FP&A Insight、FP&Aアーキテクトの鷲巣大輔)と 管理会計のその先を一緒に考えていく番組です。
今日のテーマなんですが、管理会計、FP&Aの仕事を なぜやっても意味のない仕事に見えてしまうのかと、
このポイントについて考えていきたいと思います。 今日の結論なんですけどね、原因はですね、
管理会計そのものにあるわけではないというふうに思っています。 そうじゃなくて、
管理会計が移している会社の責任の構造の方にあるのではないかという、 これが今日の結論ですね。
責任の構造が歪んだ組織では曖昧な前提を置いといた方が得になる。 だから曖昧さを減らそうとするFP&Aの仕事というのが
歓迎されなくなるんじゃないか。 こんなお話をですね、一枚の倫理書を追いかけながら考えていきたいと思います。
さて、今日このテーマを取り上げたのは、Xでですね、面白い投稿を見つけまして、 どんな投稿だったかというと、
ファイナンス部門の仕事の中でも日本的な企業の管理会計だけは、 ほとんどがブルシットジョブになっているのではないか。
外からいろいろな会社を見るようになって、残念ながらそれがほぼ核心に変わりつつある。 という一つの投稿でした。
これ書いた方、ファイナンスよくご存知の方で、 外部のコンサルタントのような方なんですかね。
いろんな会社のサポートをされていらっしゃるという言葉ですね。 面白いですね。ブルシットジョブ、牛のうんちのような仕事ということですね。
やるだけ無駄といった意味合いなんでしょうかね。 強烈な言葉でもありますけども、この投稿してくださった方、
いい社の話じゃなくて、たくさんの会社を外から見た結果、 このような感想を持ったと。
残念ながらというふうに書かれてあるので、 本当はそうは思いたくないんだけどという無念さも伝わってきますよね。
この感覚、すごい分かりますよ。 自分もFP&Aやってるし、いろんな会社のFP&A管理会計見てもいるし、
多くの会社でFP&Aの組織が立ち上がったりとか、活動もしているけども、 働いている中の人たちがいまいち貢献できてないなって感じられる方もいっぱいいらっしゃるんじゃないかなというふうにも思いますし、
私も複数の会社でFP&A担当してた時に同じような感覚を持ったこともありました。
なので、この投稿者さんの言わんとすることはわかる。 けど、管理会計とかFP&Aが無駄かというと、僕はそうじゃないとは思っているんですよね。
そこはやっぱり抗いたい。そう見えてしまう理由は確かにあるんだけども、 無価値に見せているのは管理会計じゃなくて、その背後の構造の方だというふうに思っているんですよね。
逆に言えば、その構造が変わりさえすれば、管理会計もFP&Aも本当に効果を発揮するんじゃないかなというふうに思っています。
なぜこの管理会計がファイナンスの中でブルシッドジョブになるのかというところ。
一つ仮説が僕の中であって、管理会計のみが正しさを外から教えてもらえない仕事だというのは、 実は前提としてあるんじゃないかなというふうに思っているんですよね。
Xの投稿の中にも、ファイナンス部門の業務の中でも管理会計だけはって書いてあったんですよ。
ファイナンス部門の仕事って他にもいっぱいあるじゃないですか。経営とか財務とか税務とかIRとか。
だけど、名指しされたのは管理会計だけなんですよね。
先ほども申し上げたけど、管理会計っていうのは正しさを外から教えてもらえない仕事。
それ以外のファイナンスの仕事っていうのは、正しさを外から教えてもらえる仕事だというふうにも言えるんじゃないかなと思います。
例えば経理、会計基準があって監査法人がありますよね。
何が正しい会計処理なのかというのは、会社の外でもう決まっているユニバーサルなスタンダードっていうものがあって、それに基づいてやることが正しいことだったりするわけですよ。
税務もそうですよね。税法があって当局がいて。
で、財務はルールはないかもわかんないけど、銀行とか格付け機関がその判断を下すわけですよね。
だったら格付け下げるよとか、じゃあ金利上げるよとか、これ会社の外で評価されてしまう。
IRも投資家が評価をするというところがあるので、正しさというものが外にあるんだけども、管理会計だけは違うんですよね。
自分たちの中で正しいかどうか決めなきゃいけない世界っていう。
誰のために作って、何を作って、どこまでの制度で作るか、これ全部社内で決めなきゃいけない。
外に教えてくれる人がいないっていうのが、これ管理会計なのかなっていうふうに思っています。
この社内の中で、この正しさというものがきちんとできてりゃ問題ないんでしょうけども、
ここが歪んじゃうと、管理会計だけがまともに浴びてしまうっていうことなんだろうなっていうふうに思うんですよね。
だから管理会計そのものが悪いというよりは、管理会計が映し出す意思決定だったりとか責任の構造、こっちの方に問題があるんじゃないかなっていうふうには思います。
もちろん管理会計が100%悪いわけじゃない。
よくある批判と言いますか、ありますよ。
代表的なものはこの2つかなと思うんだけど、1つは担当者の力量が足りないからだっていうような批判。
もう1つは使っているツールとか制度とか組織とかが精緻ではないからっていうそういった批判。
この2つは部分的にはそうかもわかんないけど、僕はこれ決定的な理由じゃないと思っています。
なのでちょっと本論に入る前にこの2つの批判に対しての自分のコメントをさせてもらいたいなというふうに思います。
まず1つ目、担当者の力量が足りないからじゃないか。
100%ないとは言い切れません。
言わないですよ。
投稿してくださった方はたくさんの会社見てるわけじゃないですか。
たくさんの会社見てるってことはその中には優秀な管理会計担当者とか優れた経営者とかっているはずなんですよね。
それでもほぼ全ての会社でって言ってるってことは、これは多分属人性を超えたところに何かあるんじゃないかなと。
個人の力量だけで解消できる問題じゃないんじゃないかなっていうのが思ってます。
僕はここにかなりダウトなんですよね。
もう1つエピソード1でご紹介したドイツのベルナー教授の論文。
ドイツ大企業322社調べたうち200社が単なるスコアキーパーだった。
ビジネスパートナーとして言っていたのは104社っていうふうにおっしゃってたじゃないですか。
ドイツって歴史的にも管理会計とかコントローラーっていう制度が定着している国なんだけど、
その国の6割が実際にはスコアキーパーであるっていう。
これちょっと誰かの怠慢とか個人の力量っていうものに帰結させるには説明がちょっとつきにくいなっていうふうに思ってるってことですね。
これがまず1つ目のね、管理会計担当者の力量が足りないからだ問題に対する僕の反論。
もう1つ目、もっと優れた制度ツールが入れば精緻なものができて使われるようになるんじゃないかという批判。
これもよく聞きますよね。日本のFP&A論って大抵こっちじゃないかなと。
足りないから組織作りましょうとか人育てましょうとかツール入れましょうとかAI使いましょうとか否定はしないです。
これはとっても大事な話だとは思うんだけども、いくらツールを入れたところでそのツールが使われる本丸の意思決定のそのものとかね、
責任の構造そのものが壊れてるんだったらどんなに素晴らしいツールとか制度とか人ぶち込んだって、
使われない資料を無意味なものを大量に生産するだけじゃないですか。
だから僕はね、やっぱこれもブルーシットにつながっちゃうっていうふうに思うんだけども、
やっぱりその背後にあるものをしっかりと直さないと、これも意味がないんじゃないかなっていうふうに思っています。
なので、こういう2つの反論もあって、僕がやっぱりちょっと目を向けたいのは意思決定の構造そのもの。
ここにですね、ちょっと踏み込んで皆さんと一緒に考えていきたいんだけども、抽象論をやめて具体的に考えていった方が解像度が上がるかなと思うので、
倫義書1枚ちょっとサンプルにとりながらお話をしていこうというふうに思います。
皆さんが直近で挙げた、もしくは最近審査した倫義書というものを1枚思い出してもらいたいなというふうに思います。
ちょっと今日はですね、この倫義書というものをベースに議論を深めていきたいなというふうに思います。
この倫義書の中にですね、想定される最悪のケースとかその時の数字、インパクトみたいなものって書かれてましたかね。
このどの前提条件が崩れるとこの計画はうまくいかないっていうようなことって具体的に書かれてましたかね。
どうでしょうか。直感的にね、すごく主観的に申し上げると、正直にそこまで書かれているケースっていうのは少ないんじゃないかなというふうに思います。
むしろこの案件っていうのはできるだけ通したいので、リスクの欄っていうのは当たり障りのない一般論だったりとか、
突っ込まれてもすぐに返せるようなものだけ書いておくみたいなね。
そういうふうになっているケースが多いんではないかなというふうに、私は直感的に思うんですけどもどうでしょうかね。
仮にね、これそうだったとして、リスクの欄が当たり障りのないようなことで埋まってたとして、仮にそうだったとして、
じゃあ倫理書いている人って不誠実なんですかね。能力がないからなんですかねっていうと、そうじゃないですよね。
そうじゃない。誠実だし能力もあるんだけど、リスクに関しては当たり障りのあることしか書かない。
逆に言うと、そういうふうに当たり障りのない一般論を書いた方が、その人にとっては得である利益になる。
正直に書くと、不利益をこむってしまう。これがいわゆる構造に問題があるがゆえの、人間の合理的な行動として帰結するんじゃないかという、そういう話なわけですよ。
前もお話ししたかもしれないけど、僕は基本、人間は合理的に考えて、合理的な、全ての行動は合理的なものとして帰結するというふうに思っているので、
分かっているんだけど書かないというのは構造があるから、合理的な帰結だという、そういうこと。
じゃあこれ、なんでそれが合理的なのかって話をしてみたいなと思います。
正直に書くと不利益をこむるというこの事象について、責任という言葉を使ってですね、深掘りしていこうかなと思います。
私が考える責任って、大きく分けて2種類あると思っているんですよね。それは何かというと、行動責任と結果責任。
多くの組織の場合、結果責任の方に大きく偏っているんじゃないかなというふうに考えています。
行動責任と結果責任、ちょっと簡単に定義付けをすると、行動責任というのは何かというと、意思決定をしますよね。
その意思決定をした段階で、結果が出るはるか前に意思決定した段階で引き受ける責任のことです。
結果責任が重く行動責任が緩い状態の場合だとこういうことが起こっちゃうんですよね。
こういう組織の中でFP&Aが一生懸命前提をクリアにしようとしたらどうなるか。
当然のことなら反発受けます。歓迎されません。嫌がられます。
これが僕は管理会計がブルシッドジョブにつながっていく正体なんではないかなっていうふうに見てるんですよね。
FP&Aの仕事っていうのは先ほど申し上げた通り前提を明確にする。リスクを分解する。
何が起きたら成功で何が起きたら失敗かこれを先に特定する。これらすべて曖昧さを減らすってことなんですよ。
この曖昧さを減らすっていうことはさっきあったような逃げ場を失わせるっていうことでもあるわけですよね。
悪気があるわけじゃないですよ。みんなが悪いわけじゃない。FP&Aを面の敵にしてるわけじゃない。そうじゃない。
でもそのFP&AがFP&Aの役割を果たそうと思って一生懸命曖昧さを失わせていく。
曖昧さをなくしていこうとするとみんなにとって逃げ場がなくなるから歓迎する理由がないわけですよ。
そうすると資料を作る。とりあえず網羅的に話さなきゃいけない。
リスクみたいな話っていうのも触れる。会議の前に配られもする。
けどもできるだけそこに触らない。議論には使わない。
決済は別のとこで決まってて、資料はただ添付されるだけ。
だからやらないと怒られるような、なんでこれ添付ついてないんだみたいな話になって、
結果として管理会計FP&Aの仕事がブルシッドジョブになってんじゃねえかな。
なので管理会計の中身空っぽだからブルシッドジョブなんじゃなくて、
中身はあるんだけど、それを組織が受け入れられない状態になっているから、
ブルシッドジョブになって見えてるんじゃないかなっていうのが私の見立てですね。
じゃあ自分の会社どうなのかっていうと、これ一つ質問をしてみたら分かるんじゃないかなというふうに思います。
僕の経験も含めて、皆さんも一緒に考えていただきたいんだけども、
皆さんの会社が今お話ししたような状態になっているかどうか、
これを確かめるにはどうしたらいいか、一つの質問で分かるんじゃないかなというふうに思います。
何か正しく倫理を挙げるときに設計は正しくやって、
それでも外しちゃった、失敗しちゃった、その案件の責任者に次のチャンスって回ってきてますか?
制度が入ってるかどうかって聞く必要はないと思うんですよね。規定があるかとかフォーマットがあるかとか、
委員会があるとかって、そういう話は別にどうでもよくて、そうじゃなくて、
もし失敗したが故に罰せられた、失敗したが故に外されたとするのであれば、
制度があったってそれは飾りだと思うんですよ。失敗したらペナルティーなんで。
そうするとさっきの話、倫理書に前提正直に書かないわけですよね。
書くほど得るものはないのに罰せられるリスクだけでかくなるわけですから。
書いた人がどうなったかってみんな見てるんで。
もし失敗したんだけど、その人が次の大きなチャンスに向かっている機会が与えられているとするのであれば、
もう制度なんかなくたって、その組織っていうのは行動責任で人を見てるんじゃないかなっていうふうに思っています。
だからこれ一つのポイントは何かっていうと、評価を結果責任から行動責任に移すのがいいんじゃないか。
これは私の提案ということなんですけども、評価軸を結果責任から行動責任に移す
っていうのがすごく大事なことなんじゃないかな。
倫理書というものを通すための紙ではなくて、読み返されてアップデートするための紙に変えるっていうことが
とっても大事なことなんじゃないかなというふうに思っています。
前提を明確にして引き受ける人を決めて、どのリスクをとって、それが顕在化したらどういうふうなアクションをとるかというところまで詰めたとしても
失敗するときは失敗するんですよ。誰も推奨玉なんか持ってないし、将来のことなんて誰もわかんない。
逆にね、そもそもそういう設計をしないで怒ったって失敗した案件もあるわけですよね。
これ結果責任だけで問うと、この2つは同じ失敗案件なんですよ。
でも中身全然違うんですよね。しっかり準備して正しく設計して、それでも前提が外れちゃった。
備えてたかどうかまでやった人っていうのは、次のチャンスぜひ与えてほしいんですよね。
そのためにもう評価軸っていうのは、やっぱり行動責任に移したい。
これは聞いてくださっている方が、どこまでその評価制度を変えられる権限があるかというのはわかんないんだけど、
ここは僕はすごく大事なポイントになるんじゃないかなと思ってます。
だから処方箋その1は評価軸を移すことですね。行動責任に移すこと。結果責任から行動責任に移すこと。
それからもう1つ処方箋あるかなと思ってて。
その倫理書っていうものが通すための紙ではなくて、読み返される、更新されるための紙にするってことです。
倫理書は計画の束なので、この束をアップデートするために読み返されるべきものだと思うんですよね。
残すべきっていうのは、どの前提を置いたかっていうこと。その確らしさをその時はどう見積もってたのか。
もちろん分からないっていう不確実さってものもあると思いますよ。だったらそう書けばいい。
あともう1つは、それがどういう状況になったらそれを見直すのかっていうトリガーを書いておくこと。
これを書き直せない形で、もう倫理のタイミングで固定化させておくっていうことが大事なんじゃないかなと。
人間って結果を見た後に記憶を書き換えちゃうから、失敗する案件って絶対に最初から危ないと思ったんだよねっていうやつ出てきてるじゃないですか。
あれ悪気じゃないんですよ。本気でそう思ってるんで。人間の記憶ってそういうふうにできてるから。
だからそうならないためにも最初に固定化させておく。倫理のタイミングでそれを固定化させておくっていうのがすごく大事なんじゃないかなと。
ただ注意点があって倫理書のフォーマットを変えましょうみたいな話になると、これはやめた方がいい。
倫理書のフォーマットを変えて前提欄作ってリスク欄作って記入記入付けてってこれやると多分失敗します。
なぜならば冒頭申し上げたんだけど、前提を書く行為っていうのは書いた本人を縛る証拠になるんですよね。
結果責任が重いまんま前提欄だけ作ったらそれを証拠として残すってことになって。
書く側からすると何も得るものないのにリスクだけ変えることになるわけですよ。
だからこれだったら行動全く変わらない。順番は逆です。
やっぱり評価軸を先に変えること、行動責任を果たすこと自体が評価の対象になる。
結果が外れたとしても評価が下がらないよ。
実際に事後に物差しを変えない。後での事後評価が行われない。
この約束が先にあって初めて倫理書というものに前提が正直に書かれるようになるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
いかがだったでしょうか。
今日皆さんと一緒に見てきたのは管理会計がブルシッドジョブに見える組織。
これは結果責任だけが重くて行動責任が決まってない組織なんじゃないかということでした。
これを変えようとするんだったらどうしたらいいか。
まずは評価軸を行動責任にちゃんと移し、これを評価するんだということを約束して。
倫理書というものはアップデートするためのものというふうに変えるっていう。
この順番で書法を変えていくっていうのが大事なんじゃないかなっていうふうなお話をしてきました。
これは途中までは学術論文とかのケースを使いましたけど最後の書法戦は私の提案なのでここに関しては大いなる議論をいただければなというふうに思いますけどね。