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ゆいなわさんの聞く人ラジオ、皆さんこんにちは。ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は中医学療法師、癒しの高次元気功講師、平原義夫さんにお話を伺いました。
まずは平原さんに、どのようなお仕事をされてきたかについて伺いました。
僕の官歴祝い60の時に、昔の遊説賞がやってた、虎ノ門なんとかっていうとこで、100何人集まってくれてやったんですよ。
え?やったっていうのは?
官歴祝いを。結局官歴祝いを。結局気功体育を教えてたり、大古の連中だとか、そういう連中と、あと大学のあれだとかね。
その時に平原さん、履歴作ってよって。
じゃあこれなんですね。
生まれた時から履歴作れって言うんで、一応生まれた時からなので。
そういうことですね。立山の生まれなんですね。
そうそう。2中なんですよ。2中?
僕3中です。
そうなんですね。
しもずも学校中でやってた。
誰だったかな。そっか、そうなんですね。
じゃあ法上賞、僕の法上賞なんですね。
そうそう。
へー、そうなんですね。
あ、すごい。
それで2中に行って、そこにも書いてあるけども、結局、一応昔、知能試験みたいなのがあったんですね。
それがなんか、正確には聞いてないんだけどトープだったらしいんですよ。
よく勉強しなかったから送られて。
そうなんですね。書いてありますね。
なんでだって。
へー。
小学校時代っていうのは先生の好きな生徒をリレーでもなんでも選んでたんですよね、僕なんかの時は。
そうなんですね。
だから自分が足が速いとは思わなかったんだよね。
ただ最後の卒業の時、あなたたちの時あったかどうか分からないけど、僕たちの時は応援もやって応援ナチュラルしたんですよ。
だから運動神経は良かったんだけども、やっぱりリレーなんかになると、先生の語弊期っていうね、クラスでそういうやつがなってたから、
俺大して足速くないんじゃないかと思ってたんですよ。
で、2中に入って、いろいろ体力測定やったらば、学年のトープだったから、あれ?おかしいの?俺って速いのかなって思って。
そうですね。
で、1年でワラソン大会で13位。
13年で1位に。
優勝したんです。
しかも1700人の時代なんですね。
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そうですよ。だって僕たちの時には1クラス55人いたから。
で、それが15クラスだから。
はー、なるほど。そっか。
だからそれが750人でしょ。それ1学年だから。あと2、3だから。
で、僕たちの時は一番多いから、そうした2、3はまたそんなに減ってないんだよね。
へー、すごーい。そうなんですね。なるほど。で、高校1回、あ、そうか。
結局淡子に言えば、うちの親父がちょうど鉄工場を自分でやりだしたんですよ。お金がないから。
自分でやってたんですね。
そうそう。で、お前はもう揺らせられないからって言って、で、じゃあどっか腕のつくところね。
で、僕自体は電子に行きたかったんだけども。
な、なんですか?
電子が。
あ、電子系。はいはいはいはい。
ところが親と先生と話して、お前の性格とかいろんな意味でやっぱ道具とか建築がいいとか言って。
で、結局はね、慶応工業なかったんですよ。
で、市川工業と慶応工業だけだったんですね。で、慶応工業行って、その時に日本育英会の特別奨学金っていうのがあって。
で、試験受けるのが特待生。で、一般対応っていうのがあるんですね。
その人、それは月1500円。で、特別奨学金っていうのは3000円。
そうかし1500円のタダでもらえて、1500円分は返したんですね。
で、十何人受けて、で、知能試験みたいな試験なんですよ。知能、IQの。
だから、お前それたち自信もどっちかと言うと自信過剰のほうだから。
で、結局2人しか受かんなかったのにね。
そういうことですね。なるほど。
だから僕の頭脳っていうのは、中学時代、結局高校行ったら、はっきり言って、僕たちの時、工業高校とか水産とかバカばっかりだったんですよ。はっきり言って。
はいはいはいはい。
結局だから、ある程度頭が良くない奴が水産行ったり、立山高校、大正ね。そういうとこ行ったりしてたんで。
もう行ったら、僕なんか田舎から来る連中は結構優秀なんだけど、地元の連中はめちゃくちゃですよ。
へー、そうなんですね。
半分ヤクザみたいなばっかだった。
ヤクザ、そうなんですね。
いや、昔、男1匹満吉なんとかってあったでしょ。男バンクだったじゃないですか。そういう、あって、バンクからね。各学校のバンチャーが集まって。
あー、そういう時代ですよね。
はいはいはい。
だからすごかったんですよ。
なるほどね。そこから高校入られて、部活をやって、やっぱり陸上。
陸上はね、あれだったんですよ。千葉東高校って当時強くて、野村先生って優秀な先生がいて、たまたまうちの授業見に来た時に、あいつすごい配信してるからって言って、自分の高校に来いって言って。
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で、千葉東高校に練習に行ってたんですよ。
へー。
だから自分の学校に行ってないから、出てないから。だから大会には出れなかった。
そういうことですね。なるほどね。そっかそっか。あ、日台なんですね。
そうそう。夜間に勉強したい。その頃になるとまだちょっとこれのまま積んで、大学行って夜間に行った方がいい。で、大学に行くって言ったら先生に怒られた。
結局、僕を紹介してくれた会社が、土木学会のすごい先生のとこで。だからその先生、福田竹夫って土木学会長をやってた人が作った会社なんですよ。
その人は東大の名誉教授で、千葉高大の学長までやった人なんですよね。で、そこに行ったんだけどね。
へー。
その時に順天堂からも引っ張られたんですよ。
なんか書いてある。
ただこっちだと、箱根の駅でのテレビやってないでしょ。僕なんかの時。
あー、そっかそっか。
だからそういうの知らないんだよね。知ってれば行ったんですよ、多分。
あー、そういうことですね。
だからもう決まってるし、いいよって。
そっかそっかそっか。へー。
その時に100m11秒後で走ってたから。
めっちゃ速いっすね。あ、そういうか。そっか。なるほどね。
で、実際お仕事としては。
橋の設計をやってたんですよね。
橋の設計。あ、橋の設計やってるんですね。
あ、木さらずの。
そうそう。だからこれがそう。
焼いたのね、探してたんだけどないんだよ。なくなっちゃったから。
あ、あれの設計に携わったみたいな。
そうだそうだ。
へー。
こういうところ。
あ、すごい。
これがそうだね。
あ、はいはいはい。
橋。で、ここに書いてあるでしょ。
はいはいはい。
あ、ほんとだ。
結構これ昔有名だった。今でもあるけどね。
えーすごいですね。あ、そうなんですね。
へー。
昔NHKの朝からテレビの天気予報。
うんうん。
あれの時に出てたらしいんだよね。
あ、その橋が。
そう。電話返ってきて、お前の今やってる橋で。
え、じゃあお仕事としてはずっとその設計みたいなことをされてて。
もうその会社で。
そうそうそうそう。
まあ会社員として設計の仕事としてそれをずっとされてたんですか。
そうそうそう。
へー、あ、そうなんですね。じゃあ橋を見ればなんかわかるという。
うん、ある程度わかる。だから地震とか災害来た時に結構どっかの先生が来て、
あれはどうのこうのって言いかけなくていいじゃない。
わかんない。
ふざけんなって言うね。
あ、そうなんですね。え、設計はやりたかったんですか。
いや、設計はやりたかったんですか。もうそこに。
配属されて。
配属されたから。
はい。じゃあそれから設計の勉強をしてきて。
そうそうそう。
で、まあそれを身に付けて。
そうです。
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で、それを生業としてずっとやっていくみたいな。
みんなそうですよ。
あ、そうなんですね。
結局今はみんなパソコンで何でもほら、組んでるから。
書きますね。
例えば数値入れれば設計できるじゃないですか。
そっかそっか。
僕たちの時はそれがなかったから、ある程度想定して。
はい。
だから前にあった、かかってる橋の、例えばある程度どれだけの自重あるかっていうのもまず分かんないわけですよね。
で、その自重っていうのと、それと上走る荷重。
はいはい。
それで合わせて設計しなくちゃいけないから、その自重もいくつかの橋の参考の重量があるから、
それで出して、あ、じゃあこれぐらいかなって。だから何回かトライアルしたんだよね。
今もうデータがあるから。
あ、そっかそっか。
100mの幅で、100mの長さだったら、体面積あたりどれぐらいの荷重になるかってすぐ出てるぐらいのね。
ああ、当時はやっぱりそれを自分でというかやって。
で、だから計算も計算尺か、計算機タイガー計算機って知らない?ぐるぐるぐるってますね。
その、例えば割り算だとチーンってやって戻してチーンってやると答えが出てくるんですよ。
そういうのを使って計算して、設計して、設計図作ったら後はお渡ししてというか、作る業者さんというか。
役所に渡すから。
役所に渡して、それで作ってもらうという。
じゃあそうしたら仕事は一旦終わるんですか?
だってもう次のが来てるから。
あ、次の設計をするんだ。
結局もう、僕なんかいった時はとにかくめちゃくちゃこういう上昇下降の時だから。
給料が最初入った時が1万8000円。で、次が3万6000円。倍々上がってた時だから。
へー、そうなんですね。
じゃあ次々と橋の設計のお仕事も来て。
そう、だから結局オリンピックが49年でしょ。僕が入ったのが41年だから。
でもそのまではもう、とにかく日本中、あとはあのあれ、各栄の日本列島会長も。
あれのように日本全部を豊かにするために、全部繋げなくちゃとか、そういうのもあったし。
そっかそっか。その流れで橋の依頼というか、仕事はいっぱいあって。
じゃあ日々橋の設計をしていく。
そうそう。
へー、じゃあある時、作ったやつが何年か経って出来ましたみたいなのを見に行って。
そうですね。
あ、これかみたいな感じ。どういう感じなんですか?それ見た時って。
いや、どういうこと、あんまり感激はなかったというか、結局結構遠いところだから、そんなに見に行けないんですよ。
たまたまその木更津大橋は近かったけれども、見に行けないから、写真とかなんかもらうけども、あんまり感慨湧かないというかね。
そうか。木更津の橋ってちょっと特徴的じゃないですか、横からこうなって。あれはああいう風にしてくれっていう依頼なのか。
あれは何でかっていうと、結局当時フェリーが走ってたんですよ。
そうですよね、あそこをくぐるんですよ。
そう、それをくぐるから、高さがとにかく海面から50メートル。
あー、はいはいはい。そのオーダーがあるから、その必要性にかなう。
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オーダーを高くした、そう。
じゃあこういう構造、形にしようっていうのは平原さんが考えたんですか?
いや、それは打ち合わせしながら。
相談して、いろんな案を出して、じゃあこれでいこうみたいな。
そうそう。
じゃあそれにあたっての設計をするっていう。
そう。
へー、でも初めてじゃないですか、ああいうのってきっと。あの形とかって。
いや、結局一緒だから。
一緒なんですか?
上に行く階段が別になって、橋支える橋台とか橋脚ってなるんですけども、その上に乗せる構造は一緒だから。
じゃあやることは、ちょっと計算が多いだけで。
そうそう。
へー、そうなんですね。なるほど。
あれはもうだから、今だったらあんまり必要ない。でも結構まだ利用してるのかな?
僕一回上がったり、観光的に上がったりとかしますよね。
そうなんですね。
だからあれもなんだっけな、キサラズキャッツアイの前に男女7人の夢戻りのやつ。
ああ、なんかありましたね。
それで結構テレビなんか出てたりしたからね。
ああ、そうか。すごいな。橋を作るっていう、その設計の仕事で何が難しいとかってあります?
いや、難しいっていうのは。
あんまりないですか?
あんまりないっていうか、建築と違って結局最初から、建築の場合にはまずどっちかというと設計屋さんとデザイン屋さんがいるんですよね。
デザイン屋さんが好きに何でもこうやるでしょ。それについてどういう強度が必要だとか、そういうの全部設計屋さんがやるんですよ。
だから逆にデザインの方がすごいけども、設計屋さんとどっちかというと馬鹿にされてるんだよね。
へー、そうなんですね。
あんまり表に出ない。ただ橋の場合には、建築っていうのは自分のものでしょ。橋っていうのは公のものだから結局何かあったら困るわけですよ。
だからもうがんじがらめだから、そんなに自由にはできない。
制約がいっぱいあるからその中で作り上げるみたいな感じになるんですよね。
最近になってやっとね、いろいろできてきたけども、昔はとにかくあんまり形が。
あー、橋の形。
そうそうそうそう。昔はね。
ある程度決まった形。
そうか。例えば墨田川とかにいっぱい橋が張ってるじゃないですか。あれとかも一個一個デザイン違うじゃないですか。
違いますね。
でもやってることは同じという。
そうですね。あれはドイツの、昔はドイツがね、橋とかそういうの優秀だったからドイツからそういうの。
あー、そうなんですね。輸入というか。
昔はね、役人が直接やってたんですよ。設計。
あ、役人が直接。
そうそうそうそう。結局設計会社じゃなかった。設計会社ができ始めたのがちょうど僕が高校卒業して日台に夜間で通いながら、会社ができたのが2年目ぐらいだったから。
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だからできたのがたぶん40年前後からそういう会社が出てきたから、それまでは全部自分たちがみんな自分でやってたんですよ。
あー、そういうことですね。それが徐々に民間に動いてくるようになって、民間でやるようになって。
橋の設計を生業とされていた平原さん。
当時の設計現場での取り組みや、具体的な橋の設計の内容について、さらに詳しくお話を伺います。
例えば現代においては、当然でっかい橋も架かってるじゃないですか。例えばレインボーブリッジみたいな。
あとアクアラインも橋っていうんですかね。あれも橋なんですね。
見たらわかるっていうか、平原さん、例えば僕は素人、全く素人なので、アクアラインだなとかレインボーブリッジだなって思うんですけど、
平原さんが見ると何か感じるというか、こうやってやってるのかなみたいなのがある程度。
いや、だからそれは感じるっていうか、結局僕たちのコンサルとか、僕たちのやつはそんな大きなのやってなかったから。
瀬戸内海の釣り橋は、うちの先生が優秀な先生だったから、その釣り橋の設計なんかはやってた。
すごかったですよ。電算が自分でとにかく入れ込んで、プログラム自分たちで作ったりしてたんですよ。
その先生が結果を見て出てくると、あれ、これなんかちょっとおかしいなと、バーッと知らない人を見てたんですよ。
わかるんですね。何かがわかるんですね。平原さんはそれもわかんないですか?
平原君、これちょっと最初からチェックしててもらいます。
平原さんはわかんないけど、先生はわかるんですね。
オーダー的に多分わかるんでしょうね。
なんかもう頭の中で橋が見えているというか。
そう、多分、いろんな計算がおそらく将棋のあれだけどと一緒で、何点も先が多分見えるんじゃないかな。
面白い。そうなんですね。
じゃあちょっと違うから、もう一回やり直すとか。
ちゃんと正確なものをしないといけないから、そこに向かってやってって。
あれだって外の中の橋は予備設計というか、予備でほんのある程度形式が決まるまで何十年かかったんじゃないか。
そうなんですね。
僕が行った時に、入った時に41年くらいからそういう予備設計とかやってたから。
実際かかったのはダイバーとかだからね。
そういうことですね。そうなんだ。
それは聞いてみないと本当にわからないというか、そういう世界なんですね。
やってて面白いみたいなのってあるんですか?
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面白いっていうのは、自分がやった橋がいろいろ話題になったりすると面白いというだけだからね。
そういうことですね。そっかそっか。
でもどっちかっていうとね、僕たちの時は会社でやる仕事よりもアルバイト、先輩が持ってくるんですよ。
アルバイトの仕事を先輩が持ってくるんですか?橋の設計のアルバイト?
そうです。図面描くバイトとかね。
そういうのがあるんですか?
でもそれ実際使われるやつですよね?
使われるんです。
それがバイトとしてくるんですか?仕事じゃなくて別で?
別に。
なんですか、その話。今だと考えらんない。
考えらんないですね。
それを描きて、それも傍らでやるってことですか?
そうそう。だから例えば9時くらいまで残業してるでしょ。
ちょっとこれ全部差し替えろとか言って、違う図面とか持ってくるんですよ。
それが知らない、宿会社の仕事だと思ってやってたんですよ。
で、何ヶ月か経って、おいヒララこれ、こないだのお礼だからとか言ってね、何万かくれて。
え?何これって。
そんな世界なんですね。やってる時は気づかなかったですね。
そう、だって入って何年かっていうのはそんなの分かんないじゃん。
先輩から仕事あげたりとか。
入って結局何年かは、何年か今忘れちゃったけど、図面しか描かせてもらえないから。
あ、そっか。
そういうのがあったからね。
そこでじゃあ、仕事を上げてって感じですか。
じゃあ、ある程度年齢が重ねてくると、やる仕事も変わってくるんですかね。
そうですね。だから自分で設計はするけども、全体は見る。
そうですよね。面倒見るみたいなやつとか、チーム見るとか。
設計もだんだん違うステップのやつをやるのか。
そうです、メイン。
で、部下にこっちをやってて。
そうそう。
ただ、僕の良かったのは、設計でも全部一人でやるんじゃないんですよ。
端の上の部分と下の部分、支えてる部分ね。
僕の方は上部工の方で、上の方だったから、目に見えるわけですよ。
で、下部工っつって基礎工とかね、そっちを設計してる連中は、出てこないじゃん。
あ、そっか。目に見えないと。
見えない、そう。
だから自分でやったっつってほうがあんまりさ。
実感として見えないから。
実感として出てこないんだよね。
あ、面白い。そうなんですね。
じゃあ、一応言ったら、この世の中に平原さんが設計された橋が何本も書いてある。
そうだ、そこに書いてあるけど、今出そういうの一応持ってきたんだよね。
ありがとうございます。
これが反応柄にかかってる橋なんだけどね。
あ、ライトアップの設計とかもあるんですね。
例えばこれが反応柄のところに。
これもテレビでよく出たんだけどね。
反応柄のところに書いてある。
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あ、行ったことあります。
赤い橋。
河原に。
これそうなんすか。
これ一番最後に書いてあるでしょ。
ほんとだ。
で、実際やったのは僕なんだけども、
結局まだこの頃そんなに上じゃなかったから。
これ、例えば形がアーチ状になっていて、
これっていうのはもう、これを決めるのは誰なんですか。
話し合いで決めるんですか。
話し合いで決めます。
いくつか選択肢があって、
いくつか想定します。
じゃあみんなでそれにしよっか、みたいな感じ。
だから設計の尋常として、予備設計。
予備設計とはどういう、
まず強調をどこにするか。
強調って何ですか。
強調って橋の長さ。
あ、長さ。
結局河がこう流れてるでしょ。
はいはいはい。
で、ハイウォーターで構図に想定して、
そのハイウォーターっていう線から1m上げないといけないんですよね。
ああ、そういうことですね。
で、その時にどこで支えるか。
中間で支える、長さが中間で支えるか、
あるいは1本で飛ばすか。
ああ、1本で飛ばすって言うんですね。
飛ばすってことか。
そうそう。
ああ、なるほどなるほど。
真ん中入れないで、柱入れないで、1本だけで。
はいはいはい。
だから普通の、何だっけ、アクアラインもそうだけど、
バンゲタッチでね、パタパタパタって並べてるやつ、
あれは結局、長くても5、60mなんですよね。
ああ。
ただそれでも最近は高障板って言って、
今、障板がRCってコンクリートの障板と鉄の障板があるんですよ。
障板って何ですか?
障板って床。
床。
床。こういうところの床。
床、はいはいはい。
これがないと抜けちゃうでしょ。
ああ、そっかそっか。
それで結局下に針っていうのがあって、エチコンみたいなね。
で、針で支えて、それが一番の大元なんですよね。
その上に、その針だけじゃ植え取れないじゃないですか。
その上にこういうのを乗せて、それが障板って言って、
障板を乗せて、はい。
床ですよね。床板って書いてあるんだけども。
床板、はい。
で、それを乗せてやるんだけども、
それが結局コンクリートだと、厚さが結局20cmぐらいあるから、
大まかに言うとね。
そうすると結構重量になるでしょ。
そうですね。
ところが鉄だと何ミリだから。
ああ、そっかそっか。
軽いんですよ。
そっかそっか。
だから、それを乗せて、
で、じゃあこれを使ってみたいな。
じゃあこれがいくつ必要みたいな。
最初のそれは予備設計。
予備設計をして。
で、その後ある程度スパンが決まったらば、
比較設計って言って、
例えば5アンから10アンぐらい出して、
で、そのうち最終的にだいたい3アンから2アンに絞るんだけども、
いろんな形を出すわけですよ。
アジにするかバンゲタにするか、
ロコラスとかね、そういう風にするとかって。
で、それで決めたら、
スパンが決まったら、
ああ、そういうことか。
ロコラスとかね、そういう風にするとかって。
で、それで決めて、
経済的に一番安いのはどれだって。
ああ、そっか。
結局どっちかというとお金なんですよね。
ああ、そういうことなんですね。
いくつかのアンが出てて、
これもいいな、これもいいな、
まあいいのはあるけど、
結果、いくらコストがかかるっていうところで決まってくる。
税金だから。
なるほど。
建築っていうのは個人のものだから。
お金については。
お金からついてもいいわけですよね。
ですよね。
ああ、公共の建築だから。
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ああ、そうなんですね。
なるほど。
僕たちがやってた頃は、
今はそれで問題になってるんだけども、
結局維持まで考えてなかったんだよね。
ああ、なるほど。
もう作ればいい。
そういうことですね。
その後何年、何十年、何二十年、何三十年と。
あの当時は50年って言ってたんで。
やっぱり強度の問題というか、
劣化してきたみたいな。
やっぱりメンテナンスもそうですけど。
そういうのは考えなかったから。
ああ。
メンテナンス、今はメンテナンスフリーっていうのは
何でもできるような感じにしてるんですけども、
メンテナンス考えなかったから。
だいたい50年ぐらい目安でってやってたから。
ああ、そうですね。
最近はメンテナンスまで考えて、
多少高くても。
ああ、そういうことですね。
ちゃんと残るというか、耐久年度が。
ああ、そうなんだ。
例えば今見せてもらってる、
こちらの反応のやつとかは、
いくつかの話し合いの結果、
コストとしてベストだなって思われたものが、
これって言うんですよね。
なるほど、面白い。
そうなんですね。
めっちゃ面白いです。
そうなんですね。
橋のことをそこまで僕は考えたことがなかったので。
でもやっぱり当たり前ですけど、
そういう世界があるんですもんね。
そうそう。
へえ。
だからそれで、
誰でもそうなんだけども、
そういうところに入ると、
いい仕事ってみんなやりたがるんだよね。
設計とか。
で、メンテナンスってやりたがらないんですよ。
ああ、なるほど。
で、僕どっちかというと、
あんまり気にせない方だったから。
で、メンテナンスの仕事が流行りだした時に、
一番最初にそういうのを、
いいよ、俺やるよとかやってて、
それで今はメンテナンスのことばっかりやってたんですけどね。
ああ、そういうことですね。
なるほど。
でもそれでよかったのは、
設計なんて機械、今コンピューターなどできないんですよ。
もうだいぶそうですよね。
そう。で、メンテナンスっていうのはやっぱり、
今機械で見るのもあるけども、
やっぱり人間の目なんですよね。
ああ、なるほど。
まだまだそこは、
人がやらないといけないところ。
はいはいはい。
でも最近だいぶ、
機械でやってるのが多いですけどね。
ああ、なるほど。
だからそれで、
はっきり言って、
うちの会社が潰れたのは何年だっけな。
ああ、そうですね。
結局潰れた。
だからコンサルがいっぱいできたし、
どんどん仕事が入ってきてでしょ。
まずうちの、僕が言ったこの会社っていうのが、
メンテナンスとかそういうのやってたんで、
景観設計っていうのもやってたんでね。
だから結構生き延びてきたんだけど、やっぱり、
いろいろ、
学者先生が、学者が社長をやってるから、
経営者じゃないから。
そういうことか。はいはいはい。
やっぱりだから、
経営って部分ではってことですね。
なるほど。
そうなんですね。
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一応、僕のこの聞く人ってやつでは、
皆さんにお名前と肩書きをもらうんですけど、
今もうないよね。
平原さんは、
もう77だから。
今、例えば、
ご自身を肩書き何かって言ったら、
何って言いますか。
どっちかって言ったら、
診断?
健康を、みんなの健康を維持するための診断だとか、
あるいは補助するための。
今は。
そうですね。
あと気候やられてるじゃないですか。
そうですね。はい。
気候の先生と言えば先生なんですよね。
そう。
何ていう表現になるんですかね。
例えば名刺があって、
ここに書くとしたら平原さんは何なのか。
なんていうのかな。
あるいは元橋の設計とかかもしれないですし、
皆さんいろいろそれぞれあると思うんですけど。
ただ、さっきみたいに新しいこと好きだから、
いろいろやってるじゃないですか。
まず会社が潰れて、
で、何だかんだやった時に、
2年くらい競馬でも何でも食っていけるよって。
競馬?
競馬とか。
はいはいはい。
あの当時、年間で200万くらい、
何だかんだで稼いでたからね。
競馬で?
競馬とかいろんなもんで。
そうですね。
だから、日本語にもいいね。
普通はみんなすぐ食探してるんですよね。
そうですよね。
でももう、あの時60近かったから、50いくつで。
その時に会社が潰れちゃって。
そう、潰れちゃって。
だから一番食が探しにくい時だった。
めっちゃいいよって遊んでた。
遊んでたんですか。
2年間遊んでた。
はいはいはい。
で、たまたま一代の時の同窓会やるって言うんで、
来いよ、お前出てこいよって。
向こうみんなね、友達気遣ってくれて。
はいはいはい。
で、行ったらば、たまたまその、
うちの下請けやってたとこの社長が、
今だから新日鉄ってあるでしょ。
あそこの会社のお父さんと一緒で、
お父さんのあれと一緒で、
うちの設計のあなただけど、
新日鉄HVBって言って、
そういう橋の設計をやってるんですね。
作ってるんですよ。
で、それのシェアの7割ぐらい、
僕の同級生の会社がやってたんですよ。
で、平原さん、設計もそうだけど、
調査とかそういうのいろいろこれからやっていきたいんで、
うちに来ていろいろ教えてくれるって言って。
それでだから60くらいから結局72までかな、
ずっとそこでやってたんです。
教えてたみたいな。
教えてた、調査関係だとかね。
設計時代のアルバイトのお話、
設計の手順、
そして一本で飛ばすという専門用語、
さらにやっぱり人間の目という平原さんの言葉が特に印象的でした。
そしてお話は次回に続きます。