを結構な頻度で、週にね、多い時だとね、
3、4回?日によってはね、1日2カ所とかね、ライブハウス回ったりとか、はしごしてライブしたりとかしてて、で、なんかライブを、活動を始めて、でね、そのー、楽しかったんですよね、とにかく。なんかいろんな人に会えるっていうのが。
で、まあそれこそなんか、もともとね、センコーライオットってね、あのコンテストで始めましたけど、その次の年とかはセンコーライオットで、
曲が通ってね、あのー、東京FMで、スクローブロックの番組内で放送で流してもらったりとか、まあいろいろこう、ソニーのね、会社行って、
なんだあれは、面接みたいなね、なんかこう、ライブ審査みたいなのをやったりとか、いろいろありましたけど、そうやって、まあその毎日目まぐりしかったんですよ。
学校がすごい退屈に思えてきちゃって、だんだん。やっぱりこう、なんだ、刺激、外の刺激がすごい強すぎちゃって、
学校が全然つまらなくなっちゃって、で、なんか、あのー、そうそうそう、で、なんかYouTubeとかにね、ライブ動画上げ始めたんですよ。
誰も見ねえだろうと思って。そしたらね、案外見えるもんで、学校の同級生とかがね、あのー、ライブの動画を見始めるんですよ。
そう、で、うわーみたいな、で、ちょうどそれがね、修学旅行のぐらいだったんですよ。高校2年生のね、12月ぐらいの時が、もう、2000だからあれが、
2010、2009年の12月か、12月かとかのに、修学旅行行った時に、修学旅行の最初、初日は全然楽しかったんですよ。なんかその、オーストラリアってたんですけど、あのー、
そういうね、なんか結構、なんだ、ホームステイとか盛んな学校あったんで、なんか、オーストラリア行ってて、同級生と仲良い同級生と喋ったりとか、まあ、あのー、向こうのね、オーストラリアのCDショップ行って、向こうの店員さんにさ、こう、インディーのバンドのCD、
オススメないかみたいなの聞いたりとかして、買ったりとかして、結構楽しかったんですけど、最終日に、なんかその、全体で、ホームステイが終わって、あのー、クラスの全員と集まるみたいな。
で、なんか、ホームステイのなんか、それぞれの各々のね、感想を聞こうみたいになった時に、なんかね、よそよそしい雰囲気を察知するんですよ、僕が。で、あれなんだろうと思って、なんか悪いことしたかな、みたいになったら、
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どうやら、やっぱりその、修学旅行中に、僕のYouTubeの動画を見た人たちがいて、こいつやばいぞ、みたいな。
事例なんか話題になってて、でね、もうね、年明け、2010年の1、2月、
っていうか、あと2、3月か、2月、3月ぐらいからもうね、もう、学校の、なんだろ、態度がすごいもう、めちゃくちゃ変わっちゃって、まあそれはね、今思えばあんなにさ、まあ歌とかも全然歌えないやつが、
まあライオンってね、変な名前で、急にライブとか始めたら、みんなどうしたんだ、みたいな。で、なんか、同級生のお母さん、お父さん、お母さんからも心配されて、
なんか、まーくん、大丈夫?みたいな感じで、そう、なんか、そう、なんか、うちのね、あの母とかにも連絡があるぐらい、なんか、お宅のお子さん、なんかあったんですか?みたいな感じで、連絡あったりとか、
あと、職員数にね、呼び出されて、職員数に呼び出された時はね、めちゃくちゃ笑ったのが、その、学年中、お前の話してるけど、お前いじめられてんのか?みたいな感じで、学年主任の先生に呼び出しされて、いや、いじめられてはないっすね、みたいな。
お前の話してるやつしかいねえぞ、みたいになって、で、将棋、そうそう、なんかね、そう、学校中が僕のYouTube動画見てるみたいな時があったんですよ。
で、そうそうそう、で、なんかね、やっぱ、なにくそ畜生みたいなね、あの、やっぱ、精神でいたんで、当時。2010年に、10年の3月か、3月の末に、あの、自分で初めて、イベント、音楽イベント主催して、
ライブをやろうということで、当時ね、イノカシアチクオウンダンっていうバンドと、あの、ラブ人間ってバンドと、あと、あの、ジャ、あのね、あの、高校のね、高校のってか、あの、同い年のバンドと、あとジャグリングの、やってる友達を、呼んでですね、ライブを、下北沢の屋根浦っていうね、今はないライブハウスで、ライブをしまして、で、
えっと、そこで、大学受験に、ために、1回ライブ活動休止するんですよ。で、そしたらね、まあ、やっぱ、勉強しかないじゃないですか。まあ、勉強するんですけど、もう、しんどすぎて、当時。もう、こう、2010年の4月、5月とかで、
で、まあ、当時ね、あのね、音楽やってるのを内緒にしてたんですよね、家族に。で、マーラインって名前で、なんか、音楽やってるっていうのを、嘘ついてて、1年ぐらい。もう、なんか、下北に行くみたいなことだけ言ってて、ライブとか、やってるとは言ってなくて。で、なんかね、そうそうそう。で、まあ、結構ね、楽器弾くのが厳しくて、自分の家庭が。楽器捨てられたりとかするから、なんかね、
高校の教室に楽器をきっぱんしにして、なんか、放課後練習してから帰るみたいな生活とかもしてて。そうそう、なんか、で、そう、なんかね、そう、そういうのがあって、結構ね、心細かったんですよね。で、なんか、YouTubeの感想とかすげえ言われんすよ。もう、学校行けばいくほど、なんか、敬遠されたりとかして。
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うわー、みたいな。まあね、今見直したら、そりゃそうだろうって思うんですけど。そう、なんか、すごいそれが寂しくて。でも、これもう、どうにかしなきゃいけないなと思って。で、ちょうどね、2010年の夏に、川崎市で、川崎市ミミージャムっていう、展示とかやってるギャラリーというか、そういう、なんだろう、博物館というか、そういった美術館があったんですよ、昔。
今ちょっとね、あの、浸水が、台風の浸水があって、その美術館っていうか、そのスポットもなくなっちゃったんですけど、川崎市ミミージャムっていうのがあって、そこで、10代の弾き語りのミュージシャンを集めたコンテストをやってるっていうのを聞きつけるんですよ。
で、そこで、審査員、大人のね、プロのミュージシャンの方々、星野源とか、イースタンユースの吉野さんとか、そがべけいちさんとか、たくさんゲストのミュージシャンが出てて、審査を受かった高校生のミュージシャンたち、3、4組くらいが出て、10代の子たちが出て、ライブをするっていうイベントがあったんですよね。
で、当時、2010年の3月1年、ライブ活動1年くらいしたときには、もう自分のファーストアルバムをリリースしてて、2枚組の。で、結構それがね、すげー売れたんすよ。もう、ライブね、4回くらいしかやってないのに、もう1000枚くらい売れて、手売りだけで。めちゃくちゃ売れたよ、ほんとに。
しばらくもそれだけで、なんかもう、過ごしてたみたいな感じの、ほんとに。すごいおかげさまでね、嬉しかったですけど、1000枚売るってなかなかだよね、今思うと。CDを、そう、自分の音源。で、もう勉強だけで生活するのがほんとしんどすぎて、で、あれなんすよ、応募するんすよね、川崎市のイベントに。
で、そしたら、たまっていうね、バンドをやってたの、ちく、としあきさんっていう方が、ちくさんが、この子はいいからどうそうって言ってくれたらしく、通してくれて。で、僕は本選、いわゆるライブ審査というか、ライブ出演できることになったんですよ。
ただ、もうね、過程が厳しすぎて、もうほんとに缶詰みたいな、もうあの楽器、いわゆる外出禁止みたいな、もう今じゃおかしいようなね、なんかほんと過程だったんで、そういうのがあって。で、どうにか、あのー、ライブをしたくてですね、あのー、川崎市、市長の反抗を入れた、ちょっと、処理作ってもらえないかって言って、相談して、ほんと迷惑、畑迷惑な高校生ですよね、ほんとに。
運営のね、方に、あのー、河野さんってね、方にね、相談して、で、あのー、症状みたいなね、出演の資格を授与しますみたいなね、症状があるんですけど、そこを、それを、送ってもらって、なんとか、あのー、自分の家族を説得してライブがね、できるようになるんですよ。で、ただね、当日ね、もう10度の全速にかかりまして、
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で、10分、ライブの出番は10分間だけだったんですよ。で、10分ならさ、なんとかなりそうって思うじゃないですか。でも全然もう、ひどすぎて、もうあの、1回咳したら、30分は咳し続けるみたいなね、嫌なね、全速の症状に、なんか悩んでて、その時期が。で、かかりつけ医のもう、0歳から通ってる近所のね、小児科行って、
ちょっともう、めちゃくちゃ強い薬、ちょっとないですか?みたいな。どうにかできませんかね?って相談したところ、あのね、やっぱ小児科の先生ってやっぱさ、普段0歳からさ、やっぱね、10歳ぐらいの子しか見ないから、なんかこう、刺激求めさらしいんですよ。あの、その、かかりつけ医のね、小島さんっていう、めちゃめちゃこう、気のいいね、おじちゃんがやってる、お医者さん、ね、あの、小児科だったんですけど、その小島さん、あの、小島さんがね、小島さんが、
こういうの待ってたんだよ、みたいな。すげー嬉しそうな顔して。ちょっと、看護師さんにさ、これ持ってきてって言って。あれ、例のあれ持ってきてって言って。で、そうしたら、めちゃめちゃ意味わからない色したね、液体のね、薬持ってきて。で、これを、あの、注射で打つと。で、これを打つと、10分間は、咳をしなくなるって言われて。
え?みたいな。今となってもさ、今となっても謎なんですけど、その薬。これ打ったら、もう絶対にどんなやつでも打たれるみたいな。ただ、体に負担があるから10分だけだみたいなこと言われて。で、注射打つんですよ。で、注射を昼に打ってから、あの、現場入りするんですね。川崎新聞ミュージアムに。で、もう、ライブ本番まではもう歌うの禁止みたいな。
で、それで薬をね、なんか飲んで、ライブに臨むんですよ。まあ、その動画がね、YouTubeに上がってるんですけど、まあ、それをね、竹内さんっていう映像作家の方が撮影してて、すごいこう、もともとね、かまってちゃんの撮影とかもしてた方だったんで、すごい注目してくれたりとかして、交流が始まるんですけど、その、そのライブでね、あれなんですよ、その、すごくその、いろんな出会いがあるんですね。
ゆくゆくその、まあ僕の、あの、ディスクユニオンからデビューして、制作したアルバムで、吐いた分だけ強くなるってアルバムと、ボーイ見つかるってアルバムがあるんですけど、そのバンドのメンバー、まあいわゆるサポートメンバーが入ってくれた鍵盤の金子真由美さんっていうミュージアの方がいるんですけど、今じゃね、あの、職業作曲家として、ワンピースのね、エンディングだったりとか、声優さんの曲とか、いろんな、あの、ちびゴジラの曲とか、まあいろんなね、あの、曲、
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関わっている方がいるんですけど、その金子さんがそのライブを見ていて、たまたま交流が生まれたりとか、
あの、ローズレコードズ、まあ今ね、ゆくゆくね、バラアイスのレコードでも出しますけど、そのローズレコードで、あの、別でね、バンドでリリースしてた、冬の踊り子ってバンドやってて、まああの、くるりのね、
CDのジャケットデザインとかいろいろやってた小川すずなりさんが見てくれてたりとか、
本当にたくさんの、あの、方々、今でも付き合いがある方、それこそその、あの、ボーイミツガルっていうアルバムを録音してくれた片岡、あの、たかしさんとか、あの、
いろんな方がね、その、川崎市民ミュージアムの、その川崎ティーンズプロジェクトっていうイベントをきっかけで出会うことができて、
すごくね、あのね、すごくすごくその、ターニングポイントになったイベントだったんですね。それが僕にとっても。
で、前回ライブ自体はね、もう本当YouTubeの動画見ていただくとわかるんですけど、もう本当にしっちゃがめっちゃがで、
もう叫んで、暴れて、みたいな感じで終わっちゃったんですけど、そのライブがね、たぶん来場者が300人ぐらいいたんですけど、
その時にね、CDが500枚くらいいたんですよ。1人2枚ずつ買ってって。そんなことある?みたいな。しかもそれってほぼ全員みたいな感じのね、
掲載になるんですけど。それがね、結構その、転機になって、その後呼んでもらったりとか、その後交流生まれる方とか、
やっぱりいて、で、でね、半年ぐらい経ってからかなぁ、2011年の頭とかに、
学校のね、いわゆる進路が無事に決まって、高校を卒業するんですよ。
そしたら今度はね、東北の震災が起きまして、入学が遅れたりとかして、
入学はだから5月になっちゃったのかな?2011年の5月。だから3月4月とかすごい何もしてなくて、
ライブとかね、あのさせてもらってて。それこそね、その時にね、サニーレイサービスの田中さん、田中隆さんいらっしゃいますけれども、
田中さんがDJするイベントにね、たまたま僕出ることになって、田中さんとね、交流が生まれて、
で僕がね、当時ね、神奈川でね、ま、神奈川に住んでて、好きだったラーメン屋さんがあって、そこのラーメン屋さんの話をしてたら、田中さんももうね、やっぱラーメンの
あのーこと詳しいんですよ。盛り上がって。で、まぁゆくゆくね、その田中さんに今度出る、今年2024年に出るアルバムの録音エンジニアさん、
ミックスエンジニアさんですね。ミックスエンジニアさんを紹介してもらったりとか、まぁいろいろ繋がってくるんですけど、
そこでね、出会ったりとかしていくんですけども、そういう感じでね、あのマーライオンの初期のライブ活動っていうのが、だんだん進んでいくわけです。
まぁそんな感じでちょっとね、今日はちょっと2011年の
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3月4月までの話だったんですけど、 まあ当時はね、ライブとかも
やっぱりノルマでね、やってて、ノルマ払ってライブやったりとかして時期だったんで、そうそうで、
そうそうね、なんかね、だんだんその、 今あのー
お店でそういうことないんですけど、下北のカラードジャムっていうね、ライブバーがあって、そこがね、ノルマがない状態で、
イベントさせてもらったりとかして、すごくね、僕のイベント主催してやっていくスタイルというか、
このスタンスがこう、 生まれていくっていうのもあるんで、ちょっとそれはその話はまたね、ちょっと次回の
15周年のちょっとね、ちなみな話ができればなと思ってます。はい、まぁちょっと30分から喋っちゃった。
はい、あのー15周年、 盛り上げていきますんで、
引き続きあの、渋谷のWWW、6月27日の木曜日、 7時会場、8時開演、バンド編成、ヒップホップセット、ソロ、全部やります。
で、ゲストもね、ちょっとお楽しみですけど、これから発表しますけども、あのたくさんワンマンショー、楽しんでいただけるように準備しておりますので、
あのー こちら、
チケット、ぜひお買い求めいただければと思います。 で、2月の14日の水曜日の午前10時からチケット先行発売の第2弾が始まります。
これEプラスで買えますので、よかったらこちらもぜひチェックしてみてください。 で、3月の10、あ、すいません、今週の2月の14日の水曜日の0時00分からは、
えっと忘れないようにという楽曲のバンドバージョンが配信でリリースされます。 ちょっとこれ、あのー
ね、告知会見はちょっとまた後なんですけど、このニヤニヤレディを聴いてくださっている方限定で、ちょっとね、先にお知らせしておきますので、
よかったら2月の14日の水曜日になったら、
僕の楽曲聴いていただければと思います。あのー 北北星に飛んでいったっていうねアルバムを2020年にリリースしているんですけども、その
アルバムをデラックスバージョンとしてリリースし直すので、合わせてね、アルバムの曲も聴いていただければと思います。
はい、で、2月の14日の水曜日にはですね、えっと、下北沢のリブハウスという場所でマライの弾き方ライブございます。で、こちらが
深夜、僕出演することになってます。ちょっと2月の14日がね、予定が詰まっているということで、あのー
夜にライブができないということで、ちょっと深夜帯、もし下北沢のご近所にお住まいの方、これ聴いていらっしゃる方いたら、
普段あの夕方とか夜のライブは見れないよって方で、深夜だったら見たいって方いらっしゃったら、よかったらすぐに来てください。
チケット代1000円で楽しみますので、よろしくお願いいたします。はい、いやー本当にたくさんね、ちょっと、あのー
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15周年に向けて、あのー、気合い入れていきますんで、まあ長いね、やっぱり1年間長いんで、15周年っていうのは。
まあ気長にね、のんびり、まあマイペースにちょっと頑張っていこうと思いますので、引き続き応援のほどよろしくお願いします。
それではまたお会いしましょう。シンガーソングライターのマーライアンでした。