べったりでしたね。
べったりでしたね。
でも社会的に見たら本当に周りの人からすごいとか、
羨ましいって思われるような人生だったよね、きっと。外から見たら。
日本の中では良いとされたりとか、子供を育てていくとなったら、
そういう人生を歩んでほしいっていう親御さんもたくさんいるんじゃないかなというふうに思います。
それは今でもそんなに変わってない部分もあるかもしれないよね。
そうだと思います。
前は本当にもっとそういう流れだったと思うけど、今でもそういうのは残ってるんじゃないかなというふうに思います。
そういった人生があって、私が生まれました。
私は一人っ子なので、母としては私をどう育てるか、どういう道を歩んでほしいかっていうふうに、
自分の人生を持っていろいろ思っていたところがあったのかなというふうに思うのですが、
私は神戸市スマ区で生まれ育って、地元の中学校から長田高校に入りました。
そこまでは変わらない生活だったんですけど、長田高校から留学と、
このチャンネルの名前にもなってるので、長田高校から留学をしました。
しかも2回。
それは母の意見、意思が割と反映された形で、気づいたら海外に飛ばされてたというのが私の自分の感覚になります。
1回目の留学は長田高校に入って、1年生の3学期に1年間長田高校を抜けて、ニュージーランドの地元の高校に1年間入りました。
そこで勉強して、もうずっとそこまで日本のローカルな学校だったので、
英語もわからない、それ以外の勉強もわからないという、ちょっと軽いパニック状態で、
初めて16歳で、一人単身で行ったということで、母が本当に現地の高校とやりとりをして、もちろん長田高校ともやりとりをしてっていう感じですよね。
パワフルな感じで、それを実現させたのかなというふうに思ってますが。
1年で帰ってきたので、私はその単位も持って帰ってきて、長田高校を卒業しました。
卒業した後、みんなは私の時もまずやっぱり国公立を受ける。
滑り止めでカンカン同立とか受けると、高校だったんですけど、私はアメリカの大学に4年間行きました、その後。
それも本当に珍しいことで、もちろん私の大は1人しかいませんでしたし、上の学年下の学年見ても、もう私だけだったんじゃないかなというふうに思ってます。
それも母のわりと強い意向が働いてということであってますよね。
本人の選択肢もあったと思いますけど、日本の大学に行くっていうのはやっぱりすごくかなり勉強しないといけないと思うので、そこからちょっと外れたというか。
高校の時点でね、次の選択肢として、母が見つけてきてくれたというか、私が最初から行きたい、ここに行かせてくれって言ったわけではなかったので、
一つの教育、子育ての一環、延長で母が出してくれた選択肢だったかなというふうに思います。
ということで私は高校卒業した後アメリカに行って、アメリカのテキサス州の大学で4年間過ごして卒業したということになります。
やっぱり日本のそういった公立、例えば私立の高校で留学をプログラム持ってるっていうところだったら、わりとあり得ることなのかなと思うんですが、
公立の新学校に入って、そこから自分でいろいろ見つけてきて留学するっていうのはなかなかないことかなというふうに思いますし、
ハードルも高いことかなと思うんですが、母はそういうハードルも気にせず乗り越えていったということは、
客観的に見たら、主観的に見たらちょっと大変だったんですけど私は。客観的に見たらすごい珍しいことですけど、よくやれたなっていうふうにも思うし、
私は当時10代で海外一人で行ってすごい大変だったって思いもあるんですけど、今振り返った時に絶対その時の経験が生きて自分のためになっているというふうに言うことができるので、
そういった当時の経験とか、じゃあその新学校から留学に行かせる選択肢を作ったっていう母の考えとか、
母自身の経験っていうのはどういうところにそういう思いとかがあったのか、考えみたいなところをこのチャンネルでこれから話してもらおうかなというふうに思いますし、
教育、子育てっていう分野かな、その中でためになるようなというか、私たちなりの一つの例っていうものを紹介していけたらなというふうに思ってます。
今日はこんな感じで、それぞれどういう経緯でこのチャンネルにつながったのかっていうところをお話しできたかなというふうに思うので、
次回からもう少し具体的にそれぞれお話できたらと思いますし、なぜそういう判断とか行動につながったのかっていうところをお話ししていけたらと思います。
はい、頑張ります。
頑張っていきましょう。
はい、ということで、これから続けていけるように頑張っていきたいと思いますので、ぜひチェックしてもらえたらと思います。
はい、では今日はこれで終わります。ありがとうございました。
ありがとうございます。