新たな気づき:役からの解放と他者の価値
26年3月6日の夜です。
今思ったことをちょっとメモしておこうと思って話します。
思ったこと、感じた、気づいたことで、
なんか、昨日、今日と過ごす中で、
具体の話されていたこととか議論とか、
そういうものと別のところで、私の中に起きたなっていうことがあって、
たくさんあるけど、一つ結構今象徴的、なんか大きいなと思っているのが、
なんか役から降りれる、降りれそう、降りることがなんかこう、
上手になれそうだなっていうことで、そしてもう一つは、他者の存在がやっぱりありがてえということ。
で、えーと、3つ目なのかな。で、3つ目は、なんかそれら含めて、
なんかやっぱりこの数年私が結構意識的にちょっと陰境的に過ごしていて、
でもその静かに過ごす中で、ゆっくりじっくり腹を据えるっていうことを、
一人で地味にコツコツなんかやっていたような時間を過ごしたからこそ、
なんか今こう、今再び社会性だとかに再接続され始めてるみたいな流れが来る中で、
やっぱり一個一個が、何が来ても各変みたいな感じになってるなっていうことを思いましたと。
「ババアでいい」という解放感
で、1個目の役を降りれるだったっけ。
そうそう、役を降りれるってことについては、
昨夜話をしていて全然そういう内容の話を直接的な話題ではなかったけれども、
ある時、私以外の人が話している若い男の子との会話とかっていうのを何ときなしに眺めている、
その場に一緒にいることによって、もうババアでいいやって思えた。
それは何かっていうと、もう私は彼ら若い世代ではない。
若い世代に譲っていくんだっていう年代だっていうことの改めてご自覚と、
まあそうしてもいいんだみたいな、なんか許し的な。
言葉にすると、そういった感情が混ざったような感覚がふわっとあった。
それは緩みみたいなものでもあって。
ああ、もう私じゃなくていいんだって。
いや、もう私ババアだって。
ババアはもう道譲んなきゃみたいな。
ババアは若い子に譲って、
美しきやっぱりババアは若い子に譲って若い子の世話をするんだみたいな。
そういう良きババア性みたいなものへの扉が緩むような、ノックされたみたいな。
ババアですよ、もうトントントンみたいな。
いいババアになりましょう、トントントンみたいな。
なんかそういう感じがあったと。
議論における居心地の悪さと身体への意識
プラス、まだ役を入れるっていう部分で言うと、
今日の夕方の、午後に参加していた議論の中で、
ちょっとコンディションがあんまり良くなかった。
朝からずっと頭が痛くて。
もうちょっと薬飲みそびれて、うーっていう感じもあるにはあったけれども、
結構居心地の悪さっていうのがあって。
それは何かというと、その時の感情の近いもので言うと置いてけぼり感というか、
この話は私いる?みたいな。
まあ多分あるあるだけど、なんで私これ呼ばれたん?
この話は私いる?いらんくない?
そう、なぜかというと、別に主役でもないし、その時の議論のスポットも当たらない。
ちやほやされるわけでもない。
議論に積極的に参加。
それまで私があんまり参加していなかったような文脈の話に、
結構急にジョインしたみたいな感じもあって。
それまでの経緯の、いや入れてもらってない。
これまでの話は私入れてもらってもないし、みたいなのも多分どこかにあって。
みたいな、ちょっとこじらせすね系な入り口みたいなものが、
落とし穴的なものが随所に空いていて、その中で過ごす時間みたいな。
で、とはいえ、そういう気持ちだなってことも、
今思い返してみてもずっと自覚があったので、
都度都度も、なんか分かんないけど、そういう気持ちもあるけど、
とりあえずできることは、分からんが体に良いよか、みたいな感じ。
気づいた時には、議論に無理に入っていく、ついていこうとするってこととか、
別に不満をあらわにしてもどうしてもないし、
とりあえず体に修練しとくでもないけど、
とにかく分かんないけど、議論見守りつつ、
私ができることと言えば、体により意識を根付かせている、みたいなことを繰り返し、
それをしている間、体により良いよ、というふうに自覚的に思っている時っていうのは、
感情的な痛みみたいなものっていうのは、柔らぐっていうことも分かった。
なぜなら、体は別に関係ないから。
体に根付いている分には、体の方っていうのは別に、
さっき言ったようなあれやこれやの名誉の部分だったりとか、
議論に置いてかれているような気持ちみたいなものとかも関係ないっていうのもあるし。
っていうのをその時には、やっぱり体にいるとこの感情的痛みっていうものが柔らぐな方法みたいなのも思いつつ、
ニコニコ座っていて、
帰る途中だったりとか、家に帰ってからふとした時に、
役割への執着からの解放と「線でいい」という受容
やっぱりそのあり方は良かったんだろうかみたいなことをまたちょっと思考がささやいたりしたんだけど、
他のこととかをして、
今日の出会った人へメッセージしたりとか、
いろいろ台所のこととかを少ししたりして、
ふと思った時に今、
なんかいやいやと、議論の中で役割がなかった、議論に入れなかった。
そもそもその今行われている議論とかそのプロジェクトの中に自分の居場所はないんじゃないかという気がしている。
多分ないと思う。
それがあってもなくても、
いや良くない?みたいな。
なんか、何?そんな何役割を持とうとしてたんだろう?みたいな。
なんかすごく、
それってやっぱりかつて私がとってもしんどい時の、
思考の癖?思考のパターンのひとつでもやっぱりあって、
それは私に限らず、
そういう現代社会の中でそういう声が響いている人は多分私だけじゃなくておられると思うけど、
なんかすごくその集団の中とかコミュニティの中とかですごく意味あることをなさなきゃとか、
なんかやっぱり一角の人物であるという、
あらなければならない、または一角の人物であるということを認めさせなければいけないとか、
認めてもらわなければいけない意味のあることをしている人だってみたいな。
あ、あれだ、みたいな。
あれが渦巻いとったな、今日のあの時間。
私の多分こう思考の中で。
っていうことをもう思って、
いやいやいや、線でよくないっていうふうに思った。
線でよくないって思ったときに、あ、そういう声響いてたんだって思えたっていう部分もある。
なんかそのやっぱり役目を持たずにその場にいちゃいけないみたいに思ってたんだなーみたいな。
いやいや役目なくその場に存在するってええやんみたいな。
ええですやん。
なんか最高じゃんみたいな。何が最高かわかんないけど。
意味なく役目なく存在している、ただ存在しているみたいなの面白いじゃんみたいな。
だって意味もないのに自分その話とか議論とかプロジェクトとかにも特に参加しないかもしれないけど、
ただその場にいるみたいな。
なんかよくわかんないのにいいねみたいに思えたと。
で、つまりその場場でよくないっていう機能の緩みっていうことも含めて、
その場場でよくないっていうのはもうなんか自分その若いね、頑張ってるね、やってるねみたいな、
世代じゃないよみたいな年代じゃないよっていうそこから降りてもよくないっていうことでもあるし、
で、今日もその役目なくてもよくないみたいなのもそれに近いと思っていて、
意味あることをなさなきゃ私がみたいな、この役割持たなきゃみたいな、
なんかそういうものから軽やかに降りる、降りたい時には降りることができるかもしれないみたいな。
別にその役割とか意味とかっていうのもあってもいいし、なくてもいいっていう。
なんかそこに軽やかに持ったり降りたりができるって心地いいなみたいな。
他者の存在とヒーリングポイント
で、それが今日の現場では、当時はすごく居心地の悪さみたいなことを感じる時間だったけども、
それを経ってふと、降りれるっていうことに気が付いたっていう部分が1個目の役から降りれる。
それも今話しながら思ったのは、やっぱりその当時の時間でに、
なんかその居心地の悪さみたいなものを自覚しながら、
体にいるっていうことを選択したっていうことも結構作用してるのかもなっていうふうに思う。
で、2個目、他者の存在っていうのは、
そういうババア性にしろ、ロールを降りる、なんか役目や意味性から降りることを選択できるみたいなのも、
結局この2日ですごくその他者の中にいたからこそ気づけた。
気づいた時っていうのは、はっきり言って不快な時に、不快があった、不愉快という意味での不快が、
その瞬間の不快さの中に、やっぱりもっと楽になれる、もっと息がしやすくなるっていうポイントがあるって気づける。
なんかそれは、かつて教えてもらった、なんかそのヒーリングとはみたいな話で、
私にその話をしてくれた人の中でのヒーリングの定義っていうものは、終わらないと。
それは続いていくものであると。
ヒーリングっていうのは姿勢でみたいな、それは癒し続けるじゃないけれど、
癒しっていうのはただ単に癒されましたっていうよりかは、もっと楽になれるみたいな、
なんかもうちょっとパワフルなニュアンスで、ただマイナスがゼロになってよかったみたいなっていうよりかは、
でもゼロになるっていうのはすごくパワフルではあるんだけど、ゼロっていうものはパワフルな気はするんだけど、
全ていつかオールクリアになることを目指すものではなくて、
ただなんか自分がその都度心地よさを選択していく、もっと楽になるっていうことを選択し続ける心の姿勢みたいなものだよっていう風に教えてもらったのとも似てるなと思って、
不快なところにこそヒーリングポイントがあると。
ヒーリングポイントっていうものはそこに気づくことによってより楽になることを選択することができる可能性。
だから不快さは歓迎していい、不快さの中にこそやっぱりあれがあると。
あれがヒーリングポイントであり、より身軽になる、より楽になる鍵というか、
そういったものが不快感の中に気づくことができるみたいな。
それはずっとブリーワーク、体極?機構をベースにしたブリーワークを教えてくれてる人がずっと言ってくれてたことでもあって、
それを改めて思った。
陰境から社会への再接続と自己受容の深化
なおかつそれはすごく他者の存在っていうのがポイントだなと思って、
3つ目とも関連していくんだけど、やっぱり一人でいては気づけない。
一人で例えば家で修行します、瞑想し続けますみたいなことでは気づけない。
心は穏やかで乱されないかもしれないけれども、
ヒーリングポイントも多分そんな分からない。
なぜなら不快になることが少ないから。
ヒーリングをしないといけないというわけでもないから、
ビッグな癒しみたいなものが絶対にないといけないというわけでもないから、
別にそこはいいんだけど、家で一人でコツコツやりますっていうのは。
なんとなく3つ目の部分にもつながっていくけど、
各変、なんでも各変になるみたいな。
不快さの中に自分がもっと自由になれる鍵があるよみたいな話は聞いてきたし、
聞いてきたと、私すでにこれまでも聞いてましたと。
ふんふんってその時思ったし、なるほどなって確かになって思っていた。
けれど、さらに今日起きた、さらになるほどって素直に思えたのが今日で、
それはやっぱりこの数年間、
なんか私が結構、これでどうもいいな、これでいいんだって思えた時期っていうのは、
結構はっきりターニングポイントと言える時期っていうのは25年の3月とか4月ぐらいだなって思っていて、
たぶんそれよりも前からじわじわ、私どっしりなってたけど、
ああ、これでいいんだってふうに開き直れたのが25年の3月4月ぐらいにじわじわあったかなと思っていて、
で、それまでのたぶん数年、2,3年とか、2,3年?2,3年?2年、それまでの2年とか、
結構意識的に陰虚モードだったと思ったよね、自分自身の生き方っての。
一回なんか、ほんと攻めリタイアじゃないけど、仕事はしてるけどすごくセーブしてたりとか、
対人関係っていうのも結構セーブしている。仕事のペースだったりとか、量だったりとかっていうのもすごくセーブしていった数年間で、
やっぱりその時期私は何してたかっていうと、すごく身体に根付くっていうことをより真剣にやっていこうみたいな、
気給したいみたいな部分があって、その時に一回ちょっと社会的な活動とかっていうのをセーブしてもいいかなと思ってセーブしていった。
つまり結構穏やかで、不快感とかをちょっと減らす方向の暮らし方をしていたけれども、
でも一旦そこで結構楽になれたみたいな、自分がある一定のレベルに来ましたとかじゃなくて、
そういうよりも言葉としては楽になれたっていう言葉の方が近くて、
それが25年の3月4月ぐらいを皮切りにじわじわ寄りねずいてきているみたいな、今もっていう状態になった時に、
他者との関わりによるさらなる成長
やっぱりその25年の春先ぐらいから、それまでと違う流れみたいなものが運ばれてくるような、ご縁がどんどん紡がれていくみたいな感じがあって、
それで私はラリトプールにも再び出会って、その中でアート合宿のことを教えてもらって、秋に9月にもアート合宿に参加して、
その後すぐにグループ展にも参加させてもらって、思いがけずそこで今度は自分が地元でアートリトリートをやるっていうことを本当に出会いに導かれて、
流れが変わってみたいなことが起きていく。それって本当に私は社会と再接続していっているみたいな感じがあって、
それらの一つ一つのご縁で流れが変わって繋がっていったみたいな中身とかをとっても、私自身がちょっと楽になり始めたからこそ出会えた部分もあるし、
楽になれた自分だからこそその場で大変できたことっていうのもすごくあったなって思っていて、だからもしかしたらこの直近の不快感からまた楽になれるっていうことにも、
今自覚的に慣れてるんだけど、楽になったなって、もしかしたら言葉を変えると腹が座ったとか、より体に根付いたとか、身体感覚が目覚めたみたいな仮に状態だとして、
あるいはモードに入った、その感覚が掴めた、何でもいいや、何でもいいけど、楽になったなモードに入るとあらゆることが過程になるとか、
あらゆることが鍵となって自分を楽にしていくような、ここで言う自分とは子がだったりとか個人格みたいなものが、
すでにふにゃふにゃの素地ができ始めているので、さらにふにゃふにゃになって、柔軟性とか寛容性が増して楽になる。
どんな出来事があってもふにゃふにゃと受け止め、受け流し、さらにふにゃふにゃなもんだからカチカチポイントもよりわかる。ここまだ凝ってるなっていうのもわかる。
全体がふにゃふにゃしていることによって。ここ凝ってるなっていうポイントに気付くときに、やっぱり他者の存在だったりとか、身の回りの出来事みたいなことがやっぱり鏡となって教えてくれるなって思った。
そういうことがこの2日起きたのかなって思っていて、より自分の体の側に立つとか、身体感覚的に楽になったっていうことのゾーンに入ると、やっぱりそれだけでもないんだなっていうことでもあると思う。
その瞑想したり、呼吸法したり、あるいはボディーワークとかを通じて、体に根付いて楽に、例えば社会思考とか論理とか社会性のがんで、とてもちょっとある種、作能に寄りすぎてバランスが傾きすぎてアップアップしてるって、何か言われのない不安がの方に引っ張られてみたいなところから、
身体の方の楽さに気づきました。良かったね。で、多分終わらないんだなと思っていて、その一人の身体の中で、一人の意識の中、広報人の意識の中でそれが起きたら、それでオールクリアじゃなくて、
やっぱりそれは一種の、今日、昨日今日で覚えた言葉で言うと構え、というものが変わることによって、その後また受け止め方、いろんな他者や状況や環境からの情報の受け止め方も変わるし、
というか、今度はそれが必要になるのかなっていうものでもあると思う。個人が個人のある種の自助努力によって楽になった後は、そういう他者や環境を鏡にする、他者や環境の助けを借りながら、さらに楽になっていく、懲りをほぐしていく、
そういうことが今度は必要になってくる、あるいは起きてくるみたいな、いうことでもあるのかなっていうふうに思った。
というのをすごくありがたい機会だった。
しなやかっていう言葉もすごく使われていて、しなやかな器にさらになっていくために、自分の懲りを見つけることにも、やっぱり他者の存在っていうのはすごくありがたい。
私の存在っていうものはそういう意味もあるのかもしれないっていうことでもあるのかなと思ったです。