ようこそ、生命科学の冒険者へ。
プレゼンターのあきです。
アシスタントのとみーです。
この番組では、生命科学における画期的なブレイクスルーを成し遂げた偉大な研究者たちの人生と、その背後にあるドラマをお届けします。
はい、いよいよパスツール回の最後になりますけれども、
長かった。
長かったですかね。ただ10回だから、
2ヶ月半、2ヶ月ぐらいかな。
だいたいこんなもんかなっていう感じはしますけれども。
パスツールですね。
若い時にですね、いきなり、
朱石さんとラセミさんっていうのをですね、
葡萄酒、ワインの樽の底にできる結晶ですね。
これを詳細に観察して、
この結晶からですね、光学生体っていうものがどうもあるんだよという、
化学の方だったらよくご存知だと思いますけれども、
D体とL体だったかなっていうのがある、
左手タイプの化学式と、右手タイプの化学式っていうのがあって、
化学構造式としては同じなんだけれども、
構造は鏡に映したように左右対称というか、
そういった状態になっているものが世の中にあるんだということをですね、
パスツールは初めて世に知らしめさせました。
化学者の方だったら当たり前のことだと思うんですけど、
ちょっと僕、バイオ系の人間なんで説明が下手で申し訳ないなと思うんですけれども、
そんな感じで一気に化学界、化学界の中でスターダムに登り詰めていくことになります。
我々が知っているパスツールってですね、一般的には何て言うんですかね、
いろいろ微生物のことを研究して、
医学とかにも貢献したというようなイメージがあると思うんですけど、
その後ですね、パスツールというのは転身していきます。
まずですね、アルコール発酵を起こすですね、
酵母がアルコール発酵を起こすんだということを発見して、
それからですね、邪魔するいろいろ悪い細菌ですね、
例えば乳酸菌とかがアルコール発酵を邪魔してしまうことがあるということを見つけまして、
なので、酵母によく働いてもらえるようにというようなところをですね、
酵母の発酵をコントロールする方法っていうのをいろいろと考えつきまして、
フランスのアルコール産業に貢献をするということになります。
その後にですね、ニワトリコレラですね、ニワトリコレラを研究いたしまして、
そこからですね、ニワトリコレラに対する免疫をつけるという方法を発見します。
これがワクチンですね、第2のワクチンということで、
ジェンナー以来ですね、新しくワクチンを発見したというところなんですけれども、
これはコレラ菌を弱らせて、それがワクチンになるということを発見したということで、
ジェンナーが発見したですね、天然糖に対して、
それの弱いタイプの牛糖を打つというのとはまた全く違うアプローチ方法を見つけたということでですね、
これがパスツールにとってはすごい大発見なんじゃないかなと、僕は今回ちょっと思いました。
その後ですね、炭素病と戦いまして、それから狂犬病というような形で、
炭素病ではですね、多くの家畜に対して炭素菌に対するワクチンをですね、
打つということで、炭素病でですね、死んでしまう羊とかヤギ、牛といったですね、動物がいなくなったということになりますし、
それからですね、狂犬病では、狂犬病に対して、狂犬病にかかってしまった人間をですね、
治すことができるようにしたということになりますけれども、炭素病と狂犬病に関しては、
前々回お伝えした通りでですね、ちょっと疑惑付きの部分もあるのかなという感じになります。
どんどんですね、歳をとっていったパスツールになりますけれども、
今回ですね、その最後の日々というのをちょっとお伝えしたいと思います。
1882年の12月27日に、パリのソルボンヌ大学の大講堂でですね、パスツールの70歳を祝うというですね、盛大な式典が開かれます。
当時のですね、フランス大統領のサディ・カルノという方ですね、
をはじめ国内外の学術団体からですね、集まった代表団がですね、
この日ばかりは国境を越えてパスツールに敬意を表してくれるということになったそうです。
これはですね、パスツールはやはりフランスの英雄ということでですね、
国を挙げての盛大な式典を行ってくれたということですね。
この場にはですね、イギリス人の下界のジョセフ・リスターという方の姿もありました。
このジョセフ・リスターはですね、パスツールが発光の研究で示したですね、
目に見えない微生物が物質を変化させるという、アルコール発光とかですね、例えばですけれども、
そういったところからですね、傷口の可能もですね、細菌が引き起こしているのではないかと、
微生物が引き起こしているのではないかというふうに考えます。
1867年にですね、手術中とか、術後の傷口にですね、フェノールを用いて消毒するというですね、
消毒外科というのを提唱しまして、手術の成功率を大きく向上させるということに貢献いたします。
それまではですね、本当に汚いメスで手術するとか、前の患者を切った手術、メスをそのまま放置しておいてですね、
そのまま切ったりとかっていうのが日常茶飯事だったみたいなので、
手術の成功率って、大体半分ぐらいは死ぬっていうような、
一か八かの手術みたいな感じだったんですけれども、
そういったのをですね、非常に成功率を向上させたというところですね。
ちなみにこのフェノールってすごい劇薬でですね、
今だと手術とかで使う消毒って70%エタノールだと思うんですけれども、
当時はそういったところ、エタノールが微生物を殺してくれるっていうのがあんまり分かってなくてですね、
フェノールを使ってたみたいですね。
このリスターさんはこのパスツールの微生物が物を変化させるということを教えてくれたということで、
非常に功績を挙げましたので、パスツールに非常に尊敬の念を持っておりました。
この時にリスターは祝辞を送ったということになります。
あなたは何世紀にもわたって感染症を覆い隠してきたベールを取り払い、
その微生物としての本質を発見し証明されましたというふうな祝辞を送ったというふうに伝わっております。
この時パスツールは流れのまひで長く話すことが難しい状態で大きな声も出せなかったみたいなので、
それに対する返礼はパスツール本人ではなくて息子が代わりに読み上げたそうです。
パスツールは不自由な体ですが立ち上がってリスターとハグを交わしたというふうなことで言われております。
70歳の時には非常に盛大に祝ってもらったというような形ですが、
どんどん体の状態は悪くなっていくという形ですが、死ぬ直前まで頭脳は面積であり続けたみたいです。
自分の手で実験器具を扱うということもできなくなっていたのですが、
家族や弟子たちに指示を出しながらパスツール研究所の方向性を見守り続けるということになります。
共同創業者の一人である弟子のエミル・デュクローという方が、
実務面では日々の運営を取りしきるようになっていったということです。
炭素病の研究以来、パスツールはドイツのライバルのロベルト・コッホーとの間には深い溝があったと言われていますが、
結局、この対立は最後の最後まで仲が悪いままだったみたいです。
結構いろんなところでやり合っていたみたいです。
例えば、コッホーは炭素病ワクチンに対して非常に懐疑的で、
ジュネーブでのパスツールの公演に対して反論をするという小冊子を出版したみたいです。
パスツールが使っている検体は、唾液や鼻汁など不純物の多いものであり、
そもそも実験動物にパスツールが使ったウサギは、
この病気にかかりやすい動物ではないために、結果が信頼できるものではない。
さらに実際ワクチン接種が失敗した時もあったのですが、
そういったところのせいなのではないかと、
通列な反論をわざわざ小冊子にまとめて出版するというようなことをしてきたみたいです。
パスツールは何をやったからこうなったのかという、
実験の手順をあまり公開しないというか、秘密主義だったみたいです。
それは彼自身がそれをパクられてはいけないというところもあったのかもしれないですが、
それ以上に他人の手柄をパクっていたという部分もあったのかなと思いますし、
なので秘密主義で貫いていたみたいですが、
こういったところを広報はどんどんついてきたみたいです。
これは当時の学問でそんなものだったのかなと思うんですが、
今だと論文にする際に実験手順を明かさないなんてありえないので、
今の基準で考えるとパスツールはここまですごくなってなかったかもしれないなとは正直ちょっと思います。
このパスツールの問題というか、
いざこざとかがあったから、ちゃんと公開していこうみたいな文化になった?
これだけではもちろんないと思うんだけど、
だんだん科学界というのもいろいろなことを経て、
だったらどういうふうに論文は書くべきなのかという手順はどんどんまとまっていったんだろうなと思うんですけれども、
今の形になってるのかなということで、
結局のところは失敗の積み重ねからそうさせないためにはどうするのかというところなのかなと思います。
ただ結構パスツールがこれだけいろいろやらかしてるんだよってわかったのは最近の話なので、
秘密主義だった上に自伝の中では結構きれいな話が多かったみたいなのもあったもんね。
そうですね。なので自伝ではいいように書いてて、
実際その実験ノートとかパスツール自体は燃やせって言ってたみたいなんだけど、
それがたまたまフランスの博物館に寄贈されてて、
それを詳細に最近歴史家の方が調べて、結果いろいろなやらかしが見つかったということになっております。
そうは言っても本当にニワトリコレラのワクチンはすごいなと思いますけれども、
あと例えば微生物は微生物からしか生まれてこないという、
白鳥の首フラスコ実験とかですね、
ああいったのも彼が提唱しなければわからなかった話なので、
そういったところは本当にすごいんだなと思います。
そんな感じでココホとパスツールは非常に仲が悪いというような状態で終わってしまったわけですけれども、
ココホのお弟子さんの一人である日本の近代医学の父と呼ばれるような
北里柴三郎ですね、新しくなった千円札の顔に使われている方になりますけれども、
この方はですね、若い時にココホの研究所で留学していろいろな発見をいたしますが、
そのドイツ留学の最後ですね、ベルリンを離れてパリのパスツールに面会をしに行っております。
当時70歳ですね、なかなか言葉も大変な状態だったみたいなんですけれども、
この面会をパスツールはココホの弟子だからということで断ることはなくですね、
非常に温かく迎え入れてくれたみたいです。アポイントもすぐくれたみたいですね。
パスツール自身はですね、北里柴三郎、この番組の第2シリーズですね、
北里柴三郎会やらせてもらったので、ぜひそちらもあわせて聞いてもらえればと思うんですけれども、
パスツールはですね、北里に対してあなたの活躍を心強く思っていましたと、
次に何を発表するか楽しみに待っていたのですよというふうにですね、声をかけてくれたという形で、
北里のですね、発表論文をですね、非常に注目していた。
パスツールからしても北里は注目の研究者だったのかなということになります。
これはなんかちょっと日本人としてちょっと嬉しいなというふうに思いますね。
あと北里はですね、パスツールにどうしても聞きたかったことがありました。
それがですね、パスツールはドイツとの不服戦争か、不服戦争の時にですね、
ドイツに負ける中でいろいろとこうあちこち逃げてたという、疎開してたと、
疎開しながら研究してたよという話もさせていただきましたけれども、
その時にですね、イタリアからですね、こっちで研究しないかというふうに誘われたこともあったんですね。
なんですけれども、それを北里は何でイタリアに行かなかったんですかっていうふうに、
もうその戦争で負けてしまって荒廃したですね、フランスになぜ留まり続けたのですかと、
あなたほどの方だったらもっとすごいところに行けたでしょうっていうふうな形で聞いたところですね、
パスツールはですね、悲劇に見舞われた祖国を見捨てることはできないと、
自分は逃亡者になりたくないっていうふうに答えたそうなんですね。
本当に愛国心にあふれた方だったのかなというふうに思います。
そしてですね、別れ際にパスツールはですね、自らの肖像写真に北里博士へ、
その素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて、ルイ・パスツールというふうにですね、書き添えて送ってくれたそうで、
北里はですね、この肖像が、この写真ですね、サインしてくれた写真をもう生涯大切に持ってたそうなんですね。
こんな感じで、この祖国に留まり続けて研究するっていうですね、
この考えっていうのは、その後の北里、柴桜の人生にも非常に大きく影響を与えたのかなと思います。
北里はですね、日本に帰ってきたら、ドイツで大発見をしてですね、日本に帰ってきたんですけれども、
世界的スターの北里にですね、研究ポストは日本は与えなかったんですね。
それなのでも、仕方なく民間からのお金を募って福沢行くちとかが助けてくれて、
小さな北里研究所っていうのを立ち上げて、いろいろな研究を日本の中で進めていくわけですけれども、
アメリカとかですね、ヨーロッパの大学からいっぱいオファーが来てたんですが、
祖国を見捨てないということでですね、北里は国からひどい扱いを受けたわけですけれども、
それでも逃げずにですね、日本で活躍してくれたということで、
これはちょっとパスツールの影響があったんじゃないかなというふうに、僕はちょっと思います。
1895年の9月28日ですね、パスツーラパリ郊外ですね、
政府から提供されたバレンヌレタンというですね、邸宅で息を引き取ります。
なんかあれですね、邸宅とかだと、邸宅に名前がつくんですね。
日本だと何々家とかの家みたいな感じだけかなと思うけど。
このヴィルヌーブレタンっていうのは地名じゃないの?
地名なのか?そっか、地名か。ヴィルヌーブレタンは地名か。
俺、家の名前だと思った。
南フランスのみたいな、そういう感じなんじゃないかと。
わかりました。すいません。
その邸宅でですね、息を引き取ったということで、72歳ですね、だったということになります。
最後はですね、家族が見守る中でですね、
妻のマリーが苦しいですかと尋ねると、パスツールはかすかにはいと答えて、
そのまま意識を失ったというふうに伝えられております。
フランスですしですね、熱心なカトリック教徒だったパスツールはですね、
亡くなる数日前からですね、死債から最後の油、
死ぬ前の儀式みたいなのを受けてたそうですね。
息を引き取った後に妻がその手に十字架を握らせてくれてたとも伝わってますが、
この辺は辞典とか伝記に書かれてる内容なので、
パスツールは敬虔なカソリックだったよということを伝えたくてですね、
誇張して書かれたのかもしれません。
ここら辺はちょっと正直わからないところになります。
パスツールが亡くなった後ですね、
これはですね、国葬を、もうフランスの英雄ですので国葬しようということで国葬が行われます。
1895年の10月5日にですね、遺体はパリのノトルダム大聖堂へ運ばれて
盛大な葬儀が取り行われたということになります。
その後遺体はですね、研究所内にですね、
パスツール研究所内に専用のですね、霊廟を作るということで、
1年3ヶ月間の間はノトルダム大聖堂に安置されて、
パスツール研究所の地下に建てられた霊廟が完成したので、
その後移されるということになったみたいです。
この霊廟がですね、ぜひ見に行きたいなと思ったんですけれども、
建築家のシャルル・ジローという方の設計によってですね、
ビサンチン様式のですね、イタリアのラバンナというところのですね、
ビサンチン様式の霊廟に倣って作られたそうで、
金色のモザイク画とかですね、天井とか壁を覆って、
パスツールのですね、数々の研究ですね、ブドウとホップですね、
それからクワとカイコ、それからニワトリ、ヒツジ、
そして狂犬病にかかった犬と若者ですね、
それに立ち向かった人々という感じなんですかね、
それからウサギですね、これは狂犬病ワクチンを作る際に使ってた動物になりますけれども、
そういったものを象徴する絵柄が描かれたということになります。
で、妻のマリーさんもですね、10年後に亡くなりまして、
この霊廟にですね、パスツールとともに眠ることになったということです。
ちょっとこの霊廟ですね、なんか騒々そうなので、
ぜひ行ってですね、パスツールをお参りさせてもらいたいなというふうに思いました。
いつか行けたらいいなって感じなんですけれども。
なんか私今ちょっと不思議な気持ちなんですけど、
フランスを愛して祖国を見捨てられないって言ったパスツールなのに、
霊廟はイタリア様式なんだなって。
パスツールが皇帝に見染められてというか、
海外の研究をやってくれって言われた時に、
その皇帝が、その時に阪神不遂になるよね。
療養も兼ねて宛てがってくれた場所がイタリアなんですよね。
イタリアの北部の町なんですけれども、
なので多分そこの辺りのことなのかなと思っているんだけど。
ビザンツ様式だと東ローマ帝国。
ビザンツだから東ローマだからイスタンブールの辺りの建物になるみたいなんだけど。
イタリア北部の都市ラベンナは、
ビザンツ帝国、過去東ローマ帝国のイタリア支配の拠点として栄えたそうです。
今私はグーグルで検索しました。
なので多分そこの思い出の地みたいな感じなのかな。
カイコを助けた場所の建築様式を取り入れたものを
フランスで作ったのかなということなんですかね。
すみませんちょっと脱線しまして。
多分そうでしょうということで。
このような形でパスツールは要を去りましたということになります。
その後パスツールが残したお弟子さんたちをちょっと紹介したいなと思います。
エミル・ルーですね。
一番弟子と言ってもいいのかなと思うんですけれども、
ウサギの脊髄を乾燥させていて、それをパスツールに
これ狂犬病でワクチン作ろうとしている、乾燥させてやるのかみたいな感じで
盗まれた方になりますけれども。
この方は別のお弟子さんアレクサンドル・イエルさんという方とともに
1888年にジフテリアドックスを研究しまして
パリでジフテリア血清療法の大規模な臨床試験を成功させて
多くの子どもたちの命を救うということになります。
ちなみにこの血清療法そのものというのは
1890年にドイツのエミル・ベーリングが発見したんですけれども
このエミル・ベーリングはこの血清療法を作るにあたって
北里柴桜郎からだいぶアドバイスをもらっています。
なのでここでもかぶってくるんだなという感じなんですけれども
そのやり方を発見したのはベーリングなんですけれども
これを実用化まで持っていったのがこのルートですね、イエルさんになります。
ちなみにエミルルート組んだイエルさんは
1894年に香港でペスト菌を発見しています。
これは日本もペストに対してのチームを送り込んでまして
それは北里柴桜郎が行ってたんですね。
なのでイエルさんと北里柴桜郎はペスト菌に対してはライバルになります。
北里柴桜郎もイエルさんもほぼ同時にペスト菌を発見したので
手柄は二人のものとなっていたんですけれども
北里柴桜郎自体が発表にいろいろと間違いがあったりしたせいで
今ではイエルさんの発見ということになっておりまして
菌もイエルさんの名にちなんで
ペスト菌のことをイエルシニアというふうな学名が付けられているということになります。
もともとはイエルシニア北里なんとかっていう名前だったんですけどね。
北里さんは後ほど消されてしまったという形で
ちょっと日本人からするとなんでやねんっていうですね。
その辺も北里会を聞いてもらえるとありがたいんですけれども
ちょいちょい挟まれる宣伝がね。
宣伝というか北里会が本当に面白かったんで
そこに何か被ってくるなと思って僕としてはノスタルジーだったんですけれども
こんな感じでこのエミルルートイエルさんっていうのは活躍しましたよっていう形ですね。
それでですねあとポール・ルイ・シモンという方は1898年に
ごめんなさいそれじゃなくてシャルル・シャベランという方ですね。
この方は今も実験室とか病院で使われるメッキン装置のオートクレーブですね。
これは圧力鍋みたいな設備になりますけれども
圧力鍋みたいな中に病院で使うメスとかいろいろな器具ですね。
ああいったものを入れて高圧の蒸気でメッキンをするという風な仕組みになりますけれども
そういったのを考えついた方になりますね。
がシャルル・シャベランですね。
その方はまた細菌を熱をかけれないものに関しては
細菌をろ過するための陶器製のフィルターというのも考案されています。
このあたりは本当に消毒の概念の中で出てきたのかなと思います。
エリー・メチニコフという方は
白血球が病原体を食べて処理する食作用という免疫の仕組みを発見しまして
1908年にノーベルセル医学賞を受賞していくという形ですね。
それからアルベール・カルメットとカミーユ・ゲランは
血核を防ぐBCGワクチンを開発して1921年に初めて人に使用したという形になります。
こういった数々のお弟子さんを生み出しましたよという形で
今でもパスツール研究所というのはフランスの中の名門ですので
今でもそこからいろいろな素晴らしい研究者が出てきていくということになります。
今ご紹介したのは直接パスツールと関わっていた方の方たちになります。
という形でパスツール会はこれで最後となるわけですけれども
いかがでしたか。長かったと思うんですけど
長かったのは私がちょっと合間に出産をしたりとかしてたのもあったかなと思うんですけど
ちょっと今も赤ちゃんが大きそうでちょっとドキドキしながら
もしかしたら声が入っているかもしれませんが