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091.【普仏戦争】皇帝の失脚、息子の従軍、故郷の喪失――科学者が10か月で失ったすべて『ルイ・パスツール07』
2026-09-07 27:43

091.【普仏戦争】皇帝の失脚、息子の従軍、故郷の喪失――科学者が10か月で失ったすべて『ルイ・パスツール07』

前回、5年越しでカイコの病気と格闘し、フランスの養蚕業を救ったパスツール。皇帝ナポレオン3世は終身上院議員の勅令に署名までしましたが、それが公表されることは二度とありませんでした。わずか数日後、フランスとプロイセンの間に「普仏戦争」の火蓋が切られたからです。

18歳の一人息子ジャン=バティストは、東部方面軍に志願入隊。47歳・半身不随の父パスツールにできることは、戦況をただ聞くことだけでした。戦況はやがてフランスにとって悲惨なものとなり、セダンの戦いで皇帝ナポレオン3世は捕虜に。パスツールを終身上院議員に任命したはずの帝国は、わずか数日で崩壊してしまいます。

戦火はパスツール個人にも牙を剥きます。名誉あるドイツ・ボン大学の博士号はみずから送り返し、化学者として、そして一人の夫として歩み始めた思い出の地ストラスブールは、講和条約により異国の領土となってしまいました。

そして極めつけは、行方の分からない息子を探して、雪の中を最後の一台の馬車で走らせた家族の物語。栄光の絶頂にいたはずのパスツールは、わずか10か月ですべてを失ってしまったかのようでした。

【今回のハイライト】
・皇帝が用意した「終身上院議員」の勅令、ついに公表されなかった理由
・18歳の息子は従軍、47歳・半身不随の父にできた”たったひとつのこと”
・セダンの戦いと帝国崩壊――一夜で消えた皇帝の地位
・ドイツの名誉博士号を送り返した男
・吹雪の中、最後の馬車で敗走する息子を探しに
・ドイツへ復讐したいパスツールが、次にとった意外な一手とは

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サマリー

普仏戦争により、パスツールの人生は激変しました。皇帝ナポレオン3世からの終身上院議員の任命は公表されず、18歳の息子は従軍。セダンの戦いで皇帝は捕虜となり帝国は崩壊。パスツールはドイツのボン大学から贈られた名誉博士号を返送し、思い出の地ストラスブールはドイツ領となりました。息子を探して雪の中を駆け巡るなど、わずか10か月で多くを失いましたが、パスツールはドイツへの復讐としてビール醸造の研究に着手し、低温殺菌法を応用しました。

普仏戦争勃発とパスツールの家族
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
プレゼンターのあきです。
アシスタントのとみーです。
この番組では、生命科学における画期的なブレイクスルーを成し遂げた、偉大な研究者たちの人生と、その背後にあるドラマをお届けします。
はい。前回ですね、パスツールは5年越しで、カイコの病気とその解明ですね、格闘してきましたよっていうお話をさせていただきましたが、
ちょっとですね、その後起こったですね、不服戦争の話の前に、それがどれぐらいインパクトがあることだったのかっていうのをちょっと説明させていただきたいと思います。
1870年の夏ですね、皇帝から勧められて、ビラビチェンティーナですね。
反省不随になりながら、その療養を兼ねてカイコの研究をここで続けたらどうだというふうに勧められまして、ここに行って、
飼育実験を続けるということをいたします。
この時ですね、あれからですね、カイコの卵をですね、およそ2.5から3キロぐらいですね、運びまして、カイコの飼育をこの年開始いたします。
最終的にですね、マユにしておよそ3トンの収穫を達成したというふうに記録されております。
この売上規模がですね、22,000フランで、ざっくり今の金額に直すと1億円ぐらいの総売上が出たみたいですね。
この時期のですね、この時代のヨーロッパの養産業なんですけれども、
最盛期から見ると3割ぐらいしかカイコがマユが取れないというような状態だったんですけれども、
こちらの研究所ではですね、これだけの売上を上げたという形で、病気もほぼ打ち勝つ飼育方法を提示することができたという形で、
フランスのみならずですね、ヨーロッパのカイコ産業はですね、このやり方を踏襲することによって復活への道が出てきたというふうになりました。
フランスの皇帝ナポレオン三世なんですけれども、これ非常に喜びまして、この功績に報いようということでですね、
パスツールを衆心上院議員に任命するという直例にですね、1870年の7月27日付で署名をいたします。
ただですね、この直例が公表されることはありませんでしたということなんですけれども、
このパスツールを支えてきてくれたナポレオン三世もですね、
あとフランス帝国そのものがですね、このタイミングで崩れ始めるということになったからなんですね。
というところで不服戦争の話に入っていきたいと思います。
パスツールがですね、ここのヴィラビチェンティーナをですね、引き上げてフランスのパリに戻ったのがですね、1870年7月6日のことになります。
ちなみにですね、ヴィラビチェンティーナっていうのはですね、現在のイタリアにある、このナポレオン三世が持ってた保養所みたいな感じですね。
当時そこにとりあえず行ってきたらというふうに言われたという形で、フランスではなくて、現在であればイタリアにある場所になります。
そこからパリに戻りましたよという、その2週間後をですね、事態が急変するということになります。
1970年の7月19日ですね、フランスはプロイセンに戦線布告をいたします。
これがですね、不服戦争の始まりになります。
普通の布、これはプロイセンですね、ドイツの元になった国というような場所になります。
仏がですね、仏でフランスのことで、プロイセンとフランスの戦争が始まったよということなんですけれども、
プロイセンはですね、当時のドイツの諸国の中で、ドイツって結構いろいろな小さな殿様たちが治めているようなですね、
軍輸閣挙の状態だったんですね。その中で一番大きな強力な国だったという形で、
プロイセンの思惑としては、フランスを挑発して戦争をしてですね、その余波というか、
その力を使って周りの国々をまとめ上げて、戦後にはドイツを統一しよう、
ドイツ帝国を作ろうというような、そういった狙いもあったみたいですね。
フランスはそれに乗っかってしまって、挑発に乗ってしまって、戦争を始めてしまうということになります。
フランスはですね、プロイセンなど一撃で片付くという形で、楽観論を持っておりまして、この戦争に挑んだということになります。
パスツールもですね、この戦争、パスツールというかパスツール一家ですね、もうこの戦争と無縁でいられませんでした。
当時18歳だった一人息子のジャン・バティストがですね、東部方面軍の方に志願入隊いたします。
解雇の転居の間ですね、家族に次々と悲劇が襲いかかりまして、娘さん2人ですね、トータル3人亡くされてますけれども、
今度はですね、我が子ですね、長男を戦争に送り込むというようなことになります。
パスツール自身はですね、この時47歳でですね、2年前に脳梗塞で倒れてまして、
左半身に麻痺が残ったままの体というような形ですので、とてもですね、戦争に立てるということはなかったんですけれども、
科学者としてですね、そして父親としてですね、息子を送り出すと、それからですね、各地から届く選挙の知らせをただ聞くというようなことしかできなかったということなんですけれども、
戦争下の研究と妻の支え
それでもですね、研究への情熱は止まらずにですね、頭の中でいろいろな研究を計画して、
それから文章をずっと発表するということをしてたそうで、それはですね、妻のマリーが引き受けて支えてくれたそうです。
右手がですね、思うように動かせないパスツールに代わってですね、マリーは口術筆記を引き受けてですね、
実験記録の整理も手伝ってくれたということで、後にですね、弟子のエミル・ルーがですね、
彼女のことをパスツールの最良の協力者というふうに評価しております。
戦争という非常時にですね、この夫婦は二人三脚で仲良くですね、仕事を続けていくということをしてたそうです。
セダンの戦いと帝国の崩壊
で、フランス国内のですね、楽観論とは裏腹になんですけれども、選挙はフランスにとってどんどん悲惨なものになっていきます。
1870年の9月1日ですね、フランス軍は北東部のですね、町セダンで壊滅的な敗北を期します。
でですね、この戦いですね、9月2日にはですね、皇帝ナポレオン三世自身がですね、捕虜となってしまうと。
皇帝ナポレオン三世自身が戦場に出てたんですね。
で、捕虜になっちゃうということになります。
ちなみに皇后がですね、ナポレオンに対してですね、あんた前線に行きなさいって言ってたみたいですね。
で、ここで死んでくれたらですね、息子がその後継ぎにできると。
なるほど。
っていうようなですね、そんな思惑もどうもあったんじゃないかというふうに言われてます。
で、息子に後継ぎにさせてフランス中をまとめあげたいと。
そのためには人柱となってくれナポレオン三世よ、夫よというようなそんな気持ちがあったっていうふうに言われてますね。
で、ナポレオン三世自身はですね、実際その突撃して死ぬようなそんなことはせずにですね、
あっさりと白旗を挙げて捕虜となるというような形で皇后の思惑は外れちゃいます。
こんな感じでですね、パッスールの強力な後ろ盾となってくれたナポレオン三世が捕まってしまったということで、
この知らせがですね、パリに届きますと、
軍衆がですね、議事堂に流れ込んでですね、
第二帝政の崩壊と再度の共和制の樹立が宣言されるということになります。
そしてですね、パッスールを衆心上院議員に任命してたはずの帝国もこうして消滅してしまったということになります。
ということでですね、これ民衆からするとですね、皇帝が捕まっちゃったら終戦だよねということではなくて、
王が捕まっても、頭がなくなってもですね、別の頭を作ればいいじゃんと、
そしたらプロイセンにまだまだ対抗できるよねというようなところがあったのかなというふうに思います。
で、パッスール自身はですね、非常に皇帝に幸遇された人物なんですけれども、
一方でですね、共和制を支持するというような、
若い時にはですね、共和制を支持してですね、全財産を寄付するというようなこともしてましたので、
そういった側面もあったのかなというところで、
皇帝に親近感を感じながらも共和制を強く支持するというような、
ちょっと複雑な心持ちだったのかなと思いますので、
この状況をどういうふうに見てたのかなと、ちょっと僕としては気になるところにはなります。
パリ包囲とボン大学博士号返送
戦争はですね、このような形で皇帝が捕まってもですね、
フランス自体はまだ負けてないという形で抵抗してますので、
プロイセン軍はですね、パリを包囲するということになります。
やがてパリが攻撃対象ですね、砲撃が始まるという形で、
市民たちはですね、雨と寒さの中で身を寄せ合うようにして、
冬を過ごすことになってしまいます。
砲弾がですね、狙った氷鉄の一つ、これ狙ったのかどうかちょっとあれですけれども、
パリの自然史博物館が砲撃されてしまうというような悲劇が起こりました。
フランス科学のですね、栄光を象徴するこの場所への砲撃というのはですね、
パッスルにとってはとても見過ごせない一撃だったようです。
彼はですね、開古の研究の功績が認められて、
ドイツのボン大学からですね、1868年に名誉医学博士号が贈られてたんですね。
ところが、自国の科学の象徴が砲弾にさらされたということを知ってですね、
ボン大学の医学部長宛てにですね、博士号を送り返すということをいたします。
これが抗議のですね、博士号を送り返すというような形ですね。
お前のところの国からもらったような博士号なんかいるかというような感じで送り返したということになります。
ボン大学の医学部長からはですね、ちょっと記録には残ってないんですけれども、
非常に不愉快な、ブレに満ちたバリズ黄金の手紙が送り返されてきたそうです。
故郷アルボアでの悲劇と息子捜索
戦況がですね、どんどん悪化するにつれてですね、
パッスル一家はですね、安全な場所を求めてですね、移動を余儀なくされます。
身を寄せたのがですね、パッスルの故郷のアルボアでした。
このアルボアなんですけれども、ここもですね、戦場になってしまいます。
プロ衛戦軍に追い詰められたですね、フランス東部方面軍がですね、
配送していく中で、ここのアルボアも戦場となってしまったという形ですね。
ちなみにこの東部方面軍は長男が所属している軍隊になります。
1871年の1月24日ですね、パッスルはですね、
妻と娘のマリー・ルイーズと一緒にですね、
町に残ってた最後の1台っていう馬車に乗り込んでですね、
雪の中をですね、走り回ります。
これはですね、目的はですね、配送する部隊のどこかにいるはずの息子を、
ジャン・バティストをですね、探し出すためだったそうなんですね。
1月25日にですね、一家がアルボアを離れた、
まさにそのすぐ次の日ですね、プロ衛戦兵たちが町に押し入りまして、
それで住民に手をつけるというような事件も起きまして、
もしかしたらですね、パッスルもここでやられてたかもしれないということで、
本当に1日前に感激を塗って脱出して、息子を探し回るということになります。
でですね、雪でほとんど通れなくなったような道を無理くりですね、
馬車を壊しながらですね、進むこと数日、1月27日にですね、
一家はですね、一人の兵士を見つけ出しまして、
それが息子だったと、ジャン・バティストが見つかりましたという形で、
これでですね、一家揃ってですね、
今度はスイス国境を越えてですね、それで武装解除をして、
パッスルはスイスのジュネーブへ、うまいこと逃れることができたという形になります。
敗戦とアルザス・ロレーヌ割譲
この息子なんですけれども、その後ですね、またフランスに戻って部隊に復帰したそうです。
1871年の1月ですね、フランスは九戦協定を結んで敗北を認めるということになります。
同年の5月10日にですね、フランクフルト条約が結ばれまして、
フランスはですね、多額の賠償金とともにアルザス・ローレンヌ地方をドイツに割譲することになるという形になります。
ここの恨みがずっとあって、ドイツとガチガチガチガチその後やっていって、
第一次第二次世界大戦になっていくのかなっていうような気がしますね。
ずっとこんな感じで戦って勝ったり負けたりしてたんでしょうね。
陸続きで隣同士で。
このですね、アルザス・ローレンヌ地方がですね、ドイツに行ってしまったっていうのはですね、
パッスルにとっては非常に屈辱的なことでした。
というのがですね、アルザスの中心都市のストラスブールはですね、
彼が科学の女教授として最初に教団に立った場所になりまして、
それからですね、学長の娘マリーと出会い、
頑張ってですね、一生懸命くどいて結婚したというですね、
その思い出の土地だったんですね。
なので、自分が科学者として歩み始めた場所っていうのが
ドイツ寮になってしまうというのが非常に悔しかったみたいですね。
こんな感じでですね、戦争は終わりましたよということになります。
ナポレオン3世の最期とフランスの共和制
フランスは負けて、皇帝は捕虜になり、
賠償金を支払って、アルザス、ロレーヌ地方も失うということですね。
ナポレオン三世はまだ生きてる?
ナポレオン三世は生きてて、最終的にはイギリス、ロンドンに行きまして、
亡命したのかな。
それでですね、奥さんと息子、皇后と息子とも再会することができて、
その後ですね、また何とかフランス政治に関わって皇帝に返り裂こうとか
というような動きをするんですけど、結局それも叶わずにですね、
亡くなることになります。
フランス自体は共和制?
そうですね、共和制で、結局そのままずっと今の第三共和制が続いているのが
今のフランスにつながっているということになります。
じゃあ、王政共和制みたいなガチャガチャ。
王政共和制、それから帝政。
ガチャガチャしてたのは?
ここが最後になります。
終わったんだ。
はい、終わりました。
というところで、フランス近代史も触れられたのかなというところになります。
功績への年金とドイツへの復讐心
このパッスールが生きた時代ですね。
お父さんの時代からパッスールの時代、生きた時代っていうのが
フランスが激動の時だったのかなという感じですね。
1874年の3月28日ですね、パッスールにとってちょっと嬉しいことが起こります。
国民議会がですね、介護の病気に関してのパッスールの功績ですね、
フランスの洋産業にもたらした経済的な功績っていうのを認めてですね、
年に1万2千フランの就寝年金を送りますよという法律を可決します。
この年金は後にですね、さらに2万5千フランへと増額されることになります。
皇帝が用意してくれるはずだったですね、就寝上院議員の地位っていうのはですね、
訂正もろとも消えてしまったんですけれども、
共和制となったですね、新しい国がパッスールの功績を忘れてはなかったよということですね。
ただ、これはですね、ただただこの栄誉を受けれるっていうわけではなくてですね、
パッスール自身もですね、結構いろいろと働きかけをして、
私は半信不遂だけども、こんだけ国に貢献したでしょう。
で、なかなか働くのも辛いから、
就寝年金をくれよっていうのをですね、いろいろと働きかけしたみたいでですね。
医学者出身のですね、国会議員のポールベールっていう方が、
裏で一生懸命、この法律を通すために頑張ってくれたみたいですね。
で、こういった形でですね、フランスはだいぶいろんなものを失ってしまったんですけれども、
パッスールはですね、ドイツに何か一心報いたいというふうに考えたんですね。
それでですね、向かった先っていうのがビールでした。
ビール醸造の研究と低温殺菌法
ドイツビール有名だったと思う、有名だし今も有名ですけれども、
ワインはフランスっていうような感じですけれども、
ですが、ビール産業をフランスで没効させて、
ドイツビール潰してやろうっていうふうに思ったんですね。
確かにそれができたら、すごい花を明かす感じがありますね。
彼がですね、ちょっと書き残しているものでですね、
ドイツに間違いなく凌駕されているこの産業分野で、
我が国に貢献したいというふうに、ちょっと書き残しております。
あとですね、もう一つはですね、
このアルザスを失ったっていうのもありまして、
このアルザス地方っていうのはですね、北部の産地だったんですね。
フランス有数のビール醸造地だったんですけれども、
これがドイツ寮になってしまったということで、
アルザスからですね、その時にフランス国籍になるのか、
ドイツ国籍になるのかっていうのを、
市民たちが選ぶことができたみたいなんですけれども、
フランス国籍を選んだ人たちは、
そこを故郷を捨ててですね、西に移住して、
パリなどでビール造りを再開したというふうに言われています。
なので、パスツールはですね、こういった人たちを
なんとか支えたいという思いもあったのかなというふうに思います。
1871年ですね、パスツールはクレルモンフェラン近郊のですね、
シャマリエールにあったですね、醸造所に足を運んで、
ビールの研究に着手をいたします。
手法はですね、カイコとかワインと同じくですね、
顕微鏡でビールの中身をとにかく観察してですね、
発酵に必要な酵母と、
あとビールを酸っぱくしてしまうですね、厄介な微生物と見分けるということで、
ビールのですね、製造効率を上げようということですね。
変な発酵というか、ビールが腐るような原因を取り除いていくということを
研究し始めます。
そしてですね、液体を一定の温度に加熱してから急速に冷やすということで、
風味を損なわずに雑菌だけを死滅するという方法にたどり着きます。
これはですね、彼がワインでですね、編み出した
加熱殺菌法をビールに応用したものですね。
低温殺菌法、パスチャライゼーションですね。
これをビールに応用したものということになります。
ビール保存法の特許とアメリカでの展開
同年の6月28日にパスチュラこのビール保存法について特許を出願しまして、
国内向けにはですね、このビールを国民の復讐のビールという風に名付け、
国外向けにはフランスのビールという風に呼ぶことにしたという風に
伝記には記されております。
とにかくですね、ドイツに敗れた屈辱をビールで晴らすという形で
この戦いが始まりました。
このやり方というのはですね、本にも書きまして、
フランス語で書かれた本ですので、英語なんかにも翻訳されたそうなんですけれども、
ドイツから翻訳話が来たみたいなんですけれども、
それはですね、絶対に受け入れないと、
ドイツ語にはさせないということでですね、
本当にドイツが憎かったんだなという風に思います。
ただですね、この製造法というのはですね、
結局のところそんなに広く受け入れられることはなくですね、
1873年にはこの特許を活用するための会社まで設立されるんですけれども、
パッセルが高安した装置とか手法はですね、
売れたりとかすることはほとんどなかったので、
フランス国内では大した成果が残せなかったようです。
加熱してですね、ビールを長持ちさせるというですね、
アイディアは後のですね、アメリカで花開くことになります。
バドワイザーで知られるですね、アンハイザー部首者がですね、
パスツールの研究をヒントに瓶詰めして、
ビールを低温殺菌するというアイディアを導入しまして、
遠距離輸送を可能にしてですね、急速成長を遂げていくということで、
バドワイザーの工場にはですね、
パスツールの銅像が置いてあったりとかするみたいですね。
ただ、この特許自体はもうおそらく切れてたでしょうし、
特にパスツールにお金が、生きてた時代の話ではないので、
お金が入るということもなかったということになります。
ということでですね、ちょっとまとめになりますけれども、
戦争による変化と次への展望
1870年のですね、7月の開戦から1871年5月の条約までですね、
わずか10ヶ月ほどの間にパスツールを取り巻くですね、
世界は一変します。
彼を支えてくれた皇帝は捕虜となってですね、
終身上院議員の地位はまぼろしに終わって、
大切な思い出の地位のですね、ストラスブールはですね、
異国の地、ドイツになってしまったということですね。
ボン大学の博士号は自らも送り返したという形で、
開古の研究で栄光の頂点にいたはずのパスツールはですね、
この戦争の影響によって一瞬ですね、
全て失ったかのような形になりましたけれども、
ビルでちょっと一心報いてですね、
次の研究へと向かっていくということですけれども、
開古とかワインとかビールの研究で磨き分けた
微生物を見分けて、それからコントロールするというですね、
彼の手法がですね、
次回ですね、ちょっと全く違う分野の方で生きてくるという形になってきます。
とにかく顕微鏡をですね、使って色々微生物を見分けるというところが、
今度ですね、我々生き物にとってっていうんですかね、
動物、哺乳類にとって有益なことになっていきます。
医学で人間にとって有益になるのはわけではなくて、
産業動物ですね、牛とか羊とかの病気に対して有益になるというところが出てきます。
というところで、次回ご案内をさせていただきまして、
今回は終わりにしたいと思います。
はい、ありがとうございました。
ありがとうございました。
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