00:00
あの気温は氷点下に近いのに、すれ違う人たちがみんなTシャツとかショートパンツで歩いている。
あるいはその子供の学校の書類に、あなたは今放棄された建物に住んでいますかというチェック項目が、もう当たり前のように並んでいる。
もし明日、そんな場所に引っ越すことになったとしたら、あなたはどう感じますか?
そうですね。確実に混乱しますし、何かの冗談か、あるいは自分のルールを見落としているんじゃないかって、すごく不安になるでしょうね。
ですよね。今回私たちが探求していくのは、まさにその強烈な違和感の正体なんです。
はい。
あのミシガン州のアナーバーというところに家族で移住した日本人女性のナッキーさんが綴った2つのエッセイを、今回の徹底分析で深掘りしていくんですが、これが本当に面白くて。
えー、非常に興味深い資料でした。
単なるアメリカ生活あるあるじゃないんですよね。日常の些細なカルチャーショック、その一つ一つの、なんていうか、そこを叩いていくと、アメリカという巨大な社会を動かしている文化的DNAみたいなものがもう恐ろしいほど革命に浮かび上がってくるんですよ。
おっしゃる通りです。異文化に触れたときって、私たちはどうしても表面的なルールの違いばかりに目を奪われがちですよね。
わー、わかります。なんで違うんだろうみたいな。
えー、しかしこのエッセイが優れているのは、ダウンジャケットとショートパンツの違いとか、スーパーの試食、あるいは学校のグラウンドの雑草といった本当に日常の風景から、この社会は何を最も重んじているのかという、そういう根源的な価値観まで見事に接続している点なんですね。
そう、まさにそこを一緒に紐解いていきたいんです。まず象徴的なのが、彼らがミシガンに到着した直後の4月のエピソードなんですけど。
はい、気候と服装の話ですね。
ねえ、緯度的には北海道と同じくらいで、4月といってもまだまだ寒い時期なんですよね。で、著者のナッキーさんは、当然あのダウンジャケットを着込んでホテルのエレベーターに乗るわけです。するとそこにTシャツ姿の、えっと、作業員のおじさんがいて、彼女のダウンをさしさしてにやりと笑うわけですよ。おい、もう春だぞって。
外は氷点下に近い寒さにもかかわらずですね。
そうなんです。で、彼女が、いやいやまだ寒いわよって反論しても、けけけーと笑って去っていく。さらに街に出ると、ちょっと日差しが出ただけでもう老若男女も大喜びでショートパンチに吐きかえているんですよね。
ええ。
これなんというか、日本的な感覚からすると完全に季節感のバグじゃないですか。
確かにそう見えますね。
日本社会って、まあ良くも悪くもカレンダーとか空気を読んで服を着るっていうところあるじゃないですか。
おっしゃる通りです。日本では衣替えという言葉があるように、その周囲との調和とか季節のグラデーションに自分を合わせていくことが美徳とされますからね。
はい。浮かないようにというか。
ええ。しかしアメリカの場合、根底にあるのは自分がどう感じているか、どう世界と向き合いたいかという自己決定権の強烈なアピールなんですよ。
03:08
自己決定権ですか。
そうです。
でも卒業式みたいなフォーマルな場でもジーンズとかショートパンズで現れる人がいるっていうのは、単なるわがままとか空気が読めないとは違うメカニズムが働いている気がするんですけど。
ここで非常に興味深いのは、これは他人に自分のスタイル、つまり自分の物理的精神的な境界線を浸させないという宣言なんですよね。
はあ、境界線。
ええ。外の気温が何度だろうと、私が春を感じているのだから、私の季節は春であると。
なるほど。
この徹底した個人主義は社会全体が合意しているルールなんです。だからこそ他人の服装を笑い合うことはあっても、それを不謹慎だとか、間違いだみたいに道徳的に非難することはないんですよ。
ああ、なるほど。ずっと日本の周囲に合わせる文化で育ってきた中学生の息子さん、玄太君にとっては、このショートパンツおじさんたちの存在はちょっとしたパイックだったんじゃないですかね。
最初はそうでしょうね。
ここでは誰も他人に自分の性格を押し付けてこないんだという、ある種の開放感というか、そういうのもあったかもしれないですね。
まさにそこがポイントです。服装という最もパーソナルな領域で誰も干渉してこないという事実が、違法人に対する最初の強烈なメッセージになっているわけです。
面白いですね。ただ、その誰も干渉しない個人主義って、一歩間違えるとすごく冷たい社会にもなり寄るじゃないですか。孤独というかほったらかしというか。
えー、孤立しやすい側面はありますね。
でも、彼らが日常的に利用する消費と食の空間、つまり巨大スーパーマーケットのエピソードを読むと、また全く違う側面が見えてくるんですよね。
あの、ホテルの近くのとてつもなく巨大なスーパーマーケットですね。
はい、そうです。行く前はしょぼいかもっていう噂だったのに、日本の大型店よりはるかに巨大で、入り道には無料のコーヒースタンドがあって、紅茶とかココアも飲み放題なんですよ。
試食のドーナツまで置いてあって、使い捨てのコップをカートに乗せて、飲みながら買い物をするっていうスタイルなんです。
日本のスーパーではちょっと見かけない光景ですよね。
そうなんですよ。息子さんは大喜びでココアをおかわりして、著者は彼がアメリカを大好きになる日は近そうだって微笑ましく見ているんです。
さらに店内には健康ブームを反映してか、豆腐とか糸こんにゃく、カリフォルニア米まで、もう当たり前のように並んでいるんですよね。
著者はここで過去のヨーロッパ駐在時代の記憶と対比させていますよね。
そうそう、90年代のドイツ、フランクフルト時代ですね。
当時は賞味期限の怪しい少ない日本食材しかなくて、冷凍庫に放り込まれた納豆とか。
ここで冷凍できると知ったと書かれていましたね。
一番面白かったのが、買った当日から腐っていた韓国製の硬い豆腐の話で、その時のトラウマで今でも豆腐を食べる前にくんくん嗅ぐ習性が抜けないっていう。
06:11
ありましたね。
笑っちゃいけないんでしょうけど、すごく象徴的だなって。この対比を見て思ったんですけど、スーパーの無料ココアとかドーナツって結局はこれ売ってます買ってねっていう単なるマーケティング戦略じゃないですか。
もちろん商業的な意図はありますね。
でも、それか異国に来たばかりの不安な子供をアメリカ大好きにさせるほどの威力を持っている。なんかIT用語でいうAPIみたいな、そういう感じがして。
APIですか。それはソフトウェイ同士をつなるあのインターフェースの。
そうですそうです。つまり異国の複雑な文化的高度とか言語をまだ理解していなくても、スーパーに行けば見慣れた豆腐があって、無料のココアっていうわかりやすい歓迎がある。そこにプラグを指すだけで、とりあえずその社会のシステムに統合されたような安心感を得られる。
なるほど。
食のグローバル化とかスーパーの豊かさが、最も手っ取り早い異文化適用の精神安定剤として機能しているんじゃないかって。
それをより大きな視点で捉えると非常に適用した分析だと思います。著者の90年代のドイツでの生活は、常に危険を察知しなければならない、いわば生存モードのサバイバルでした。
生存モード、はい。
しかし現在のアメリカのスーパーが提供しているのは、他社を受け入れる適用モードのインフラなんです。
適用モードですか。
はい。多様性という言葉をただのスローガンで終わらせず、巨大な陳列棚と圧倒的な物資的豊かさによって物理的に実装している。
消費の世界では、お金を払う意思さえあれば、あなたはすでに私たちの一部なんです。
巨大な資本主義が結果的に最高のウェルカムマットになっているわけですね。
そういうことです。
ただ、消費者のままでいられるうちは気楽ですが、一歩深くその社会のシステムに組み込まれると、その合理性の葉が突然剥き出しになってきますよね。
それが次に彼らが直面する学校という複雑なインフラです。
いやいやアナーバード中学校の話ですね。
生徒数700人超で25カ国後以上の母語が飛び交うものすごい多様な環境で、室内プールとか広大な駐車場があって、冬でも半袖で過ごせる完璧な空調設備がある。
とても豪華な設備ですよね。
なのに一方で屋外のスポーツグラウンド、野球とかサッカーのグラウンドは日本より全然手入れされていなくてボサボサだったっていう描写があるんですよ。
ええありましたね。
ここで本当に面白くなってくるんですけど、日本の学校文化を経験しているとここどうしても引っかかりますよね。
引っかかると言いますと。
日本だと部活のグラウンド整備って一種の修行というか、生徒とか顧問の先生がトンボをかけてきれいにするのが当たり前じゃないですか。
ある種の精神鍛錬ですよね。
09:01
自分たちの使う場所は自分たちできれいにするという教育の一環ですね。
なのにアメリカのグラウンドが手入れされていないのって単なる怠慢ではなくて、先ほどのショートパンツの自己決定権の話と根っこがつながっている気がするんですよ。
つまり個人の役割と境界線の問題ということですね。
アメリカの学校は生徒を教育とか施設の消費者として見ていて、メンテナンスは学生の仕事じゃないっていう明確な割り切りの現れですよね。
まさにその通りです。グラウンドの件も、あとトラブル対応などはすべてスクールカウンセラーが窓口になり、先生とは直接接しないというシステムも。
そうそう、その話もありましたね。
これらすべてはプロフェッショナルな役割分担の徹底なんです。
先生は教えるプロ、カウンセラーは問題解決のプロ、そしてメンテナンスは管理業者のプロというように。
はあ、なるほど。
日本のような教師や生徒が何でも抱え込む文化とは明確な違いがあります。
彼らは自分の職務範囲、つまりジョブディスクリプション以外のことはしないという契約で社会を回しているんです。
教師も生徒もお互いの境界線を絶対に信頼させない、ものすごく合理的で潔いシステムですよね。
ただ、システムが合理的だからといって、そこにアクセスするためのコミュニケーションが簡単とは限らないわけで。
ええ、ここからが難しいところですね。
いよいよ筆者が直面した最大の言語とルールの壁に迫っていくんですが。
スクールカウンセラーとの面談のエピソードですね。
そうです。これ言語学習者なら誰でも日合わせを書く話なんですけど。
イギリス英語のキレが良い発音に慣れていた著者が、音がくっついて伸びのアメリカ英語、いわゆるチューイングガム英語の容赦ない早口を浴びせられるんです。
外国人相手でも容赦なかったと。
はい。で、面談中にどこの学校かって聞かれて、この学校に入るために来てるのになぜって推し問答になるんですよね。
実はカウンセラーは、isではなくwas、つまり、前はどこの学校にいたのかって聞いていたんです。
たった一語時制を聞き逃しただけで、会話というシステム全体がエラーを起こしてしまったわけですね。
そうなんです。で、カウンセラーはイラつき始めて、隣の中学生の息子さんはもう能面のような顔になってフリーズしてしまうっていう。
あれは辛い状況ですね。
著者は日本語教師としての経験から、留学生がたっとマスを間違えるだけで文章が完全に崩壊して見えることに気づいて、当時の自分を重ね合わせているんですよね。
システムがシステマティックであればあるほど、入力するコード、つまり言葉の正確さが求められるというある種の残酷さですよね。
確かに。でも、そのシステマティックな残酷さの裏側にあるアメリカという社会の真の覚悟みたいなものが最も色濃く出ているのが、その後に渡された一枚の書類なんですよね。
これは重要な問題を提起していますね。書類の衝撃ですね。
はい。まず服装規定で、ミニスカートやへそ出しはNGだけど、化粧やアクセサリーはOKという違いにも驚くんですけど、私が一番衝撃を受けたのは、生徒の居住形態を問うアンケートなんです。
12:10
選択肢に、持ち家とか賃貸と並んで、ホテル、緊急シェルター、自動車、公園、放棄された建物、駅などがずらりと明記されているんですよ。
日本の感覚からすれば非常に刺激が強い選択肢ですよね。
そうなんですよ。日本人の感覚からすると、学校のアンケートに、あなた放棄された建物や公園に住んでますかってリストアップするのは、いくらなんでも無神経というか残酷すぎませんか。
そう感じられる方は多いでしょうね。
日本なら絶対に、その他という項目を一つ作って、そこに全部押し込めて、なんとなく配慮したふりをしそうなんですが。
そこがまさにこの徹底分析の革新部分です。
日本のその他に隠してしまう曖昧さは、一見優しさのように見えて、実は当事者を存在しないことにしてしまう危険性をはらんでいるんです。
存在しないことにするんですか。
ええ。システム上、見えないものは救済できません。
アメリカがあらゆる悲惨な居住形態を明文化しているのは、マニュアル社会であると同時に、たとえ青皿の下で暮らしていても、例外なく全ての子どもに教育を受ける権利があるという強い覚悟の証明なんです。
ああ、なるほど。
これをラディカルインクルージョン、徹底的な包摂と呼ぶこともできます。
著者はここで、過去のドイツ時代に、大学にシェルターから通うホームレスの学生がいたことを思い出していますよね。
はい、ありました。
日本の常識的な枠根見だけでいちていると、そういった極限状態を想像することすらやめてしまい、結果的に社会から排除してしまう。あらゆる現実をリストアップすることは、究極のセーフティーネットなんです。
すごい。私が感じた無神経さは、実は社会としての執念だったんですね。
その他で陰経しない、見たくない現実もすべてテーブルの上に並べる。
それがショートパンツで歩く自己決定権を認め、巨大スーパーで多様性を受け入れ、グランド整備をしない合理性を貫く社会の最終的な教育の形なんだと。見事なつながりですね。
ええ。小さな日常の洗礼や違和感にこそその社会が何を大切にしているかという設計図が隠されています。
息子さんが農民になるほどのカルチャーショックは、実は最高の学びの場だったと言えるでしょう。
本当にそうですね。皆さんも新しい職場や海外で、「なんだこのルール?」って固まってしまった経験はありませんか?
その時、ただ文句を言うか、そのルールの背景にある価値観を深掘りするかで、得られる知識は劇的に変わるんだなと、今日改めて思いました。
違和感は新しい視点への入り口ですからね。
さて、今日私たちが深掘りしてきたこの視点をもって、最後に皆さんに一つの問いを投げかけたいと思います。
15:01
今回、アメリカの学校の居住形態アンケートが、実は彼らの人権意識、インクルージョンの裏返しであることをお話ししました。
では、皆さんが普段、日本、あるいは自分の住む国で何気なく提出している役所や会社の書類、そこに必ずある性別や世帯主、本籍といった項目には、果たしてどんな社会の隠れた価値観が棲んでいるのでしょうか?
いやぁ、考えさせられますね。
ええ。次に書類の空欄を埋める時、少しだけ手を止めて考えてみてください。
もしかしたら、あなた自身の普通が揺らぐ瞬間に出会えるかもしれませんよ。
それでは今回の徹底分析はこの辺で。また次回、新しい視点を探求する旅でお会いしましょう。