1. そるくら黒沢峰明のCrafted Code.
  2. vol.4 絡む網と無為自然の「無」
2024-12-19 21:43

vol.4 絡む網と無為自然の「無」

00:08
はい、本日も瞑想20分の直後に10分間、思考がクリアーになった状態でお話しする、瞑想マイクをお送りします。スピーカーの黒沢隆明です。
何をお話ししようかなと思ったんですけれども、なんかこう、感覚として、瞑想によって整理されたなっていうのが今回あって、
それは何かっていうと、周囲、外界、誰かの声、誰かの意見、そういったものによって自分の中から答えとしてリアクションが返ってくる。
このリアクションが返ってくるっていうのがすごく整理されたっていう風に思ったんですよね。
というのも、この間は、私自身ちょっと腰痒を痛めたりとか、アレルギー整備炎になったりとか、
家庭の用事でいろいろ動いたりとか、結構忙しかったようなところもあるし、
12月のお店の営業でちょっと忙しい部分もあったりとか、逆にスタッフの方々にサポートいただいたりとかっていうことが多くて、
周囲との関わりが内心にいつもより多かったかなっていうイメージなんですよね。
今こうして外界との関わりというか、コミュニケーションとかを含めて、それが整理されたって思うのって、僕にとって結構フラットなように感じた出来事で、
今までの、幼少期から数えて大人になって自分というものが安定してくるまでは、
かなり外界の音、物語、声、背景、いろんなものに対して、結構過敏に反応していたと思うんですよね。
それは例えば、世の中は普通はこうだとか、そういったものにすごく関係していたと思うんですけれど、
03:19
その世の中の意見とかっていうものに対して、自分が幼少期に獲得した思考の癖というか、そういったものを一個ずつ心理療法のようなものを使って解除していった結果、
全てとは言わないけれど、そういった自分の思考に絡まってくる網のようなものを一個ずつ解いていった結果、今の自分が出来たとは思っていて、
そうして初めて、純粋に自分から出てくる選択というものが生まれてくる感じがするんですよね。
そういった意味ですごく外の声に対してフラットになれるっていうのは、僕にとっていい意味で特別なことでもあるんですけれども、
大人になって一定の自分を獲得するまで、それが出来なかったということでもあるんですよね。
だからその点は、なんだろう、すごく良かったなと思うんですけれども、
同時にそのスキーマというもの、自分の思考の癖のようなものを一個ずつ解いていった先に、
出てくるものって、実はちょっと言葉を固くするというか、自由にすると無限の可能性という言葉が一個作れるかなと思うんですけれども、
これ実は中国の老僧思想というものから来ているんですけれども、
老子といって道を解いたという、道を大切にしたら世の中うまくいくんじゃないというものを語った人たちなんですけれども、
その言葉の中に無為自然というものがあって、それは僕が中学校ぐらいの時にちょっと困ったことがあって、
無為自然か、何も作為せず自然のように振る舞っていれば、それがすなわち善となるというか、うまくいくというか、そんな印象だったんですけれども、
その結果僕は自然崇拝のような状態に陥るんですよね。
極自然体、何も作為せず、何も意図せず、極自然なままに振る舞うということを追求していったわけなんですけれども、
06:09
通常の状態だったらそれで良かったのかもしれないんですが、その時点で僕は思考の癖のようなものを獲得していったので、
ある種自然の状態ではなかったわけなんですよね。自由な意思決定のようなものが網に絡まっている状態で、
それが極自然な状態で、作為なく生きるということをある種不可能にしていたというような感覚があったんですけど、
それを取っ払った結果、老子が言っていた無意自然というものの概念が一個アップデートされて、
無意自然の無は無限の可能性の無だったとするならば、すごく理にかなっているというか、
世の中って人間の営みとかってものすごく複雑に絡み合っていて、
ゴクゴク動物のように暮らしていて、本能的な部分だけで暮らしていては、
生きていけないというか、生きにくい世の中になっていると思うんですけれども、
自分の周りに絡め取られている網のようなものをすべて取っ払った結果、
人間だったりこの社会の中で自由に自然に振る舞うと、自然になるように、
自然とそうなるように暮らしていくということの自然さというのはすごく大事なんじゃないかっていうのを、
この言葉を通して思うんですけれども、
僕の中でこの無意自然がアップデートされたっていうのは結構大きくて、
間違ってなかったとは言わないんだけれども、
自分の考えていることがある種昔の思想家の道しるべにつながることって、
なんか一個パターンとしてそういうパターンを自分の中に持ってもいいのかなって思えることだと思うんですよね。
逆にいろんな諸子百家と言われる人たちいると思いますけど、
孔子のように振る舞う瞬間とか、牧師のように振る舞う瞬間とか、
いろんな自分があっていいと思うんですよね。
全てが万能ではないし、この複雑な社会の中で自分がどういうふうに振る舞うべき瞬間なのかっていうのは、
09:04
ある種一貫性がなくてもいいというか、分けて考えていいというか、
例えば、僕が家族と接する時に家族と接する僕である必要があって、
お客様と接する時にはお客様と接する僕である必要があるし、
仕事仲間と接する時は仕事仲間と接する僕である必要があるし、
地域の飲食店の仲間内ではその人たちと触れ合う自分である必要がある。
いろんな顔があるということが自然に受け取れる。
そしてその中で自然とそうなる。
自分としては自然とそうなるというようなメンタリティで日々を過ごしていく。
ことを成すというと多分それは作為になってしまうから、
自然と自分のイメージに沿うように日々を営む。
これが自分にとって今の僕にとっての日々をクラフトするだなと思うので、
そういった意味では自分の身の回りにかかった網のようなものを取れて本当に良かったな、
そしてここに考えが至って内心満足感があります。
これだけ関わっても普段だったら結構ストレスで疲れ切っていたなと思うんですけれども、
こうやって必修回って自分の価値観に還元するような機会をいただけるような巡り合わせ、
これは僕にとってはありがたい出来事だったなと思います。
さて、今日もお付き合いいただきありがとうございました。
またねー。バイバイ。
21:43

コメント

スクロール