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#14「被災地を思いながら」▼東日本大震災から13年、能登半島地震から3か月▲
2024-03-16 35:31

#14「被災地を思いながら」▼東日本大震災から13年、能登半島地震から3か月▲

今月11日で、東日本大震災から13年。今年の元旦には石川県で能登半島地震が発生しました。現地取材に行った記者に被災地の様子や感じたこと、震災報道への向き合い方について聞きました。


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岐阜新聞ポッドキャスト▼ききかぢ、こんにちは。報道部の山田俊介です。
報道部の坂井萌花です。
報道部の稲葉良です。
今回の土曜日会は、この3人でお送りしようと思います。
3月もあっという間に半分過ぎてしまいまして、3月というと年度末で何かと忙しい折ではあるんですけど、
年明けから怒涛の勢いで、毎年毎年、新年企画のために取材していたものが一段落すると、
だんだん新年度予算だったりとか、新年度事業予算が出てきて、議会が始まって、一般質問があって予算が可決されてみたいな流れがね、
毎年繰り返されて、特にちょっと疲弊する時期ではあるかなという。
稲葉さんは現職担当で、
今ちょうど議会中で放送の頃には終わっているかもしれないですが、
そんな忙しい仲間を自分で作ってもらってますけど、
そうですね、そんな流れもありつつ、
優君もね、優君で、山田坂井は優君担当というところにいますけどね、
やっぱりちょっと春に向かってね、イベントがどんどんね、
そのイベントのPRしなきゃということで、
やたらとこう、やたらなんて言っちゃいけないんですけど、キャラ番隊がね、会社に来たという感じで、
今日も2件キャラ番隊のお代表をしましたけど、
すごいですね。
1つがどうだったかな、12人超えてたのかな、12人とか、
その1つのキャラ番隊でですよ。
数ってましたよ。
3市合同で、同じ種類のイベントをやるから、
一緒にキャラ番で動きましょうみたいな感じでね、
3市、一緒になっていろんな報道機関を巡ってみるということなんですけど、
なかなかね、キャラ番で大体3、4人とかね。
そうですね、旗持ってきたり、動きても3、4人ぐらい。
全部紫だったじゃないですか。
そうそう、ちなみに富士祭りのPRのキャラ番隊の皆さんだったんですけどね。
玄関が全部紫。
全部紫色で揃いのハッピーってね、一体感を演出しながらっていう感じなんですけど、
3、4人なのかける3なんでね、旗とか見えなくなっちゃうわけですよ。
うまく配置しないと。
10人近く横並びでも写真に入りきれなくなっちゃうし、
どこを撮ろうかなっていう感じでね、2列に分けたら。
分けたら分けたで、チーム写真みたいな、高校野球みたいな感じにでもちょっとなるし。
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難しいなと思いながら。
でも、ぜひ来てほしいという気持ちをね、感じましたよね。
ちょっとね、日々圧倒される、キャラ番隊の皆さんに圧倒される感じがあるんですけど。
何かとちょっと小粗らしい折りなんですけど、一方でね、3月というと3.11がありますからね。
その東日本大震災が発生してから何年という節目の時期でもありまして、
今年はちょうど13年ということで、今日も16日ですけれども、
今回は3.11から13年というところをテーマにお話をしていきたいと思います。
今年は特に年初に野党半島地震がありまして、被災地では未だに断水が続いていたりなんかしましてね、
どこどころか普及も守らない中で迎える3.11の節目だったわけですね。
野党半島地震の被災地には、岐阜新聞からも記者が取材に出ておりまして、
その一人が今日のゲストの稲葉知事ということですね。
そうですね。
8歳5日目から3日間入ってましたよね。
そうですね。
私も被災地に行ってまして、私は8歳から1ヶ月というタイミングでね、
取材に関わったんですけれど、今日はその振り返りもしながらお話をしていこうと思います。
3.11から13年ということで、岐阜ではどうだったのかというとですね、
岐阜からも節目に合わせて祈りを捧げようという追悼行事ですとかがありまして、
例えば岐阜市のお寺ですね、遠徳寺というところですけど、
こちらでは追悼奉養が営まれまして、福島県からの移住者の方ですとか支援者の方ですとか、
金をついて犠牲者の方に思いを馳せるということがありましたね。
あとは平地域で高山市の高山市総合福祉センターというところでは、
この発生時刻の午後2時46分に合わせて集まった人たちが、
3.11の形に並べられた黄色い花を囲んで黙祷をしたというような集まりがそれぞれありまして、
あとは岐阜駅前ですね、JRの岐阜駅前で織鶴を並べて、祈りの思いを一つにしようというような催しもありまして、
白い織鶴が、ご存知の方、県外の方でもいらっしゃいますかね、JR岐阜駅の北口になるんですけど、
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黄色の信長像があるんですよね。そのちょうど下というか、スペースに織鶴を265羽並べまして、
これを織ったのが地元の小学校の子どもたちでして、羽のところにメッセージを書いたりして、
ここに頑張れというだけじゃなくて、今自分はこういうことを頑張っているよ、今習い事でこんなことをやっていますとかね、
それぞれの思いを書きひたためてある織鶴が並んでいるということですね。
夜には3.11の形にしたキャンドルを並べて点灯して、祈りを捧げたというような催しもあったんですけどね。
ただこの13年も経つと、だんだん東日本大震災をリアルタイムで知らない世代というのもだんだん増えていくわけですよね。
例えば子どもたちが今どんな気持ちでこの3.11を迎えているんだろうなというのを知りたくて、
この織鶴のイベントは私が取材に行ったんですけど、コメントを並べてみたんですよね。
なるべく若年層を中心にお話を伺って、大体発生時刻の2時46分というかね、
2時代になれば人がだんだん集まってくるんじゃないかなと思って、
そのあたりでこれだけ織鶴が並んでいると近づいて見に行ったりとかね、写真撮ったりという人もいたので、
順番に声をかけて行ったりしたんですけど、リアルタイムではあまり記憶はないんだけれども、
ただ物心ついた頃からでも当時起きていたことが動画で見たりとかニュースで繰り返し流れたり、
新聞で読んだりということもあったりして、3.11、リアルタイムの記憶ではないにしても、
ちゃんと寄り添う気持ちは共有できている人がほとんどというかね、
なんかちょっと不思議な感じもしたんですけど、
テレビの映像、特に津波の映像は皆さんご覧になっているという方が多くて、
例えば大学生の方ですとね、子供の頃に津波の映像とかを見て、
その人はリアルタイムで知っている人だったんですけど、ちょうど小学生ぐらいで、
津波の映像とかを見ていたなという記憶が今でも鮮明に残っていると。
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他のこといろいろ前後忘れてしまっているんだけど、
自分がテレビでそれを見ていたという記憶だけは、いまだにはっきり覚えているということを言っていましてね。
それぞれの節目の捉え方というかね、考え方があるなというふうに思った次第だったんですけどね。
13年も経つわけですよ。13年前、皆さん何していました?いくつでした?
私は当時高2で、ちょうど自宅で大学の受験勉強をしていたなという記憶があって。
受験生になる年の3月ですね。
春になってっていう。
長い揺れがあるなと思って、机の下に入って、なかなか収まらないなという。
岐阜市内も震度3ぐらいあったんですかね、確か当時ね。
一人だったんですか?
そうですね。自分の部屋ですぐテレビをつけて、先ほども津波の映像でありましたけど、すごく傷つくったり、こんな大変なことが起きているんだと思って。
衝撃が重すぎてね。
あの頃、報道で接したことって、いまだに残っている感じがしますよね。
どのチャンネルをつけても津波の映像が。
全部そうだし、CMとかもどんどん流れなくて、ACのものばっかりになっちゃったね。
坂井さんはどうでした?
私は中学校1年生の、2年生に上がる年の中で学校にいたんですよ。
修行式かな。日本像をまとめていた記憶があるんで。
美術室で居残り家内をしていたような気がします。
私は揺れだって気づかなくて、私ちなみに岐阜県にいなかったんです。
長野県の南進なんで。
目眩がするなって思って。貧血なんだ私って思って。
彫刻刀握ったまま、とりあえず床にぬるっと倒れてみたら、
壁の大仏の絵がグワングワン揺れてて、地震やと思って。
目眩のような揺れだった記憶がすごいあって。
で、教室に帰ったら、担任の先生がテレビをつけててくれて。
そんなことじゃないぞって。
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生まれてから、地震っていうのはこれが私にとってはリアルで初めてだったなって。
でもそうなりますよね。
翌日から東京に旅行に行こうと思ってたんで、辞めました。
いろんな予定が吹き飛んだじゃないですかね。
計画停電とかもありましたね。
まさかあんなことになるなんて。
あれだけ長くて強い揺れが体感するっていうのは。
何が起こってるかが、中学生の私には全容がつかめなかったですね。
分かんないですよね。
いろんなことが問題すぎるから、原発、津波、避難者もそう、被災者の方もそうだし。
もう一刻が潰れてしまったぐらいの記憶だから。
見てるしかできないって。
テレビを見てるしか。
立ち尽くしたままテレビも見てしまってたというか。
私大学生で、東京の方だったんですけど、たまたま岐阜帰ってきてたんですよね。
揺れてたときは完全に寝落ちしちゃってて、全然気づかなかったんですけど。
なんとなく目覚めてテレビつけたらいきなりそんな映像だったんで。
揺れも体感してないんで全く分かんないですよね。
なんなんだろうみたいな。
夢から覚めてないのかなみたいな感じが。
入社の、今いる会社の会社説明会で岐阜に帰ってきてたんですよね。
で、午前中それに出て、なんとなく疲れちゃったなってなってたんですよ。
当時はエントリーシートがそこ行かないともらえないみたいな仕組みだったんですよ。
そう、ダウンロードせいじゃないって。
ちょっと今思うと。
それぞれ3.1から53年経って、今年はノトハント地震があって。
ちょっとこの節目の捉え方っていうのも、このノトハント地震が起きたことで、
より重く受け止めている方がね、私お話を伺った方の中でも多かったかなという。
先ほどのオリズルのイベントも毎年恒例にはなってきているんですけど、
主催者の方が言ってたのは、オリズルのメッセージが例年にも増してすごく詰まっているっていうんですかね。
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いっぱい描けば描くほど羽根が鉛筆とかペンの黒で濃くなっていきますけど、
遠くからとてもある程度その黒がわかるぐらいの鶴が多かったなっていう感じもあったりしてね。
本当にこの岩実にいきなり襲ってきたっていうのはね、本当に冬を疲れたというか。
その8歳から5日後に取材に入るっていうのがね、なかなかこれ大変だったと思うんですけど、
ちょっと振り返っていただきまして。
その時のお話をさせていただきます。
まず私は同じく報道部の亀山記者と2人で、
1月の5日から7日まで中本町、七尾市、穴水町、野戸町、和島市に入りました。
連日被災地の様子は報道されてはいるんですが、
実際その家屋が倒壊したところであるとか、道路のいたるところに亀裂や陥没が入っていたり、
土砂崩れもあってその行く手を塞いでいるところも目の当たりにすると、
当たり前だったはずの日常はどこにもなくて、本当に愕然とする思いでした。
まず私たちが入ったのは七尾市役所というところでして、
ここは支援物資の集積拠点となっているところでした。
そこでは七尾市民の方が水であったりとか食料品を受け取りに行列を作っていたわけなんですけれども、
どの人も疲れ切った様子で、表情からも読み取れるぐらいな感じでしたね。
その時に話を聞いた80代の男性は、水道もトイレも使えない、どうしていいかわからないという、
言葉に苦労が詰まっているなというふうに感じました。
その次に七尾市役所から北上して、穴水町というところに向かったんですけれども、
まず穴水町役場の方に向かったんですが、
七尾市役所ですと約35キロぐらい離れているんですけれども、
本当に道路がところどころ陥没していて、迂回しなければいけなくて、
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片側一車線で対向車がどちらかが止まらないと進めないと思って、
本当に渋滞が本当にひどくて、大体約3時間ぐらいかけて移動していたという感じですね。
穴水町役場に着いた頃には、夕方というかもう日も暮れていたところなんですけれども、
その穴水町役場は避難所としても使われていまして、
その時は住民の方が160人ぐらいがいらっしゃったんですけれども、
その時、役場の玄関では亡くなられた方とか安否不明者の方、
その数を手書きした紙が入り出されていまして、
ここと数字が変わるので書き換えられていくというのがすごく印象的でした。
でもその中でも被災地の方が助け合う姿というのもありまして、
その避難者の一人の中に明るく周りに声をかける年配の女性がいらっしゃって、
その方の話が、こういう時こそ助け合わないと、
初めて顔を見る人もいるけど、今はみんな家族というふうに話していまして、
その時の避難所は地震発生直後の2日間は食料が十分に届かない状態で、
1日1食、届いたパンとかおにぎりをみんなで分け合うような
そんな過酷な状況だったそうなんですけれども、
でもやっぱりそんな状況に乗り越えられたのも、
避難者同士の助け合いがあったからなんだなというふうに感じまして、
そんな中でも明るく振る舞っている方の様子を見ると、
本当に取材中も思わず涙が出ることでした。
地上に振る舞って絶対つらいはずで、どうしていいか分からないという、
そこにいらっしゃる方、みんなそう思っている中で、
なんとかみんなで助け合ってというのは、元からそのコミュニティが、
つながりが強いエリアだったからこそというところもあるのかもしれないですけど、
その次の日、1月6日なんですけれども、
その時は岐阜県の緊急消防援助隊の活動を取材しまして、
ちょうど安否不明者の救助現場というのを取材しました。
現場は和島市の名舟町というところでして、
土砂に押しつぶされて、多分火事があったと思うんですけれども、
住居らしき場所で救助活動されているところを取材しました。
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その時はまだ煙がくすぶっている現場でして、
災因の方は放水しながら土砂崩れもあったので、
がれきを運び出したりしていました。
最初入った時はよくわからなかったんですけれども、
近隣の住民に尋ねると、その住宅は岸実の地震による土砂崩れで出火して、
5日間ぐらい燃え続けていたそうです。
この辺りは本来なら海から採水して放水するんですけれども、
よく報道されている通り、地面が地震の影響で隆起して、
海岸線が交代してしまったために放水が届かない状況になってしまって、
それで火を止められなかったというところでした。
現場は午後2時半ぐらいに入ったんですけれども、
夕方ぐらいには消防隊の方が火が燃え広がない程度まで抑えたんですけれども、
がれきの中からは焼け焦げた布団であったりとか、
家電製品とか、こたつのようなものがありまして、
震災の前までは当たり前の日常があったのに、
この一瞬で奪い去られてしまったんだなというふうに感じました。
焼け跡からはお年寄りとみられる2人の遺体が見つかりまして、
死因は土砂崩れによるものなのか、火災によるものなのかというのは特定できなかったそうです。
その時に隊員の1人にも話を聞いたんですけれども、
家族の心が少しでも軽くなればという気持ちで探してはいるんだけれども、
こういう形で見つかるとやはりやるせない気持ちになると苦しい胸の内を語っていました。
隊員が帰った後も遺族の男性がいたんですけれども、
家族と過ごした痕跡が残るがれきに手を伸ばしていました。
私は行ってないんです。2人は行った被災地に入ったと思うんですけれども、
一番取材している中で大変だったこと、もちろん被災者の方が一番大変だと思うんですけれども、
大変だったことって何かあったんですか?
行った時期がちょっと違ったりもするので、それぞれ大変さを感じるところも違うのかもしれないですけれども、
やっぱり問いでは困ったですよね。
1ヶ月経っても道の駅に簡易トイレが並んでいたりして、
そこを休憩中にいろんな方が使うみたいなことはあったりしましたけど、
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8歳5日目だとそういうことはなかったじゃないですか。
仮設トイレもまだでき始めているぐらいな時だったので、
どうしても遠慮を自分はできないなという。
そうですよね。避難所のトイレをお借りするなんていうこともなかなかできないです。
身を寄せている方優先というのはもちろんですから。
でもそうなってくると、うかつに水を飲んだり何か食べたり、
体の中に取り込むと出さなきゃいけないので、
うかつにやっぱり取り込めないなというので、
飲まず食わずにやっぱりだんだんなっていっちゃうというか。
ご飯を食べるところも汚いから持ち込んだ。
そうですね。持ち込んでいたカロリーメイトで。
私もカロリーメイトでした。
安心して体に入れられるというか、お腹壊したりすると完全にアウトになって。
被災地に入ると緊張状態でもあるので、なかなか喉に通らないというのもありました。
確かに不思議とあんまりお腹は減らなかった気がする。
日ずっと張っていたというかね。
被災者の方にも避難所に行って出会ってきたと思うんですけど、印象に残っている言葉とかはあります?
私が取材した中で言うと、野都町のところに職員さんも取材したんですけど、
その時は災害対策本部で活動されていたんですけど、職員の人も被災者で、
その人は和島に自宅があったそうなんですけど、自宅も反壊して、
その中でも家に帰れずに町の業務をやっているという、町民の方を助けるために動いているというのが、
でもこれが仕事ですからという言葉が、やるせない気持ちになりました。
そういう苦労されているということは、避難所の方、住民の方だったりとか、
皆さん理解されていて、それぞれ役割があるというか、
報道の取材者に対してもそんなに冷たくないというか、むしろあったかいぐらいで、
野都の人らしさの優しさと強さがあるのかなと思う。
岐阜の関係のある方には、私は最後まで出会えなかったんですけど、
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なかなかそういうアウェー感もないではなかったんですけど、
声をかけると本当に全くシャットアウトではなくて、
答えられないにしても冷たくあしらうみたいなことは全然されなくて、
ちょっと入ってこようみたいな感じで、避難所とかでも招き入れてくださったりとかして、
本当に皆さんお疲れのところだったと思うんですけど、
皆さんのことを思うと取材を受けているような余裕ってなかなかないと思うんですけど、
逆にむしろどんどん聞いてほしいという感じで、
こちらから声をかける前に向こうから向かってきてくださる。
ワンショーしているので、ワンショーを見て報道の人やっていうのを見つけている。
ちょっと聞いてくださいよみたいな感じで、近寄ってきてくださる方とかもいらっしゃって、
温かさに救われたという感じがありますね。
伊沢さんは以前は石川で仕事されていましたもんね。
岐阜新聞に入る前は、生まれは岐阜市なんですけれども、
石川県と富山県に新聞を発行している北国新聞というところにいたんですけれども、
そういうのもあって思い入れもあったので、被災地には行きたかったなという、
伝えたいなという思いはあったんですけれども、
本当にノトの方も同期がノトの方の市局にいたので、
よく遊びにはいっていたんですけれども、
本当に和島、特に和島とかもそうなんですけれども、
本当に海がきれいで、山もすごく素敵なところで、
その世を見ていた分、この変わり果ててしまった光景というのが、
本当にやるせない気持ちになったなという感じでした。
行くほどにショッキングな現場を目にしなきゃいけないですし、
目の前ずっと倒れている家屋が天面と連なっているというのを見て、
そこにカメラを向けなきゃいけないとか、
無表情で歩いている人に声をかけなきゃいけないという、
取材する側としての辛さみたいなものはやっぱりあったと思います。
被災地の取材でも特に印象に残っていたことがあって、
皆さんもよく耳にしていると思うんですけれども、
当時はノト地方で余震が断続的に続いていたと思います。
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私たちも日中動いている時は気づかなかったんですけれども、
私は車中泊をしていたので、車の中で座席を倒して体を横にすると、
小さい揺れが断続的にあるのを気づいて、
最初は何かわからなかったんですけれども、
これが余震なのかというのを本当に気づきました。
避難所でいられる方とか、ずっと寝ていられる方もいると思うんですけれども、
その中でずっと余震を感じているとなると、
本当に心への負担というのもきっとすごいんだろうなと思いました。
被災地に入った初日の取材を終えて、
5日に取材に入って2日目の6日の未明だったんですけれども、
その時に最大震度5強の余震がありまして、
その時私たちは野戸町にいて、震度3ぐらいのところまでには入れたんですけれども、
それでもこれ大きいなというふうに、
ちょっと海に近いところにもその時はいたので、ちょっと怖いなという、
その時も防災無線で津波の心配がありませんという、
そういうのが流れてきて、それでちょっと一安心したなというのがありました。
その場にいると、その今の揺れが果たして大丈夫なのかというのを知るまで、
本当に不安でしょうがないんですよね。
テレビでもずっとこう、よしんよしんよしんでずっとこう、かなり揺れる。
その中でもやっぱりさっきおっしゃっていたように、大きいのもあったじゃないですか。
ずっとだって、避難所とかでずっと寝ている間、ずっとこういう震度が来るって、
これが大きくなってまた同じような大きさの地震が来るかもしれないから、
そうですよね。
そうすると思いますよ、その気持ち的には本当に。
3.11の時がそうだったんですけど、東京にいたので、東京も結構余震があったんですよね。
1年、2年くらいあったんですけど、だんだん揺れてないのに揺れているような感じがしてくるんですよね。
ビルとかにいると、実際揺れる時って横揺れがすごくあったりして、
それを体感したこととかあったんですけど、
だんだん外に出るのも怖くなってくるっていうかね。
3ヶ月という締めに半島地震は入っていきますし、
33:05
なかなか元通りの暮らしに戻っていくのに、またまた時間が年単位で必要ということで。
岐阜県も石川県の隣ですからね、
なかなか岐阜新聞としてこれから何を伝えていくのかっていうのはね、
アイディ名分が難しいところもあるのかもしれないですけど、
林県ですから常ににはなりますし。
岐阜県だってね、この何回トラフ?
ずっと言われているので。
警戒を強いられ続けている地域ではあるので。
やっぱり個人的に、実は前の職場に入ってやっと地震って本当にやばいんだっていうことに、
それまでって正直あんまりちょっと遠い話ぐらいな感じだったんですよ。
前の新聞社は関西にあったので、
安心アワジを取り上げて絶対取材するんですけど、
自分の中で人の話をこの当事者に聞いたりとかしないと、
ずっと教科書で見ているだけのものな感じがしちゃうんです。
岐阜県の人も人ごとじゃないということを伝える役目が私たちにあるのかなというふうに思います。
自分ごとになっていかないというかね、体験された方に何らかの形で関わっている。
時間に関わるって難しい方も多いとは思うんですけど、
新聞はそのつなぎ役になれるというか、代替になれると思うので、
岐阜新聞としてもこれから節目節目で大抵言ったことがたくさん出てくるだろうなと思うので、
引き続きまた次の節目は誰が主題にいくことになるかまだ分からないですけど、
これからも被災地に思いを寄せていきたいなと思っています。
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