なんと、現存する偏空物は5,298体。 所在不明などを含めた確認総数は5,386体。
5,386体に上ることが分かってるんです。 ええ、実際に5,000体以上も残っていること自体が奇跡的ですよね。
そうなんですよ。で、その都道府県別の分布がまたすごくて。 愛知県が圧倒的で3,241体。
ついで、故郷の岐阜県は1,684体。 そこから少し離れて埼玉県に175体。
そして驚くことに、北の果て北海道にも。
美術キュレーションプログラム 学芸員の事件簿。
花です。 ダイチです。ノアです。突然なんですけど、あの今これをお聞きのあなたにちょっと想像してみてほしいんですよね。
なんでしょ。 今日朝起きて、ナタと木材を手に取って、夜寝るまでに10個の木彫りの像を完成させる。
1日10個ですか。 そうなんですよ。で、明日も明後日も来る日も来る日もそれを30年間1日も休まずに続けるっていう。
いやいやちょっと待って。 あなたならそんなことできますかっていう話なんです。
想像しただけで手首と腰が砕けそうですよそれ。 ですよね。
でも今回私たちが突きつけられている歴史の事件の証拠はまさにそれなんです。
江戸時代の物資円空が立てたとされる生涯に12万体、12万体の仏像を彫るっていうあまりにも異常な誓いなんですよ。
12万体。計算すると仮に30年間毎日彫り続けたとしても1日に10体以上作らなきゃ到底届かない数字じゃないですか。
そういうことになりますね。今回の私たちのミッションはこの12万体という数字にまつわる事件を残された証拠品である作品からじっくり深く掘り下げることです。
彼はなぜそんな途方もない数に誓いを立てたのか、そして物理的にどうやってそれを実現したのか、今日集めた証拠と事実だけを使って作り話じゃないこの驚くべき謎の真相に迫っていきますよ。
どう考えても異常なペースですよね。よし、この点をじっくり紐解いてみようか。
そもそも、彼がこの誓いを立てた当時の背景ってどんな感じだったんですか?
西暦1695年に亡くなるまでの間に、エンクはこの聖岩、つまり神仏への誓いを立てたと言われてるわけですけど、当時の常識からするとこれってどれくらいおかしなことだったんでしょうか?
当時の正式な物資、つまり大きなお寺から依頼を受けて立派な本尊を作るようなプロの職人たちのペースを思い浮かべてみてください。
はいはい、プロの物資ですね。
通常仏像を一体彫り上げるには、まず木を何ヶ月も乾燥させて、
いくつかのパーツを整合に組み合わせるんですよね。より日作りとかそういうやつですね。
そこから漆を塗って彩色を施してってやると、数ヶ月から時には年単位の時間がかかるのが当たり前の常識だったんです。
なぜ彼は大きなお寺や権力者のためじゃなく、わざわざ北の果てまで過酷な旅をして、出会った名もない人々に仏像を配り歩いたんでしょうか?
その動機の根幹を知る鍵が彼の老いたちにあると伝えられているんです。
遠空は美濃の国の竹ヶ浜、竹ヶ浜、現在の岐阜県橋間市で生まれました。
竹浜県ですね。
そして幼い頃に長良川の激しい洪水で愛する母を亡くしたという伝承が残されているんですよ。
大きな悲しみを背負って出家した彼が彫ったのは、立派なお寺の奥に安置される、ちょっと近づきがたい仏像じゃなかったんですね。
例えば、村人が病気になった時に、神棚から借り出されて、その枕元に置かれて治癒を祈られた三十三冠能像のように、庶民が個人的に、
直接すがりついて、救いを得るための仏像だったんです。
でもさ、純粋に人々の安寧を祈るだけなら、わざわざ自分の身を削ってまで木を掘らなくても、目の前でお経を読んであげるだけで良かったんじゃないかって思いませんか?
ああ、確かに。
お経を唱えるのは、僧侶の本来の仕事だもんね。
ただお経を読むだけじゃダメだったのかな?
つまり、これってどういう意味なんだろう?
うーん、当時の貧しい人々の視点に立つと少し見えてくる気がするんですよ。
彼らにとって、難しいお経の言葉って、少し遠くて抽象的すぎたのかもしれないなって。
ああ、なるほど。
不安で苦しくて、病気に怯えている時、彼らには物質として手でギュッと握りしめられる救いが必要だったんじゃないかな?
その通りだと思います。
そして、これをさらに大きな視点と結びつけてみると、非常に心が揺さぶられる事実に行き着くんですよ。
なんですか?
レン君は、
そうそう、ナブルゴーナス。
水害で亡くしていますよね。
はい。
なのに、彼が仏像を掘るために好んで使ったのは、川や海に流れ着いた流木だったんです。
ああ。
つまり、母の命を奪った忌まわしい水が運んできた木片を拾い上げて、それに菜太を入れて人々を救う仏の姿に変えていったんです。
悲しみの象徴を救済の象徴へと反転させていたんですよ。
わあ、鳥肌が立ちました。ただの廃材や流木にそんな深い意味が込められていたなんて。
彼にとってたくさん掘ること、それ自体が祈りの行為であり厳しい修行だったのだと理解できます。
彼は後世に残る立派な美術品を作ろうとしていたわけじゃないんです。
旅先で出会う、病に苦しむ人々、貧しい人々のために、一つ一つの捨てられるような木片に命と慈愛を吹き込んで直接手渡していく。
その行為の連続こそが、遠空という人間の生き様だったんです。
仏像の長い歴史において、質や大きさではなく圧倒的な量を祈りの誓いにしたことの居礼さは、彼が出会った救済すべき人々の数そのものだったからなんですね。