あのちょっと想像してみて欲しいんですけど、あなたが6歳のお子さんの学校の入学手続きのために、現地の小児科を訪れているとしますよね。
えー、よくある風景ですよね。 そうなんです。ごく普通の予防接種とか健康診断のつもりで、でもその問診の最中に、お医者さんから突然、お母さんは少しの間退席してくださいって告げられるんです。
理由もわからない図にですか? はい。で、廊下に出されて。後になってわかったのは、あなたがいないその密室で、お子さんがお医者さんから、親に言えない心配事はないかとか、親から叩かれたり怖い思いをしていないかっていう風に尋問されていたということなんです。
あー、親御さんにしてみれば、自分がその虐待の加害者として疑われているって知ったら、言葉を失うほどのショックを受けますよね。
本当に全くその通りで。で、今回私たちが分析する資料は、アメリカのミシガン州にお住まいの日本人女性の方が書かれたエッセイなんですけど、まさにこの衝撃的なシーンから始まっているんですよね。
アメリカの現地校に入学して、まだ4日目の息子さんゲンタ君の身に起きたある一日の出来事なんです。なるほど。で、今回の深掘りではですね、これを単なる海外生活のカルチャーショックみたいなことで片付けるんじゃなくて。
それだけじゃない深い意味がありますよね。そうなんです。アメリカっていう社会システムがいかに個人の領域、しかも家族という性域にまで容赦なく介入してくるのか。そしてそんな逃げ場のない新しい環境に置かれたときに、人間は特に子供はどうやってブレイクスルーを引き起こすのか。この辺りのメカニズムを解き明かしていきたいと思います。よし、これを紐解いていきましょう。
この資料の素晴らしいところは、診察室での出来事とか子供の反応といった日常のスケッチを通じてですね、社会構造の根本的な違いをものすごく鮮明に描き出している点なんですよね。ですよね。では早速先ほどの診察室の密室劇について考えてみたいんですけど、日本の感覚で言えば家族っていうのは何というか一つの信頼の単位じゃないですか。
基本的にはそう扱われますね。よっぽど目に見えるあざがあるとか不審な兆候がない限り初対面のお医者さんが親を疑って子供を隔離するなんてありえないですよね。確かに日本ではあまり聞かない話です。これ例えるならレストランに行ってシェフから突然同席者に襲われていませんかって、別室で沈門されるような衝撃というか。
ああすごい例えですけど、でも当事者の感覚としてはまさにそれくらい唐突ですよね。ですよね。なぜアメリカの公権力はこう正義の顔をして家族という性域にここまで土足で踏み込んでくるんでしょうか。ここで非常に興味深いのは感情的には強権的に見えるかもしれないんですが、これはアメリカの社会システムが根底に持っている誰であっても加害者になり得るという考え方に基づいているんです。
誰であってもですか。
はい。一種のゼロトラストの考え方ですね。ITのセキュリティなんかで社内からのアクセスであっても信用せず常に認証を求めるっていうゼロトラストアーキテクチャーがありますけど。
ああはいはいありますね。
あれが社会の人間関係にもそのまま適用されているんです。
ゼロトラスト。つまり親だから安全だろうとか家族だから守ってくれるだろうっていうそういう日本的な情緒的な信頼をシステムから完全に排除しているということですか。
その通りです。エッセイの中で筆者の方のご友人の非常に象徴的なエピソードが紹介されているんですが。
はい。どんなエピソードですか。
そのご友人の夫が頭を怪我して救急病院に行った際ですね。つきそった妻であるその友人がなんと診察室から追い出されたそうなんです。
えっちょっと待ってください。子供じゃなくて大人の夫婦間でも同じことが起きるんですか。
そうなんです。病院側はこの頭の怪我はもしかして妻が夫に暴力を振るった結果ではないかという可能性を疑ったわけです。
はあなるほど。
DVの加害者が夫とは限らない。妻が加害者であるケースもシステムは例外としないんです。
うーん。
ここで重要なのは担当のお医者さんがこの夫婦は仲が良さそうだから大丈夫だろうみたいに空気を読んで判断することをシステム自体が許していないという点ですね。
なるほど。でも今回のエッセイに登場するお医者さんは確か日本人だったんですよね。
ええ。日本人医師でした。
同じ日本人同士なら何というかあうんのこきりでこのお母さんは虐待なんてしなさそうだなってプロトコルをスキップしそうなものじゃないですか。
確かにそう思いがちですよね。
でもそれでも例外なく隔離が実行された。筆者の方も虐待なんて身に覚えがないのにやばって背筋が凍ったって書いてますよね。
そこなんですよ。もしそこで個人の裁量に任せてしまえばシステムに穴が空いてしまって本当に助けを求めている弱者を取りこぼすリスクが生まれますからね。
ああなるほど。
親の心情を害するリスクよりも子どもが親の目の前でSOSを出せないリスクの方を圧倒的に重く見ているんです。
だからこそ公権力は強引にでも介入して個人を一時的にブラックボックスから切り離すわけですね。
はい。冷徹に見えますけど弱者を守るための極めて合理的なセーフティーネットの構造だと言えます。
家族への信頼よりも最悪の事態の回避を優先するゼロトラストの論理ということですね。
これを聞くとこの後の診察室でのもう一つの出来事もすごく腑に落ちてきます。
っていうのもこの徹底したリスク管理と合理性って心理的な介入だけじゃなくて物理的な医療の現場にも全く同じ哲学として現れているんですよね。
そうですね。入学条件となっている予防接種のアプローチの違いにそれがよく現れています。
ここからが本当に面白いところなんですが、アメリカでは州が決めた予防接種を全て受けないと学校に入学できないっていう厳しいルールがあるんですよね。
はい。厳格に定められています。
筆者の方もまるでペットホテルに犬を預けるみたいだなんて表現してましたけど。
でも一方で事前に学校と地下医薬さえ回しておけば、とりあえず入学させてくれて接種は後から進めても良いっていう意外な柔軟性もあるそうですね。
ルールは絶対なんですけど、個人の責任において先制するというプロセスを踏めば猶予を与える。いかにも契約社会ならではのインターフェースですよね。
ただですよ、いざ病院で打つ段階になると、再びそのシステムの容赦のなさが牙を吐くというか。
ええ、かなりの数になりますからね。
波症風の追加、髄膜炎、A型肝炎、B型肝炎、それにポリオの追加、日本より圧倒的に種類が多いんです。
しかもお医者さんからの提案は、今日はまとめて5本打ちますか、それとも分けますかだったんですよね。
5本同時というのは、日本の一般的な医療感覚からするとかなりのインパクトがありますよね。
いやちょっと待ってくださいよって話ですよ。5本同時って人間の体に対する負荷として尋常じゃないと思うんです。
はい。
これ私なりのアナロギーなんですけど、スマホのOSをメジャーアップデートしながら、超巨大なアプリを同時に何個もダウンロードして、さらにバックグラウンドで4K映画をストリーミング再生するようなものじゃないですか。
なるほど。
システムである人間の体がフリーズしそうというか、当然筆者の方も、腫れたらどうするの、熱が出たらどうするのって心配して、必死に2回に分けてくださいって食い下がってますよね。
そうですよね。親としては東西の反応です。
欧米の人は体が強いのか、それとも単に雑なのか、専門家としてはこの極端なアプローチの違いをどう見ますか。
これこそが日デイのリスク評価の明確な違いなんです。
スケールの違いですか。
ええ。日本の医療が重視しているのは、目の前の患者の副反応や不快感といったミクロなリスクを最小限に抑えることです。
はいはい。だからこそ一つ一つの反応を見ながら丁寧にスケジュールを組んで感覚を空けるわけですね。
はい。でもアメリカの公衆衛生が一条命題としているのは、とにかく全体への接種を最速で完了させることなんです。
つまり、社会全体のアウトブレイクというマクロなリスクを阻止することですね。
なるほど。
目の前の患者が次にいつ病院に来るかわからない。もしかしたら再び来ないかもしれない。
ああ、ここでも人間への信頼がないんですね。
そうです。であれば、今打てるものは全て打つ。患者が数時間発熱して不快な思いをするリスクよりも、未接種のまま社会に出て感染症を広めるリスクの方を重大な脅威とみなしているんです。
だから5本まとめてなんですね。
はい。
心理的なセーフティーネットも物理的なアプローチも、今確実に介入して最悪の事態を防ぐっていう強烈な合理主義で動いている。
そういうことです。
これだけの違いがあると、死者が日本が繊細すぎるのか謎だってこぼすのも納得です。
そして私たちがここで想像すべきなのはですね、この日まだ入学4日目という環境の変化の真っ最中にいる6歳の息子さんが、この強烈なシステムの違いという荒波を全身で浴びていたという事実なんです。
本当ですよね。親の知らないところで虐待の有無を尋問されるっていう密室の緊張感。そして自分の体に対する過酷な一世アップデート。
はい。
大人でさえこれほど容赦のない異文化のシステムに直面したら疲労困敗しても何もしたくない。家に帰って寝たいって塞ぎ込んでしまうと思うんです。
普通はそうなりますよね。
ところがこの摂取の直後、息子さんは信じられないことを口にするんですよね。
ええ。
もう帰るの。学校に戻りたいって言い出すんです。
精神的にも肉体的にも限界に近いはずなのに、自らその過酷な環境に戻ることを志願したわけですね。
もう午後で授業も終わる時間なのに、せめてスクールバスには乗りたいって主張して、なぜそんなに学校に戻りたいのか。その理由がですね、4時間目にやった鬼ごっくが最高だったからなんですよ。
それを聞いたオカラさんはすごく嬉しくなって、たかだか10分間のためにわざわざ遠回りをして彼をスクールバスに乗せたそうなんですけど。
これ大人の視点からすると、ただ子供が遊びたいだけだろうって軽く見てしまいがちなんですが、実は人間の適応プロセスにおいて極めて重要なメカニズムが働いている場面なんです。
つまりこれは何を意味しているんでしょうか。私からすれば言葉も通じないし、システムも過酷で、そんな逃げ場のない場所へなぜ戻ろうと思えるのか不思議だったんですが。
これをより大きな視点に結びつけるとですね、人間が新しい環境に置かれた時の適応プロセスが見えてきます。
適応プロセス?
ええ。例えば、我々大人が全く文化の違う企業に転職した時などを想像してみてください。
はい。
最初はマニュアルを読んだり、その組織のシステムや論理を頭で理解しようと必死になりますよね。
なりますね。とにかくルールという名の5本の注釈を受け入れようとします。
でも、論理やシステムを理解しただけでは、人はその環境に本当の意味で根を下ろすことはできないんです。
なるほど。
息子さんにとって、過酷で逃げ場のない異文化の中で、論理や言葉の壁を越えて楽しい、ここにいたいと思えた純粋な感情的なアンカー、それが鬼ごっこという原始的な遊びでした。
感情のアンカーですか?
はい。理屈抜きで他者と通じ合えたという感覚がアンカーとして打ち込まれて初めて、人は自らの足で立つ静かな覚悟を決めることができるんです。
ちょっと待ってください。だとすると、このエッセイの最後に描かれている、あのノートの余白の文字の変化、あれはそのアンカーが打ち込まれた証拠ということですか?
まさにその通りです。
帰宅後、お母さんが息子さんのノートを見ると、それまで家で何度練習させても、どこか他人事のようで耳水が吐いたようにフニャフニャだったアルファベットが、
たった4日で紙に食い込むほど力強く整った形に変わっていたんですよね。私は単に学校で書き方を教わったからだと思ったんですが、
家で安全に練習していたときは書けなくて、この過酷な荒波の中で急に筆圧が変わったのには深い理由があったんですね。
家という安全で快適な場所には摩擦がないからです。
摩擦がない。
彼にとって、家でのアルファベット練習はただの記号を書く作業に過ぎなかった。しかし容赦のないシステムと対峙して、言葉の通じないという摩擦の中で、彼は鬼ごっこを通じて生きる喜びを見つけた。
その瞬間、アルファベットはただの記号から、この過酷な世界で他者と関わるための不可欠なツールへと意味を変えたんです。
あの筆圧の強さは、俺はこの環境で生きていくんだっていう、彼の無意識の決意というか、静かなるたくましさが神に現れたものだったんですね。
ええ。安全な場所で論理を学ぶだけでは人は変わらない。逃げ場のない摩擦に直面したときに初めて、適応に向けた本当の力が引き出されるんです。