白寿生科学研究所の事業概要と原社長のルーツ
下田文代 リーダーズストーリー
こんにちは、RKBアナウンサーの下田文代です。 この番組では、毎週お一人の福岡、そして日本の経済を支えるリーダーたちの
これまでの人生、そしてこれから開く未来のストーリーを語っていただきます。 今日のお客様です。
先週に引き続き、株式会社ハクジュ生化学研究所 代表取締役社長原 浩之さんです。 今週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。 少しおさらいです。株式会社ハクジュ生化学研究所。 ハクジュとは、99歳までお元気でお過ごしになることを科学する企業と。
事業の柱が医療機器。電圧で体の自律神経などを調和させるというような機器で、おじいさまが開発されたと伺っています。
祖父が発明して、それが100年続く企業として。 私は早々母、自分の母親が不定周期で悩んでいたので、それを何とかしてあげたいという思いだけで発明したようなので、
母への思いと技術、この2つがうちの会社のメインテーマかなと思っています。 そして原さんは3代目でいらっしゃるんですけれども、
大学を卒業してすぐにその家業を継がれたというわけではないんですね。 あまり父親が会社のことを言ってこなかったのもあるんですけど、
うちの会社で働くっていう意識もなく、 ただなんか背中に、父親が銀行に行ってくれって書いてある気がしまして、
あとは小学校時代から父親が影をやってるってあったんで、小学校ずっとクラスインチだったりだとか、
高校大学のオーケストラで執行部だったりだとか、なんとなく背中を見ながらリーダーにならなきゃいけないかなだとか、
銀行行くといろんな業種の決算書と見れて、いろんな社長さんと話できるじゃないですか。
なので、どう考えても雑だったので、銀行に会わないと思ったんですけど、
そこはただ意地で、父親の会社と取引のない銀行に入らせていただいたというか、就職きつい年だったんですけどね、
なんとか入ることができたので。
そして家業を継がれたのが、おいくつですか?
入社したのがもう26歳、4年ぐらいですかね。4年目の夏ぐらいに、
働いてくれないかみたいなこと言われて、あんまりそういうこと言ってこない人なので、
ちょっと観念しまして、26歳で入って、28歳でいきなり役員とかさせてもらったんですけど、
そこからやっぱりいろいろね、社内で外から見えない、いろいろ目には苦労はしましたけど、
でも銀行員の生活は本当にたくさんの社長さんと会えたことと、
あらゆる、簡単だったので、あらゆる業種の決算書を見ることができたので、
そこは本当に経常はすごく今役に立っているんじゃないかなと思いますね。
新型コロナウイルス禍での苦境と乗り越え方
そうですか。天気が、新型コロナウイルスの蔓延期。
そうですね。何度かあった、20年前にやはり消費者庁ができる前に、
薬器法という表現のところを大きく縮み回そうという時の責任者もやったんですけども、
その時やっぱり売り上げが激減しまして、それとコロナはもう恐ろしいことになりましたね。
お年寄りを地方で集める仕事なので、
4月も1月店を閉めても、業種コードがメーカーだから補助金もらえないんですよ。
週に1回だけ店を開けて、店頭で健康食品を売って繋いだりだとか、そんな時期があって、
あれはもうちょうど鬼滅の刃やってたんですけど、
初決めるごとに1の型、2の型とか言ったけど、30か40ぐらい型出してもまだ解決してないみたいな、そんな時期。
でもご自身にとってその大変な経験っていうのが、今に生きたな、これからに生きるなっていうことはお感じですか?
まあだから性格も変わって、思い通りにならないと結構暴れてたんですけど、待てるようにはなりましたので、
性格診断も最近は、昔は何と言っても頑固親父タイプだったり、今はおっかさんタイプとか、マザーテレサタイプ出ちゃうんですよ。
違う人になったんだ。あとやっぱりよく言ってるんですけど、人生3つの坂、上り坂、下り坂、まさか。
まさかがすごすぎるんですよね。まさかが来た時に、良いことがあると喜ばずに、いやこんな良いことは続かないから絶対まさか来ると、心の縮こまった準備。
慎重にね。
そう、それとどうにもならないことあるじゃないですか。どうにも自分で解決しないことを悩むとストレスがたまる。
だいぶ酒飲んでるんですけど、肝機能って多分酒よりストレスの方が痛めると思うので、だからもうストレスで絶対肝臓は痛めないって決めているので、
社員とかでも悩んでると、悩んで解決するんだったら悩みな、解決せないんだったら放っときゃいいじゃんみたいなことを言うようにはして、
まあそうですね、だから明るく生きていくっていうところがだいぶ身についたんじゃないかなと自分では思ってますが、社員にどう思われてるかは全く分かりません。
青春の思い出と音楽への情熱
そんな原さんからリクエスト曲を頂戴しました。
ラフマニノフ作曲、公共曲第2番、第3楽章ですが、これはどういう思いで選ばれましたか。
僕ね、変わってて、小学校がラグビー部で、中学校が野球部で、高校大学がオーケストラの大になったんですよ。
まあ、1年の時に入った時に、チャイコフスキーのロミオとジュリエットとシベリウスの公共曲2番って聞いた時に、映像学は文学だったんですよね。
それでなんか、幼少時からバイオリンも習っていたのもあって、オーケストラクラブに入ってしまったんですね。
当時もうこれ、日本一のホールだったサントリーホールを借りようって話になって、審査が通っちゃったんですよ。
それで、200万円かかるホールだったんですけど、1席300円で2000人で、学生指揮者でやったんですけど、まあ素敵なメロディで聴いていただきたいんですけど、
まあ最後の演奏会ということで、大学4年でヨーロッパに行った時も泣きましたけど、思い出すと、演奏しながら3年間振り返って、指揮者も泣きながら振ってるんですよ。
泣きながら。
今も思い出すと、泣けるぐらいの感動だったんですけど、まさに青春の1ページという感じで。
その後、白樹ホールってホールも今試合にやってるんですけど、今日すごくいい公演、100席で見るんですけど、今日の公演終わっちゃったらもうこの曲聴けないんだと思うと、すごく残念な日がごくたまにあるんですけど、
そういうのを感じることで、高3の最後と大学4年の最後もそうだったなって思い出すような、最初の青春の1ページの曲かなということで選ばせていただきました。
白寿ホールでの文化芸術振興
そのホール支配人ということですけれども、白樹ホールを運営されていて。
そうですね。
はい。
年間220稼働ぐらいしているのと、あとBSテレ東さんの番組の1個、ロケ場所になっているのと、小浅市長が月に1回来られますけど、
あとは、主催公演が240公演ぐらい、私が考えてリスク背負ってやってる公演があって、それは全部立ち会ってまして、
終わったあと10時から夜の打ち上げみたいなのを年間40回ぐらいやってますね。
エンディング
先週と今週のお客様は、白樹生化学研究所代表取締役社長原広幸さんでした。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
お相手は下田文雄でした。それではまた。