20代で経験したイギリス留学の話はこちら👇https://open.spotify.com/episode/6boyP3ND6FfY8R3aN9vXHZ?si=NtwOSfcHSWi_KvfbNU-59A
Miki's Profile:
アメリカ ダラス在住🇺🇸 日本生まれ日本育ち🇯🇵 リバプールでサッカービジネス専攻🏴 ダラスでサッカースクール運営 ⚽️
X, Instagram & note: @miki_stepout (https://linktr.ee/miki_stepout)
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サマリー
このエピソードでは、語り手のMikiさんが、15歳で日本かニュージーランドかの二者択一を迫られた経験から、現在のダラスでのサッカースクール運営に至るまでの道のりを語ります。神戸でサッカーを始め、中学時代に衝撃的な進路選択を経験。ニュージーランドへの留学を経て、アメリカの大学で多様な文化の中でサッカーに打ち込みました。これらの経験が、異文化理解や自身の人間形成に大きく影響し、現在の活動の基盤となっていることを振り返ります。
自己紹介とサッカースクール設立の背景
はい、みなさんこんにちは、Miki 💫です。
ワールドカップが終わってしまって、ダラスもすごく静かな気がするんですが、
私は引き続きアメリカ、ダラスに残って、できることを発信していきたいなと思っています。
このワールドカップを通じて、私自身ダラスに住んでいるということだったり、
こっちでやっているサッカースクールについても話をしたりとか、メディアに取り上げていただく機会もありました。
このアメリカ、ダラスで私がスタートしたサッカーのプロジェクトということで、
どういった経緯でこのスクールを始めることになったのか、
それは私自身がずっとやってきたサッカーの経験だったり、
10代の頃から海外に出てサッカーをする機会もあったので、
そういったことが全部つながって、やってみようという思いでスタートしたという背景があります。
なので今日はちょっと私が10代の時にどういう経験をしたのか、
それも自分で振り返った時に、なかなか他の人がたどらない道をたどったんじゃないかなという自負、自信があるので、
はい、ちょっとそのあたりを皆さんにシェアできたらなと思って紹介していきたいなと思います。
神戸での幼少期とサッカーの始まり
はい、じゃあまず私が生まれ育った場所、それは兵庫県神戸市になります。
1993年に神戸に生まれて、高校まで神戸で過ごしました。
で、サッカーを始めたのが9歳の時。
地元の小学校に女子チームがあってたまたま、で仲良くしてた子がそこでサッカーをしてたので、
やってみたいなと思って、じゃあ練習行ってみようかっていうので行ったのがきっかけになります。
なので小学校のチームで3年間まずやったという経緯ですね。
5年生ぐらいから小学校の市の選抜、取れ選には行ってたんですけど、
6年生になって県選抜の取れ選に受かって活動する機会もあって、
その時すごい上手な子たちの中に入ってサッカーする経験があったので、
それがいい経験になりましたし、その次中学校になってもサッカーを続けたいと。
神戸FCレディースでの経験と中学受験の衝撃
自分が思った時にその時のコーチとか一緒にプレーした子たちが行くクラブチームっていうのがあって、
そこでサッカーを続けたというのが中学校1年生の時にありました。
で、神戸FCっていう、神戸とか兵庫県関西にいる人たちは割と聞いたことある人も多いんじゃないかなって思うんですけど、
男子がメインで、そこに女子チームもあって今も神戸FCレディースとして活動していると思いますが、
そこに入って6年間高校3年生まで所属をしました。
もちろんサッカーのピッチの中のこともそうですけど、外のことも上下関係、礼儀とか、もちろん時間通りに行動するとか、
スポーツやってたら皆さん経験できることかなと思うんですけど、
特に私がいた時は厳しくきっちり学んで、
ある意味ここが私のベースを作ったサッカーを通じて、そういった大人になっても生きるようなことを身につけられた期間だったかなと思います。
ここまではいいですよね。
で、何が起こったか、私の衝撃的な出来事っていうのが、中学校3年生の時に受験ですよね。
高校受験する時に母が登場して、学校は効率の納得していける学校だけにしてくださいと。
大体私立も一緒にみんな受けてたんですけど、私は受けられません、受けませんって言われて、
で、受かったらいいけど落ちたらニュージーランドに3年間行ってほしいって言われたんですね。
まだ高校受験終わってない時だったんですけど、選択肢としてはニュージーランドか長田高校っていう兵庫県の中では新学校と言われる、
私の当時学区でトップだった長田高校に行くならいいよと。
でも、もし長田高校ダメで他の選択肢を日本の神戸の中で見るんだったら、
それだったらニュージーランドに3年間行ってくださいという母に究極の2択、AかBかどっちかみたいなことを提案されました。
提案というのか受験前の選択肢としてはこの2つが提示されて、
もちろんそのニュージーランドっていう全くわからない環境のことを想像した時に、
ワクワクするというよりは不安の方がめちゃめちゃ大きくて、英語も全然できないし、
学校でなじめる気が全くしないし、できることなら行きたくないっていう気持ちになって、
さらにサッカーも一生懸命頑張ってやってる中で、そこを離れてどっかに行くっていうことが想像できなくて、
母には行きたくないですと、今の環境で頑張りたいですっていう気持ちを示してというか、
示すためにはここに受かるっていうことが必要だったんですけど、
それなりに中学校3年生で勉強して、長田高校受かることができて、ここがなくなったと思っていました。
で、神戸市継続で1年生をやってたんですけど、1年生の夏休み入る前ぐらいに、
ニュージーランドへの留学と異文化体験
母が諦められないと、大学に行くまでにある程度の留学経験、海外で生活するっていう経験をした方がいいから、
ニュージーランドに1年でいいから行ってほしいですっていうことを言われて、1年生の夏休みにニュージーランドに連れて行かれました。
下見ということで、現地で女子サッカーができる環境っていうのも、そういうところに練習参加もして、それなりに楽しくて、
で、高校2年生、ニュージーランドに1年間留学することになりました。
セントピーターズスクールっていう寮生活をしながら、もちろん英語しか話さない現地のニュージーランド人の子たちの中に混ざって、
一緒に生活をして、サッカーと学校の行き来していた、本当に狭い中で過ごしていた生活から、
もう全く違う、何もわからない環境に入って、大変なことがすごいあったというか、
英語がわからなかったので、記憶がないと言った方が正しいかなと思うんですけど、
自分の中で当時当たり前だと思ってたことが、完全にひっくり返った経験っていうのを、この16歳、17歳でしたということで、
すごく今思ったら、ここでの経験が自分の世界を広げた視野をすごく広げた経験になったなと思いますし、
大変ではありましたが、その中でもサッカーしっかりできて、ニュージーランドの全国大会に出て準優勝したという記録をチームとして残しました。
たまたま行った学校が、すごい力を入れてる学校で、アンダー17の世代別の代表の子が何人かいたりとか、
サッカーが一番の目的というよりは、母としては海外での生活をしてほしい。
英語もそうだけど、現地の文化を学ぶとか、その中で生活をするということが一番目的としてはあった中で、
サッカーをうまく使って、私をニュージーランドに行かせたということがここであったのかなと思います。
帰国後の大学進学とアメリカでの挑戦
帰ってきて、3年生は長田高校に副学しました。
単位を持って帰ってこれたので、みんなと同じ学年で上がって、高校2年生をやらずに、いきなりまた3年生に戻ったという中で、
みんなはめっちゃ勉強してるし、〇〇大学に行くぞという感じで、みんなの中に戻れたのは良かったんですけど、
英語絶対もうペラペラだよねって言われて、1年間でそんなにペラペラになれませんでしたし、
そこをなんとかみんなの期待に応えるために英語をすごい勉強して、テストで点取れるように頑張ったということ以外は、
本当にどの教科もついていけなくて、大学どうしようっていうのが次の壁として私の前に出てきて、
また神戸市に戻って、サッカーで大学に行く子も私の同い年の子たちいましたし、
学校見ると勉強頑張って良い大学に行くという流れがあって、私どうするのっていうところですね。
勉強もすごい遅れてて、なかなかここから巻き返すの大変だなと思ってた中で、また母が登場しまして、
アメリカの大学だったらそんなに勉強しなくていいんじゃないっていう入るためにですね、受験勉強は日本ほど必要じゃないはずだから、
ちょっとアメリカの大学を選択肢に入れてみるのはどう?みたいな感じで提案されました。
また私からしたら、ニュージーランド頑張って1年間行って、やっと終わって帰ってきたのに次また行くのっていう楽しい旅行感覚だったらいいんですけど、
学校に行って勉強して卒業までしないといけないっていうことはすごく大変そうに感じましたし、ハードルも高いなと思ったので、
やっぱり抵抗の気持ちがあったんですが、気づいたらエージェントの説明会、留学説明会みたいなところに連れて行かれて、
かなり厚いサポートをエージェントがしてくれたので、大学を見つける時も私の成績とか希望とかを加味して、こういうところがいいんじゃないですかっていう選択肢を出した。
その中にこのダラスの大学、ノーステキサス大学って言うんですけど、そこを提案されて大学はUNTに行ったという流れになります。
大学では女子チーム、強いチームあったんですけど、一応トライアウトは受かったんですけど、女子チームの練習に参加したと同時に、
その辺で男の人たちがいろんなバックグラウンドの国籍の人たちがサッカーしてる環境っていうのが本当にたくさんあって、そこが全然日本と違う。
気軽にプレーもできるし、でもその中で相当みんな本気でやってる。
今回ワールドカップでもいろんな国の人たち、特に南米の人とかアルデンチンとかメキシコとか、相当ラフにハートで戦ってた人たちだったかなと思うんですけど、
私のいるテキサス、ダラスってメキシコと隣接しているので、スペイン語の方が聞こえてくるようなサッカーの環境の中で、私も入ってやってみたらすごく楽しくて、毎日4年間サッカー。
大学のこのダラスでの4年間で、やっぱり日本には全くないサッカーの形。
とにかく文化とか言語とか持ってるものが違う人たちが一つの場所に入って、そのピッチの中でフリースタイルでどんどんやっていくみたいな、なかなかないことだったかなと思いますし、今でも2年前に戻ってきてからもそういう場所でよくサッカーをするんですけど、
アメリカだからこそ異文化の異国の人たちがたくさん集まって、でもアジア人はそんなにいなくて、女性なんてほとんどいないみたいな中になぜか入って、自然と溶け込めるし、楽しくできて友達もできるみたいな、
特に大学の4年間は勉強もして卒業もできましたが、サッカーで本当に自分の居場所とか友達ネットワークっていうのを広げられた。
アメリカにいると全然違う角度から意見が出てきたりとか、日本で正しいとか正論だと言われていることをぶつけても何の効力も生まれないみたいな。
やっぱり10代とか20歳前後でこれだけ一人で海外に行ったっていうことは大変な思いだったりとかストレスとかあったとは思うんですけど、その分本当に日本にいるだけじゃ経験できないようなことがあって、
それをサッカーを通じて学べたっていうことが今の私のパーソナリティーとか土台となる考えの部分とかそういうものを作ったんじゃないかなということで。
現在のサッカースクール運営への道のり
大学卒業した後は日本に帰って就職してまたイギリスに行ったというようなストーリーがあるんですけど、またダラスに戻ってきて大学の時をかなり思い出しました。
日本に戻るとある意味全く必要なかったり使わなかったような考えスキルみたいなところが蘇ってきて、もちろん日本で得られたサッカーのベースの部分とか考えっていうのは活かせるんですけど、
それプラスアルファは私がこのアメリカの4年間、大学では体育の先生とかフィジカルトレーナーの人が受けるようなスポーツに関する内容を勉強したりしたので、その時の経験をすべて生かして、
なんかこっちでできること、新しい環境の中で新しいチャレンジって思った時に、ただサッカーを教えるっていうだけではなくて、やっぱり私がここまで経験できたりとか学んできたことを伝えられるような場所を作りたいなっていうので、
このダラスでのサッカーレッスン、私がやっていることにつながっているということで、今日はその辺が少しでも伝わったらと思って話をしてみました。
私は日本人として生まれて、母がいなかったら今も日本でずっと生きていると思うんですけど、そんなユニークな母の教育上での考え、価値観みたいなのも影響して、10代の頃から海外に出て、その中でも私はサッカーをずっと続けてきたという、なかなかない事例というかユニークなパターンかなと思うので、
何かヒントになったり、一つこういう人間もいるということをお話しできるといいなと思いますし、引き続きダラスの発信もできたらと思うので、今後もぜひ見ていただけると嬉しいなと思ってます。
で、先ほども触れましたが、アメリカの大学を卒業して、私は日本に戻って仕事をした後にイギリスの大学院でサッカーの勉強をして、で、それが終わってしばらく経ってからまたダラスに戻ってきたと。
約10年ぐらいの期間があったんですけど、そのちょうど20代の期間どういうことがあって、で、今オンラインで活動しているこのまたダラスでの発信とは違う軸でやっていることがあるので、それはもう一つのチャンネルにアップするので、概要欄からぜひチェックしてみてもらえたらと思います。
はい、じゃあ今日はここで終わります。ありがとうございました。
16:10
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