ほんと先っこのほうだよね。
奥野党国際芸術祭っていうのが2017年から始まったんですね。
はいはい。本州とか金沢から見て、野党の先は奥野党になるわけね。
あれすごいよね。東京から見ても名古屋から見ても奥って感じしちゃうよね。
先っぽが奥になるんだなって。
確かにな。
俺結構最初にネーミングに慣れるまで奥野党って呼ぶんだって。
大青山脈とか東北の真ん中だもんね。
そうそう。囲まれて一番内側とか分からないけど、外側って外側やん。
確かに。めちゃくちゃ外だわ。
めっちゃ目線が本州よりというか。
不思議な感じしてきた。
猪田高が地図描く前は奥行かないと、すごい行かないとたどり着けないから、奥って。
人がいるところが一番手前だと思えば、内側でも外側でも遠いところが奥になるわな。
そうそう、そういうことにしようかな。
奥野党国際芸術祭が2017年に始まって、これトリエンナールの形でやってるので3年に1回なんですよね。
2020年と2023年かな。
20は記念連れぐらいでやってるはず。コロナの影響で。
2023年の奥野党国際芸術祭に向けて、いろいろ事業が立ち上がったり、建物建ったり店が開いたりするところへ派遣されて、仕事を見つけていって。
2023年の奥野党国際芸術祭の観光案内所とかにレストランが入ってて、そこの店長をやってるわけですよ。
これね、建築家のバンシゲルっていう人が建てた建物でして。
はい、バンシゲ。
私の最も好きな建築家のうちの一人ですね。
そこのレストラン、塩祭っていう名前のレストランなんですけど、そこで働いて、国際芸術祭向けにオープンしたレストランなので、2023年にオープンして、そこからしばらくと。
派遣期間、協力隊的なプログラムの派遣期間を終えて、そのレストランの会社が現地の法人に雇われる形で残って、完全に移住と。
残って。
というので、いて。
はいはい。
で、皆さんもまだ記憶に新しいかと思いますけど、2024年の1月1日ですね。去年の元旦、元日。
に、野党半島で震災が発生しまして。
その時は名古屋の実家にいたから、身の安全がみたいなところはなかったんだけど。
そこから、いつだ、8日とか10日とかにはもう戻ってたの。
まだインフラは遮断されていて断絶していて。
で、奥の都の方って金沢からも100キロ以上あるのね。
おー、車で2時間くらいだよね。
うん。
で、津とか和島市も奥の都にあたるんだけど、そっちの方行く道が2本くらいメインの道があって、それ以外はもう生活にも使われないようなところばっかりなの。
で、その2本くらい数少ない道路も壊れちゃって。
そうだね、行けないって話あったよね。
そう。で、行けるところまで行って、そこから奥の都に実家があるからって言って戻っていく人に同情させてもらってとか。
鈴間で戻って。
すげー。
そこからしばらくは避難所でご飯作ったりして、生活をしていて。
その時点でめちゃくちゃすげーなって思うわけですよ。
まあ、確かにな。
国際芸術祭の間、準備期間も含めて現地にいたっていうのはあるけど、それまでで言ったら縁もゆかりもないわけですよ。血縁がいるわけでもないし。
まあ、遅延はないとこだよね。
学生の頃、北陸にいたとかでもないから、なのにすぐ帰ってって、すごいなと思って。
うん。
で、水もなければ電波もすぐ来てないと。
すごい速さで携帯各社が移動式のアンテナを置きに行ったから、わりと早く通知がついたんだけど、水も電気もままならないとこだったから、あんまり連絡を取って携帯の電池食うのもなーっていうところで、そんな頻繁には連絡はできんかったけど。
夏ぐらいまでに、何回か実家に帰ったときにも会えたりはして、まあまあ、ひょうひょうとはしているからあれだけど、淡々とこう避難している人と仲良くなって、ご飯作ってずっと繰り返して。
心意気すごいなーと思いつつ。
で、こっとこっと半年ぐらいして、で、もともと働いてたレストランも塩祭っていうくらいだから、まあいい場所にあるわけですよ。海の見える綺麗な場所に。
あーはいはいはい。
で、地震でちゃんといろいろぐちゃぐちゃになっちゃって、建物自体は問題なかったんだけど、厨房が荒れてしまったり、もちろん水道電気もダメになっちゃったり、ガスも含めてか。
そうだよね、ガスと水道通ってなかったらレストランできんよね。
それが、なんとか8月に再オープンと。で、結構いろんなところで取り上げてもらえたみたいで、ネットも検索するとレストラン塩祭再開とか調べると、兄の写真とインタビューと一緒に出てくるんだけど。
で、そこで避難してる現地の在住の方もそうだし、支援しに来てる自衛隊の人とか、ボランティアで入る人とか、いろんな作業しに来る方々にもご飯が提供できると。
で、その時は開けてる、店として開けてるとかもうそこ、そのレストランしかなかったみたいで。
まあすごいいい場所になったと、本人も言ってましたわ。
なるほど。
もちろん大変そうではあるはあるけども。
一個人の場じゃないけど、コミュニティの場になればいいかなという、みたいなことを言ったので。
あ、良かったなと。
ちょっとずつ明るいニュースが出てきた頃。
元の生活と比べればまだまだなんだろうけど。
すごい良い兆しがあった頃、また豪雨が元を襲いまして。
そうだったね。
この時はね、震災と比べるとやっぱりあんまり記憶に残ってないのかもしれないけども。
うんうん。
これがすごく大きな雨でして。
はいはいはい。
9月か、9月の終わりに豪雨が発生して、この時台風とかいろいろ他の場所でもあったから。
なんかそのうちの一個の感覚になってしまってはいるけども。
これで、兄、大谷小中学校っていうところの避難所にずっといたのね。
うんうん。
結構ニュースでも取り上げられるとか、校庭に自衛隊のヘリが降りてくるとことかは結構ニュースの映像流れているとこだったんだけど。
ここがすごくクリティカルに豪雨の被害を食らった地域で。
うんうんうん。
兄も雨降ってきた、土砂崩れた。
で、あの人がまだ避難所に来てない。
見に行かなきゃってことで、消防団の人たちと一緒に、その人の家屋の家まで見に行って。
で、その途中で土砂崩れに遭い、流されそうになるところをひしこいて、金網や木なりにしがみついて流されないとしたり。
して、なんとか本人は助かって避難所に戻れたんだけど。
結構壮絶な経験をしておりまして。
後から聞いた話だったから、後からLINEで、家族LINEで、豪雨大変だったけど生きてますみたいな方向が来て。
その写真と一緒に、どっかのお家の屋根の上で待機している時の写真が送られてきて。
ほんとにニュースとかでよく見る、ヘリで救助が来るのを待っているところの図ですよ。
そんなひどいもんだと俺は思ってなかったから。
その写真が来るまで。
その時に、生きとってよかったなあがすごく強く出てきて。
身近な人が被害に遭ってようやくこうなるもんかと。
またそのままのせいで、ちょっとずつ自宅に戻ってきた人たちもまた避難生活が始まり、
ちょっとずつ治っていたインフラ周りもまた戻っちゃって。
すごく心を折られるような災害ではあったんだけど。
もちろんまたすぐいろんなところから支援が来て、聞くと自衛隊がお風呂を持ってきてくれたとか。
そこに入るのが先頭のコミュニティじゃないけど、
街の人も支援の人も一緒におしゃべりできるいい時間だったみたいな話はしてたんだけど。
知らんかったなあと思って。
程度を知らなかった。
遠いところに居るからニュースでしか知らん。画面とか文字でしか知らんってなって。
すごく衝撃的ではあったんだね。
震災から夏の豪雲までの間に奥野都国際芸術祭のメインとなってたレストランの店長をやってたわけだから、
いろんなところからインタビューが来るわけですよ。
それこそ前ほぼ8人出てもらったじんさんが記者やってるから。
はいはい。
じんさんも震災の後に出てもらったから、あの会議の時には奥野都というか、
野都の震災の現場の話をたくさんしてくれたけど、
あの後じんさんの同僚が兄のところにも来てくれて取材してもらって、
その時は北陸の県内版?北陸の県内版?地方版?の部分だったから。
そうね、地方版。
実際に手に取っては見れなかったんだけど、後々じんさんがわざわざ実家に送ってくれたから親は嫁っててよかったんだけど。
震災後、再オープンまでの話は、いろんなタイミングでポツポツとお話聞きに来ることがあったようで、
主に新聞が多かったのかな。
これも夏ぐらいに実家帰った時に兄にあえてポツると言ってたけど、
1回、2回来てどこも混くなるみたいな。
で、忘れられていくみたいなことを言って、
その通りだなっていうのは肌感としてはあるんだけど、
それがそこまでしんどい、つらい、どれが適切か分からない、何かしらネガティブな感情だったのね。
それが生活がままならないとか、支援がもっと来たらいいのにとかより上回るような感情だったみたいで、
すごくお悲しそうにポツリと言ってて、それこそ新聞記者の友達がいるっていうのを知ってたから、
だから俺経由で何回も来てもらえるように言っといてみたいなことを言ってたりして、
それがすごく残っていて、その話を聞いたのが豪雨の前だったから、
今またさらにその気持ちは強くなっているんだろうなとは想像するけど、
正直は覚えてないから今も名前出せない。
今震災がパッといくつか出てきたけど、台風もあるだろうし、水害、川の決壊もたくさんあったろうし。
その度に、その日、次の日、数ヶ月くらいはすごく強く覚えてるけど、
忘れていくのは仕方がないことではあろうとは思いつつ、
やっぱ忘れちゃうんだなと改めて強く感じて、
定期的に、どこか思い出すことを心がけたいなという気持ち。
東日本とかはたびたびテレビでも取り上げられるし、支援としてイベントがいろいろあったりするし。
視覚的に大きかったから、記憶にも大きく残ってて。
取り上げられ続けるし、たぶんこれからも取り上げられるんだろうなとは思うところではあるけど。
なんかね、そんな気する。分かる。
比べての話ではあるけど、中越地震とかはそこまで大きく取り上げられ続けてない?
うん、そんな気がする。分かる。俺の裸もそう。
そのサブもとにかく言うわけではないけども、忘れそうになる災害はたくさんあるなと。
で、たぶん俺が今、ノトのことをこんだけ覚えてようと思えるのは身近な人がいるからだし、
いなかったらたぶんこんなに強く思わんのだろうなと思うと、
難しいんだなとは思うけど、どうにか覚えてたいなというところ。
どうしたらいいんだろうなってすごく最近考えている。
なのでその1個の手段として、ポッドキャストに載せておいて、
自分もそうだし、聞いてる人たちも思い出せればなという次第でありますし。
まあそうね、身近に感じれたものがあるのであれば、やっぱ愛知県とか京都らへんにいて東日本大震災、
ちょっと一言だったところはあったし。
そうだね、分かる。
それが年なのか、想像力が少ない、行動範囲が少なかった頃の、若い頃の起きたことだったからなのか、
身近に感じる要因が少なかったからなのか。
やっぱニュースのことってなっちゃってたけど。
今少なくとも、のとの震災に関しては身近に感じれてる。
そこだけは覚えてたいね。
だからこういう配信はたびたびやっていきたいなと思うところと、
あと、いつだあれ、春ぐらいかな、3月4月ぐらいは復興支援割みたいなので、
GoToキャンペーンに近いものが北陸を対象にあったけど、それで一回金沢まで行けたから、
多少なりとも貢献、協力はできたのかなっていうところありつつ、
そういうキャンペーンも探せばちょくちょくまだたくさんあるだろうから、
引き続きやっていきたいなと思いつつ。
調べると引き続きコツコツ倒壊した家屋の解体とか整理は進んでいるようなので、
このまままた何事もなく順調に進めばいいなというのを願っております。
そうね、願うしかないし、遠くから。
あとはね、2026年か、順調にいけば何事もなければまた奥野都国際芸術祭が開催される年になるので、
ちょっとね、それどころじゃないみたいなところはたくさんあるとは思うけど、
そういうところを順調に開催されたらいくし、たくさんお金を使いたいなと思うし、
そういうところが順調に全部うまくいくといいなと思っております。
記事はさっき言ったみたいにレストラン使用サイトで調べると、
さまざまな媒体の、北陸新聞とかかな?が多く出てくるんだけど、
豪雨の後の話を、インスタのアカウント、
奥野都鈴ヤッサープロジェクトっていうアカウントがインスタにありまして、
そこの投稿の中に大谷日記っていうシリーズがあって、
そこで夏の豪雨からこれまでの兄の日記が置いてあるので、
よければ読んでいただきたいなと思うのと、
結構リアルというか、
当人によって書かれているので、
辛い文面もたくさんあるけど、
知りたいと思える人には知ってほしい文章なので、
一緒に今回の概要欄、配信の告知ツイートに一緒に載せますけど、
読んでいただければと思います。
震災とかはなければ一番いいんだけど、残念ながらあるので。
2025年も思いを馳せていきましょうというところでございます。
あれだね、俺が最近見たニュースで言えば羽田、
どこあれ、鈴に空港がある?奥野都の空港。
里山空港かな。
なんとか里山空港。
のと里山空港、鈴里山空港。
のと空港か。
のと空港。
はいはい。
場所は和島にあるのか。
かなり奥だね。
本当に奥野都にあるのと空港と羽田空港を結ぶ飛行機が、
午後便だけ復活みたいなニュースだったから、
たぶん午前便、午後便の。
あ、違う。
震災前と同じ1日2往復に。
っていうのがクリスマスぐらいにニュースで出てたから。
のと里山空港ですね。
関東から行きやすくなったんだなって。
北陸新幹線で金沢まで行っても、奥野都まで行くとまた100キロ以上あるもんで。
結構かかるんですよ。
すごく大変ではあるんだけど。
直接のとの方に飛行機飛んでいけるならよっぽど行きやすくなると思うし。
既成の人たちはこれが本当にありがたいんだろうな。
そうね。
年末に間に合ったっていう感じなのかな。
そうだね。年末年始の規制にいいだろうし。
去年のがまた思い返してしまうこともあるかもしれないけど、
だからって距離を、
取り始めるのもいい。
とか帰りたいなって思う人がやっぱいるだろうから。
そういう人らが現実的に帰りやすくなったのはいいし、
この年末年始以外は観光客、訪れる人が行きやすくなって。
そうだね。
今日のニュースかな、昨日のニュースかな。
大谷小中学校、小中学校で一つの校舎だから、
あの媒体は全部そうやって読んでるんだけど、
その避難所、テレビの取材で被害がひどいところとして、
よく取材来てたところなんだけど、
そこから避難してた人たちが、
皆さん自宅に帰られたか、
仮設に引っ越されたかで、
皆さん、もう今避難所には誰もいなくなったと。
避難所に避難してからいなくなったっていうニュースが出てました。
そうかそうか。
なので、進んでいると言っていいのではないかと思います。
そうだね。
復興の状況とかで調べると、
様々な記事が出てきて、
良いも悪いもあったり、
分かりやすいのに解体が全然進んでないじゃないか、
みたいなやつも出てくるけど、
もうちょい調べれば分かるところではあるんだけど、
崩れてるものは誰かの個人の資産?
だから公共が何も許可なしに勝手に片付けられないんだって。
それも分かる。それもありそう。
持ち主の合意を得て掃除する。
なんかどうしようもない場所、
本当にメインの道路を塞いでるとかだと、
国が、なんだっけな。
強制大執行みたいな。
そう、そんなんができるって。
大事なところはそれで整理が進んでて、
綺麗になってるところは持ち主と合意が通りして、
まだ残ってるところは持ち主が不明とか、
当人が亡くなってしまって親族探すとかもあるだろうし、
本当に古すぎて誰のものか分からんとかもあるだろうし、
色々あるだろうけど、
そういうとこは引き続き残ってはいるとは思うけども、
進んではいる。
金額みたいなところ、
寄付金とか復興支援の予算とかを見て、
見捨てるのか、みたいな声もゼロではないとは思うけども、
何も動いてないってことは絶対ないので、
それだけは、
代わりに起こるみたいなことはないといいなとは思いますね。
これを聞いている方々がニュース調べるとか、
あわよくばどっかで寄付するとか、
旅行に行ってお金をたくさん落とすとか、
してくれたら何よりでございます。
それは何より。一番何より。
これはノトに限らず、他の被災地もそうだし、
世界には様々苦しんでいる場所があると思うので、
何かしらの形で。
またノトの話かと思わず、これを聞いてくれただけでもね。
どっか何かしらを少しでも思い出すきっかけになれればなと、
思います。
たつまの前で俺自身もそうさせてもらったから、
きっと聞いているみんなもなる人になってくれたかな。
ということで、
これからも話していきます。
ということで、この番組キッズハウスでは、
番組の感想、2人への質問、
たつま兄への値切れの言葉、
その他、こんなんありました。
こんなプログラムあってこんな貢献できます。
役立てます。みたいな情報。
資金窓口とかいっぱいあるけどね。
その他物資の支援なり、旅行支援なり、
なんか遠くからでも応援できる企画、
プログラムがあればぜひ教えてください。
ぜひ。
お便りフォームは番組の詳細、エピソードの概要欄、
ツイッターの固定ツイートにありますので、
そちらからどしどし投与してください。
はい。
ツイッターやインスタグラムどちらも
アットマークほぼはちやっております。
関数をツイートくださる際は、
ハッシュタグほぼはち。ほぼはちはカタカナで。
エピソードのリンクも付けてくださると
幸いにございます。
はい。
今回はさっき話した兄の手記が載っている
インスタのリンクも貼っておきますので、
ぜひそちらもご覧ください。
はい。
他にお知らせはありますか。
今週ね、喫茶がなかったんですけど、
ハイトイッチャーなんですけど、
あの、今これ配信は1月5日?
5日かな?
木曜日、
あ、日曜日なんで、
もう開始から
16日ぐらい経っちゃって、
2週間今日経っちゃってるんで、
ちょっと遅い告知なんですけどね。
うん。