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#98【映画部】「黒川の女たち」▼なかったことにはできない。戦後80年のいま、考えたいこと▲
2025-08-23 1:20:24

#98【映画部】「黒川の女たち」▼なかったことにはできない。戦後80年のいま、考えたいこと▲

きょうも(ひとまず)映画部。今回のテーマは、全国で上映中の「黒川の女たち」。岐阜県白川町黒川地区から旧満州(中国東北部)に渡った黒川開拓団の史実をテーマにしたドキュメンタリー映画ですが、現代とつながる課題も見えてきます。女性たちの勇気を一緒になって伝え、過ちを繰り返させないためには。

【出演】山田俊介(報道部)田代理加(生活文化部)大賀由貴子(報道部)

★戦後80年に寄せて、あなたのメッセージを番組専用フォームへどうぞ(→https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeToaghzx1YR_2IYtxmJbt9Fofj5tsKLvYuLp4zFiC9VgQzTA/viewform?usp=sf_link

【関連記事】◆性暴力被害「未来へ真実伝える」 岐阜・白川町で映画「黒川の女たち」先行上映 家族らが思い(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/575166

◆黒川開拓団の悲劇残す 性暴力被害の女性取材を映画化「黒川の女たち」 松原監督インタビュー【ぎふ戦後80年】(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/568383

◆祖母の遺志つなぐ 故佐藤ハルエさん孫の3姉妹【ぎふ戦後80年 シン平和論】〈8〉(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/584373

◆「あんたがたには知ってもらわにゃいかん」 旧満州での性暴力被害を証言 佐藤ハルエさん死去(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/339848

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00:07
岐阜新聞ポッドキャスト▼ききかぢ、報道部、山田俊介です。
生活文化部の田代理香です。
報道部の大賀由紀子です。
よろしくお願いいたします。
ちぽれん映画部ということで、
映画部ばっかりやってるみたいな評判も立ちつつあるんですが、
今日も映画部なんですけど、
今日は戦後80年というところを捉まえつつ、
岐阜が舞台になっている作品でもあってということで、
ひとつ取り上げたいのが、
「黒川の女たち」という、今全国で上映中の
ドキュメンタリー映画ということですね。
あらすじからまず。
そうですね。
黒川の女たちのホームページから、
80年前の戦時から国策のもと実施されたマンモー開拓により、
中国、遥か満州の地に渡った開拓団。
日本の敗戦が色濃くなる中、
突如としてソ連軍が満州に進行した。
守ってくれるはずの関東軍の姿もなく、
マンモー開拓団は過酷な状況に追い込まれ、
集団自決を選択した開拓団もあれば、
逃げ続けた末に生き耐えた人も多かった。
そんな中、岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は、
生きて日本に帰るために、
敵であるソ連軍に助けを求めた。
しかし、その見返りは、
数えで18歳以上の女性たちによる接待だった。
接待の意味すらわからないまま、
女性たちは生の相手として差し出されたのだ。
帰国後、女性たちを待っていたのはねぎらいではなく、
差別と偏見の目、節操のない誹謗中傷、
道場から口を塞ぐ村の人々、
込み上げる怒りと恐怖を抑え、身を潜める女性たち。
青春の時を過ごすはずだった行く先は、
多くの犠牲を出し、今はどこにも存在しない国。
身も心も傷を負った女性たちの声もかき消され、
この事実は長年伏せられてきた。
だが、黒川の女性たちは手を携えた。
したこと、されたこと、見てきたこと、
幾重にも重なる加害の事実と、
犠牲の史実を封印させないために。
という内容です。
この、戦後80年というタイミングで、
いろんな戦争テーマにした映画が作られて、
上映されていますけど、
その一つに数えられるんだとは思うんですが、
まずその、マンモ改作という言葉ですよね。
これをまず知っておいた方が、
この作品を見る上では見やすいという。
そうですね。
下敷きにあった方がいいということで、
簡単にマンモ改作について説明してみますか。
03:02
そうですね。
マンモ改作って、いつ知りました?
あー、いつ。
ちょっとやっぱり後の方になる。
そうですよね。
高校中学でも、一応教科書の近現代の最後の方には出てくるんですよね。
でも、1分、2分ぐらいで。
傀儡国家満州国が成立したというあたりに、
マンモ改作、農業移民も行われ、
多くの日本人が渡り、引き上げに苦労したみたいな。
その一言ぐらいで済まされることが多かったかなと、
自分の時は思うので。
さらっと触れられてはいるけれど、
あんまり深掘りして触れる機会がない。
移民というと、当時ハワイ移民とかブラジル移民とか、
日本人が移民として渡った事業って結構あるじゃないですか。
岐阜県からもブラジル移民の人たちがたくさん行っていて、
向こうで本当に未開拓の土地を市から開墾してたというのがあると思うんですけど、
マンモ改作はそれとはちょっと違うんですよね。
その辺りをご紹介できればと思うんですけど、
先ほどのあらすじにも少しあったように、
黒川開拓団だけではなくて、
マンモ改拓自体が被害の面と加害の両面が複雑に折り重なっている、
という歴史の史実なんですね。
まずちょっと歴史の勉強みたいになるんですけど、
日露戦争の、日本とロシアの戦争ですね。
これの後に、今の長春、当時は新京と言われていましたが、
長春より南側の鉄道の権利を日本が獲得して、
中国の東北部というのが軍事的に重要なエリアになるんです。
地図持ってきたので、せっかくなら。
満州って中国のすごい端っこなんですけど、
本当に地図だね。
そうなんですよ。
満州開拓民入植図というのを大笠さんが広めています。
いっぱいこの黒い点が全部、日本から入植した開拓団の場所なんですけども、
これ全部、このエリアっていうのは万里の頂上の外側になるんですよね。
なので、万里の頂上ってあれじゃないですか。
万里の頂上の外から他の異民族が襲撃してくるのを阻止するために築かれた軍事的な砦で、
その外にあるいろんな民族が歴史的に行き来したりしている空白地みたいなところだっていうのが、
一つ満州の特徴なんですね。
06:02
その中国東北部が軍事的に重要なエリアとなって、
日本軍がいわゆる満州事変ですね。
南満州鉄道の線路を爆破して、
中国の仕業であるというふうに仕向けて進行するということを起こして、
傀儡国家の満州国を建国したっていうのが満州で起こります。
一方で当時、日本の国内の農村では明治時代の近代化を支えた
精子業とかおかゆ子を育てる量産業というのが世界恐慌の影響で一気に衰退しまして、
経済的にかなり疲弊している状態だったんですね。
でも一方で近代化によって子どもがたくさんいる家庭が多くて、
でも土地もない、養産も儲からないというような状況になっているところで、
この満州を実質統治をしている関東軍、日本陸軍の部隊になるんですけど、
この関東軍が満州に日本から移民を送ればいいじゃないかと、
その経済的に困っている人たちを満州に送り出して、そこに住ませれば日本の経済復興にもなるし、
しかも満州国の軍事的な守りとして利用していればいいじゃないという、
満州農業移民100万戸移住計画というのを打ち立てまして、
これを日本政府は採用して、実際に農村の地難、産難を中心に旧満州、今の中国東北部に送り込み、
土地を開拓させ、農業をさせ、またその生産物を戦争にも活用していくというような計画を立てました。
国が企画したものですから、国から補助金が出て、各都道府県が主導として、
うちの県でも移民計画を立てるぞということで、それぞれに計画が立てられていきました。
日本から約800の開拓団が満州に渡りまして、
人数としては27万人の日本人が満州に渡っています。
岐阜県からも1万2千人が渡っていて、意外と全国で7番目に多い。
結構上の方に多いですね。
やっぱり農村地というのもありますし、それだけ多分政治家がやる気があったんですかね。
実際に本当に空白地みたいなところだったので、
荒野を実際に開拓したというケースも、特に初期はあったみたいなんですけれども、
多くは現地にすでに住んでいた人の土地や家屋を関東軍が安く買収してしまって、
強制的に立ち逃せたところに開拓団を住ませるという、
09:03
そういうやり方をしていることが多かったみたいです。
なので実質的な侵略ですね。
開拓団員の人には、それを薄々分かっている人もいれば、
行って初めて知るという方もいらっしゃったようなんですけれども、
結果的に日本の侵略に加担してしまったというのが、開拓団の加害の側面であります。
開拓団的にはすでに耕された農地で、
じゃがいもだとかトウキビ、コウリャンって向こうで呼ばれていましたけど、
収穫するということで、日本にいる時よりもたくさんたくさんじゃがいももトウキビも取れて、
すごく豊かだったということをおっしゃる方は、黒川の方でもいらっしゃいます。
すごい生活自体は良くて、国民学校も作られたりして、
近くの川でみんなで魚釣りしたり遊んだり、鉄道もしっかりしているので、
駅の周辺にはそれなりのいろいろな施設とか建物も建ったりして生活をしていたんですけれども、
太平洋戦争の戦況が悪化するにつれて、開拓団の中でも日本人男性を全て収集してしまう。
18歳から45歳全員収集という寝こそ偽動員と呼ばれる集中的な収集が行われて、
昭和20年の頃には開拓団にはお年寄りと子どもと女性しかいなくなるという状況になっていました。
そこに8月9日に日ソ中陸通条約を一方的に破棄したソ連が満州急満州に進行してきまして、
何も知らされていなかったそこにいた開拓団の女性たち、お年寄りたちが大混乱に陥って、
ソ連軍から略奪を受けた人もいれば、性的な暴行を受けた人もいるし、戦闘によって亡くなった方もいます。
途中から鉄道も動かなくなりまして、徒歩で皆さん避難を余儀なくされました。
加えて土地や家屋を奪ってそこに住んでいるものですから、
一部の現地に住んでいた方というのは日本人のことを恨んでいまして、
その恨んでいる現地の住民の方の一部が冒頭化して、その人たちの襲撃に遭って殺された人や、
もうこれはここまでだと思って開拓団ごと集団自決したという集落も、
岐阜県から渡った開拓団でもあります。
12:01
この頃になると内地は、日本国内は終戦を迎えていたんですけども、
満州では相変わらずそういった混乱状態が続いてまして、
とにかくどうするかというのは、中国あるいはソ連、日本の間で話し合いになっていたんですけども、
結局日本政府はそこに住んでいる人たちをちょっとそのままいてくださいということにしたんですね。
つまりあなた方はそこで生き延びてくださいと。
帰る手立てはないけど、とりあえずそこで生き延びてください。
本当に手放してしまったような感じになって、結局避難民収容所みたいなものは設けられるんですけど、
そこで満州の方って冬になると氷点が30度以下まで下がるらしいんですね。
そういった過酷な状況で過ごさないといけなくて、
発心チフスのような伝染病もすぐに広がって、
その冬の間だけで多くの方がまた亡くなることになりました。
このままだと子どもも生き延びれないということで、
現地の人に自分の子どもを売って、自分の子どもだけは何とか食べさせてくださいということで、
子どもを売った人だったり、自分の親が死んでしまって孤児になってしまったという子どもたちが、
戦後に中国残留孤児と呼ばれる置き去りになった子どもたちということで、
また別の社会問題にも発展していきます。
46年の5月になって、中国とアメリカがちょっとこの状況はまずいよねということで話し合いをしまして、
難民状態になっている日本人の民間人は、
満州の南部の港、端っこにあるコロ島というところがあるんですけれど、
そこから中国とアメリカで船を出しますから、
ここから帰ってくださいということで、
皆さんここに、この港に集まってくださいということで帰国事業が始まりまして、
ようやく終戦から1年経って、満州の人たちを引き上げることができました。
その間にも特に女性の場合は、
逃避港中に現地の人だったりソ連兵だったりからレイプ被害に遭うということも多くて、
よく聞くと思うんですけど、女性は子どももみんな髪を丸刈りにして自衛するということが当たり前に行われていたんですけれども、
それでもやはり被害に遭ったことで妊娠をしてしまって、
その道中将来を悲観して飛び降り自殺をしたというような話もありますし、
博多港に船が着くんですけど、博多で引き上げた後に、
妊娠をしている人は密かに中絶手術してあげますからということで、
15:03
日本の政府によって中絶施設を設けられて、
そこでかなりつらい、中絶手術自体が痛みを伴うものだと思いますけど、
そういった手術を受けて、自分のふるさとに帰らざるを得ないという方々もいたというような歴史があります。
なのでマンモ開拓には、日本政府に見捨てられたという被害者の面もあって、
実際に多くの人が亡くなっているわけではあるんですけれども、
そもそも満州にたどり着いた背景として、
現地の人の土地や家を奪ったという加害者としての側面もあるという複雑な背景があるんですね。
戦後、多くの人は亡くなってはいるんですけれども、
結局その過去のことを語りづらくなってしまって、
開拓団員自身も語りづらいし、
政府も開拓団員も被害者だけとして取り扱うと国際問題上難しいというのもあるし、
一方で開拓団員の中には当然日本政府に怒っている人たちもいるわけですよね。
なので非常に国にとっても不都合な真実になっているというところが、
なかなかマンモ開拓について語られにくくて、
おそらく教科書でもあまり取り上げられていないという背景なのかなと思うんです。
ただ今回の黒川開拓団の話を通して、
すごくマンモ開拓というのがもう少し親しみというか、
少しマンモ開拓に関心を持つきっかけになっているんじゃないかなと思っていて、
なのでぜひこの映画を通して、
マンモ開拓に参加した方々の他の開拓団の証言だとかも、
ぜひ関心を持ってちょっと見ていただけるといいなと思って、
ちょっと長くなったんですけど、ご紹介しました。
黒川の女たちという作品の前半部分がね、
割とそういう歴史のところを、
帰りに行って説明するというところに割いている部分があったかなと思うんですけど、
それって、そうやって語られにくくなっていった経緯を説明する部分でもあったのかなと思って、
本当にその前半部分でそういったところの説明があったというのは、
すごく大事だったかなというふうには思いますよね。
中盤以降でその接待、いわゆる黒川開拓団の幹部が、
未婚の18歳以上の女性たちを対象に、
ソ連軍商工に性的な接待を強いるという、いわゆるそれを接待と呼んでいるんですけど、
その接待の被害に遭ったということで、
18:00
多く登場している佐藤春江さんという女性の方、証言を続けた佐藤春江さんですら、
やはり加害者である側面があったというのを見落としてはいけないというか、
その配慮が冒頭の長い歴史に関する下りだったのかなという気はしますね。
でもあそこの説明があるからよりわかりやすいというか、
伝わりやすい作品になっているかなとは思いましたけど。
そもそもそれがあったからこうなってしまった、その後の悲劇に繋がってしまったという、
前提の部分を整理しておくという。
そうですね。
映画、まず見てみての感想みたいなところを少し語っていただけますか。
感想一言で全然言えない。
それはありますね。
終わった時にいろいろありすぎて、
ただ何か1500円で2時間すごい価値のある時間になったんじゃないかという感想になっちゃいます。
一言で言おうと思うと。
そうですね、やっぱりなんだろう、
そういったタブーを打ち破って言い残そうとした勇気というか、
それを伝える、なかったことにしない、伝えたということの意義をすごく感じましたよね。
なかなかそれって誰でも同じ立場になった時に証言できることじゃないと思いますし、
その人が証言する勇気を持ったことでいろんな人がそこに寄り添って、
私たちも一緒になって伝えていこう、その力になりたいというふうに人が集まってきたという過程がうまく映像に残っていたという感じがしました。
ただ一方で、なんでそれを証言することにこれだけの時間がかかってしまったかということですよね。
晴江さんが大焼けの場で初めて話したのは、戦後70年とかそのぐらいのタイミングだったんでしたかね。
2013年。
確かにその前にも語ろうとした機会がなかったわけではないけれど、
それが同じ村の人たちが雑誌を焼いてしまったとかね。
語る勇気を持たないといけなかったんで、それを表にするためにこれだけの時間がかかってしまったっていう地域社会の負の部分っていうんですかね。
なかったことにしようとした層も一方ではあったんじゃないかなっていう。
そこのもどかしさもすごく一方では感じましたね。
21:04
実は私は2018年の時から、なのでこの映画が撮られ始めた少し前、本当に数ヶ月前ぐらいからですね、
黒川開拓団、黒川文村遺族会の取材をさせていただいているんですけど、
なので映画を見て、まず初めにその映画が始まって、
黒川地区、旧黒川村の宇治神さんですかね、桜田神社の境内がパッと映って、
徐々に徐々にズームインして、乙女の日にズームインしていくんですね。
その合い時に佐藤春江さんの声がそこにかぶさって流れた瞬間にもうなんか涙が出てくるというか、
すごい春江さんがこの映画では生きてるんだっていう感じがして、まず本当に心をつかまれましたね。
なので2018年から2024年ぐらいまでの映像ですかね、
本当にこれまでの取材を通して見てきた黒川の遺族会や女性たちの歩みの思い出のアルバムのように感じて、
すごく感慨深かったですし、本当にそういう風に遺族会の中で悪戦苦闘していたり、
あるいはその黒川開拓団という内部の複雑な人間事情がここの映画にはその一部が出てると思うんですけれど、
その複雑なミクロな人間関係がこの映画という形になって、
一つの普遍的な救いにつながる物語と希望を持った物語に変わっていったということに、
本当にこの映画の価値はあるなという風に思いました。
今、しゅんすけさんがおっしゃっていた遺族会がかつてはなかったことにしようとしていたというところは、
私もずっと考えているんですけど、少し丁寧に見ていく必要があるかなと思っていて、
遺族会は引き上げ後に、戦後に発足するんですけど、
会長さんは4人これまでいるんですね。
最初の会長さんは開拓団の幹部だった人です。
24:04
開拓団の幹部で接待の呼び出し係をしていた男性です。
なので完全に開拓団で発言力があった人が、戦後にもそのまま発言力を持っているという状態ですね。
その後に当時開拓団にいなかった男性、招集されて戦地に行っていた男性が次に遺族会長になります。
その後その方がすぐに会長を下りられて、その後になったのが当時開拓団で小学校6年生だった男性。
これが3代目の遺族会長になります。
その方が推薦して今の4代目の戦後生まれの藤井博之さんという会長になります。
こういう流れなんですけど、実は当時接待が行われる時に、
開拓団の副団長しかいなくて団長さんは招集されていなかったので、
副団長さんが晴江さんたちに戦後のことはしっかり面倒を見る、保障すると。
だから何とか接待に出てくれって言って説得するんですね。
実際に日本に帰ってみたら、そんな説得なんてものはなかったという風に語られていると思うんですけど、
それどころか誹謗中傷を受けたと。
実はその誹謗中傷した方の一人が1代目の開拓団の遺族会長なんですね。
この遺族会長さんは吉子さんに、お前好きやったやろみたいな、
吉子さんはちょっと年齢が上だったのもあって、
ボスみたいな感じだったんですね、その女性たちの中でも。
なので自分より年の小さい子が本当に苦しんでいるのを見兼ねて、
私が代わりに出たるって言って代わりに接待に出たこともあるぐらい、
本当に面倒見の良い方だったみたいで、そんな吉子さんに対して、
お前はソ連兵が好きやったんでたくさん出たんやみたいなことを言われて、
それが問題になったんです。それはおかしいやろって。
開拓団で小学生ぐらいだった男の子だった人と、吉子さんが一緒になって、
それはおかしいって反論して、遺族会長は降りることになったんですね。
次の遺族会長は、当時開拓団にいなかった遺族会長が、
その事実を全く知らなかったんですけど、
それをある時、日中ここを正常化して、黒川開拓団として、
また再び開拓団が入職した当来省という土地に行った時に、
吉子さんが当時実際に接待の被害を受けて、
私とは違って現地で4人の娘たちが亡くなっている。
27:04
その娘たちをお祭りしたいんだっていうことを聞いて、
初めてそのことを知って、これは何とかしなきゃということで、
乙女の日というのを立てられたんです。
その会長さんがまたすぐ降りて、今度藤久さんという、
当時小学生だった会長さんになるんですけど、
この会長さんも乙女の日の秘文を作ることは断固反対ということで、
その意思は変わらず、確かにおっしゃる通りで、
そういうふうに主張して反対されていたんですけど、
一方で吉子さんたちの女性たちの集まりにも誘われて顔を出していたりとかして、
一定の信頼を得ていたような証言もあるんです。
なので少しずつ世代を交代しながら、
ちょっとずつその時にできる女性たちへの寄り添い方をしていた側面もあるんですよね。
なんですけど、でもやっぱり限界があったんだろうなと思いますね。
それは社会の女性たちに対する偏見なのかもしれないし、
それだけじゃないのかもしれないですけど、
実際に春江さんが80年代に林育さんというノンフィクション作家から取材を受けて、
インタビューに答えていて、その時にはもうすでに私は実名を出していただいて構いませんとおっしゃって、
もうすでに証言をされているんですけど、
春江さんがおっしゃるには、他の女性たちもインタビューしてその内容の記事になっているんですけど、
他の女性たちから、やはりまだ子供が小さいので名前とか開拓断面を明かしてほしくないというようなお願いがあって、
結果的には春江さんの名前も含めて匿名になったという経緯もあって、
やはりその遺族会に課題があったことは間違いないんだろうなと思うんですけれども、
それだけじゃないんじゃないかなというのが、私の受け止めです。
私もちょっと真尾さんに近い部分があって、
社会全体がまだその戦後50年60年の時にこの方たちが証言しても、
受け止める土壌はなかったんじゃないかなと思って、
今70年80年になって、ちょっとその歴史の検証みたいな部分に受け止め側がなってきているからこそ、
今こうやって受け止めていこうという流れになってきたんじゃないかなという部分も1個感じましたし、
30:04
やっぱり証言している女性たちみんなすごい良い表情なんですよね、スクリーンの中で。
さっきもおっしゃったように子供が小さいからとか、
先が長い時はなかなか言えなかったんじゃないかなって、
だいぶ行き切ったぞっていうところで、
なんかこう喋れるっていう、そんなあれも受け止めました、スクリーンを見ながら。
年を重ねて、重ねる中でその心境の変化があって、
人生を振り返った時に、このまま語らずして旅立ってしまっていいんだろうかみたいなこともあったのかもしれないし。
でももっと早くこの時代が来るべきだったなというのは本当に同意で、
やっぱりこの安江玲子さん、最後にこやかな晴れやかな、
お孫さんから葉書をもらって嬉しそうに咲いていた安江玲子さんは本当に最近もPTSDに苦しんでいらっしゃっていて、
90代を越えてもやっぱり寝てパッと目が覚めるとか、
当時のことをフラッシュバックするとか、ベルトのガチャガチャっていう音がフラッシュバックの弾き金になるっていう、
かなり生々しい心の傷を負ってる方だったので、
そんなに70年、80年も苦しませてしまったことに申し訳なさを感じるし、
本当にもっと早くに苦しみから少しでも解消されてほしかったなっていうのはすごく思って。
やっぱり玲子さんの場合は、お孫さんの手紙の存在がすごく大きかったんだと思うんですよね。
あれですかね、映画の中でも出てきますかね、
玲子さんは接待を受けたこと、汚いと言われると思ってたっておっしゃってました。
なので、すごく性暴力に対するスティグマを負ってたんですよね。
それできっと、実は別の方も同じようなことをおっしゃってて、
慰安婦問題で、
キム・ハクスンさんという元日本軍慰安婦の方が初めて実態を証言したときに、
それを聞いてた家族が、慰安婦に対して暴言を吐いたんですね。
恥ずかしくないのかね、こんなふうに人前に出て。
それを聞いた瞬間に、私はもう一生言わないって決めたって。
当時は言ってて、やっぱり家族の理解がないことが、
より絶望を増しますし、一方で家族が理解してくれることが、
33:05
ものすごく救いになるんだなっていうのは、すごく感じましたね。
最初は、顔も名前も出したくないっていうところから、
段々と明かす範囲を広げていく過程っていうのも、
一人の証言者については、この作品の中で、
そのプロセスがたどれるっていう点でも、すごく記録性が高いなというふうに感じる部分なんですよね。
皆さん、いいことを言ってるんですよね。
本人さんたちだけじゃなくて、
例えば、春江さんのお孫さんたちとかも、
伝えてくれる人を探してたっていう、コメントもすごい印象的ですし、
安江さんの息子さんも、日本の祝図みたいな、それもすごい印象的でしたし。
そうかとはされてないっていう。
この、非に反対されてた藤井さんも、
それなりに自分なりの正義はあるんだろうなっていうのも感じましたし。
藤井久志さんが反対されてた方なんですけど、
久志さんはまさに、2代目の会長さんと一緒に、乙女の日を作った人でもあるんですね。
当時の女性たちや、女性たちの遺族や家族とも話し合いをしていて、
その当時は、表に出してほしくないと望んでいた女性たちや家族たちがいたんだっていうことは、
すごく強調しておられて、
その時の約束を破るわけにはいかないんだというような話はされますね。
私、映画を見て改めて思ったんですけど、
なんで接待の対象って未婚の女性だったんでしょうねって。
そもそもその前提がね。
今やったら、結婚して子供がいるんですけど、
でも30、半ばなわけですよ。
今後10代とか20代の子たちがこれから子供を産んでくれるみたいな、
純粋な生産性で言ったら、30、半ばのおばさんが、
私が代わりに出るでいいわとかって言った方が合理的だなって思ったんですよ。
特攻隊とかもよく若者が取り上げられるけど、
特攻隊だって予備役のおじいさんたちが行った方が合理的なんじゃないかなって、
36:00
すごい残酷なことを考えて調べてみたら、
特攻隊は当初は予備役を最初に招集してたみたいで、
やっぱりそういった方々が行かれてたりもするみたいなんですね。
かたやなぜ未婚の女性だったんだろうっていうのはすごく。
何の線なんでしょうね、そこ確かにね。
一応団長は当時猫足動員で、
みんな世帯主である父親夫が不在な状態だったんですね。
なので旦那さんが不在の時に奥さんを勝手にそういった場に借り出すのはできないっていうのが一つの理由だったんです。
なのでやっぱり当時の家不調性っていうのがすごく影響していて、
妻は夫の所有物みたいな認識ですよね。
だから誰の所有物にもなっていない娘なら影響がないっていう、
そういう感覚だったんですよね。
だから多分黒川の開拓団の中にも、
未婚の女性と寄婚の女性の間にまた差別と格差というのがあったんですね。
それって寄婚の女性は守られて、未婚の女性は守られないっていうことではあるけれども、
寄婚の女性たちは女性たちで、やっぱり戦時中なので子供を産み、たくさん子供を産んで働いて、
そして夫のいない住房を守るみたいな役割がすごく求められていて、
マンモン開拓では大陸の花嫁事業っていうのもあって、
開拓に行くのはどうしても男が多いんですよね。
マンモン開拓団に参加するのは男が多いので、
すごい二重丁部とかですかね、広い畑をあなたにあげますって言って、
やったーって言った男性はそこの土地を耕してやるんですけど、
やっぱり子供が産まれないとどんどん先細りするっていうのもあるので、
その開拓団員のお嫁さんになってくれる人を日本本国で募集して、
満州に花嫁さんを育成する学校を作るんですよ。
それが開拓女塾っていうところで、
実は佐藤春江さんと安芮玲子さんもそこの出身なんですね。
なので春江さんと玲子さんは黒川開拓団で行ってるんですけど、
年頃になったので開拓女塾で勉強してきなさいということで、
ちょっとこれは田代さんがピンとくるかもしれないんですけど、
河原涼草女塾っていうところに行くんですね。
これは偶像師を担当されてた田代さんならピンとくるんですけど、
偶像村開拓団というところにありまして、
39:02
涼草といえば。
涼草精神って何ですか?
涼草精神なんだろう、精神。
ちょっとパッと出てこない。
なんか、死もしのいでだ。
そうです。
昔からその偶像村は、その涼草隊っていうのがいて、
あれは幕府?
涼草隊は、母親戦争の時に旧幕府軍に就いた人たち。
そうですね。結局敗れて、旧幕府軍に就く時に、
脱藩しているので、戻らずにそこで亡くなられたっていう悲しい歴史があるんですけど、
脱藩させた偶像村の方々は、その涼草隊の精神を大事にしようとおっしゃって、
涼草精神とか涼草魂っていうのは非常に尊能上位みたいな気持ちなんですかね。
耐えてしのいで花を咲かせるみたいなところですよね。
その精神が実は偶像村では、万毛開拓の移民を送り出そうっていう力になったんですね。
なので偶像から大量の開拓団が出てるんです。
その偶像村開拓団という現地の開拓団に、高和涼草女塾というところが作られて、
晴江さんや玲子さんたちは花嫁修行と農業の修行をしたっていう歴史があるんですよね。
たぶん映画の中でも河原塾長というおひげが長い塾長さんがおられて、
その方が晴江さんたちが卒業するときに負けたら、日本軍は中国でも女性たちにひどいことしてきたと。
だから日本が負けたら、あんた方もそういう目にあうかもしれんから、それは覚悟しとけよっていうのを。
ありましたね。
そうおっしゃるんですね。
それも大陸女性としての、大陸婦人としての一つの心構えだみたいな風に教えられてたんですよね。
かたや既婚女性がそういったものを求められる一方で、未婚の性的に消費される女性みたいなのが切り捨てられて別であるっていう。
やっぱり日本軍には慰安婦がいたわけですよね。
そういった人たちも性的な役割を求められてるっていう、すごくこの2つの女性が結婚してるかしてないかによって、
2つの役割っていうのが戦場で求められるっていうのが大変になってるなっていう感じがしますね。
あとちょっと話は変わるんですけど、私映画見ながら1個気づいたのが春江さん1925年生まれて、
42:04
私の実家の亡くなった祖母も1925年生まれてはほんまない年なんだと思って、
それに気づいたらより春江さんもしかしたら同じ世代だったからそうなってたかもしれないっていう風に、
気づいたらすごい親近感じゃないですけど、より入り込むっていうかそういう感じにもなりまして、
今お孫さんたちが意思を引き継いで何か行動しようっていう動きがあるんですけど、
やっぱり私の祖父母も大体戦時下の世代になって、今孫の世代って大体40代30代50代ぐらいになるんですけど、
やっぱりその世代が何かをつないでいかないと終わっちゃうなっていうことにも気づいたんですよ、その映画を見ながら。
なので本当この春江さんの孫さん三姉妹の今後の活動を見守りたいなと思った時代です。
そうですよね。
三姉妹はね、この間の新変異バロン企画の中でも三姉妹が登場する回がありましたけれど。
坂木原記者が担当してくれまして。
その孫世代が何か各家庭でも聞き伝えの話を伝えていかないと本当に終わっちゃうんじゃないかなっていう。
そうですね、なんだかんだやっぱり今の20代はそれがない人も結構いて、
私は30代ですけど、やっぱり同居してた大正生まれの祖母からは風習の話は聞いてましたし、
祖父は生まれた時には亡くなってましたけど、祖父が戦地でどんなことをしてたとか、
復印する時どういう状況だったとかっていうのは何となくやっぱり断片的には聞いてて、
記者として記事にはできないレベルの断片的な情報ですけど、
それでも語り継いでいくってことってすごく大事なんですね。
すごい私たちって貴重な世代なのかなっていうのを。
本当にこの80年のタイミングになってすごく感じますね。
結構その新平和論の原稿を書き上げてデスクが、
佐藤聖子さん、えりさん、三尾さんの3姉妹、晴れさんの長男の茂木さんの娘さんの3姉妹になるんですけど、
この方々が素晴らしいことをおっしゃってるんで、どうやったらこんな気持ちになるんだろうねっていうのを、
素朴な疑問としてデスクが言っていて。
そういえばと思ったのが、安江泉さんも実は2017年になるまでは、
遺族会とすごい疎遠だったんですよね。
安江泉さんは安江義子さんの息子さんなんですけど、
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安江泉さんは遺族会に対して長年不信感を持っていて、遺族会と距離があったんですけれど、
あるきっかけで今の遺族会長の藤井博之さんと話すことになって、
その誤解が解消されていったっていうのが、映画でもお話が出てくると思うんですが、
そのきっかけっていうのが、2017年のNHKのETV特集、告白っていう番組なんですね。
この時に河目組ディレクターが黒川開拓団のことを取材する中で、
すでに亡くなられていた安江義子さんの取材を深める中で、
安江泉さんという息子さんに突き当たって、
泉さんからお話を聞き、藤井博之さん、博之会長との仲を取りもったんですよ。
それによって安江泉さんは遺族会の活動に関わるようになっていったんですね。
その泉さんに、なんで今一生懸命やってるんですかって聞くと、
取材をされるために、義子さんあの時どう思ってたんですかねとか、
義子さん何がしたかったと思いますかとか、
泉さんこれから何がしたいんですかっていうのを絶えず問い直されると。
それを聞かれるほどに自分の中で考えがどんどん深まっていくんだっていう話をされていて、
なので我々がやっている報道自体が何か、
ご遺族の方の気持ちを呼び起こしたりとか、
自分のお父さんお母さんおじいさんおばあさんへの思いを深めるような
きっかけになっているんだとしたらすごく嬉しいなって思いました。
そういう場があるっていうのはやっぱり大事なことなんでしょうね。
それがきっかけになって自分もちょっと喋って話を残しておこうかなという気持ちに繋がっていく。
それもこれもやっぱり場がないとそういうきっかけが作れないわけ。
作りにくいわけですからね。
そうなんですよね。黒川は場があるんですよね。
2年に一度の慰霊祭を今もずっと続けていて、
確かに本当に間もなくあと10年したら本当に当時黒川開拓団に参加した方はいなくなるかもしれないですけれど、
それでもこれからもずっと慰霊祭は続けるってひろゆき会長はおっしゃってるんですよ。
それは場が大事だっていうことだと思うんですよね。
私が初めて慰霊祭に行ったのが2018年の春だったと思うんですけど、
まず慰霊祭は神社、桜田神社で白川町らしく幹主と神職さんとお寺の住職さんが同席してやるんですよね。
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あのあたりの特集なんですけど。
それが終わって終わったと思ったら、この後直来やでってなって場所を移して、
そこから直来が始まって、そこからが本番なんですよね。
でもみんなずっと満州の話をしてて、
お調子者で有名な安井よし子さんの弟さんがいるんですけど、
映画でも出てたと思うんですけど、
満州国の歌を一気に歌える。
びっくりした。
すごい。
でもそれで盛り上がってっていうのがおそらくですけど、
多分きっと70年以上続いてたんだろうなって思います。
それがここ最近は、
とらじさんがあえて歌ったりっていうのはないんですよ。
でもこの間この黒川の女たちの上映会が白川町であった時に、
やっぱり直来がありまして、
旅館で直来があったんですけど、
その時に深夜まで残っていたのが安井泉さんだったりとか、
映画にも出てますけど、関東の方の高校では、
黒川開拓団のことを歴史の先生が教えてるんですよね。
その時に授業を受けて、今大学生になった子たちとかが、
20歳は過ぎてますけど、へべれきになってボーっと立ってて、
そこに研究者とかも入って、
あの時吉子さんは一体何を考えてたんだみたいなのを、
日付が変わってもずっとみんなで話してるんですよね。
多分そういった場での対話とか営み自体が、
何か継承になってるんじゃないかなってすごく思ったし、
同時に、この間に私一人がいるのはもったいないなってすごい思って、
やっぱり大学生が来てるように、
岐阜新聞の若手の記者もやっぱりここに連れてこないといけないなっていうのも、
すごいこの間思いました。
そういう機会がやっぱりほんと少ないですよね。
上映会には当事者の方々が来られたんですか?
皆さんちょっと参加はかなわなくって、
田津さんもね、頑張るぞっておっしゃってましたけど、
ちょっと体調今崩されていて、
菊美さんが来られましたね。
菊美さんは当時、女性たちのためにお風呂を焚いたっていう証言をされてる方ですね。
小学生だった方ですけども。
戦争の話ってね、やっぱり親族、身近なところから聞いたことがあるっていう方、
そういう経験ある方多いと思うんですけど、
やっぱり戦後80年、次の節目、次の節目って考えていくと、
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直接の経験を語れる方っていうのが少なくなっていく中で、
身近な方だけではなかなかその証言が伝わっていきにくくなってしまう。
どんどんその伝わりづらさっていうのが増していってしまうのが、
これからの時代だと思う中で、
やっぱりこの黒川のように、直接の親族だけじゃなくて、
いろんな研究者の方だったりだとか、大学生の方だったりだとか、
メディアの方だったりだとかっていうのが、
どんどんその伝えてを引き受けていくっていう動きに
つなげていくことが大事なんだろうな、
黒川ではそういったことが起きてきているというかね、
みんなでそれを語ろうとしている、つないでいこうとしているっていうのが、
一つこれから他の戦争の経験を伝えていく上でも
大事なスタンスなんじゃないかなというのは思いますね。
記憶と歴史の今、狭間となれば、
あと10年後にはもう歴史になってしまうのかなっていう、
今その貴重な時間を大切にしたいかなと思いますね。
そうですね。
親族だけじゃなくてもいいわけですからね。
親族だから言えなかったっていうのも、
ハレーさんはやっぱりあると思うので、
しげきさん、息子のしげきさんは聞いてないんですよね。
ハレーさん、しげきさんのお姉さんには
ハレーさん、少し話してたんですけど、
やっぱり他の女性の方でも子供には言ってないという方は
今もおられるので、家族だからこそ話せないっていうのも
あるのかなと思います。
だから本当にいろんな人が聞くことに意味があるというか、
家族には話せないけど語りたいと思っている人もいて、
家族じゃない人が聞いたものによって
その方の家族の気持ちも変えるというか、
いうことも起こり得るっていうことなのかな。
第3者だからこそ力になれる部分っていうのもあるわけですよね。
大賀さんは実際に中国まで行かれたんじゃないですか。
はい、行きました。
いつ頃でしたか。
2019年に久々の法中団が作られまして、
その時に同行させていただきました。
接待があった国民学校の跡を見たりとか、
集落を回ったりしたんですけれど、
やっぱり印象的だったのは、
東来省があった松原市、
吉林省の松原市というところにあるんですけど、
この松原市と白川町が戦後交流を深めて、
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青少年交流をしてたんです。
長く派遣事業をしてたんです。
入職したっていうことをきっかけに、
戦争を二度と起こさないということで、
お互いに学生を送り合って、
泊まらせてっていう青少年派遣事業をしてたんですよ。
それが一つの成果として形に残そうということで、
東来省に日中有効の日を作ったんですね。
作ったんですけど、
それが尖閣諸島の国有化問題で、
石原慎太郎都知事が言い出して、
その後政府が尖閣諸島を国有化してから、
一気に日中関係が冷え込んだんですね。
戦後最悪と呼ばれるまで冷え込んで、
それが今も続いている状態で、
最近何か変わり始めているという感じなんですけど、
それによって火が壊されました。
それは誰が壊したのかもわからないです。
松原市の人も電話に出なくなって、
遺族会と友人関係を結んでいた方とかも、
行政の方は電話一切出なくなったので、
全く真相はわからないんですけど、
そういった政局に左右されるという側面が、
やっぱり中国という国家にはありますし、
あとはやっぱり忘れちゃならないのは、
どこまで行っても侵略したという過去があるということですよね。
当来省にあの火が立ったときに、
怒りを感じたり、悲しくなったりした人が、
もしかしたらいたんじゃないかなとも想像するんですよね。
自分の父親やおじいさんおばあさんの世代に、
何か被害をこむった方がいたのかもしれなくて、
市民感情としてもしかしたら壊したのかもしれない。
でもなんていうか、本当に草の根の運動って、
あけなく崩れてしまうなという悲しみも感じつつ、
でもやっぱりこれを繰り返していくことが大事だし、
この黒川の遺族会の歩みも、例えば玲子さんとの関係も、
やっぱり泉さんと同様に開拓団や遺族会に対して
非常に不信感を持っていて、一生懸命仲良くしようとするんだけど
うまくいかないというのが繰り返されていたり、
あるいは遺族会の中でも、当時開拓団の中で
誰が先に逃げたとか、そういったときのちょっとした
恨みみたいなものが、今も人間関係の中に少し残っていたりして、
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それが少しトラブルになったりとかっていうのを
乗り越えながら、ちょっとずつ今まで歩んできたというのがあるんですよね。
だから、これは悲しいけど、これで
なんてことをしてくれたんだと怒るのは、やっぱりおっかの違いだし、
それでも、何か友好を結んでいくやり方を考えないといけないんだろうな
というのをすごい思いました。
本当に粉々になっていて、破片も一つしか見つからなくて、
基礎からなくなっているんですよ。
しかも、その周りを覆い隠すように植林もされていて、
外から道沿いに建てられていて、すごく目立つところに建てたんですけど、
道側から見えないようにするためなのかなと思うくらい、
周りを囲うように木が植えられていたんですよね。
どうしても、破礼さんたちの話になると、被害のことに頭が行くんですけど、
やっぱり、我々報道機関としても、両側面を捉えておかないといけないなというのを感じました。
確かに、加害の部分が改めて変えりみられる、そういう事象でもあるかもしれないですね。
そもそもなんですけど、15人を差し出せというふうに迫られた時に、
他の選択肢を模索するという余裕はないんだろうけど、
ここで例えば、仲間を守るというアクションを少しでも取った形跡とかあったりするんですかね。
すごい細かい話になるんですけど、黒川村って当時呼ばれていたんですけど、
黒川村の中に複数の集落が築かれていたんですよ。
集落ごとは大陸なので結構離れているんですね。
その集落ごとに土の壁を作るんです。
あれみたいな感じ。進撃の巨人みたいな感じ。もっと小規模ですけど、土の壁を作って。
当時は馬に乗って襲撃をしてくる武装集団とかもいたので、
そういった武装集団を避けるために土塀で囲っている集落が無数にあって、
そこでバラバラで分かれて畑を耕して生活していたんですけど、
それとホーム集落というところがあって、そこともう一つ隣の集落の2つの集落に
8月9日のソ連進行後、到来所にソ連軍が来てからわーって集まって、
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その主に1カ所というか2カ所で集団生活をしていたんですね。
そこを現地住民数百人が取り囲むという事件が起きたんですよ。
その時に阿波屋も集団自決をするしかないという風な空気になって、
実は直前に黒川開拓団の近くに九谷開拓団という熊本県から入職していた開拓団があったんですけれども、
ここも現地住民の襲撃を受けて集団自決して、
伝令として1人だけを黒川に送って、送った伝令にふるさとに何があったのかを伝えさせるため、
たった1人を残して残りは全員自決したという開拓団があったんですね。
なので自分たちも自決するしかないとなっていた時に、
ハルエさんのお父さんが、この集団自決は大事な命だからバカなことするもんじゃないと言って止めて、
それでソ連軍に助けを求めに行ったんです。
そしたらソ連軍が兵を出してくれて鎮圧してくれたんですね、その場を。
助けてくれた。しかも話をしたら、今こういう状況なんだって話をしたら、
わかった、じゃあこれから香料と塩を定期的に提供するよと。だから食料もくれる。
ってなった時に見返りはどうするっていう話だったんですよ。
その求められたかどうかはわかってないんですよね。
ソ連軍側から求めたのか、開拓団側から申し出たのかはわからない。
もう少し細かい話をするんですけど、実はこれ私書いてないことなんですよ。
これ告白しないといけないことで、書いてないことで、
たぶん映画にも出てないし、他のメディアでもほぼ書かれてなくて、
ある山本明夫さんという研究者の方に指摘をされて、
こう思ったもんやなって思ったことがあって、ずっと書けなかったことがあるんですね。
それが春江さんたち、女性たちが接待をする直前に、
慰安婦のお姉さんたちがソ連軍に差し出されてるんですよ。
その時はまだ関東軍が到来省に駐留していて、
ちょうど多分関東軍がその後南の方に撤退していくので、
その途中だったのかもしれないんですけれど、
関東軍と一緒についている日本軍慰安婦の方たちが黒川に滞在してたんですね。
その時にソ連軍から女を出せって言われてるんですね。
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当時はまだソ連軍が駐留したばっかりで、開拓団とのいろんな交渉事があったり、
それこそ普通の意味での飲食という意味での接待とかがある時に、
女を出せっていう話になって、困ったなってなった時に駐留してた慰安婦女性たちが、
それなら私たち出ますよって言って出てくれたんです。
それは開拓団の中でもそういった酒の場を、
藤井久史さんっていう前の遺族会長さんは目撃したりしていて、
なので確かに未婚の女性たちが犠牲になる前は、
慰安婦の女性たちの犠牲があったんですよね。
もしかしたら、もしこの撤退を申し出たのが黒川開拓団側だったとしたら、
その慰安婦女性の人たちに出てもらって、
ソ連軍将校を満足させたっていう、ある種の成功体験が頭にあって、
それなら開拓団の女の子を出そうっていう判断になったのかもしれない。
そこが繋がってたかもしれない。
そうなんですよね。
非常に重要なことなんですけど、
それを誰も書いてないって不思議じゃないですか。
誰も言い残してないってこと?
で、藤井久志さんは私に何度も話してくれていて、
そして紙にも書いてるし、久志さんだけではなく他の方の手記にも文言がありました。
でも私はそれを書かなかったんですね。
それは、やっぱり慰安婦の問題が、
当時、政治の問題として非常に取り沙汰されていて、
朝日新聞の証言の訂正とかがあった、数年後だったんですね、2018年っていうのは。
で、慰安婦っていうと国際問題にもなるし、国内でも大きく議論が起きてる話で、
ちょうど愛知トリエンナーレとかもあって、慰安婦像の話題とかも大きく取り上げられてた時期で、
当時、記事を書いたのは2018年なんで、記者になってたぶん4,5年目とかだったんですけど、
どう書いていいのかわからなかったんですよね。
で、あんまり慰安婦のことを知らないのに触れて間違えたことを書いたりしたらどうしようと思って、書けなかったんです。
でも、それプラスちょっと思うのは、もしこの黒川の女たちの話が、慰安婦の女性たちの話やったら、ここまで盛り上がってたのかなと思って。
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やっぱり、慰安婦じゃないっていう清純さというか、無垢な人たちが傷つけられたっていうストーリーだから、
この黒川の話がこれだけ受け入れられてるっていうことに、自分も過端しちゃったような気がしていて。
でもそれもやっぱり含めて、さっき言ったような、セックスワーカーに対する差別っていうのは、今も私の中にもあったのかもなって思ってて。
この映画の中で最後に佐藤聖子さん、晴江さんのお孫さんが、最近あるとあるマスメディアの方から聞いたんですけど、
晴江おばあちゃんが、前にあるメディアの記者の人に、このことを書いて欲しいって言ったけど、書けなかったっていうことがあったらしいんですよね。
それは岐阜新聞の記者なんですね。私が聖子さんにその話をしたんですけど、その記者は95年に、戦後50年の企画として、
昼画の開拓を取り上げるために佐藤家に取材に行った際に、晴江さんと晴江さんの旦那さんのお二人を、昼画の開拓、一から開拓して落納ここまでしたって、かなり成功されてたみたいなんです、昼画の中でも。
なのでそのあたりの話をしている中で、これは良いからとにかくこれを読んでくれって言って出されたのが、80年代の時に晴江さんがインタビューして、記事が載った月刊宝石という雑誌で、それを10年くらい晴江さんは持ってたわけですよね。
それを岐阜新聞の記者に差し出して、これを書いてくれって。その時もやっぱり私は実名を出していいから構わないって言って出されたんですけど、その記者も書けなかったんですよね。
多分、いろいろな事情があって、性暴力被害というものを新聞に書くということが、今とちょっと違う認識だったっていうのも一つあると思うんです。
当時でいう合間事件があった場合に、そもそもその記事を出さないということがあったらしいんですね、当時は。記事を出すことで被害者を傷つけるというような、そういった理屈だったらしいんですけれども、そういう理屈もあるし、社内事情も何かあるかもしれないし、
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加えて言うと、やはり日中関係とか日本とロシアの関係とかっていうのも頭にあったのかなと。日本の被害の、性暴力の被害の話を書くことによって、中国がどう思うかとか、あるいは加害者は一義的な加害者はロシアですから、ロシア側がどう思うかとか、そういったことも多分頭をよぎったんじゃないかなと思って、
一応、署内で協議をしたところまでは言ったらしいんですけど、結局は載ってないんですね。でも同じことがまだやっぱり残ってるのかなっていうのはすごく感じていて、だからこそやっぱり、確かにハレーさんたちの声は書き消されていたって、さっきの冒頭のあらすじにもありましたけど、
でも書き消してたのはその遺族会だけだったわけじゃないんですよね。私たちもやっぱりその声にしっかり向き合い切れてなかったし、今も向き合い切れずになんかためらってる部分があるのかなってちょっと思ったりして、そこをしっかり検証しつつ、何がそれを妨げてて、
どういうことをすれば、こんなことが起きずにまた次世代へちゃんとありのまま継承できるんだろうっていうのはすごい考えないとなって思ってます。
かなりその書く上ではその自分の中でも咀嚼を何回も何回も繰り返さないと簡単には書けないことなんだろうし、間違ったことは書けないっていうそのプレッシャーにすごく押しつぶされそうになるテーマでもあるでしょうし、
簡単に諦めたくないっていうのも少しずつ育っていったその気持ちだと思いますしね。
もともとのきっかけがどっちからどうだったっていうのはわからないにしても、同じことが起きないようにするためにっていう流れがね、この1580年というタイミングになって、だいぶその地域社会の中でそういった経験、いろんな経験を周りが受け止められるようにもなってきてるなとは思うんですけど、
じゃあ同じタイミング、同じような時に仮になってしまった場合に、仲間を守ることができるだろうか、そういう社会にまで成熟しているだろうかっていうところは、これからも繰り返し繰り返し問いかけながらその地域社会を見つめていきたいなとは思うんですよね。
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去年の8月に佐藤春江さんが残してくれたものっていうツイートイベントを有志で開いたんですね。そこで春江さんとご縁のあった研究者の方や授業した学校の先生や我々マスメディアも少しずつお話しさせてもらったんですけど、
私は実は春江さんと出会ってから、今を生きる性暴力被害者の人たちにも何かできないかなってすごく思いに突き動かされまして、
それで性暴力被害者支援のボランティア活動を始めたっていうこともあって、今の性暴力の問題と黒化の問題っていうのを紐付けながら話させてもらったんですけれど、
その時に会場にいる方から戦時化で戦略的に侵略の手段として行われる戦時性暴力と、今の現代の会社だったり組織の中での権力購買を利用した性暴力、一般的な性暴力っていうのを
同一視するのは問題があるんじゃないかというか、ちょっと飛躍してるんじゃないかっていうようなご指摘を受けたんですよね。
言わんとしていることはわかるんですけれど、私はやっぱりつながっていると思っていて、結局今の日常生活で何か差別があったり、力関係が働いてたりすると、
結局それが戦時化になったらそのままその権力関係スライドするんですよね。戦時化になるとその権力関係の中で働く力の度合いっていうのは増幅されるんですよね。
例えばその家府調整という話で、お父さんが全て家庭のことを決めてるっていうご家庭まだある、今もあると思うんですけど、うちも直そうでしたけど結構。
例えばお前はどこどこ高校行けとか、今度の休みはみんなで旅行に行くぞとか、うぜえな親父ぐらいで住んでることが、それが戦時化になるとみんなで満州に行くぞとか、
お前はお母さんを守るために戦隊に出ろみたいな、家害が増幅するわけですよね。
それを考えるとやっぱり今あるそういう不平等な関係性とかっていうのをなくしていかないと、いわんや戦時化のそういったことなんて到底防げないんじゃないかなって思うんですよ。
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だからこれは戦争の話とちょっと離れますけど、やっぱり今の社会の課題、不利益をこむっている人の状況を解決することが、やっぱり戦争でのそういった課題を防ぐことにはきっとつながるんじゃないかなっていうふうには思いますね。
武道館。
時続きの話だと思うんですよ。
当時に比べれば価値観もどんどん変わってきているし、男女平等でありたいっていうふうに気球していろんな制度、仕組みが変わりつつあって、そこにみんなついていこうとしているけれど、
でも立ち止まってみるとものすごくそれって表面的なところに留まってしまっていないかなっていうのはよく考えるんですよ。
戦時化に仮にこれからなった場合に、ただその表面に覆いとしてのさわっていただけで、戦時化になればその覆いが取れて、また元のような状況に戻ってしまって、実はその本音の部分としてあったものが戦時化は増幅してしまうだけになっちゃうんじゃないかっていう。
だから同じような状況に陥った時に今度こそ自分たちはみんなで、誰かの犠牲を伴わない形でみんなで守り合って生き抜いていくことができるんだろうかっていうのをすごくこの映画を見て改めて感じたところですね。
本当に満州自体も当時は政府が主導しているし、正しいこととして行われていたわけですよね。そこに疑問を持つってすごく難しいことだし、やっぱり黒川で起きた未婚の女性たちを差し出すという行為も正しいこととして、それしかないということで行われていたことだし、
なんかその、いやそれはおかしいんじゃないかっていうことってその過中にいたらすごく難しいと思うんですよ。
その当時にいた人たちを同じ状況になれない以上、到底責められないけれど、誰がそれをさせたのかっていうのを、その責任の所在とかその経緯っていうのは明らかにしておかないと、次につなげられないかなと思いますね。
本当に今日は中堅の記者3人で集まっちゃったんですけど、次の世代に、田代さんもずっと戦争のことをやっていらっしゃいますし、しゅんすけさんもやっていらっしゃるから、次の世代をどうやって巻き込んでいくかっていうのはすごい考えだなと思って、
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私は黒川行きの旅行をまずは計画したりするとか、そういうところから始めたらいいのかなとか思ったりするんですけど、黒川で美味しいご飯食べて乙女の火と開拓団の火見て桜田神社で、昼間の行ってソフトクリーム食べてみたいな。
ツアーをね、ちょっと組みましょうということですよね。
ぜひみんなで行きましょう。
なんか本当これからますますね、このテーマへの身近さっていうのを保つのが難しくなっていく時代だと思うんですよね。
どう次の世代にリレー、バトンを渡していくかってすごく難しいし、その必要性もすごく感じるんですよ。上辺だけになっちゃってないかなって心配になるのはやっぱりSNSとか見るとさ、すごくその本音の部分がもう何の遠慮もなくつまびらかになってたりする。
そういう様子にも出会ってしまうわけで、からこそそこに立ち向かう力としての機関の役割っていうのもあるんじゃないかなと思うし、我々もちょっとそのつなぐ意識みたいなのをね、これからまた。
81年、82年とは続いていきますんで。
そうですね。
まあね、戦後80年って言ったって8月だけじゃないわけだし。
続きますからね。
戦後81年になったって82年になったっていろんなタイミングを見ていろんなことが出していけるはずで。
また来年ちょっと黒川で動きがありそうなので、来年も見据えながら取材を進めていこうと思います。
ありがとうございました。
ここまでのお相手は、岐阜新聞社報道部の山田俊介と、生活文化部の田代理科と、報道部の大谷幸子でした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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