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2019-01-27 10:01

2019.01.27 【原一次政権 2001年オフ~2003年】②

原監督を振り返ってみました。喋りの出来は相当悪いんですが、自分に対しての戒めとしてUPさせてくださいませ。2019年01月27日② 【原一次政権 2001年オフ~2003年】.mp3
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続けていきましょう。原監督一次政権の初年度の話からいきましょう。
2001年のシーズン終了後、長嶋監督の後任としてヘッドコーチから処遇各し、原辰則監督としての就任が発表されました。
この2001年の長嶋監督のシーズンは、75勝63敗、2つの引き分け勝率は5割4分3人という成績になっています。
長嶋監督は長年監督を務めたということもあるし、優勝もできなかったという責任も取ってという意味合いもあっての退任だったはずですね。
原監督の誕生になりました。
原辰則は選手の時の引退試合で東京ドームで引退試合が行われましたが、
そこでマウンドの側にスタンドマイクを立てて引退前の挨拶がありましたが、
そこのセリフであった、「夢の続きが僕にはあります。」というセリフがありましたが、
いよいよ原監督の、原辰則の監督としての新しい夢の続きが始まるというようなことになりました。
原監督1年目のコーチ人事としては、
昨年2018年までゼネラルマネージャーを務めた加取義隆を2002年のヘッドコーチに迎えております。
あるいは篠塚だったりが総合コーチとして入っていますね。
戦力補強を見てみますと、外国人ではワズディン・クレスポという選手をとっています。
クレスポなんかは一軍で見た記憶がありますね。
あるいはFA、トレード等々で見てみますと、
中日ドラゴンズから前田幸永、竹田和弘という、もともとパリー軍にいた選手でね、実績のある人をとっています。
ドラフトを見てみますと、ドラフト一時、佐奈田、
それからちょっと前までベイスターズでも活躍した林なんていう選手もね、
獲得したのがこの年のドラフトでした。2001年ドラフトだったんですね。
原監督はよく配置転換やコンバートをね、好んでやる監督です。
この年行ったのは河原淳一を押さえに転校させました。
あるいはシーズン通じて一番、レフト柿水というのがはまったシーズンになりました。
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こんなシーズン、開幕オーダーに目を移しますと、
一番に、レフトで二岡が入ってますね。
二番、セカンド、西、三番、ライト、吉野部、四番、センター、松井、
五番、ファースト、清原、六番、サード、江藤、七番、キャッチャー、阿部、
八番、ショート、本木、九番、ピッチャー、上原というような開幕オーダーになってます。
総括としましては、開幕7連勝で飛び出した阪神を追う形で始まりましたけれども、
6月にその阪神を捉えて、最後まで周囲を守り通しました。
前年のチーム防御率のリーグ最下位、これが改善されたのが要因じゃないかな、
なんていう風にウィキペディアには書いてありました。
この年の投手コーチは斉藤優樹です。
この年のチーム防御率は3.04という素晴らしい防御率に改善することができました。
星取り表を見ますと、86勝52敗、2つの引き分け、勝率が6割2分3輪でセリーグのペダント1位を獲得しました。
この年はまだクライマックスシリーズがなくて、日本シリーズにそのまま進出が決まりまして、
対西部に対して4勝0敗で日本一に輝きましたというようなシーズンになりました。
主な投手の成績に目を向けていきますと、上原が17勝5敗、
熊畑が12勝6敗、ひさのりが10勝4敗、
上原は5勝3敗に18セーブを上げています。
工藤も9勝8敗と活躍しました。
主な打者の成績に目を向けてみますと、
松井が3割3分4輪50本、吉野部が3割6輪17本、
三岡が2割8分1輪24本、阿部が2割9分8輪18本、
清水が3割1分4輪14本、西が2割4分4輪8本というような成績になっています。
この2002年のシーズン終了後、松井秀樹がメジャーリーグに旅立ちますというような、
2002年の監督1年目のシーズンになっています。
続きまして2003年の方に目を向けてみます。
ニューヨークヤンキースに旅立った大黒柱の松井秀樹を不在で始まったシーズンになりました。
この年のコーチ人事としては岸川勝也、これはもともと大Aとかで活躍した選手で、
FAで強靭に来たのかなという岸川さんが打撃コーチに就任しております。
戦力とピックスに目を向けてみますと、
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新外国人としてはレイ・サム・サンタナ・ベイリーという選手をとっています。
レイ・サムは最初見たような気がするけど、サンタナ・ベイリーはほとんど覚えていないですね。
異籍組でも外国人を獲得しております。
大Aからペトラザ、ヤクルトからペタジーニという選手を獲得しています。
この年のドラフトは、ドラフト1が木狸、ドラフト2が久保という即戦力のピッチャーを獲得することができました。
2003年の開幕オーダーに目を向けますと、
1番レフト清水、2番ショート三岡、3番ファースト斉藤信之、4番センター高橋義信、5番ライトペタジーニ、6番サード本木、7番キャッチャー安倍、8番セカンド西、9番ピッチャー上原というような開幕オーダーでスタートしました。
この年の総括を見てみますと、阪神、海神撃、巨人はチーム防御率が昨年の3.04から4.43と1点以上悪化します。
当主人が崩壊してしまいます。
この年チームは3位になってしまいまして、原田つのりとしては球団代表の三山さんと各室がありましたね。
原監督が読売グループでの人事堂という名目で辞任ということに退任ということになりました。
翌年からは芥太郎と言われる堀内拓也が新監督に就任することになりました。
青天の壁できたというような言葉も堀内さんに言ってられました。
このシーズンは71勝66敗、3つの引き分け、勝率5割一部8-3という成績になりまして、
首位阪神とは15.5ゲームの差をつけられてのぶっちぎりで阪神に逃げられたというようなシーズンになりました。
この年の主な当主の成績に目を向けてみますと、
上原が16勝5敗、木狸が10勝7敗、川原が昨年のストッパーは成功したのにこの年は0勝3敗7セーブ9.41と大きく失敗してしまいましたね。
それから主な出者の成績を見てみましょう。
吉野部、高橋吉野部3割2部3-0ホムラン26本、新岡3割ジャストホムラン29本、清原が2割9部の26本、
それから先ほどの開幕で3番ファーストで出た斉藤、これがこの年キャリア敗でした。
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2割8部9-0に11本という好成績を収めてみせましたね。
この斉藤がしばらく一軍で活躍してくれたらよかったと思うんですけども、ここから下降戦をたどっていくというようなことになります。
ということで原監督の一時政権は2年で終焉を迎えることになってしまいます。
平成の明監督と原監督は後に言われるんですけれども、これは二次政権以降の話になってくるんじゃないかなというふうに思っています。
ということで原立則監督の一時政権を振り返ってみました。
2年間振り返って10分喋ってるんですね。
二次政権の話は次のファイルでしてみましょう。
はい、ということで一旦切りますね。
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