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神戸金史 のCatch Up 「戦後資料とカルタでたどる戦後60年展」
2025-09-09 12:43

神戸金史 のCatch Up 「戦後資料とカルタでたどる戦後60年展」

RKB解説委員長 神戸金史
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00:28
この時間は日替わりコメンテーター が独自の切り口で多様な視点を提案する
Catch Up、火曜日はRKB・神戸金史 解説委員長です。
はい、8月の戦争の話がすごく多かった ですけども、日本でいう終戦、敗戦
の日、8月15日、それから調印した 世界史的にはそちらのほうが戦争
終結の9月2日。しかし、実際の戦争 では極東ソ連軍の侵攻が続いて
いて、満州やカラフトなどでは 戦闘が8月中続いてまして、9月3日
に千島の羽生前諸島の占領があった。 そして朝鮮半島も攻め込んでいた
んですけど、9月17日に38度線以北の 占領が終わるということで、実は
まだまだ短い時間ですが、いわゆる 日蘇戦争は続いていた状態ではあります。
そして今大分市の三池カルタ歴史資料館で、 この夏、戦時資料とカルタで
たどる戦後80年という企画展が開かれて いて、9月21日までやっている
ということなんで、私行ってなかった もんですから行ってきたんですけど、
戦時中の写真とか、焼夷弾の実物 とかも展示されていましたが、それに
合わせて熊本県荒尾市の戦時資料 収集課、松山剛さん67歳が日曜日に
講演されたので聞きに行ってみたん ですね。松山さんは67歳で戦争の
資料を20歳ぐらいから発明始めて 48年だそうです。軍服や鉄株など
1000点以上を保有しているということで、 いろんなところに貸し出したりも
しているんです。母親の兄が戦死したこと、 父親が海軍にいたことがこういった
ことのきっかけになったそうです けれども、お話はいろいろ多岐に
渡ったんですが、特に印象に残ったのは、 日本赤十字社から戦地に派遣された
看護婦さん、当時は看護婦さんですね、 のことでした。松山さんは自分自身が
50年前に大昔医師会の看護専門学校 に入って、そのまま病院での看護師
生活を始めて、看護師さんなんですよ。 その自分が看護師でもあることから
関心を持って資料を集めてきたそうです。 松山さんの説明をお聞きください。
一般的には従軍看護婦と言いますけど、 正式には日本赤十字救護看護婦と言います。
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写真は出生時の水杯の儀式ですね。 後方には見送る側の看護婦が写っています。
制服は大正15年、6月に改正された 濃厚のワンピースですね。
その後は現在まで長くデザインは変更されていません。 現在でも日赤、日本赤十字の看護婦養成所とかでは
卒業式でこの制服を着て、このような 制服姿で行われている式服と言われています。
編成というのがあります。府庁が1名、看護婦20名、 初期が1名、指定が1名、計23名。
これが基本の人員編成です。1個半のですね。 初期は事務、指定というのは看護婦の身辺の
お世話をする用務員で、ともに男性です。 戦線全般に派遣されていますね。
北はカラフト、マンシュ、中国各地、 東はパプアニューギニアからニューブリテンドのラバウルまで。
大東亜戦争が終わり、最終的には960個半に達したと。 約2万名の看護婦さんたちが出ていったということです。
今指定という言葉がありましたけど、 使える奉仕の詩に定は包丁の長ですね。
定は成人たした男性という意味がありますので、 用務の仕事をする方ということですね。
1個半、23人。それが960個半。 2万人と今ご説明ありましたけど、
延べで3万人を超える女性たち。 ほとんどが10代から20代の女性で、
果ては高等女学校の卒業生や生徒までも 動員されたということですね。
正確な人数はわからない状態です。
前線があって、その現場のすぐ後方には 包帯所という応急処置をする場所があったそうです。
そしてその後、後ろに野戦病院。
さらに後ろに平坦病院。 平坦というのはロジスティックスの平坦ですね。
平坦病院があって、この辺りから 従軍看護師さんがおられたと。
そしてそのさらに奥に治療する 陸軍病院があったということです。
引き続き政宗さんのお話をお伺いください。
軍隊の治療というのは、 回復してまた戦える兵士を優先するんです。
戦えない兵士を手厚く治療することはありません。
そんなゆとりがないんです。
原則として看護部の勤務場所というのは 安全な、敵の砲弾が届かない、
平坦病院までとなっていたんですけど、 戦況が不利になるとですね、
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各病院はどんどん前線に近くなって、 前線の方から寄ってくるんですよね。
押し戻されるというかですね。
空の優勢がなくなってくると、 爆撃とか機銃装置を受けるようになります。
そうなると安全なところはなくなっていきます。
病院線とか病院列車、夜戦病院にはですね、 赤十字を掲げていましたけど、
むしろその赤十字自体が攻撃目標になっていった ということになります。
赤十字の理念ではですね、逃げられない場合は、
衛生要員とともに敵に委ねるという文言があります。
しかし日本にはですね、それを妨げるものがありました。
これですね、先人訓。聞かれたこともあるかと思いますけど、
兵士に配られた小さな冊子です。
先人訓ではですね、生きて旅衆の恥ずかしみを受けず、
死して在他のお目を残すことなかれ、の一節があります。
捕虜となって生き恥をさらすよりは、
潔くしのうというような意味があります。
あまりにも人命を軽視した文言ですけど、
昔よりもそれが当たり前だったんですかね。
看護師さんたちも一緒です。
迫りくる敵から逃げられないと判断した時は、
自ら命を断ちました。
生産借りを渡されたり、
自らくださいと要求したことも多かったそうです。
自決をしたという話はいくらでもあるんですよね。
本来ならば平和な場所で、
白衣の天使として働くはずの女性たちです。
あの時代ですね、1220名、
日赤看護婦が大切な命を散らしてしまいました。
1220名です。
私が看護師なのですから、
看護師さんについては興味がありました。
いろいろ調べてみたわけです。
あまり知らない話が多かったです。
看護師さん、自決されてたんだなということも、
あまり想像したことがなかった。
戦場というと男性の現場という感じが強いですよね。
この公園があった大室田市の三池カルタ歴史資料館では、
戦時中に子どもたちが使っていたカルタも収集しています。
200点あまりあるそうなんですが、
そのうちの一部が展示をされていました。
それを梶原館長と一緒に見ることになりました。
元々カルタは子どもの遊びとして、
明治大正時代から普及し始めたのですが、
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元々の目的としてはひらがなを覚えたり、
道徳や教訓を学ぶというのがカルタの役割だったのですが、
戦争が始まって以来、戦後用意的に作られたことが増えてきました。
今回展示しているカルタとしては、
太平洋戦争が始まった昭和16年から19年にかけて
制作された戦時カルタを中心に展示しています。
実際にはどう使われたのですか?
兵士を称える目的や、
従業を守る女性たち、子どもたちの役割を書いたものが中心になりますので、
カルタの札によって戦時中の心構えや、
戦時の兵士たちに対する思いを叩き込ませるというのが目的だったと思います。
一般の家庭で使われていたということでしょうか。
そうですね。
国防婦人会に入っているお母さんが、
小国民である子どもたちに従業の守りの気持ちを教えるために使われた。
それが第一の目的だと思います。
一番印象に残った札はありますか?
そうですね。
一番基本的なのは、
命捧げてお国のためにという札は、
戦時教育の最大のものだと思います。
子どもに自分の命をお国のために捧げましょうと教えるわけですね。
命捧げてお国のために。
ひらがなを学ぶためのひらがな練成カルタですね。
ひらがなで書かれています。
その他にもカタカナで書かれた様々なものがあります。
ちょっと持ってきていますけども、
兵隊産業ありがとう、愛国文化カルタですね。
何か印象に残ったものがありました?
僕は貯金第一、お国のために。
こういう市民生活も、やっぱり戦争の影響を受けて、
国民全員で支えていくみたいなんですね。
繊維を公用させていくという流れを感じますよね。
私も同じカルタが結構印象に残っていて、
イラストに書いてある子どもたちも小学生、中学生ぐらいのカルタの園児。
そしてひらがなを今から学ぶような子たちが、
その家計のお金自体もお国のためにって、
そういうことを考えさせられていくんだなということがかなり驚きました。
そういう時代なんですよね。
見ると非常に勉強になるかなと思います。
9月21日までホームタッチの三池カルタ歴史資料館で開かれています。
ここまでキャッチアップお送りしました。
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