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この時間は日替わりコメンテーター が独自の切り口で多様な視点を提案する
Catch Up。火曜日はRKB神戸金史 解説委員長です。
はい。雲仙普賢岳のホームドクター と呼ばれた九州大学の名誉教授太田
一也さん、今月15日、島原市内の病院 で亡くなりになりました。90歳でした
けれども。私は、前職の新聞記者 時代に長崎市局に配属された陶器
雲仙が噴火中で、現場にも何度も 入っていましたが、その後6月3日の
大火災流を迎えて多くの人が亡く なってきました。そしてその後翌
年からは常駐して、収束まで見る ことになりました。多分6月3日の
大火災流前から取材に入っていて 現地で収束まで見たのは私だけ
だと思います。なので太田一也さん には大変にお世話になりました。
先週亡くなったのでおつやに行って きましたが、多くの研究者、それから
私たちのようなメディアの仲間が 島原に集まって太田先生を偲んだ
という感じでした。本当に立派な 方でしたけれども、もともと島原
半島内の国見町、今の雲仙市です けれども、海外出身で旧大の理学部
を出た後、1回単行の会社に就職を しています。その後大学院に戻って
研究者となったんですが、島原に できた火山温泉研究所というところ
に着任して、30年にわたって火山 地質の研究をされていた。その中
に笛で噴火に遭遇するということ になったわけです。4000年ぶりの
増産活動と言われています。島原 半島で山ができてしまうわけですね。
そこに地元出身で地道に研究を 重ねていた太田さんがいたということ
です。かなり珍しいケースだと思います ね。その後警戒区域が設定されて、
立ち入りが禁止される。その周辺 には強制力はありませんけど避難
勧告地域が設けられる。住民が 家に住めないという時期が何年も
続くんですね。最大時には11000人 ぐらいになりました。どこまで線
を引くのかということが非常に 行政としては悩みどころだった
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んです。火災流は、温泉の場合は 山頂にできた溶岩ドームがぼろり
とこぼれて落ちてくる。高温高圧 の火山性ガスが溶岩の中に詰まって
いますので、斜面を転がり落ちる たびに割れて割れて割れて、たぶん
落ちた溶岩の堆積の1万倍ぐらい になって高温のガスがふもとに
出てくるという感じなんですね。それが 西風に乗ってくると広がってきて
家が焼けたり人が亡くなったり してしまうんですが、どこまでは
立ち入りが駄目だというのを行政 は決めなきゃいけない。火山学者
は普通、危険を訴えて広く広く言う ほうが安全なんですけど、実際に
生活していらっしゃる方とのバランス を取らなきゃいけないんですね。
そこで行政は非常に苦しむんですが、 太田先生は学者だからこういうふう
にしか言わないという態度は決して 取りませんでした。悩んでいる
行政のトップ、ひげの金貝市長とか 深江町ですと横田町長がおられ
ましたが、2人がみんなで会議した 後に決めるんですね。どこまで
緩和するとかどこまで拡大する。 その時に太田先生は必ず入って
徹底的な議論をしていました。その 中でバランスを取りながらやる
ということで法務ドクターとも 呼ばれていくようになったわけ
です。私も親しくしていましたけど、 長崎県警の島原警察庁の災害警備
隊長だった太田義男さんという 警視がおられました。この方は非常
に立派な警察官でしたが、国道を 通行止めにすることをすごく躊躇
するわけですね。住民生活に直結 しまう。このあたりをどうしたら
いいかを非常に悩んでおられました けど、太田先生と話す中で本来は
終日通行止めが望ましいと思っている という太田先生。そして火災流の
発生時間は中や関係なくいつ発生 するか誰にもわからない。行政の
判断で通行を一定時間解除している ことでもあり、危険地域を一刻も
早く通り抜けてもらいたいなどの 意見をもらった上で、じゃあギリギリ
まで待とう。そしてどう判断する かを真剣に太田隊長は考えて、
ずっと毎日のように被災地を回 っていて、雨が降ったら今回はここ
に流れが来やすくなっている。溝 が掘れてきてしまっている。土石流
の溝、ここに間違いなく来るだろう。 その前にはこのあたりまで来るだろう。
そういうあたりを巡回しながら、 ここまで来たからもうアウトだ
って決めていくんですね。僕は 太田さんの災害警備の指揮者に同情
してずっと取材したことがあります が、ギリギリでした。先ほど通った
ところがドーンとやられていました ね。こういう中で太田先生の意見
を踏まえながら、励まされながら 太田さんは災害警備に取り組ん
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で、土石流による死亡者を太田 さんの罪人中に一人も出さなかった
んですよね。これは太田先生に対して 非常に太田隊長を感謝しておられ
ました。そういう感じの学者さん だったんですよ。私も常駐して
2年目ですから93年でしたけども、 あまりに災害が多くて土石流で家
が流されて、もう2年経って400件 いきなり一晩で流されてしまった
りしたんですね。家が壊れている 中を現場で取材をして、毎日のように
続くんですよ。何ヶ月も。火災も 起きて、この年4月に大きな土石流
がありましたけど、6月には1人亡く なっちゃうんですよね。家を見
に帰った方が。そして土石流続く。 これでもう心身ともに疲弊しちゃ
ってですね。太田先生のところに 行って、何書いていいか分かりません
って言ったんですよ。で、頑張ろう ってみんな書いてたんですけど、
頑張ろうとして自宅に戻った人が 今回流されたんじゃないかとかね。
苦しくて、何のためにこの仕事を しているのかも分からないと思って
たんで、太田先生の部屋に行って、 苦しいですというふうに言ったら、
太田先生が、だからこそ今こそ 防災工事を進めるべきなんだと。
寛平君書きなさいと。今こそ書くん ですよと。僕よりずっと辛い立場
に置かれてた。その判断基準がどう なのかを常に問われてた。批判も
受けていた方ですが、この強さ、 地元出身であるということ、そして
責任感を持った生き方をされていた ということの中で耐えてたんだ
と思います。若造だった、当時26歳 でしたけど私。もう心から疲弊して
いたんですけども、太田先生のその 言葉を聞いて上司に伝えました。
太田先生に励まされました。そしたら 上司から、寛平君、太田先生はこの
状況でも言っているんだと。それを 記事にすべきだと。ということで
上司がすぐに行って、大被害を受け ている島原で太田和也所長が今こそ
防災工事をと訴えたという記事 を書いたんですよね。僕は自分
ではもう書ききれないぐらい疲れて いました。その時に太田先生は
尻を叩いてくれたんですね。これは 僕は一生忘れないです。太田先生
がいたことによって励まされた 島原の人たちがいて、私も島原市民
でしたから助けられた。そして何とか 災害はあの町は乗り越えられたんだ
なということを今回つやに言って 改めて思いましたね。本当に立派な
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方でお悔やみ申し上げたいし、太田 先生とお会いできたことが島原市民
であった記者としての私にとっても 非常に大きなことでした。本当に
ありがとうございました。
お悔やみを申し上げます。この時間は 寛兵衛カルブミのキャッチアップ
をお送りしました。
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