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#129 「諦めないってことよ」▼国際女性デーに考える(前編)。女性参政権80年を機に、岐阜県初の女性国会議員・簑輪幸代さんの言葉から▲
2026-03-07 47:17

#129 「諦めないってことよ」▼国際女性デーに考える(前編)。女性参政権80年を機に、岐阜県初の女性国会議員・簑輪幸代さんの言葉から▲

女性参政権が認められた改正普通選挙法の公布から80年。国際女性デー(3月8日)を機にインタビューした、岐阜県初の女性国会議員・簑輪幸代さんの言葉を基に、記者たちが語り合います。

【出演】山田俊介(報道部)坂井萌香(同)大賀由貴子(同)山岸達矢(同)

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【関連記事】◆男女平等へ信念貫く 国際女性デー 簑輪幸代さんインタビュー(上) 岐阜県初の女性国会議員(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/677071

◆岐阜県は政治と経済で上昇 ジェンダー・ギャップ指数の全国順位(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/676977

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00:10
報道部の山田俊介です。
報道部の坂井茂香です。
報道部の大河優希子です。
報道部の山西達也です。
この番組は、岐阜にまつわる話題、岐阜にまつわらない話題を、
本音混じりに語り合い、みんなでききかじっていくポッドキャストです。
よろしくお願いします。
お願いします。
山西さん、初めまして。
初登場。
紹介する?
紹介する。自己紹介。
山西さん。
自己紹介ですか?
自己紹介。
友軍の同じメンバーでやっている山西さんですが。
昨年の7月から中途入社しまして、友軍でやっているというような状況です。
本当に大活躍。
大活躍。
大処理。
居ないと。
山西さんなしには友軍チーム成り立たなくなってしまう。
考えられない。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日は山西さん、大川さんを交えながら、
3月8日の国際女性デーにちなんでお届けしていけたらと思うんですが、
国際女性デー関連は去年もポッドキャストでやりましたね。
ジェンダーギャップ指数で、あの時も大川さん来てもらって。
あれが第65回配信ですね。
今年は女性参政権を認める改正不通選挙法が公布されて80年の節目の年でもある国際女性デーということなんですが、
そんな節目に引っ掛けてというか、節目を捉えて、
岐阜県内初の国会議員となった三野川幸男さんという方がいらっしゃるんですが、
今回三野川さんにインタビューをしてきたということで、
三野川さんの紹介をちょっと簡単にしてもらっていいですか。
三野川幸男さん、1942年の名古屋市出身の生まれで弁護士さんです。
中央大学法学部を卒業後に67年に弁護士登録を受けて、
70年に東京から夫の平高さんとともに岐阜に移って三野川法律事務所を開設しました。
もともとは弁護士さんとして活動されていたんですけど、学生時代から共産党に入党されていまして、
労働問題に取り組む自由法相談にも参加されていたということで、
岐阜に来て73年の時に共産党の岐阜県委員会の方から推薦をされて、
03:01
次期参院選に最初は出てほしいということで、74年の参院選。
76年、79年の衆院選と3つの選挙を戦ってきたんですけども、いずれも落選し、
ようやく80年の衆院選で初得点を果たして2期6年を務めました。
その後90年の選挙の際に落選しまして、惜しくも落選しまして、
そこで政界に引退して、その後は弁護士として広高さんと共に岐阜市で活動されておられています。
そんな三野川さんにこの節目を機に思うところというかね、いろんな話を聞いてきましたけど、
結構ザックドラに似ていますね。
森氏も県政史上初の女性首相が誕生したのが去年ということでもありましたし、
このタイミングに岐阜県内初の女性国会議員が何を思うのかというところを、
今回はインタビューの音声も交えながら、合間合間に私たちの感想というかね、
思うところも交えながらお届けしていきたいと思いますので、早速インタビューから聞いていただきます。
そんなわけで行き届きませんけれど、お許しくださいませ。
早速なんですけれども、架け橋になるんですが、
1973年の春に県委員会から初めて参院選の立候補の打診を受けられたと思うんですけれども、
その時というのはどんな心境だったんですかねというところを聞いてみてください。
とにかく妊娠中でしたし、そんなことができるのかどうかというのは考えもしたこともないので、当時は。
それでどうしようという話で、せっかく県委員長がおいでになったので、
共産党の岐阜県の総責任者がおいでになったので、夫と一緒に話を聞きました。
その時に、私は自分一人では決められないと思ったので、夫にどうするという話をしたところ、
夫は頼まれたらやったらどうという、すごいえらいあっさりとOKという感じだったんですよね。
そんならやってみるかというと、私もあっさりと。
県委員長がその話をなさってから、10分か15分後には承諾の返事をしちゃっているだけです。
06:01
後から考えると無茶苦茶だったと思います。
でも熟慮したところで何が出てくるかもさっぱり分からないので、
それでもよく後から考えると何も考えていなくて、頼まれたらできるだけやってあげようかという。
人から頼まれて、できることはお役に立ちたいという気持ちは持っていて、
それで私が多少役に立つならという感じでお引き受けしたんです。
―注意の人は反対したり心配したりしなかったですか。
そうですね。県委員会という共産党のトップの候補者との見に来た人が、困ったときはどんな援助でもしますと言ったわけです。
困ったら援助してもらおうと思ったわけです。
だから、それは責任を取ってもらわないといけないと思います。
だけど自分でできることは精一杯やろうということで、なんとかなるという感じです。
困ったときはみんな助けてくださると。
そういうことで、全て楽観論で言ってしまうわけです。
でも別に何が何でも当選しなければならないというよりは、
当選を目指して一生懸命頑張れば、その結果落選しても別に私の責任じゃないと。
妊娠中で小さいお子さんを育てながらの出馬ということで、いきなり来られたらちょっとびっくりはされてるでしょうね。
美濃和さんの本を読んでいると、他の女性候補の皆さんは打診されてからかなり悩まれていたみたいだったので、
まさか15分ほどで決まるとは思っていなかったみたいで。
その時は東側もびっくりしていたというお話を書いてみえますね。
そう、当時のことを本にまとめてたりするんですよね。
ピュアな心でしたっけ、タイトルがね。
赤旗のコラムとかをまとめたものみたいなんですけども。
このお受けされた時、第一子の長男さんは2歳で、下の長女さんがまだお腹の中にいる状態だったんですけど、
お受けされていて、その時一緒にひろたかさんもいるんですけど、頼まれたらどう?みたいな感じなので。
09:07
実は長男さんがお腹にいて出産されたのが岐阜市に来てすぐの時だったんですよ、70年の時で。
その時も当時の岐阜市は保育所に1歳にならないと預けられなかったらしいですよ。
だけどもどんどん開業してから事件が経って続けに依頼が舞い込んでくるということで、
しょうがないから背中に子供をおんぶして法廷に立つっていうことも1回だけじゃなくて何度もあったらしくて。
でも実は本人はこれしかないからやってるんですけど、みたいな感じだったのが、でも裁判所からすると前代未聞の出来事だったみたいで。
裁判官もじーっと美濃和さんを見るんだけど何も言わないから、まあいいのねって思っていたら、実は裁判所から弘高さんの方に連絡が入って、あれなんとかなりませんかっていう。
でも美濃和さんとしてはもう裁判が始まる前にミルクもあげてねんねもさせて絶対ぐずらないという状況で臨んでいて、
もううーもあーも言ったことがないっていう。完璧に整えてきているから何が悪いんですかっていう感じで。
で夫の弘高さんもそれは本人に聞いてもらわないと僕にはよくわかりませんっていう風に。
それはそれでそうなんですよね。
言わなかった。本人にそれはじゃあいけないことなのか、何とかしてくれなのかを言わなかったのかなって。
なんかすごい何でなんばに言うのよってなる気持ちわかるなって。
だから美濃和さんもなんで私に直接言わないんですかって。
言われないからそのまま過ごしてたっていう。
まあやはりその男性が世帯主である課長っていう認識があったんですかね。
同じ弁護士という立場で別々に活動しているわけですけども。
旦那さんも弁護士ですね。
そうなんですよね。
ところもすごく美濃和さんらしいところだなっていう。
でもぶって法廷に立つってすごいかないですか。
なんか絵を浮かべるとちょっと微笑ましいですけど、
実際にはちょっとそういう裁判官からの睨みというかね、ちょっとピリッとはやっぱりして。
法廷がそもそも名古屋かなばとはまたちょっと違うでしょうし。
ちょっと勇気が出ないんですよね。
連れてこないのが当たり前だというところですからね。
息子さんも背中で1歳の時から法廷にいたっていうのもまたちょっと面白いですね。
12:00
すごい。
実際その選挙に挑戦される時には、お母さん弁護士なんていうキャッチコピーで選挙戦を戦っていったわけですが、
その時のことをちょっと振り返ってもらう段に入ろうと思いますね。
総力戦でしょ、総選挙なんて来ると。
でも私はね、その時は総選挙じゃなかった最初は。
参議院に出たんですよね。
その時なんかね、まだ選挙制度が全憲一区で、当時の財界のトップっていうのかな、
藤井平吾っていう人がここから出ているわけだけど、
それと勝負するんかいって。
すごいですよね。
その他に社会党の人もいたし、いろんな人がいるわけよね。
そんな中で、参議院だからとにかく今回は誰もが当選するとは思っていないけど、
頑張ろうということで、初めてその気になったわけですね、組織が。
共産党の全県議会がそういう気になって。
蓋を開けてみたら、10万票以上あったわけ。
だからひょっとしたら衆議院も行けるかもしれないっていう気にみんながなっちゃったわけね。
私は簡単にはいくかいいなと思ったけど、やってみるかってここまで来たら、
ということでやる気になって。
- 当時はやっぱりもう三ノ輪さんがかなり票を持っているということで、
他の政党も警戒して離婚説を流したりとか。
それは落とすためには何でもやるじゃないですか。
- 男性だったら普通は離婚説流されて、なぜそれが攻撃につながるのかって、
家庭のことをうまくできない女性ができるわけなんで、そういう攻撃なんですか。
- それが売り出しポイントとして、
当時の県議会が考えたことのお母さん弁護士というふうにやったわけ。
夫のことは考えていないからお母さん弁護士。
だけど、自分はみんなお母さんになっているわけでしょ、女性は。
お母さんになったり、仕事しながらお母さんをやっている人はいっぱいいるわけでしょ。
お店の人だってそうですし、仕事しながら子育てしているわけよ。
だからお母さん弁護士というと、一つは私たちと同じ母親なんだという女性の感覚と、
15:00
弁護士というのは当時、岐阜県に1人いらしたのね。
私が2人目だったのね、女性の弁護士は。
だから珍しいという感じでね。
弁護士だったら多少のまともなことをやってくれるかもしれないという気もあって、
それでお母さん弁護士という宣伝も多くなったもんだから、
多少みんなも期待して投票してくださったと思った。
それは1980年に初めて当選して、
それから3年半経って、また総選挙。
その時にも何とか滑り込んで、
それでその次に落選しちゃったわけね。
それでもう私は辞めようかと思ったわけです。
それでもやっぱり期待して、死に物狂いで応援してくださった方がいっぱいいたので、
その人たちを裏切るわけにもいかないし、
ここまで党全体が頑張ってやってきてくれたのに、
私がもう辞めたというのはちょっといかにもひどいと思って。
もう一回頑張ってみて、今度落選したら辞めようかというふうにひどかに思ったわけね。
それは口に出しません。
―90年の選挙の時、野田聖子さんが初めて出馬された時、
当時の新聞を見ると、候補者が8人とかたくさんいらっしゃったのに、
なぜか岐阜新聞だと野田さんと美濃和さんを並べて、
女の戦いに火花とか、マドンナ対決という構図をすごく作ったのも、
やっぱり美濃和さんの票を割れさせる影響になっていないのかなと思いました。
―当時は多少私が妨害しているような感じになっちゃうわけね。
―そういうことで攻撃されるというのはわからんでもないけど。
―離婚説は本当だったわけじゃないですよね。
―嘘です。
―離婚協議中らしいみたいな。
でも離婚協議していることが選挙戦にどうダメージがあるのか。
―関係ない。
―関係ないように思えるんですけど、当時としては家庭を治められない女性に
政治ができるはずがないという理屈での批判だったみたいですね。
18:07
それも73年の最初の参院選の時には、そういった攻撃は一切なかったらしいです。
だけどその時にベテランの藤井平吾さんが
絶対に圧倒的に勝利しなければならないという目標を掲げている中で
予想以上に美濃和さんが票数を取っていたというところで
やっぱり警戒心が高まって、次の衆院選からは
そういう風に個人攻撃を受けるようになったみたいですね。
―だいぶ苦しい分だとは思うんですけど
ありがちというか、選挙戦も追い込まれれば追い込まれるほど
泥地合いというか、悪口合戦みたいな感じになっていくじゃないですか。
―最初の76年の衆院選の時には、選挙戦最終盤になって
その噂が立ち始めた。美濃和がまずいということで。
―危機感を全面に。
―そうですね。79年の選挙の時には最初からずっと
綺麗なバラにはトゲがあるみたいな
そんなような批判で攻撃をされていた。
あとは特に攻撃ポイントを探す上で、やっぱり女性だというのが
得意だったわけですよね。美濃和さんが得意点だったわけで。
やっぱり73年でも結構時間がかかった方だと思うんですよ。
女性議員が出てくるまで。岐阜県はずっと女性の候補者が
立ってたりはしてたんですけど、有力、もう当選するかもしれない
自分たちの立場を危うくするような候補は出てなかった。
ところでやっぱり攻撃をしやすい点が女性というところだったんでしょうね。
にしてもね、すごいですよね。朝破か。ひどいみたいな。
全然そういう事実があったわけでもなかったのに。
ついに80年の選挙ではいよいよ、当時は岐阜1区から出てるんですけども
今の岐阜1区は定数1位で1人しか当選しませんが
中選挙区制で岐阜県内が1区と2区の2つにしか分かれてなかったので
5人とか結構受かるんですね。なのでやっぱり美濃和さんにチャンスが大きかったわけですよ。
現職の自民党とか社会党とかの議員は当然議席を維持しつつ
21:02
美濃和さんがそこに入り込むという余地があって。
ただ岐阜1区は自民党が複数ベテランを出してたんですね。
なんですけどちょっと美濃和が出てくると票が割れて
ちょっと誰かが落ちる可能性があるから候補者をまとめようということで
野田宇一を引っ込めて対策をしたっていう。
なのでここで野田宇一が選挙出てないんですよね。
野田宇一は野田生子さんの
おじいさんですね。
元大臣を務めてらっしゃるベテランなんですけども。
相当脅威だったわけですね。
そうですね。
すごいな。
それでようやく当選してという感じなんですけど
この90年の時の選挙っていうのは
まさに80年に当選して2期6年勤めた後に
86年の選挙で美濃和さんは落選してしまうんですね。
ただやはり声が大きかったので
彼女に応援する声が大きかったので
もう一回最後のラストチャンスで帰り先を狙って出たのが
この90年の選挙の時で
まさにその選挙の時に先ほどの野田生子さんが
初めて県議から県議をやめられて
国政選挙に初挑戦した選挙だったわけです。
そうですね。県議会議に一気にやってからでしたもんね。
その結果はどちらも落ちました。
えー!そうなんだ。
美濃和さんは辞典だったんですけど
野田さんは確か再開か?
まだ市民の支援が十分に得られない状況だったんですけど
その時岐阜新聞が女の戦いに火花とか
ちょうどそのこの後になるのか?
この前か?
マゾンナ戦風とかの大鷹子さんが出てきてっていう
多分そうなんだと思うんですよね。
どうも美濃和さんがおっしゃるには
美濃和さんの方がベテランだから
野田さんを阻もうとしてるみたいな
よくありますよね。おつぼめと若い女性社員みたいな構図で
よく弥生したがる人いるじゃないですか。
それな感じに構図として弥生してる人がいたみたいで
24:02
それでマドンナ対決
本人は美人コンテストじゃないんだからねっておっしゃってましたけど
まあそうよねっていう
いやーなんかいやらしい取り上げ方だなとは思うんですけど
当時なら特にやりすかねえというかやるだろうなっていう
やりかねえ。やってた。
選挙区の中に2人だけじゃないんですよ。たくさん入ってるんですよ。
その中で女性が2人だけっていうだけで
横並びに写真をつけて
マドンナ対決。リードは女の戦いに早く火花
ダッシュ丸みたいな
公平性はどこへ行ったっていう
他の人たちみんな
やっぱりその記事を見て
実はこの記事を見たのが去年の参院選の時
女性議員の歴史を調べてた時だったんですけど
これを見てやはりミノワさんに話を聞きたいなって
すごく思ってたんです。
在任中の時の話も伺いたいなと思って
本当にいろんなことをなさっていると思うんですけど
まずこの5本の中で
婦人議員、女性議員として議員になったからには
婦人、女性の要求に応える活動をしていきたい
というふうに最初掲げられて
男女平等ですとか婦人の地位向上
福祉教育などを挙げているんですけど
その中にまず平和というのが入っていたんですよね
平和に関する活動を
女性議員だからやるべきだというのは
どうして思ったのかな
女性議員だからやるべきだというよりは
それはやはり女性だから戦争に反対するわけじゃなくて
もちろん人類全てが戦争なんてのは
やるべきものだと思いますけれど
比較的子どもを守るという観点から言うと
やはり母親がしっかりしないとだめだなというふうに思うわけね
そういう点で言うと
その子その子によって育つ中でね
今の時代と私が子ども時代を卒業した時代とはまた違うね
私はやっぱり中学校で
新しい憲法の話という本を
学校の方で配られて
憲法の三本柱というのでね
戦争法規と基本的人権とかって
27:01
それを教わって
ああいいなと思ったわけよ
それが中学生の時に
学習する副読本だったかな
そういうので新しい憲法の話っていうのは
今も発売はされていると思うんですけど
それがね
芯に染み込んだのと
それで私は高校の修学旅行がね
広島だったんですよ
広島行った時の原爆資料館というのに参加してね
それで私は
一つ一つのこの展示物に説明文が入ったのね
それをずっと読んで
次行ってまた読んでってやってたら
バスの集合時間に遅れそうになっちゃってね
引っ張り出されるようにして行って
バスに最後に飛び乗って
移動していったっていう記憶があるんだけど
だから原点は私はそこから来てるっていう感じがするね
鈴木前校主将が福祉区特別総会に出る時に
人間を返せと自家断本されて
私のまた女性秘書がついた
その女性の秘書がね
毎日電話かけたんですよ官邸に
そしたらね向こうがもうヘキヘキしちゃってね
やめてくれっていうふうなことまで言われたけど
じゃあ別の手段を考えようってことになって
当時はね女性議員ばっかりのささやかな集まりがあったわけね
それは自民党から共産党までのね
いろんな考え方の違いはあるけど
私はこういうふうに思うから
ぜひね皆さんもご一緒に
ソリ大臣と一緒に見ませんかっていう話をしてたらね
そしたらいいねそれやろうよっていう
自民党の女性議員も言ったわけ
でそれは衆議院も参議院も
でそのみんなでもって
女性議員の会議で決定して
でまた官邸に持ち込んだらね
しばらくしてから
何日の何時頃に多少時間が取れますからって
それで感想を聞いたらね
鈴木前校生は言葉もないって言ったって言うんでね
でもそれはやっぱりそうでしょうと
軍宿会議行くのにね
広島の映像も見たことがないのに
30:02
何を喋ってくるんですかっていう感じです
だからそれは官僚が作った作文を読むだけだろうけど
でもやっぱり見ては
感じるところがあるだろうと思うんですね
だから一言言葉もないってこれだけですね
言葉もないって言われちゃうと何もないんだけど
でも本当にそれを見てもらうっていう風に
首相の行動を変えるっていうところに
実現したことにすごく意味があるなと
そうそうそしてそれはね諦めないってことよ
自分のやってることは絶対に間違ってないと思うから
で私がまたしつこく言うと
だから私の秘書が毎日毎日書かれたんだ
かわいそうだったぐらいに
で彼女が本当によくやってくれて
私はそんな毎日電話かける暇もないしね
だから頼むわねっていう風に一言言っただけだけど
もうちゃんとやったんですよ
それから官邸の職員がねまあいい加減にしてくださいって
いやいい加減にできませんと応援いただかないと
でも秘書の方ももうちょっとめげそうになっていたんでね
少し書いてありますけど
それでまあねあの私が言ったのね
首相の同棲っていうのが新聞に出るじゃない
そしたらね何時に誰と会ったとか
何時どこ行ったとかねどこへ国会があったとか
なんとか全部一日の行動が出るんですよ
ゴルフも行ってるんじゃないゴルフも
ゴルフ行ってるならね
その映画見る時間あるはずだって言って私はね
だからゴルフやめろとは言わないけど
どうぞあのいいですけどちょっと見てくださいって
それだけそれでどれだけ変わったか知らないけど
鈴木前校という総理大臣だったから良かった
これが中曽根やすい色だったらダメだったと思います
私この話すごく好きでした
なんか党派を越えて女性議員が一個になって
首相を動かすっていうのなんか党が違うと思う
敵同士なんかなって結構思ってた
今は女性議員の議員連盟って結構複数あるみたいですね
クォーター制とか色々あるみたいなんですけど
33:00
当時は今よりもぐっと女性議員も少なかったわけですし
なんでしょうねやっぱりベースに
それこそ平和を寄与する平和主義っていうのが
ベースに皆さんのベースにあるから
どんな党派でもこの件についてはまとまりやすかった
っていうのがやっぱり当時はあったのかなという気がしますね
今ってその女性のジェンダー平等とか
女性の地位向上とかっていうと
キャリアアップとか働く方の話にそれがちで
それがどのように人権と関わるかとか平和と関わるかって
あんまり考えられてないような気がするんですけど
やっぱり当時は平和あってこそすべての物事が成り立つ
っていうベースの考え方があるんだなという感じはすごくしましたね
80年代ってだんだん戦後の色が少しずつ薄まっていく頃だったのかなと思うので
そこにやっぱちょっと抗わなきゃなみたいな思いもあったのかもしれないなとかね
行動成長が終わった後の話になるんで
だんだんその戦時中っていうのが遠ざかっていく中で
でもやっぱ平和まずそこが土台にないとダメだよねみたいな風に
主張する動きっていうのがあったのかもしれないなとか思ったりもしましたね
当時はやっぱり被爆者の運動も高まっている時期だったと思いますし
あとはフェミニズムもやはり盛り上がっている時期でもあったんですよね
その第一波フェミニズムと呼ばれるのが
いわゆる女性賛成権の獲得っていうところでまとまっていって
日本ではそれが昭和20年21年にようやく達成できたと
そこから第二波フェミニズムとして生まれてくるのが
やっぱり様々な労働者の権利とか人権っていう
あとは家庭の中での女性の生き方とか
そういういわゆるジェンダーにまで踏み込んできたっていうのが
70年80年代ってググググッと盛り上がってきて
それは一部の党の人たちだけじゃなくて
おそらく社会全体としてそういう女性の権利獲得
男女平等っていうのがすごく盛り上がってたっていう
だからこそ超党派でみんなが一致団結できるような
空気満々かなって思いますね
映画を見てもらうために粘り強く
私かわいそうにって言っちゃうんですけど
36:00
それはこのミノワさんのピュアな心でっていう本を読んだときに
秘書さんが不憫になるくらい毎日ミノワさんに
どうなりましたって聞かれてるんですよ
毎日官邸に電話かけて官邸の秘書官からは
時間ができましたらこちらからお電話差し上げますガチャンみたいな感じで
1週間するとミノワ事務所のと言っただけでガチャンと聞かれるようになっちゃって
やっぱりそれはちょっと折れかけるじゃないですか心が
そういうところもそうだしみんなでそれやろうよってなった
チームワークというかすごいいいなと思って
男女関係なくすごくいい話だった
秘書のことはすごく大丈夫だったかなと思って
すごいしつこく嫌だったかもしれないけど
一生懸命やれたっていうのも信頼関係があったからですねミノワさんと
本当に面白いんですけどすごいな
それにしてもインタビューの中で出てくる人物の名前がいくつか出てくるじゃないですか
藤井平吾さんだったり鈴木善子さんだったりとか
中曽根康裕さんのことをリアルタイムでなじれる人ってなかなか貴重だと思うんですよね
最近亡くなられてた時とかもかなり氷点で中曽根さんの功績みたいなところがよく書かれてましたからね
両面ある方なんでしょうし
当時としたらちょっと目の形にしてる部分はあったんでしょうけど
まさに歴史の位置承認みたいなところがあって面白いなと思いながら
総理も受け入れるってくれたから結果良かったよねっていう話
言葉もないっておっしゃったそうですよね
ゴルフ行ってるんじゃないわよと
ゴルフ行ってもいいけど映画も見てねという
こういう時に官邸の首相の同棲で使うんですか
どこで使うかなと思ってるけどここで使うんですね
ゴルフ行ってんじゃんみたいな
ってことは映画も見れるよね
材料材料っていう
すごいですね
お仕事にすごく印象的だったのが
扶養に関する厚生省の通知
原則として被扶養者は夫とする
妻にするなら収入は3割増してある
必要があるという
当時
そんな口が違ったんだって今から考えると驚くなんですけど
知らなかった
知らなかったです
なんですけどそれが今の感覚からすると
39:02
どう考えても差別だしおかしいでしょって思うんですが
美縄さんが指摘されたことに
事務方の方も皆さんなぜこれ
なんでおかしいんだからわからないって言われた
それがまたびっくりすることですけど
本当にね当時ね
なんで扶養するものと扶養されるものとの関係
夫婦の場合
3割だっていうことになると
あら女性は3割安か
そんな馬鹿なことが
それでおかしいでしょって言ったらね
いやこれが普通ですけれど
おかしいっていうのは
よくわからないって言うんです逆に
だからこの価値観っていうのはね
どう考えてもね
どうしてそんなもちろんね大学も出て立派にね
政府の役人になってるんだからね
そんな馬鹿なと思うけど
だからやっぱりそういう風に教育されてなかったんじゃない
そこにいた方々皆さん男性なんですか
2,3人質問取りって来るでしょ
議会が始まって何月何日にどういう議員が質問するっていうと
前日までにね何を質問されるんですかって
答弁を用意するために事前に来るわけ
でそれ説明しててそれおかしいでしょって
それを直してもらわないと納得できないって私が言ったらね
あなたがおっしゃることがわからないですって言われて
その時はもう本当に
世の中どういうことになってるって
私は自分がね自己主張するばっかりかっていう風に思われてるみたいだなと思って
だって男と女を差別するって言ったって露骨でしょ
露骨ですよ
やっぱり先輩からずっと受け継がれてくるんでしょうね
これは女性が議員になることの非常に
気がつかないそもそも
メリットというか
やっぱり多様な人が入らないと本当に気がつかないものだな
気がつかない
差別っていうのはね
憲法には書いてあるけど
職場では憲法が通用してないわけだ
だけどそれはやっぱりね
住民票もそうだったね
世帯主っていう
世帯主は夫で決まったんだ
42:01
だけどそれは違うだろう
そういう話をすると
そうですねって言わないで
え?って言われる
だからもうね
やっぱりその憲法っていうものをしっかり
学校で習うのはね
上面みたいなところだけだから
それからあと自分の体で
父としてね
やっぱりそれを身につけないことには
だからもう1584年も経ったら
しっかりと男女差別はなくなるだろうと
前は思ってたけど
そんなものは
いまだに残ってる
やっぱり残ってますかね
いろいろある
年末調整出すじゃないですか
あれで子どもがいると
扶養っていう書類にかけますよね
夫婦でもそうなのか
でも共働きだから関係ないけど
共働きだと子どもがいる場合になるんですけど
それをどっちにつけるかで
今だと多分所得が多い方につけた方が得なんですけど
どっちにつけてもいいんですよ
だから私たちも夫婦も
どっちにつけるみたいな感じで
私はなんかすごいそういうの
自分がやってみたいっていうのがあったから
私につけたいみたいな
でも調べたら多分
何かこれ所得が多い方がいいかも
変えたんですけど
昔はそれが選べなかった
事実上選べない状態だった
それは男性である夫につけるべきだと
つけるような決まりだと
この割に
割がですね
ただし例外的な場合だと
女性でも良いとなってたんですね
その例外的な場合っていうのが
夫よりも妻の方が3割収入がある場合
女性につけてもいいよ
だけど仮に男性と女性が同じ収入の状態だったとしたら
女性にはつけてはダメです
っていう決まりだったんですよ
それってつまり
トントンの状態で
女性は夫よりも3割価値の低い状態ってことじゃないですか
そういうことか
3割価値が高くてようやく同等なんだっていう
なるほどなるほど
ストレートに差別なんだけど
トントンなら別にどっちつけたっていいやないか
そう通常だったら
だけど女性は3割上を目指さないと
不要にさせてもらえないってことですね
性別で分ける意味って特にね
ないですね
なんでっていう話ですね
45:00
だけどそれが質問を取りに来た官僚の方は
先生それは一体なぜいけないんですか
私にはよく分かりませんと
社会通念上夫につけるのが当然であって
私には差別に思えないのですか
何度説明しても分からない
当たり前のことに思っているからですか
だから悪気があってそういう制度にして
悪気があってその制度を維持してるわけじゃなくて
やっぱりその立場に立ってないから分からないんですよ
違和感に気づかないっていうか
確かに
すごく重要だった
特にこの時代はそういうものだらけだったでしょうから
それを一つ一つ
これもいろいろな
当時の厚生省の通知の内容について指摘をしているんですけども
当時は大倉委員会に所属されていて
そこで質疑等で追及されてたんですが
厚生省はこういう通知を出してるけど
他の省庁ではこんな通知が出ていて
所属で男女差別してはいけないという
こんな法律とか通知があると
それと矛盾するじゃないか
っていうような質疑を何度も重ねていって
最終的には撤廃されたということだそうですね
赤市さんが日本の県政史上初の女性首相になったことについては
どう思いますか
女性がなったことに意味があるのではなく
それで日本国民が幸せになるかどうかということです
そう思います
47:17

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