番組紹介とゲスト紹介
NPO法人 世界被爆者展がお送りする
いのちのハーモニー
いのちのハーモニーでは、自然と調和し、多彩な命がハーモニーを奏でる、母なる地球の新しい文明の創造に向けて、
いのちの視点から世界を変えていこうとする人たちをゲストにお迎えし、自由に語っていただきます。
進行は森下美穂と
安西尚人です。
この番組は、NPO法人 世界被爆者展がお送りします。
今日のゲストは、核兵器廃絶を目指す広島の会・班は、共同代表の森崎遥子さんです。
遥子さんのお父様は、戦後の原水爆禁止運動を牽引し、広島の両親と言われた倫理学者森崎一郎さんです。
自らも被爆で見決めを失いながら、核と人類は共存できないという哲学を掲げ、世界で核実験が行われるたびに平和公園での座り込みを続け、その回数は生涯で500回を超えます。
その不屈の精神を間近で見てきた遥子さんもまた、長年、核廃絶運動の先頭に立ってこられました。
広島の枠を越え、イラクの劣化ウランダン被害など世界の被爆者との連帯を訴え、2025年には、広島で核のない未来を第3回世界核被害者フォーラムを開催されました。
遥子さん、よろしくお願いします。
父・森崎一郎さんの人物像と幼少期の体験
よろしくお願いします。
お父様の一郎さんの活動を支えてこられた遥子さんにとって、間近で見られた一郎さんというのはどんな方でしたか。
4人兄弟がいたんですけど、それぞれの個性に応じて、非常に優しく接してくれたように思いますけれども、戦争が厳しい状態になって、一家がバラバラに疎開、先もバラバラに散ってしまって、
広島に残ったのは父だけだったんですけど、父の距離で暮らしたんですね、私も子ども時代。
そのおかげで父が育った山里の風景、自然との触れ合い、その自然の中で育ってられたという思いが強いですね。
それは生涯にわたって私にも影響してきたと思いますし、父の話を聞くと母親からね、いつも言われてたって小さい時から、とにかく自然は大切にしなくちゃいけない。
この虫あり一匹にも、一本の草にも、川にも、どこにも命があるんだよって。
命は大切なんだということをずっと知られてきたという話を聞いたことがあるんですけど。
市郎さんからいろいろ知られていたってことですね。
一度だけ私、怒られたことがあるんですよ。父に大罰です。
戦争前は本当に食べるものが広島市にその当時いましたから、ないんですね。
それで大豆をいって、それを何粒かずつお皿に入れて、10日間、電球にね、お湯をかぶせたくらい、10日のもとで一家が黙々と大豆を噛むんですね。
そうすると母が、とにかく最後まで噛みなさいと、そしたらお腹がいっぱいになるし、栄養にもなるからって。
そういう生活をして、だからもう最後本当に大豆が数粒だけのような。
中でも私は疎開したんですけど、その頃だから4歳ぐらいだったか、もう5歳になってたかもしれないんですけど、そのいった大豆が少しお釜のずっと上の方に置いてあったんですね。
そこによじ登って、つまんで食べようとしたんです。ひもじから。
そしたら父が後ろから来て、首根っこをひゅーっと捕まえて、ひゅーっと下に下ろされて、頭をコツンと一つやられました。
原爆体験と「核文明」から「愛の文明」へ
それがもう一生ね、やはりその時に体に染みてわかるんですね。
自分一人でみんなの乏しい食料をね、つまみ食いしようとした、その罪悪性というものが子供心には本当にわかるんです。
その痛さと同時に。それがずっと残ってました。
利己的な欲望に負けてはいけないという、今で言えばですね。
父の活動と原爆孤児支援
それは本当に幼少児ですけど、なんといっても鎮とって原爆の体験というものが、哲学者でしたから、今までの人生を180度変える出来事だった。
これは多くの被爆者の人がおっしゃってるんですけど、特にこれは一体どう考えたらいいのかというのを、片目を原爆で失いましたので、療養生活の中で考えたと。
やはり核というものが、核兵器が、いわゆる人間が科学文明の頂上で核兵器という恐ろしい武器を開発して、そこから核文明イコール力の文明の頂点に達したと。
そこから人類の歴史が変わってしまった。そういうふうに考えて、やはり人間がこれから生きていくためには、愛の文明に変えていかなくちゃいけないというので、愛の文明とか、地の文化とか、慈しみの文化ですね。
被爆者運動の苦労と「車輪の両輪」
ある時、私が大人になってからですけど、後ろからお姉さんって呼ばれたんですね。振り返ってみたら、知らない男の人がお姉さんってニコニコ言ってらっしゃる。え?とか言ったら、森滝のお姉さん?僕は弟ですよって言われるんですよ。どうして?って言ったら、僕にとってお父さんは森滝一郎さんだから、あなたはお姉さんだって言うんです。
後に広大の学長になられた尾佐田新田先生という教育学者の方が、市内の学校の作文を募集するんです。いわゆる今で言う原爆体験記ですね。その子たちを何とか集めて、子供を守るかというので、月に1回会合するんです。それで、そういう孤児になった人たちが我が家に来られるわけですね。
我が家も戦争終わっても食料は非常に乏しい頃で、それを分け合って、孤児の人たちと一緒にお膳を囲んで食べたりした覚えがあるんですけど、その頃の高等資安の教育学校の学生さんが、私にとっては大きなお兄さんが当時、その方たちも家にしょっちゅう出入りされて、
孤児の状況というのをずっと市内全部の学校を回って調べられたんですね。原爆孤児が6,000人。あくまで推定ですよ。どこも国はしないわけですから、そういう調査。手も差し伸べられてないわけですから。そういったことから始めたというのは、やはり父のある意味、人間性を表しているのかなと思っているんですけど。
一郎さんの愛の大きさを感じますけど、遥子さんはその一郎さんの活動を長く支えられてこられたわけですね。
ほとんど兄弟の中でも一番長く親と過ごしているので、本当にその運動っていうのは、どれだけの苦労があったかっていうのはもう身に染みています。
ほとんど家に帰ってその苦しさとか愚痴とかいう人ではなかったんですけど、見てて分かるんですよね。起爆者運動というのは本当に精神的な苦労がつきまとうものだったんですね。
「核と人類は共存できない」という言葉の誕生
疲れ切って帰って寝てるのかと思ったら、座禅してましたね。布団の上に座って、座禅をすることによって心を統一してまた再出発してたのかなというふうに思ったりしてますけど。
とにかく飛弾橋を結成にこぎつけるまでも大変でしたけど、できてからも各地域に作るわけですから、ずっと回って作っていくということもやったんですけど。
例えば減衰爆禁止運動っていうのは、そういう一つの政治的な目的で志を同じくする人たちが減衰期に組織とか反核団体を作るんですけど、原爆被害者っていうのは本当にそれはもう思想は様々ですね。
ですから、今の生活が切羽詰まってますから、医療費とか生活の補助とかね、そんなものを取ってくるのがもう第一目的なんですけど、私たちから見ると反核運動、被爆者運動っていうのは減衰期運動と被爆者救援運動とは車の両輪だというのを最初から言ってましたから。
それが日本被弾協決成宣言、父が原稿を書いたんですけど、そこでも言ってるように、まずは自分たちを救うために立ち上がる。そしてそれが人類を救うことにつながっていくんだという信念の下でやってるんですけど、そういう運動っていうのは本当に疲れるんですよね。
パイオニアとしての活動は本当に大変だったと思うんですけれども、核と人類は共存できないという一郎さんの言葉はどのようにして生まれたんでしょうか。
核と人類は共存できないっていうのはかなり後になるわけですね。日本被弾協決成した時の父が総顧書いたという決成宣言ですけど、そこには後に非常に自己批判、反省して本にも書いてます。穴があったら入りたいほど恥ずかしい今となってはというのはですね。
その原子力の持つ力でね、これを軍事的利用ではなくて、人類の平和と安永に期するものであるようにというね、そういういわゆる原子力がバラ色の未来というので、アイゼンハワー大統領のアトムスフォーピースという言葉があって、そういうアメリカのイデオロギー的な宣伝ですね。
それに広島で平和博覧会って原子力博覧会があったんですけど、そういうのに結局誘導されて、それほどひどい被害を受けたから、余計バラ色の同じそういう邪悪な力をね、平和と安永をもたらす力にと夢見た時期があるわけですね。
来週の予告とエンディング
でもその時すでに平和博覧会を広島で開く時にね、質問書を政府に出してるんですよ。だけど原子力は必ず廃棄物が出ると、いわゆる核のゴミという言葉を使ってますね、その当時。
そういうものがあるその処理の方法を人類はまだ持ってない。で、それはどうするのか。それと原爆資料館の展示物をのけて、そこに原子力の力を示すような博覧会ですから、それに対しては抗議してますね。
そういう経験を経て、実際に核の実態という核被害の実態を国際的に活躍するようになってからですけど、オーストラリアのアボリジニのウラン鉱山のそこで活動する若い女性がいたんですね。それが訴えるわけですよ。
それが、核と人類は共存できないという言葉が生まれたきっかけだったんですね。来週は遥子さんご自身が世界の被爆者の皆さんとどうつながりを築いてこられたかなどについて伺いたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。