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2024-04-16 22:05

020小酒井不木「心理試験」序

020小酒井不木「心理試験」序

明智小五郎シリーズ2作目「心理試験」に寄稿された序文。推理小説はお好きですか。ぼくは京極夏彦が好きでした。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないズッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xマでどうぞ。
さて、今日は、小酒井不木さんの心理試験序というテキストを読もうと思います。
小酒井さんは、お医者さんで随筆家だそうで、
代表作には、暗闇の黒枠、逃走などがあるそうです。
この心理試験序というのは、序文だということですが、
この心理試験というのが、江戸川乱歩の書いた明智小五郎シリーズの2作目だそうで、
序文を書いてよと言われたので書きました。
江戸川乱歩さんすごいぜ、みたいな文章になっていますね。
それでは参りましょう。心理試験序。
江戸川乱歩氏から、今度創作第一集を出すについて、
序文をよこせよとのこと。
我が探偵小説界の記載、江戸川氏の創作集に、
私が序文を書くなどということは、僭越でもあり、恥ずかしくもあるが、
同時にまた私に序文を書かせてくれる江戸川氏の心が嬉しくてならぬ。
で、とにもかくにもお引き受けして、さて筆を取ってみると、
わからぬ興奮をおぼえ、いささか固くなった手たらくである。
だからうっかりすると、はなはだしく脱線したことを書かぬとも限らない。
2年ほど前、白文館の森下うそん氏からの紹介で、
江戸川氏の諸著作二千童歌を読んだとき、
私は感心したというよりもむしろ驚いた。
日本にこれだけの作家があろうとは思えもよらなかったのである。
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実はその頃、なぜ日本に優れた探偵小説作家が出ないだろうかを不審に思い、
日本人の生活状態が探偵小説の題材に不似合いなためだろうかと考えてみたこともあったが、
それにしても、日本式とも言うべき作品が出てもよかりそうに思い、
結果はやはり日本人の頭脳が探偵小説に不適当かもしれぬと鷹をくくっていた矢先であるから、
驚くと同時に自分の考え違いを恥じざるを得なかった。
続いて雑誌新青年を通じて、
一枚の切符、恐ろしき作語、二発人、ソーセージ等の作品に接するに及んで、
いよいよますます江戸川氏のひぼんなる技量に感覚すると同時に、
日本にこれほど優れた作家の出たることを心から喜び、
さらに最近の心理試験を読むに及んで、
日本人として欧米の探偵小説家に対し、一種の誇りを覚えるに至ったのである。
実際、心理試験ほどの傑作は、多散な英米の探偵小説家にも、
滅多に見当たる作品ではないと私は断言してはわからぬ。
嘘だと思うなら、襟を正しくして読んでご覧になるがいい。
たとえ探偵小説を食わず嫌いに癒しんでいる人でも、
あの作品の持つ恐ろしい魅力によって、
その場から探偵小説の愛好者になるはずであろう。
もし一回読んでなお、探偵小説の愛好者になれなかったならば、
とにかくもう一度読んでご覧になさるがよい。
ただ、その挙句に愛好の意気を通り越して、
探偵小説の病みつきになられたとて、私は責任を持たないつもりである。
欧米の探偵小説にも、暗号や双子の犯罪、無有病を取り扱った作品は決して少なくはない。
しかるにそれが江戸川氏の手によって二銭道家となり、創世史となり、二発人となると、
到底外国人では描くことのできぬ東洋的な深みと色彩とをはらんで、
ちょうど日本刀の匂いを見るような奥ゆかしい感じをそそられるのである。
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単にそればかりでなく、恐ろしき作語、赤い部屋、心理試験になると、
その水の滴らんばかりの日本刀で、ずばりと首を切られたようだ。
まさにこれ、天公英利最春風の方であって、
到底欧米人には味わい得ない味だと言っても過言ではあるまいと思う。
探偵小説は理智の文学であるから、ことによると読者の中には江戸川氏の作品を解剖して、
そのどの部分に私が感覚するかと質問する人があるかもしれない。
しかしながら、日本刀の匂いを顕微鏡を持って研究してみても、匂いの味はさっぱりわからぬと同じく、
いかに理智の文学でも細かに解剖して批評しようとしては、せっかくの味はめちゃくちゃにされてしまう。
私は江戸川氏の作品を読んで、この部分のこういう風にできているから面白いと思ったことは一度もなく、
全体を読み終わって、その際受けた感じが、たまらなく良いから面白いというまでである。
日本刀の匂いでも、顕微鏡にかけたならば、案外汚い部分がないとも限らぬように、
優秀な探偵小説でも、その部分部分の価値を云々するのは的を得ていないかと思う。
もっとも、探偵小説の声明たる推理に矛盾があっては絶対にいけないけれども、
それさえある場合には目障りにはならない。
例えば、ポーのマリー・ロージ事件の始めの部分と終わりの部分には、
デュパンの推理に矛盾があるけれども、それでもやっぱり、あの作品は私にとって面白いものである。
もっとも推理に矛盾がなければなお、一層面白いに違いないけれども、
多くの読者はその矛盾に気づかずに読んでしまうから、少しも差し支えはないのである。
たとえ探偵小説の一つの目的が主的満足を与えるところにあっても、
数学や物理と違って芸術であるからには、読んでいくときに気づかれない程度の不自然やこしらえは許されてもよいではあるまいか。
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菊池寛氏が歴史小説について、読者が歴史に対して持っている原影を壊さない限り、
史実を勝手に変更しても構わぬと言っているように、
自然であり当然であるらしく思われることならば、
たとえ少数の頭の良い人に不自然でありこしらえであると気づかれても、
作品の芸術的価値は揺るがないと思うのである。
実際にあった犯罪探偵事件を骨子として小説を作っても、小説である以上、
犯罪記録とは違って時間を適当に切り縮めたり、場所を勝手に変更したり、
あるいは一二の出来事を省略する関係上、そこに多少の不自然が起こることはやむを得ないのである。
もし探偵小説家が、数ミリの隙も出ないようにとそれのみに力を入れたならば、
それがためにかえって芸術的価値の薄いものを作り上げるようになりはしないだろうか。
文芸は虚実の間を行くといった地下松文在文の言葉は、探偵小説にも応用してかまわぬではないか。
もとより理路整然として少しの不自然もないようにできれば、それに越したことはないけれど、
作品の芸術的好感を無視してまでことわりに忠実にやろうとすることは、私の取らないところである。
こういったからとて、私は決して奇跡や偶然や直感を許してもよいというのではなく、
これらのものはできうる限り探偵小説から駆逐してしまわなければならないのである。
とにかく江戸川氏の作品のあるものも、細かに解剖すれば小さな不自然を見つけることができるかもしれないが、
読んでいるときには、それを少しも気づかせぬほどその筆力は冴えているのである。
言い換えれば江戸川氏の作品は、読者をして息もつかせずに読み終わらせ、
そして読者に十分な知的満足を与えるのであって、
要するに、面白いから面白いというより他はないのである。
一般に探偵小説そのものについて、
一体探偵小説のどこが面白いかと聞かれても、私はちょっと返答に困る。
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やはり面白いから面白いのだと答えるより他はないのである。
探偵小説はこれを食物に例えるならば、一種の刺激剤であって、
わさびや生姜をなぜ好きかと問われても、少し返答に困ると同じである。
わさびや生姜には栄養価が少なく、
栄養額上人間の生存にとってなくても構わぬものであるけれど、
少なくとも私自身欲しくてならぬように。
たとえ探偵小説が一部の文芸批評家によって
その存在理由を疑われても、やはり私自身にとってはなくてはならぬものである。
しかし、わさびや生姜が間接に胃を刺激して人体の栄養を助けるように、
探偵小説もまた人間の生活に潤いを持たせ、
間接的に人身の向上に役立てないものでもあるまい。
たとえ人身の向上に少しも役立たなくても、
探偵小説の持つ機械と恐怖、怪奇の味を脅落するだけで十分ではないか。
タンパク質と澱粉、脂肪と食塩と水、それからビタミンさえあれば、
味などはどうでも構わぬと言われたらどんなに物足らないであろう。
それと同じく、直接人身の向上に寄与しない文学は読むなと言われたら、
おそらくやりきれるものではあるまいと思う。
たとえ探偵小説を一種の知識遊戯と見立てたとして、
クロスワードパズルと同じように、
人々に手を付けさせずにはいられないだけの魅力を持っているのである。
探偵小説の題材として最も多く犯罪が選ばれるのは、
人々が犯罪に最も多くの興味を感じるからであろう。
しからばなぜ人々が犯罪に興味を感じるかというと、
それは自分の心の中に奥深く隠されている悪が、
たまたま他人が外部へ表した悪のために振動させられ、
その悪のバイブレーションがその人に向かって、
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一種異様な好奇の感じを与えるからではあるまいか。
つまり人々が犯罪に興味を持つのは、
悪を恐怖するというよりも何となく、
悪に愉悦を感じるからだと私は解釈したいのである。
しかるに悪いことをすれば、
法律というもののために罰せられなければならない。
したがってそこに、
法律という嫌なものに触れる恐ろしさ、やるせなさが生じてくる。
この気持ちを探偵・小説家が無視していると思っては間違いである。
例えば江戸川市の心理試験の中には、
この気持ちが遺憾なく書き出されてあるところを見逃してはならない。
だから探偵小説に犯人が見つけ出される経路が描かれてあったとて、
それを直ちに悪を恐怖し、
善を賛美するものと認めるのは的を得ていないかと思う。
いや思わずも少しく議論めいてきたが、
近年ぼつぼつ探偵小説の本質に関する議論が行われるようになったから、
ものにはどんな理屈でもつくものだということを書いてみたのに過ぎないのであって、
探偵小説の狙っているところは決して犯罪ばかりではないのである。
従来探偵小説というと、
なんだか低級なもの、インフェリアスタッフのように考える人が少なくなかったようである。
そういう考えは日本ばかりでなく欧米にもあったようであるが、
何のためにそういう考えが生じたかはちょっと判断がつかない。
あるいは探偵小説という名前から来る連想がいけないかもしれない。
あるいはまた探偵小説作家が真剣になって探偵小説を書かなかったためかもしれない。
しかし江戸川アランポーの作品を読んで、それを低級だと言い売る人はあるまいから、
探偵小説に対するそうした先入観はよろしく取り払ってもらいたいと思う。
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しかしもし現代の日本人でそういう偏見を抱いている人があったら、
すべからく江戸川アランポーの発音をそのままとってペンネームとした江戸川ランポーの作品を読むべきである。
さすれば自らそういう偏見は消えてしまうであろう。
そして私を驚かせ、喜ばせ。
ついには日本人として一種の誇りを感じしめたこれらの作品は、
おそらくすべての読者に私と同じを想起させられるであろう。
実際これらの作品に共通せる推理の鮮やかさ、
情味の豊かさ、構想の非凡さ、
描写の細やかさはちょっと普通の小説家の追従を許さぬところがある。
明治20年代には本案の探偵小説がかなり盛んに世に行われ、
ここ数年間翻訳探偵小説が大いに読まれるようになり、
それと同時にぼつぼつ創作家が出るようになり、
ついに我が江戸川乱歩氏が生まれるに至った。
すべて何者が生まれるにも、
その機運が熟しなければならぬけれど、
思えば三十年余りもかかって、
ようやく創作探偵小説に一人の名状を生み得たとは、
ずいぶん熟し方ののろい機運であったと言わねばならない。
しかしこの名状を仮に良いの名状とすれば、
おいおいその他の星の現れてくる機運となったと見ることもできる。
いずれにしても江戸川氏の出現は、
あらゆる意味において喜ばしい限りであり、
しかも動詞は歳派わずかに三十二。
今後ますます発展し、成長し、
今後ますます発展し、成長せんとしているのである。
誠に江戸川乱歩が探偵小説の始祖であるとおり、
我が江戸川乱歩は日本近代探偵小説の始祖であって、
したがってこの創作集は、
日本探偵小説界の一時期を確する尊いモニュメントということができるであろう。
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1994年発行、国書館公開。
探偵クラブ人工心臓より読み終わりです。
江戸川乱歩は海外でも有名なんですか?
日本人はね、みんな名前聞いたことあると思いますけど、
ってことは有名なのかな?海外でも評価が高いのかな?
でも明智小五郎って有名ですもんね。
湖南にも出てくるし。
そんな心理試験の序文の一文でした。
今日のところはこれで終わりにしたいと思います。
それでは皆様また次回。おやすみなさい。
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