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2026-03-10 23:48

2000年の私(30歳前後のターニングポイント) #153


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サマリー

このエピソードでは、語り手が1990年代後半から2000年にかけて、ウェブデザイナーを目指し、デジタルハリウッド専門学校に通い、ウェブ業界に足を踏み入れた転換期について語っています。当時はインターネット黎明期であり、多忙ながらも多くの著名なクリエイターと出会い、ウェブディレクターとして活躍するまでの道のりが描かれています。

過去の振り返りとウェブ業界への関心
30代の生き方みたいなのが、流行っているというふうに聞きましたので、急にその話をしてみようかなというふうに思うんですが、
このコーナーではですね、前回、1995年の私みたいな過去に遡った話をしていてですね、
ターニングポイントを迎えた時をですね、というか無理やり5年10年刻みで刻んだ時の過去を振り返ってみた時に、どんなことが起こったかみたいな話をしてみた大人気シリーズがあるんですが、
というか、1回しかやってないんですが、それをですね、話しましてですね、1995年にこんなことがありました。私はこんなことをやってましたみたいな話をですね、しましたね。
よかったら、その過去の配信を聞いていただければありがたいというふうに思うんですが、
そこで話していたのはですね、デザインを志そうと思っていてですね、それに挫折した私がですね、とある仕業、侍業ですね、とある仕業に行くこと、行くというか自分が決めたんですが、それを目指すことになってですね、
そこでとんでもないことにたくさん会いましたみたいな話をしてですね。
で、Windows 95というのが出てきてですね、インターネット元年みたいな年だったんで、なんとなくですね、その時代はインターネット化みたいな乗っかろうみたいな思いがですね、あってですね、
インターネットの仕事で一つ自分ができなかったことが、自分が思い描いたことができるんじゃないかというふうに思ったんですね。
でまあ、そのなんちゃら仕業、なんちゃら侍業が1995年、96年ぐらいに辞めてんのかな、辞めてですね、そこからまあ、うよ曲折があってですね、その話もすると長いので削りますが、そこもまあとんでもないブラック企業だったんですけれども、あれですね、調べたらまだありましたね、あの会社ね。
良かったですね。
デジタルハリウッド専門学校での学び
本当に良かったですね。っていうか、恨みしかないんですけどね。ありまして、その後ですね、いよいよ持って、やっぱりインターネットの仕事をしようと思ってですね。
まあどっかでも話したかもしれませんが、その時にデジタルハリウッドというですね、専門学校が立ち上がったんですよね。
まあ、当時はスタート時は大したことしなかったですよね。要はアプリケーションを勉強する学校と言えばいいですかね。
インターネット技術、インターネットとは何たるかというのとですね、すごい基礎的な座学があったりですね。
基本的にはでも即戦力を期待されているわけなんで、アプリケーションですよね。
アドビ系ですね。アドビイラストレーター、フォトショップ、当時はインデザインはまだ全然なかったというか、ドリームウィーバーとかですね。
そういったソフト、あとはフラッシュ、フラッシュですよ。フラッシュもないですよね。
フラッシュとかですね、そういったアプリケーションを学べるというようなですね、専門学校ができて。
それに通ってですね、ちょっとそっちの業界に行きたいというふうに思ったのがですね。
それで自分が思い描いていたというかですね、1回挫折したデザインの世界にですね、行けるんじゃないかという思いでですね。
ウェブデザイナーになるぞみたいな、ウェブデザインコースみたいなのがあったんですよね。
それに通ったんですよ。
それがですね、1998年、いや、99年ぐらいだったのかもしれないですね。
それを通って、夜間なんですよね。
なので昼間働いて、夜間、毎日半年間ぐらいやるんですかね。
コースに通って、自分でホームページを作れるようになるというのが主たる目的なんですね。
HTMLも手で書くんですけど、手で書くし、当時Dreamweaverがありましたので、Dreamweaverに任せて作ったりとかですね。
そもそもそれを上げなきゃいけないので、あれ何使ってたの?Dreamweaverで上げてたのかな。
FTPって行為ですね。FTPとかありますみたいな話で、FTPかみたいな感じで。
当時はまだテレ放題だったんじゃないですかね。
なのでテレ放題タイムに、テレ放題というのはですね、電話回線でインターネットにつなぐので、
普通の時間帯にインターネットにつなぐと電話代が莫大にかかるんですよ。
その莫大にかかるのをテレ放題という仕組みに介入するとですね、夜の10時以降、
あれは明け方の5時だか6時まで安かったんですよね、確かね。
そこの時間帯のダイヤルアップ料金というのが格安というか、ほぼ固定料金でできてたのかなというふうな仕組みがあってですね。
なのでですね、そのテレ放題に入って、FTPで上げる作業を夜中でもないか10時以降からですね、
FTPアップしてですね、それがホームページでインターネットにアクセスして、
ページが見えているかというのをチェックしてみたいなですね、今では考えられないようなことをですね、やってましたよね。
課題もまあまあ大変で、特にイラストレーター、フォトショップを活用しながら、
それをドリームウィーバーで、ドリームウィーバーってのは編集ソフトみたいな、ページ編集ソフトみたいなというふうに思っていただければいいんですが、
それでページを作って、FTPにアップして、合わせてフラッシュで動的な、動くページを作ろうみたいな感じですね。
なかなか楽しい、楽しい、楽しい、楽しい、辛い、課題満載のですね、学校に通って、何とか道を開こうとしていたのが、
28歳、29歳の私でございましたというところですよね。
人脈形成とウェブ業界への転身
それでですね、そのデジハリの先生のつてで、その先生が人材を探しているというふうに言ってくれて、
というかですね、そういう話も学校に通っていても出てこないんですね。
まず飲み会が大事で、飲み会より茶会というか飲み会が大事で、茶会より飲み会だったですね、当時はね。
まず講師の先生とかですね、クラスメイトでですね、飲み会をガンガンやってるんですよね。
で、私はその飲み会の主催者みたいなのをやっていて、毎回その取りまとめとお店の予約みたいなのをやっていて、
飲み会も激しいんですよね。飲み会が激しくてですね、課題も激しくて、次の日は朝から働かないといけないってですね、
どんだけわけわかんない生活してるんだみたいな感じなんですが、それで飲み会に講師を呼んだりですね、講師の先生に来てもらって、
その業界の話とかですね、そういうのアグレッシブに聞いてましたよね。
なのでまあ、講師の人も割とホイホイと飲み会に来てくれてるっていうのもあったんですけど、
とにかく飲み会を開いて、飲み会に講師をどんだけ呼べるかっていうのがその主催者の力量にかかってるみたいな感じですね。
その先生が呼べればその飲み会はたくさん人が来るしみたいな感じでやってましたね。そんな主催とかやってましたね。
暇なのかというか、まあ暇じゃなかったんですけど、結構手間かかることやってましたね、前からね。
それでですね、その飲み会に呼んだ先生が、先生って言ってもですね、そういう方たちも社会人というかですね、社会人の方でして、
会社やってたりですね、会社員だったり、夜講師で来ていらっしゃるっていう方たちだったんですけど、
そのうちの一人がですね、人材を探してるというんで、それがですね、某放送協会の渋谷にありますよね、某放送協会の関連会社の方の募集だったんですね。
で、そんなところに働けたらいいなと思って、その募集、募集じゃないですよね、まあ募集というか正式に募集されてるわけじゃないので、
そのプロデューサーさんが人を探してるってだけなんで、それで行ってですね、まあいろんな話をしたらですね、なんかベータク採用されちゃったんですよね。
そっからそのいわゆるウェブ業界人になったというかですね、まあその会社はもちろんメディアだし、テレビが中心の会社だったんですが、そこの会社、その関連会社自体はですね、インターネットを中心にやってたんですね。
その部署自体がすごいインターネットに力を入れてたっていうか、なのでそこになんかラッキーな頃に潜り込めたんですよ。
それが1999年でしたね。
インターネット博覧会とディレクターへの道
それでですね、皆さんご存知かどうか、まあもう当時そんなに爆発的な話題になったわけじゃないんで、あれなんですが、インターネット博覧会というのがあってですね、インターネットで博覧会をやろうみたいなんですね。
坂谷太一さんがまだですね、出てきてたんですよね。坂谷太一さんがですね、インターネットで博覧会だみたいな話をされてですね、それが音頭を取ったものが、その某放送協会的にも大事な仕事だみたいになってですね。
それであの、当時首相だった森さんですね、あの森さんがですね、IT、ITみたいに、インターネット博覧会だからITとかっていう言葉が出てきてですね、ITとかって言ってる中ですね、森さんがですね、ITってなんだみたいな話になってですね。
お、えーみたいに、また上げ足取りをするのがメディアの役割だったみたいな時代ですからね。それでですね、ITをITって呼んだみたいな感じで馬鹿にしてましたよね。
IT、ITとかっつってですね。ひどいもんですね。一刻の首相を捕まえてですね、そうやって上げ足を取るんですからね。そういう意味ではメディアも元気でしたって話なんですかね。
それでですね、そのインターネット博覧会っていうのをやるぞみたいになってですね、それの一員で一応採用されたみたいな感じになってですね。当時はそのデザイナーワークっていうかデザインやりたいっていうふうに強く思ってたので、いったんデザイナーで採用されたんですよね。
まあでもですね、やっぱりデザイン的にはですね、手を動かすデザインがですね、本当にイマイチです。イマイチだというのがですね、まあその採用してくれた人もイマイチだよねとかっていうぐらいのイマイチだった感じですね。
そうこうしているうちにですね、いわゆるディレクターみたいな、ディレクターっていうのはですね、まあディレクターっていろいろあるんですけど、当時は何でもやみたいな感じのもディレクターって呼んでたんですが、そのあらゆるハブになるっていうんですかね。
その役割、いろんな役割の方、まあそのプロデューサーがこうしたいっていう思いを受け取って、あらゆる関係各社、各位に対してですね、それを調整するっていうことをですね、やるように役割としてなったんですね。
それでですね、デザイナーさんとやり取りしたりですね、ゲームプログラマーとやり取りしたり、ウェブのプログラマーとかウェブのエンジニアとかですね、はたまたライターとかイラストレーターとかですね、この辺はその原さんが聞いてくれればうんうんって言ってくれると思うんですけれども、
まあそういったそのいろんなプロフェッショナルの人たち、個人的なその特化したプロフェッショナルの人たちをですね、まあ一旦取りまとめて、そのプロデューサーの好みというかですね、プロデューサーがこうしたいっていう方向性にですね、方向づけてあげるっていうような仕事を、
あとはコース管理とかローム管理とか時間管理とかですね、締め切り管理とかですね、そういったものもやるようになってですね、まあそれがまあまあできたというかですね、そこで重宝されたというか、なおさんそういうのは上手だねみたいな感じになったんですね、当時ね。
まあそれで、まあウェブ、そういうのを一応は一旦は、まあ例名機なんで名前がないんですけれども、ウェブディレクターみたいに呼んでいた、呼ばれたんですよ。
で、ウェブディレクターという肩書きで、そのインターネット博覧会を仕切ったりですね、そのインターネット博覧会なので、各種パビリオンっていうのがあってですね、パビリオンっていうのはインターネット空間にあるんですけど、それのですね、企業パビリオンっていうのがいくつかあってですね、
その企業パビリオンのいくつかのディレクターをこなすことになったんですね。
まあその中で、そのプロデューサーの方についていった中で、まあ当時は打ち合わせに参加するだけだったんですけれども、急にですね、伊藤石出札さんとかですね、荒又博さんとかですね、内田俊樹さんとかですね、そういった方に会うように直接お会いするようになったりですね、
この人はこういう感じなんだみたいな感じになったりですね、まあ少し後になりますけれども、大定晴さんとかもそういう感じでお会いすることになりましたし、急に業界人気みてきてですね、なんかすごいなんかなんちゃらかんちゃら侍業の変な同族企業のですね、数年前までね、そんなことで右往左往していたりですね、
その前は超底辺なですね、会社にいていた人間がですね、そこから5年もしないうちにですね、そういう方たちと出会って仕事するようになったとかっていうような感じにあれよあれよという前になってたんですね。
激動の30代と当時の働き方
まあそういう意味で言うとですね、やっぱりインターネットの力は大きかったですし、やっぱりそのWindows 95が出てインターネットだとか、なんかネットにつなぐみたいなことのですね、その動きに乗っかってたっていうのが、まあ本当に良かったのだろうというふうに思ってましたし、なんか当時はドックイヤーとかって言ってましたけど、インターネット業界は。
1年で7年ぐらい進むんでしたっけ、8年でしたっけ。なので、その5年間の間にですね、一気にですね、8年だとしたら40年ぐらい進んだぐらいなんですね。
一気にそういうことをやるようになって、まあいつの間にかあれよあれよという間にですね、ウェブディレクターみたいな肩書きを手に入れてですね、まあ渋谷のとあるあの場所でですね、まあブイブイ、ブイブイまで休まれたというようになっちゃったっていうのが、その20代から30代の切れ目ですね。
そのまさにインターネット博覧会っていうのはですね、2000年に行われた行事なので、そのWindows95から2000年までの5年間にですね、一気にそんなことになったという感じです。
もちろんめちゃくちゃ忙しかったですし、まあめちゃくちゃ忙しいですね。とにかく忙しい。とにかく帰れないですよね。
飲み会も多かったですからね。とにかく感覚的にはですね、ほとんど働いてるって感じです。飲み会は働いてるってカウントしちゃいけないんでしょうけれども、朝から晩まで働いて、深夜まで飲んで、ヘロヘロになって帰って、
朝起きてまた、3、4時間ぐらいしか寝ないで、また朝起きて、また会社に行って、ワーコナして、また飲み会が始まって、みたいな感じでしたよね。
そういうことを今望んでる人たちがどれくらいいるかどうかわかんないんですけども、基本的には生活のすべてが働いてるって感じだったので、それを楽しめたかといえば楽しんでたんでしょうね、というふうに思いますね。
たぶん今だとそういうのも許されなくなっちゃうんですよね。働いちゃダメだ、みたいな。時間も制限されてるんでしょうから。
働けたから嬉しい、働いて嬉しいし、飲み会はもちろん全然自分の金で払いませんよ。飲み会は経費で出るし、最後はタクシー代が出るし。
なので、基本的には飲み代とタクシー代は全然自分で払わないというか、組織が払ってくれて、朝から晩まで働いて、みたいなね。そんな感じでしたね。
そんな感じで、デザインみたいなものをやりたいと思ったのは早々に才能がないので挫折しましたけれども、人との関わり合いとか、もちろん自分の企画とかもね、通せたりもしたしとか、そういう話と、
あとは超著名なトップクリエイターみたいな方にも会えたし、一流の個々の人たちとも、個々の、個でやってる人たちですね、デザイナー、ライター、写真家、プログラマー等々、そういう方たちとも一緒に密に仕事ができてたし、
そういった意味では本当に幸せだったっちゃ幸せだったんですけど、という30代でしたという形ですね。
これについてですね、何の教訓があるかもわからないですし、そういうふうに働けみたいなことを言ってもですね、もう時代も違いますし、何とも言えないんですが、そういう30代を、20代後半から30代の前半はそんなふうに働いてましたというような話ですね。
その事実だけ知っておいてもらえれば嬉しいかなというふうに思います。ありがとうございました。ではまた。
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