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他人の夏
2024-03-09 16:01

他人の夏

0076 240309 山川方夫 他人の夏 朗読:植草俊
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おしゃべり本棚。 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山川雅雄作 他人の夏
海岸のその街は、夏になると急に他人の街になってしまう。 都会から楽に日帰りができるという距離のせいか、
秘書客たちが山のように押し寄せてくるのだ。 夏の間中、街は人口も倍近くに膨れ上がり、
海水浴の客たちがすっかり街を占領して、夜も昼もウキウキと想像し、 その年も、いつの間にか夏が来てしまっていた。
ぞくぞくと都会からの海水浴の客たちが詰めかけ、 例年通り、街を我が物顔に歩き回る。
大きく背中を開けた水着にサンダルの女。 ウクレレを持ったサングラスの男たち。
写真機をぶら下げ子供を抱えた家族連れ。 真っ赤なショートパンツに太ももをむき出しにした麦わら帽の若い女たち。
そんな人々の高い笑い声に、 自動車の軽敵が普段の伴奏のようになり続ける。
そこには確かに夏があり、秘書地があり、 決して都会では味わえない休暇の感触があったが、
でも、その街で生まれ、その街で育った新市には、 そのすべては一言でしかなかった。
いわば他人たちのお祭りに過ぎなかった。 第一、彼には休暇も秘書地もなかったのだ。
来年、彼は近くの工業高校に進学するつもりでいた。 それを母に許してもらうため、少しでも貯金をしておこうと、
その夏、新市は同級生の兄が経営するガソリンスタンドに アルバイトとして雇われていた。
都会から来た連中が占領していたのは、 街だけではなく、もちろん海もだった。
海岸に咲いた色とりどりのビーチパラソルや 天幕がしまわれるのは、夜も九時を過ぎてからだろうか。
それからもひとしきり海岸は、 ダンスやら散歩やら音楽やらでにぎわう。
03:00
海辺から人々のざわめきがひっそりと途絶えるのは、 それが終わってから朝までのごく短い時間なのだ。
八月の始めのひどく暑い日だった。 その日は夜更けまで暑さが続いていた。
それで海へ駆けつけてきた連中も多いらしく、 自動車を水洗いする仕事が午前一時過ぎまでかかった。
新一が久しぶりに海で泳いだのはその夜だった。 自分の街の海。
幼い頃から慣れきった海だというのに、 こうして人目を避けてこっそりと泳ぐなんて、
なんだかよその家の庭に忍び込んでいるみたいだ。
お客さんたちに遠慮しているようなそんな自分がふとおかしかったが、 新一はすぐそんな考えも忘れた。
冷たい海の肌が懐かしく心よかった。 やはり海は親しかった。
月はなかったが、頭上にはいくつかの星が輝き、 黒い海にはきらきらと夜行虫が淡い緑色の光の呼吸をしている。
夜行虫は泳ぐ彼の全身に瞬きながらもつれ、まつわりつき、 波が崩れるとき一瞬だけ光を強めながら美しく散乱する。
新一は知らぬ間にかなり沖に来ていた。 ふと彼は目をこらした。
すぐ近くの暗黒の海面にやはり夜行虫らしいほのかな光の煙をきらめかせて何かが動いている。
誰?あなた。若い女の声が呼んだ。
間違いなく若い女がひとり深夜の海を泳いでいるのだった。
知らない人ね、きっと。女はひとりごとのように言った。
はじめて新一は気づいた。女の声はひどく疲れ、あえいでいた。
大丈夫ですか。新一はその声の方角に向いて行った。
いいのほっといてよ。女は答え笑った。
なが声は苦しげで笑い声もうまくつづかなかった。新一はその方向に泳ぎ寄った。
危ないですよ、この海は。すぐうねりが変わるんです。もっと岸の近くで。
かまわないで。ほんの二メートルほど先の海面で、
06:03
波の日だとともに夜行虫の光に顔をかすかに浮きあがらせた女はにらむような眼をしていた。
ああ、と新一は思った。
彼はその顔を覚えていた。
今日、真っ赤なスポーツカーに一人で乗ってきた女だった。
目の大きな息をのむほど美しいまだ若い女で、
同級生の兄は、あれは有名な映画女優にちがいないぞといった。
あなた、この町の人ね。女の顔は見えなかった。
彼は答えた。
そうです。だからこの海には詳しいんです。
漁師さんなの。
親父が漁師でした。と彼は言った。
親父は沖で一人底引き網をやってたんです。森を打ったんです。
二十八貫もあるカジキを三日がかりで捕まえたこともあります。
自分でもなぜこんなことをしゃべり始めたのか、見当がつかなかった。
ただ、なんとなく女を自分とつなぎとめておきたかったのかもしれない。
その時は、親父も命からがらだったんです。
牛みたいな大きなカジキをフラフラになって担ぎながら、
親父は精も根も尽き果てたっていう感じでした。
でもその夜、親父はそのカジキの背をたたきながら僕に言ったんです。
おい、よく見ろ。俺はこいつに勝ったんだぞ。
生きるってことは、こういうこの手応えのことなんだよ。
あの時親父は泣いていました。
森で打ったの?
そうです。とても重い森なんです。
ずいぶん原始的ね。
女は引きつったような声で笑った。
で、お父さんは?
死にました、去年。
女は黙った。
ゆっくりとその女のそばをまわりながら彼は言った。
あなたは自殺するつもりですか。
あえぐ呼吸が聞え、女は反抗的に答えた。
ほっといてよ。あなたには関係ないことだわ。
別にやめなさいっていうつもりじゃないんですよ。
女はヒステリックに言った。
からかうの?軽蔑しているのね私を。子供のくせに。
09:00
あわてて新一は言った。
違います。
親父が僕に言ったんです。
死のうとしている人間を軽蔑しちゃいけない。
どんな人間にもその人なりの苦労や正義がある。
その人だけの生きがいってやつがある。
そいつは他の人間には絶対にわかりっこないんだって。
女は無言だった。
遠く波打ち際で砕ける波の音がしていた。
人間には他の人間のこと、ことにその生きるか死ぬかっていう肝心のことなんかは決してわかりっこないんだ。
人間は誰でもそのことに耐えなくちゃいけないんだって。
だから目の前で人間が死のうとしてもそれを止めちゃいけない。
その人を好きなように死なしてやるほうがずっと親切だし、本当はずっと勇気のいることなんだって。
女の顔に夜光中の緑の輪光がてって、それが息づくように明るくなり、また暗くなった。
女は怒ったような目つきで海を見つめていた。
僕の親父も自殺したんです。
背骨を打ってもう寮ができなくなって、この沖で森を体に岩へつけて飛び込んじゃったんです。
あなたも僕は止めはしません。
彼は岸に顔を向けた。
そのままゆっくりと引き返した。
真っ暗な夜の中でただ夜光中だけが彼に続き、波間に鮮やかな濡れた色の輪光を散らしていた。
真っ赤なスポーツカーが新一のいるガソリンスタンドに停まったのは翌日の夕暮れ近くだった。
ガソリンの入れに近づく新一の顔を見て女はサングラスを取り急に目を大きくした。
昨夜は、と云い女は笑いかけた。
「ねえ、あのお話本当?」
「本当です。」と新一は答えた。
「そう。ありがとう。私、あれから一時間近くかかってやっと岸に着いたわ。」
女は新一の手を握った。
「あなたに勇気を教えられたわ。それと働くってことの意味等。」
黒銅真っ赤なスポーツカーが小さくなるのを新一はぼんやりと見ていた。
女の言葉の意味がよくわからなかった。
彼はただ小さなその街に今日もあふれている無数の都会の人々。
12:04
その人々がそれぞれに生きている夏のひとつ。
そんな他人の夏のひとつが次第に視野を遠ざかるのだけを見ていた。
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16:01

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