00:06
毎度ー!
元気ですか?
どないしたります?
毎日おど聞かれてますけども、
どないかなと思っております。
黙れヤドロクでございます。
お疲れさんでございますな。
もう9月に入りましてね、
言うてる間にもう中頃に入っていく
というような話でございましてね、
第何週かなこれ。
もう第2週、3週目中ですかね。
もう入っていくわけでございますけど、
いろんなことありますなと言うても、
やっぱりね、南部暑いとはゆえですよ。
食欲の秋というようなことでございまして、
本日もですね、
ちょっと気になった短編
というのがありますな。
最近はもうちょっとね、
ガザエのオサムちゃんのやつばかり
何発か続きましたけども、
また違うのも、
ちょっと気になるやつあるんですよ。
実際ね。
どれがエッチ悪いとか、
やっぱりそういうことはないんですよ。
読んでみてね。
やっぱり簡単な文章というんですかね。
わかりやすいのがやっぱりええんですよ。
ちょっと古いものだと、
言葉がわかりづらいという、
調べながらわからんというようなことが
結構僕読んでてもあるんでね、
簡単な言葉で書かれてるやつを
やっぱりチョイスしてるというんですが、
やっぱり耳に聞いてもらうというようなこと
時には、ある程度簡単やないと
意味がわからんというようなことがあったら
困るわけですよ。
説明せんだらんというようなことになるわけですね。
だから、簡単なもん、
わかりやすいもんと思いながら
やってるわけでございますけど、
言葉の使い方が簡単なもんやったら
いいなというようなことでございます。
これは読むに至ってもそうなんでございますけども、
本日はですね、
中谷うききろうさんの
おにぎりの味というね、
これはもう題名からしても食べ物というのは
もうわかりきってあることでございます。
おにぎりにはね、
ちょっとこだわりがありまんで、
その話も終わってからさせてもらおうかなと
思ってるわけでございますが、
まずとりあえずですね、
中谷さんのおにぎりの味というのを
聞いてもらおうかなと思うわけでございます。
どないだ作業中でか、
どない元気?
家でじっとしてる?
なんでもいいんですよ。
食べ物の話聞くとね、
食べたなるなというようなことがありますから、
やっぱり食欲なきっちゃなことでございますからね、
ぜひぜひ聞いていただいてね、
いろんなことを思ってほしいな
というわけでございます。
それではとにもかくにも
聞いていただきたいなと思うわけでございます。
中谷うきちろうさんの
おにぎりの味です。
おにぎりの味
中谷うきちろう
おにぎりにはいろいろな思い出がある。
北陸の固い中で育った私たちは、
中学へ行くまで、
洋服を着た小学生というものは
誰も見たことがなかった。
03:00
こんがすりのつつっぽに
ちびたげた。
雨の降る日は、
いぐさで作ったみの帽子をかぶって
学校へ通う。
街灯やレインコートはもちろんのこと、
傘を持つことすら
小学生には
非常な贅沢と考えられていた。
そういう土地であるから、
おにぎりは日常生活に
かなり直結したものであった。
遠足や
運動会のときはもちろんのこと、
お弁当にも
ときどきおにぎりを持たされた。
梅干しの入った大きいおにぎりで、
とろろ昆布でくるむか、
しその粉をふりかけるかしてあった。
浅草のりをまくというような
贅沢なことは滅多にしなかった。
しかし、そういう
おにぎりの思い出は、
あまり残っていない。
それよりも、
今でも鮮やかに印象に残っているのは、
ご飯を炊いたときの
おこげのおにぎりである。
十数人の大家族だったので、
女中が朝暗いうちから起きて、
すすけたかまどに
大きい釜をかけて、
そだを炊きつける。
薄暗い土間に
青みを帯びた煙が立ち込め、
かまどの口から
赤い炎が蛇の舌のように
ちらちらと出る。
私と弟とは、
ときどき早く起きて、
このかまどの部屋へ行くことがあった。
おこげのおにぎりが
もらえるからである。
ご飯が炊き上がると、
女中がかまを持ち上げ、
板敷きの広い台所へ持ってくる。
かまの外側には、
すすが一面についているので、
それについた火が
細長い光の点線になって、
チカチカと光る。
まだ覚めきらぬ
寝ぼけまなこの目には、
それが夢の続きのように見えた。
やがてその火も消え、
女中が蓋を取ると、
真っ白い湯気が
もうもうと立ち上がる。
炊きたてのご飯の匂いが、
ほのぼろとお腹の底まで
染み込むような気がした。
女中は、
大きいしゃもじで
山盛りにご飯をすくい上げて、
お室に移す。
最後のおこげのところだけは、
上手にかまぞこに
くっついたまま残されている。
その薄きつね色の
おこげの皮に、
塩をぱらっとふりかけて、
しゃもじでぐいとこそげると、
いかにもおいしそうな
おこげがとれてくる。
女中はそれを
無造作にちょっと握って、
小さいおにぎりにして、
さあと言って渡してくれた。
香ばしいおこげに
よくきいた塩味。
この厚いおにぎりを
ふきながら食べると、
炊きたてのご飯の匂いが
むせるように鼻をつく。
これがいまでも
頭の片隅に残っている。
06:00
五十年前の
おにぎりの思い出である。
この後大人になって、
いろいろおいしいものを食べてみたが、
幼い頃のこの
おこげのおにぎりのような、
あたたかくすこやかな味のものには
二度と出会ったことがないような
気がする。
都会で育ったうちの子たちは、
おそらくこういう味を知らずに
過ごしてきたに違いない。
いっぺん教えてやりたいような
気もするが、
それはほとんど不可能に近いことであろう。
おこげのおにぎりの味は、
学校通いに
雨傘を持つというような
贅沢を一度覚えた子供には、
リアライズされない種類の
味と思われるからである。
昭和三十一年、
九月五日。
どうだっか。
聞いていただきました。
中谷ウケチロウさん、
おにぎりの味。
話題のおにぎりに関しては、
ちょっと思うところがある。
結婚してから、
二十何年?
二十一、二年になるわけで、
二千一年ですからね。
もう二十二年ほどになるわけで、
結婚して一番最初に、
うちの家内というんですか、
奥というんですか、
ザ・ボスです。
うちの一番偉いさんです。
ザ・ボスが一番最初に、
僕が作ってくれと言わんと、
夜中、夜、
ちょっと小腹空きますわな、
その時にふと握ってくれた
おにぎりがあるんですよ。
これが梅干しの種から
実だけ添いで、
ちょっと叩いて、
鰹節と醤油と出して混ぜた、
混ぜご飯みたいなやつの
おにぎりなんですけど。
これを食べた時にね、
この人のおにぎりっていうのは、
これ世界で一番やなと思ったんですよ。
これは何かしらというと、
僕は何度となくこの話してるんです。
ほんまに最後の晩餐で、
食べたいのは、
うちのザ・ボスの握ったおにぎりです。
というようなことは、
どこでも言うとるんですが、
これが細かい言いますと、
やっぱり握り加減だと思うんです。
あとその時、
一番最初に食べた時の
シチュエーションというんですかね、
嫁に来る時に、
向こうの親御さん、
ギリの父母に、
何の修行もさせてませんが、
大丈夫ですかというような
類のことを言われましたけど、
そんなん関係はないんです。
料理できるできへんなんちら、
どっちでもいいんです。
自分がやりますさがいい。
食べ物なんちら、
食べたかったら食べればいい、
というような感じですかね。
そんな風に思ってましたから、
料理なんぞできなかっても、
わざわざこの人がよろしねん、
というようなことで、
結婚したわけでございます。
これもだいぶ反対されてましたから、
09:00
だいぶ後になって、
長男生まれた後に
挨拶した時に、
食事した時に、
お話しされたことでございます。
本当に来た時には、
料理というものというのが、
何もできんということはないんですよ。
ないんですけどね、
毎日せなあかんという義務はなかったし、
当たり前に、
嫁に来ましても、
それをせなあかんと言われなかったんです。
うちの家は、
食べたい時に、
おのおのが作って食べるというシステムでしたから。
だから別に、
誰が作らんなんというような義務は
なかったわけでございます。
米の炊き方だけが、
上手じゃないというか、
いかげんやというような部分が
ありましたんですけど、
この米の炊き方だけを、
うちのザボスは、
おばあさまから仕込まれとったと言うんですかね。
米の炊き方、炊き方というのと、
おむすび、
おにぎり、
これの握り方というんですかね。
このかげんというのがね、
うちの家族、
母もいれまして、
誰が握っても、
ああいうかげんにはならんというような
握りだったんですね。
食べた時に、
えらい感動しましてね、
これちょっと君、
上手やでと。
これはまあ、うちのザボスからすると、
この人とおにぎりなんか
誰でもできるやんかというような、
たわいもないことやと思うんですけど、
やっぱりシンプルなんて
難しいですよね。
どんなものでもそうやと思うんですよ。
米を握っただけというようなこと
やと思うんですが、
そんなに簡単やないんですよね。
この自分の好みの握りかげんで
あったりとか、
味付けかげんであったりとか、
何よりも自分が今までやったら、
腹空いたら自分で台所行って、
ちょちょっとやって、
食べるというようなところから、
この自分のワイフですね、
奥さんが、
ちょっと夜の小腹空いた時に
ふと握ってきてくれるという、
これに感動したというのはもちろんあるんですよ。
嬉しいなと思ったんですね、
その時に。
なんと奥さんというのは、
こういうことをしてくれるんだよな、
という感動というんですが、
これも相まっとるんですよ。
また食べたことのない味付けというんですかね。
梅干しをわざわざね、
そんなにめんどくさいことはせんへんわけですよ。
種から身をほぐして、
叩いて、それに鰹節を混ぜて、
また混ぜご飯にして、おにぎりするのに、
めんどくさいことはやらへんわけですよね、
男ですから。
ご飯に卵をかけて、
醤油をひらっと垂らして、
かき込むとか、
そういうようなことが多かったわけですから、
そうやって夜、夜食にね、
ふと小さいお皿に、
2つほど握って、
持ってきてくれると、
こんなことはないわけですよね。
生まれてこの方はないわけです。
腹減ったら自分でやれというような家でしたから、
母親にさえ、
そういうことをしてもらったことない、
夜食屋で作ってもらったことない、
自分が食べてるのを横からへつってもらう、
というようなことがあってもね、
自分の作ってるのを横からへつられて取られる、
というようなことがあっても、
自分のために、
嫁さんが夜に、
12:01
夜食のようにね、
ふと小腹空いたから食べようと、
握ってきてくれる、
これに感動したんですね、まず。
それもあるし、
何よりも握った米の加減というのがね、
絶妙だったわけですよ。
これちょっと、
君これ餃子やでと、
米もこれ炊いたんやろと、
いやだからなかったから、
炊いてくれたわけですよね。
同じ米作ってるわけですよ。
ヒーヒーヒー食べてても、
そんなにおいしない、普通なんですよ。
それが、米がおいしく感じるんやけど、
これなんでやねん。
いや私炊いてんの。
炊き方ちゃうやん。
米の炊き方だけはおばあさんに仕込まれてん。
あーなるほどなと。
米一つ炊き方にとっても、
これは違う。同じ米作っても違うんやな。
ましてや握って、
ちょっとこう、梅やら、
かつおやらって入れてくれたら、
こんなおいしいもんないって、
その時の感動がね、
今でも忘れられへんのですね。
この中谷さんの作品の中にある、
お焦げのところに、
塩をパッと振って、
ちょっと握ってくれたやつが忘れられん。
これと同じやと思うんですね。
教習の部分はたくさんあります。
リアライズでけん、
これを深く理解することがでけん、
という言葉っていうのは、
ほんまにそうやと思うんです。
その時の状況と環境、
結婚しても真似しあったと思うんです。
だからもう二十数年前なわけでございますけども、
これを今でも思い出すんですね。
だから、しかも、
今これが、うちのザ・ボスに
握ってくれって握っても、
おいしいんですよ、十分ね。
それでもおいしいんやけど、せやないんですよ。
うちの旦那さんに、
旦那様に、
夜ちょっと小腹空いたから、
握ってあげようかという、
これは今もう、
うちのザ・ボスにはないことです。
なんでこいつに握ったらんなんねんとね、
なってるんやと思いますよ。
別に全く気持ちがないというわけではないんでしょうけども、
やっぱり今あの時の、
感じというのはもうないわけですよね。
もうろくでなしですからね。
ろくでなしになって、
わたりがこめたいと、
おにぎり握ったらんなんで、
ちやな感じだと思うんです。
それはもう正解ですさ。
もう何も言い返すこともできません。
それはあなたが正しいです、
というようなことなんですけど、
あの時のニーズマの感じ、
わたしにこれしかできません、
という感じ、
この球の中に、
やっぱりもう、
見てわかるぐらい愛情がある、
と言うんですから、
今は今で、
十分愛情深いんですよ。
まだ形が変わってきてるわけです。
二十何年経つとね、
形は変わるわけでございます。
気持ちは心の中では変わらないと、
思ってます。
思いたい。
思いたいけど、
やっぱり表現値は変わりますね。
それは僕のせいですよ。
自分の責任なんですよ。
しかけど彼女があの時に握ってくれたね、
おにぎりはもう忘れられへんのですよね。
だから死ぬ前に、
死ぬ前やったらもう死にかけてるでしょ。
フラフラとなってるから。
ヨボヨボと震えてね、
15:01
おにぎりが食べたいなと思ってたら、
多分彼女は握ってくれると思うんですよ。
最後何食べたい?
おにぎりが食べたいなと言うたら、
あの時のおにぎり握ってくれるんちゃうかな。
僕しょっちゅう言うてますからね。
言ってるから覚えておいてくれたら、
握ってくれると思うんですよ。
それは食べれるかどうかわかりませんよ。
もうその今の際にね、
病床なのか家で倒れてる時なのか、
わかりませんけど、
ヨボヨボで口の中に物が喉通らんというのは、
どこで頼むかもわかりません。
口の中に含むだけで行ってしまうかもわかりません。
やっぱり最後に食べたいのは、
ザ・ボスの
おにぎりだなと思うのは、
何面考えても
これはもう変わらんのですよね。
母親の料理でも何でもないんですよ。
父親が作ってくれた動向じゃないんです。
ましてや自分で作ってもうだもん。
息子が作ってもうだもん。
そんなんないんですね。
うちの嫁さんが作った
おにぎりが食べたいと思う。
これ今でも食べたいんですよ。
今でも十分食べたいんだけど、
やっぱり
あの時の感動というのを
もう一回味わえるとしたら、
今の際しかないんやろうなというのが
正直なところでございます。
だからこの
中谷さんの
あの時のお米の味
あの時の
お米の味というのは
普段食べてるご飯の味とは違ったんや
というのは何となく
もう一回それを食べれるかと言ったら
同じシチュエーションで
同じように作ってもまたちょっと違う。
あの時弟と食べた味
というようなことやと思うんですよね。
そこに教習も含まれたり
その時の自流自生
というのが含まれてるというんですかね。
そんな複雑なことやないかも
わかりませんけど、
これをでも自分らの子供たちにも味わわせてあげたいけど
もうこれを本当の意味で
理解するのは無理やろうなというのは
何となくわかりますね。
うちの息子らにあれを味わわせてやりたいと言ったら
自分で奥さんもろて
何にも言わんでも
その時ちょっと小腹空いたので作ってくれたものに
感動は覚えると思うんです。
同じような思いしようと思ったら
そういうことやと思うんです。
本当にそういうふうに思いますね。
できれば
今の際には作ってほしいなと
こういうところで残しておいたらね
最後作らなかったら後悔するやろなと思って
後悔してくれと思ったんですけどね。
おにぎり食べたい
言うてね。
ヤガシャ言われてね。
行くかもわかりませんけどね。
皆さんにもそういう
味あるんやなかろうかと思います。
お袋の味しかり
自分の奥さんの味しかり
ご兄弟と一緒に食べたものしかり
どこぞのお店の思い出の味しかり
いろんなものあると思いますけど
僕はいつでも
彼女のあの時の
おむすびが食べたいなと
思うわけでございます。
そんな贅沢言うとおりますとね
うちのザボスから
いつも通り黙れやとろく言うてね。
怒られそうですな。