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生命科学の冒険者。
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
ナレーターの金澤秀明です。
アシスタントの千奈美春です。
前回は、会社の中で問題を起こしてしまって、
1年間の執行猶予という形で与えられたわけですが、
その中でキャリーは今後どうしていくんでしょうか。
そうですね、本当にもう、そこの悪いキャリーでですね、
暴力事件まで起こしてしまうということをするんですけれども、
PCRの糸口はどうも掴んでそうだということでですね、
トム・ホワイトが守ってくれます。
1年間の執行猶予というような形になるわけなんですけれども、
トム・ホワイトはですね、キャリーは有機化学合成の専門家で、
生化学とか分子生物学の実験を理解していないなというふうに考えて、
それをサポートすることにします。
彼がですね、レポートを出す先っていうのをですね、
ノーマン・アーハイムという分子生物学者に託すことにします。
ノーマン・アーハイムだったら、キャリーをコントロールできるかなっていうふうに思ったのかもしれませんし、
あとトム・ホワイト自身がですね、キャリーから直接レポートを受けたりとかするのが、
もうちょっと正直嫌気がさせてたというのもあるのかもしれません。
このノーマン・アーハイムについて少し紹介をさせていただきます。
彼はですね、ニューヨーク州立大学で、
生化学のですね、就寝在職権、テニアというですね、
資格を有する教授でした。
日本だとあれですよね、就寝在職権ってないので、
必ず60歳とか65歳になったら定年退職っていう形になるんでですね、
これがなかなかアメリカらしいなって思ってちょっと見てたんですけれども、
あれですね、僕の知り合いの大学教授の先生もですね、
もうなんかアメリカに行くって言ってましたね。
っていうのが、日本だとどんだけ成果出しても定年退職になるからって言って、
もうアメリカの方で声かかってるからそっちに行くわって言ってられました。
やっぱり手を動かして実験するってなると、目がとか手がとかっていうのがあるので、
やっぱり現場を退くタイミングっていうのはあるのかなと思うんですけれども、
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いろいろ考えたりすること自体に定年はないというか、
それこそ認知症にならない限りは続けていけるものなのかなと思いますので、
そういう意味ではやっぱりそこに対する理解っていうのが、
アメリカにはあるのかなっていう気がしますよね。
そうですね、本当に成果を出すのと年齢とは関係ないっていうような形があるかなと思いますので、
本当に保証とてもですね、成果を出し続ける人は出し続けますので、
特に科学者なんてそういう分野なのでですね、
成果を出している人を定年で退職させるっていうのは日本はかなりもったいないなと思いますよね。
逆に成果を出さない人がずっといてるのも、席をいい加減空けろよって思っちゃいますけれどもね。
確かに、でも本当その博士の方がそれ以外の仕事に就けるのかっていうと、
なかなか日本はそこが開かれてないかなと思いますね。
そうですね、なんか本当にアメリカって行ったり来たりですね、
企業に行ったりとか、また研究者に戻ったりとか、
あと場合によっては役人になったりとかもしますよね。
そのあたりがもう本当にくるくる自由にというか、
移動できるのでいろんな経験ができて、
それが社会を発展させてるんだなっていうところはよく思いますので、
日本ももうちょっと職業選択に対して自由度が高いといいよなって思いますね。
そうですね、アメリカだとサイエンスコミュニケーターって言って、
科学に明るくない皆さんがきちんと科学のことを理解できるように、
翻訳者というか、そういった形で活動する職種もあったりしますし、
やっぱり他にもいろんな仕事があったりしますので、
そこも大きく違うのかなと思いますね。
年齢に関しても聞くのはマナー違反っていうのが、
やっぱり研究者の間では一般的って言います。
やっぱりそこの感覚の違いっていうのは文化の違いなのかもしれないですが、
やっぱりちょっと違うなとは感じますね。
そうですね、それこそ日本でも最近履歴書に年齢を書かないようにするとかですね、
そんなのがやっときたかなと思うんですけれども、
その辺は日本もちろん僕好きですけれども、
アメリカに関わらずかもしれないですね。
アメリカってそういうところはすごく開けてていいよなというふうに思いますね。
そういった形で、ノーマン・アーハイムはですね、
出身在職権というのを持っている教授だったっていうところですけれども、
1983年の秋ですね、彼は有給研究休暇ですね、
サバチカルっていうふうに言いますけれども、
これをとってですね、1年間試達者で過ごすということをしていました。
これもですね、すごい面白いシステムだなと思うんですけれども、
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大学はですね、もちろん教育機関でもありますし、
授業をやったりとかですね、他にもなんかいろいろとやらないといけない仕事っていうのがあって、
研究だけに没頭できないっていうところはあります。
そういったところをですね、ちょっと改善するというわけでもないんでしょうが、
一旦大学を出てですね、給料はもらえるんだけれども、
外に出て研究をしてきてもいいよっていうですね、そういう機関っていうのをくれるらしいんですね。
これがサバチカルって言うんですけれども、
これもなんか日本にはなかなかないシステムなんじゃないかなと思ってびっくりしたんですけれども、
それで1年間シータス社で過ごしていました。
でも最近はなんかサバティカルバケーション、サバティカル休暇みたいな言葉自体は聞くようになったのかなと思いますが、
なんかスタートアップとか、そういったところでなんか取り入れられてるのかなってイメージですよね。
リフレッシュ休暇みたいなニュアンスというか、で使われてる気がしますね。
なんかそこでの休暇がまた仕事にプラスに働くよねっていう発想のもとをやっているっていうところですね。
そうですね。それをですね、このなんか普通に大学でやってるっていうのがちょっと、
アメリカってこの時代からそうだったんだと思ってちょっとびっくりしました。
そうですね。しかも1年間ってなかなかないですからね。やっぱり休暇数ヶ月とかが多いのかなと思いますが。
そうですね。なので本当に1年間も外に出してくれるっていうシステムは素晴らしいなと思いますね。
本当に手には劣っている教授の先生だからもう特権階級というか、そういったとこもあったのかなっていうのは感じますね。
そうですね。一応ですね、調べてみるとですね、サバティカルを取るにもですね、いろいろと決まりがあって、
6年間その大学に在職してないとダメとかですね、そしたら半年間か1年間かもらえる。
半年間の場合だと、半年間普通に給料をもらって別の経験を積むことができる。
1年間の場合だと、給料は半分になるけれども最大1年まで取れますよっていうような、そういうような仕組みで、
サバティカルが終わった後はですね、大学に必ず戻ってきて1年以上は働かないといけないっていうような、そういうような決まりもあるそうです。
アメリカでもですね、1960年代とかにはですね、大学の研究者が企業と関わりを持つっていうのはですね、全く思いもよらないことだったらしいんですね。
オリンピックで今、プロスポーツ選手が出るのって当たり前になりましたけど、以前はゴハットだったようなところなんですけれども、そんな感じなのかなと思います。
それがですね、1980年代になるとアカデミアの研究者たちも、反企業感情っていうのが薄れてきてたみたいなんです。
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みたいでですね、ノーマン・ハイムはですね、何か実用的なことが、実用的なですね、研究もしたいというふうに考えて、シータス社に来てたというような形になります。
ノーマンはですね、この時にシータスに来てから、まずはですね、あちこちのプロジェクトを見て歩くっていうことに時間を費やして、いろいろなプロジェクトに知恵を貸すということをしていました。
このサバティカル期間中にはですね、キャリーとの接点はほとんどなかったそうです。
サバティカルが終わりまして、一度ニューヨーク州のですね、州立大学に帰った後でですね、ノーマンはですね、シータス社から人類遺伝学部門というのを立ち上げるから、そこの責任者になってくれないかというふうにオファーを受けて、その要請を受けることにして、シータス社に戻ってきてたところでした。
トム・ホワイトはですね、ノーマン・アーハイムにですね、キャリーを預かってもらって、PCRを成功させてほしいというふうにお願いをします。
ノーマン・アーハイムはですね、PCRのアイデアをですね、トム・ホワイトから詳細に出し、そしてですね、キャリーを預かることにしました。
ちなみにですね、この時点でキャリーはですね、PCRを先ほども申した通りですね、前回申した通り成功しているというふうに主張してたんですけれども、トムもノーマンもですね、まだそれが本当に増えているDNAのバンドを見ているかどうかわからないじゃないかというふうに考えておりました。
そこでですね、実際そのPCRで増えたと主張するDNAのバンドは本当にそれなのかを確かめるためにですね、キャリーにノーマン・アーハイムはですね、サザンブロッドで確かめるということを提案します。
ただですね、これがですね、キャリーはこれをですね、自分に対する敵視というふうにですね、感じて拒絶するということをします。対象実験をして証明してみてはっていうふうなことを言っただけなんですけれども、キャリーはですね、なぜかそれを敵視と感じてしまうという、ちょっと本当に性格がひねくれてるなと思います。
なんか正直ですね、ここら辺のことをですね、調べてましてですね、最初キャリー・マリスって面白い人だなと思ってたんですけども、徐々に私はここで嫌いになり始めました。
なかなかこう、ちょっとハイター的なところだったり、愛されキャラかっていうとなんかそういうわけではなく、なんか気難しい職人さんというか、なんかそういったような印象を受けますよね。
そうですね、本当になんか、なんでここで敵対的だと思うんだろうって思っちゃうんですけどもね。
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で、ノーマンはですね、キャリーとは共同研究ができないなと思いまして、PCRをモノにしてくれっていうのが一つ指令としてありましたので、ここで策を取ります。
自分のですね、チームですね、人類遺伝学チームの中のできる人間を何人か率いてですね、PCRグループというのを作ります。
その中にはですね、キャリーと割と仲の良いですね、サザンブロッドなんかで見事な実験テクニックを見せてたですね、テクニシャンのスティーブン・シャーフっていう人間とかですね、
あと繰り返しの作業にですね、非常に得意というか良い腕を見せてたですね、ランディ・サイキというですね、こちらもテクニシャンですね、を加えてですね、キャリーとは別にですね、PCRの成功を追うことにします。
毎週金曜日にですね、1週間で行ったことを報告しあってですね、次回どのように改善するのかというところをですね、話し合うことにします。
ここの話し合いの席にはですね、キャリーと、あとですね、キャリーを唯一慕ってたですね、テクニシャンのフレッド・ファナールですね、もこの報告会には来ていいよということにしておきまして、
キャリーチームとですね、それからノーマンが率いるPCRチームと、それぞれ成果を話し合うと、そして議論をするということを行ったようです。
キャリーはキャリーでですね、なので、自分のですね、右腕のですね、テクニシャンのフレッド・ファナールと一緒にですね、別枠でPCRを追い求めていたと。
で、情報交換の席にですね、出てきて、相手方が何やってるのかなっていうのを見ながらですね、そこの議論にも加わってたというような、そういう形になります。
なかなかこの共同研究とかができるような状況じゃないので、そういう意味では、お互いにチームとしてやるっていうのが、やっぱりベストな選択肢だったんだろうなと思いますね。
そうですね、トム・ホワイトは、ただ同じね、会社の中なのになんでって思いながらこんなことをやってたのかなと思うんですけれども、本当キャリーのですね、ちょっと配達的なところでですね、こんな策を取ったのかなと思います。
で、トム・ホワイトのチームはですね、PCRの技術的な成功っていうのを求めていたわけではなくてですね、シータツ社から命じられていたですね、もともとシータツ社が開発を目指していた遺伝子診断法ですね、遺伝子診断をするための手法としてですね、PCRも含めて、
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何らかの方法で達成できるっていうことをですね、考えてました。で、そのためにですね、このチームではですね、最初からですね、テンプレートはヒトゲノムに絞ってまして、で、ターゲットもβグロブリン遺伝子を増やせるかどうかっていうことを始めてました。
で、いろいろなですね、試行錯誤の結果ですね、PCRチームに所属するですね、テクニシャンで、キャリーとも仲の良かったスティーブン・シャーフがですね、1984年の11月15日にですね、おそらくもこれは完全に成功しただろうと思われるですね、実験データを得ます。
これはですね、マリスがアイデアを思いついたドライブからですね、20ヶ月後のことでした。ただですね、その後ですね、何回も同じように実験するんですけれども、再現性が得られないということが起こります。
なので、たまたま成功した1回っていう感じですね。ここでですね、キャリーとかもですね、つながってですね、いろいろな議論や検討を重ねることにします。相変わらずですね、いろんな変数を試します。
加熱とですね、冷却のサイクル回数を増やしたらどうなるんだろうというふうに試してみるとですね、増幅量が増えるなと、それから減らすと減るなと、これはまあなんか普通に分かる話がやはり再現できたというところなんですけれども、
あと、加えるですね、DNAポリメラーゼの量を10分の1に減らすとですね、増幅量は減るけれども得意性は高まる。変なバンドが出ずにですね、目的のバンドだけが綺麗に出ると。ただし、増幅量が減るのでバンドの濃さは薄くなってしまうというようなことが起こるというような形でですね、
ちょっとずつちょっとずついろんなパラメータを変えてはいろんな結果を得ていくということをいたします。
ちなみにですね、この当時のPCRはですね、実験結果が出るのに3日から4日かかったそうなんですね。
というのが、まず1日目ですね、PCRを行います。これはもう、熱いお湯に反応液をつけてクレノンを足して反応させて、で、また熱いお湯につけてDNA1本算にして、で、温度が下がったらクレノンを足してっていうのをですね、10回繰り返すっていうこと。
10回から20回ぐらいですね、繰り返すっていうことをやったんだと思うんですけども、まあそういう作業に1日かかる。で、それからですね、次の日に電経道をして、メンブレンに、電経道のDNAをメンブレンに移すということに1日かかる。
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全く原因もわからずに突然失敗することもあるということになります。そしてですね、1985年の春ですね、アーハイムとですね、トムホワイトはですね、このPCR以外のですね、自社の技術をですね、いろんな大企業に売り込みに行くということをしています。
まあこれもうバイオベンチャーにありがちですけれども、自分たちはこんな技術を持っているんだということをですね、いろんな会社に大手に行って話してですね、プレゼンをして、それでお金をもらうと、研究費をもらうというようなことをですね、一生懸命やってたそうなんですね。
その時にはですね、何回かはですね、PCRも成功してたので、ちらっとですね、DNAを増幅するような技術もですね、うちには間もなく開発できますからっていうようなこともですね、ちらっと匂わせたりとかしてたらしいんですね。
そうするとですね、相手型の大手企業の研究者の中にですね、知り合いの人間なんかもいたそうなんですけれども、その人間がですね、DNAを増幅させるにはこういうふうにしたらできるんじゃないかなみたいなPCRの概念をですね、もう少しで思いつきそうなレベルのところまで考えているということを知ります。
そこでですね、彼らは危機感を持ちます。PCRはですね、そろそろ世間に公開、公表しないとですね、その権利はシータス社から奪われてしまうかもしれないっていう危機感ですね。
とにかく思いついたらですね、すぐに特許申請をしておかないと、いつまでも秘密のままにして他の人が思いついてしまったらやばいということでですね、慌ててPCRの特許申請を3月28日ですね、1985年の3月28日に行うという形になります。
ちなみになんですけれども、この売り込み活動中にですね、シータスはですね、CODACとかですね、スミスクラインっていう会社にですね、モノクロナル包帯とかですね、DNAプローブを使った診断技術の売り込みをしてたんですけれども、あとですね、パーキン・エルマーっていう会社とですね、生物医学研究市場で実験用の試薬と装置を開発して発売しようというですね、
ジョイントベンチャー契約を結ぶことに成功してました。
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この当時はですね、PCRがそんな、商業的にですね、成功するようなものになるっていうふうには全く彼らも考えてなかったんですけれども、このジョイントベンチャーからですね、多額の資金を得て、実際2年後にですね、商業的に大成功するサーマルサイクラーがですね、
PCRをするための装置ですね、温度を上げ下げしてくれる装置ということで、サーマルサイクラーっていうふうな一般名になってますけれども、それがパーキン・エルマー社から発売開始されたということになります。
ちなみに私、バイオテックメーカーのですね、営業マンなんですけれども、私の一番最初はですね、このパーキン・エルマーからですね、ライセンスアウトを受けたPCRを日本で販売するメーカーに働いておりまして、なのでちょっとここら辺はちょっと案外深いなと思って見てました。
あと学生時代の時にはですね、このパーキン・エルマーのPCRに初めて触れてですね、PCR実験を学生実験でやったわけなんですけれども、そういったところですね、非常に思い出深いものがここからスタートしてたんだなっていうような形ですね。
なるほど、なんかPCRって今はそのパーキン・エルマーさんのイメージがあまりないので、そういう歴史だったんだなっていうふうに思って驚きました。
そうですね、パーキン・エルマーがその後、パーキン・エルマーの一部門になるんですかね、AppliedBiosystems、ABIって言ってますけれども、ABIっていうところがそれを販売して、PCRはABIっていうイメージが皆さんあると思う、現在の研究者の人たちはあると思うんですけれども、
もともとはパーキン・エルマーのパーキン・エルマー印ですね、世に出ておりました。
本当に技術の世界というか、そういう研究機器主役の会社さんは九州合併がすごく進んでいるので、あっちに行きこっちに行きみたいな、こっちの産科に入りましたみたいなので、くるくる変わるイメージはありますが、やっぱりABIって言われると知らない人はいないぐらいのPCRの代名詞と言ってもいいぐらいのものかなと。
思いますけれども、やっぱりスタートがそこだったのかっていうところもありますし、そういう歴史の中でみんなに愛される技術になっていったんだなっていうのは思いましたね。
そうですね、もう本当に無条件にPCRといえばABIっていう頭がありますもんね。
はい、コロナの検査の時も、ABIの機械がもう売り切れて買えないみたいな、入荷待ち何年ですみたいなお話とかもいただいたことがあって、やっぱり世界的にやっぱりABIっていうところなんだなっていうのは改めてその時も感じました。
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そうですね。ちなみにですね、この一番最初の頃のですね、パーキン・エルマーのPCRってですね、僕が社会人になってメーカーの営業マンになった時もまだちょっと販売されてたんですね。
で、販売されてたっていうか、それのメンテナンスは引き継いでまだやってたっていう感じですかね。当時のPCRはですね、ホットリッドって言って蓋の部分が熱くなるっていう機構がまだなかったんです。
なので、温度を上げたり下げたりっていう風にして、95度とかに温度を上げて、2本差を1本差に乖離するっていうことをしますけれども、その時にですね、反応用液が蒸発してしまって、それで実験失敗してしまうので、蒸発させないためにですね、PCRチューブに反応液を調整し終わった後にですね、最後に
駅の上にですね、オイルを入れて蓋をするみたいなことをしてました。多分しらちゃん知らないと思うんですけど。知らないですね。ホットリッド、ヒートリッドって言われる蓋の部分が熱くなるのが当たり前だったので知らないですね。
なので、実験室でPCRをするための机って、結構油がこぼれててですね、ベタベタしてたりとかしました。
お料理で言うと落とし蓋みたいなもんですよね。ちょっとイメージ違うかもしれないけど。
そうですね。落とし蓋を油でするみたいな感じですかね。
今は蓋の方が熱くなるので、蒸気がそこについても中に液が戻ってっていう形ですかね。
そうですね。お風呂屋さんの鏡と同じ仕組みっていうんですかね。最近家庭の鏡もそうですけれどもね。
結露しないように裏から電熱線入れて温めてますけれども、それと同じようなのが今のPCRに応用されてて、蓋の部分が熱くなるおかげでですね、
蒸発したものがそこで結露しないっていう形で、反応容液は減らないっていうことが実現されてるんですけれども。
僕が一番最初に学生実験でやった時は油をポタポタ垂らしてましたので、ヒートリッド式の蓋の部分が熱くなるっていうので、油を使わないでいいっていうPCRを見た時にはですね、すごい感動したのを覚えてます。
これはすごいと思いましたね、本当に。
そうですよね。油ってやっぱりベタベタしても、拭いても拭いてもっていうところなので、やっぱりそれをマズラシさから解放されるって思うと、それだけでも良かったってなりますよね。
いや本当ね、この一手間非常に大きくて、あと結構油を何滴かベットマンで吸い上げてですね、PCRチューブの中にポタポタ、当時PCRチューブも今みたいに250マイクロとかの小さな容量のチューブじゃなくて、500マイクロリットルでやってたんですよね。
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そこにですね、ポタポタ垂らすんですけれども、この油自体がですね、何個もPCRの実験をやる場合はチューブを何本も用意して、反応液を作って、それから最後にはエマルジンオイルを吸い上げて、2滴か3滴ポタポタポタポタポタポタって落としていくっていうことをするんですけど、
この時に結構混沌が起こるんですよね。それで何かありもしないはずのバンドが増えてしまったりとかですね、っていうようなこともよく起こりましたので、そういった混沌も起こる原因もですね、なくなったっていうので、本当にすごいあったふたを温めるっていうだけのことなんですけど、すごい感動したのを覚えています。
本当に必要は初めの母なので、やっぱりここは改善したいっていうみんなの気持ちがそこに現れたんでしょうね。
そうですね、本当にもうありがたいところですね。すみません、ちょっといろいろ話が、僕の最初の頃バイオに関わった時の感動をちょっと話させていただいたんですけれども、
そういったところでですね、パーキン・エルマーから非常に多額の資金を得ましたよっていうところなんですが、ちょうどですね、同時期、この頃にですね、ノーマンハイムはですね、アメリカ人類遺伝学年次大会というののですね、参加要項を受け取ります。
大会が開かれるのがですね、この年の10月末というところで、講演の趣旨の提出は6月30日ということになります。
彼はですね、Cタス社のボードメンバーとですね、競技をしまして、Cタス社の偉いさんたちと競技を行いまして、人の遺伝病への応用という形でPCRを発表しようというふうに持ちかけ、それで会社としては合意いたします。
ただこの発表はですね、15分間の短い学会発表時間ということだったので、そこに対してですね、ちょっといろいろな作戦をですね、練ることにいたします。
どのような作戦を練ってきたのか、練ってですね、ここへの発表に挑むのかというところは、次回お話をさせていただきたいと思います。
ではですね、今回の内容はここまでとしまして、次回ですね、人類遺伝学会に向けてのところをお話しさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
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ありがとうございました。