震災から15年、語り手の思い
おはようございます、いとうゆうこです。
このチャンネルは、起業や副業を頑張りたい方を応援するチャンネルです。
聞きに来てくださり、ありがとうございます。
さて、今日は3月11日ということでね、東北にゆかりのある方は、少し気持ちがザワザワする日かもしれません。
今からなんと15年前になるそうですね。
東北で起きた大きな大きな地震、東日本大震災、あれから15年が経つ今日この日。
まだまだ地元ではですね、その少し物悲しいというかね、いつも今でも心がキュキューと悲しくなる人もたくさんいらっしゃいます。
改めて、たくさん心を痛めている方、そして遠い空で、わからないけどね、もう空に行ってしまった方々の思いは私にはわからないけれども、どうかどうか心を安らかに眠ってもらいたいなと思います。
さて、そんな今日なんですが、私は今までですね、特にこの震災に関して、過去に何か自分の思いをトロしたことはあったかと思うんだけど、今日はね、ちょっと1個エピソードをね、振り返ってみようかなと思います。
震災直後の義母とのやり取り
当時の話になりますのでね、そんな激しい描写は言わないけれども、もしあんまりこういう話は聞きたくないよっていう人はまたね、明日以降私のチャンネル聞きに来てくれれば嬉しいです。
ということで、本題なんですが、15年前、本当に大きな大きな地震がありましてですね、私は地元が宮城県仙台市なんですけれども、当時は結婚した翌年だったんだよね、震災が。
で、私は新潟に住んでたんですよね。で、たまたまうちの夫がですね、仙台にいまして、友人の結婚式がその日ありまして、まさかの仙台にいたんですよね。なので、あの大きな地震があった時、私の親しい人はみんな仙台にいたんですけど、
まあ地震があった以降ですよ、もちろん電話も通じない、ガスも電気も止まりますからね、宮城にいない、離れている人の方が当時の津波の状況とか、あと福島のね、原発の状況とかがテレビのニュースでどんどこどんどこ流れていって、
本当に日本中、世界中の人たちが心を痛めた瞬間だったんじゃないかなと思うんだけど、
夫の母がですね、夫の実家が東京なので、夫の母から私に電話がありまして、息子と連絡が取れないということでね、東京じゃないや仙台に結婚式に行ってるっていうのは知っていたのでね、
ゆう子さんちょっと息子と連絡は取れないんだけどどういうどうかしらみたいな、私は地震があった瞬間に連絡がたまたま取れまして、まあなんとか生きてると、海のそばにいるわけでもないので、なんとかなるだろうというところはあったんだけど、
とにかくお母さんが心配されてまして、特にね、原発をすごく心配してたんですよね。ゆう子さん、とにかく夫と一緒に東京に来なさいと、今すぐ来れないかっていう電話だったんですよね。
で、私としてはね、それをね、言われたとて無理だろうということがあったわけですよ。私も仕事がありましたし、夫は仙台にいたまま連絡は取れないし、そしてお母さんはね、こう続けるわけです。ゆう子さんのご両親とかお姉さんたちもみんな仙台にいるでしょうと、みんなとにかく避難して東京に連れてこれないかっていうわけですよ。
でね、私は当時、心もね、ものすごくピリピリしていたので、ちょっとそれは無理ですと、優しくは答えられなかったと思うんだよね。少し感情的にお返事をしたと思うんですよね。
で、それに対してお母さんが、ちょっと感情的になったわけですよ。何て言ったらいいんだろうな、言葉では言わなかったけれども、私の大切な息子が命がなくなってもいいの、みたいな。
お母さんにしてみれば、とにかく自分の息子を守るために、なんかこう、よかれと思ってこっちに避難してきなさいって言ってるのに、それを分かりました、そちらに行きますって言わない嫁に対して、一瞬猛烈な怒りを抱えたっていうか、
それは別に私個人に対しての怒りというよりは、あの猛烈にすごい地震とか、福島の原発とか、いろんな出来事に対しての恐怖、怒り、悲しみ、苦しみ、息通りとかが一気に私に向かったみたいな、あの瞬間があったわけですよね。
私は、あれにすごく傷つきまして、なんかすごく鮮明に覚えてるわけですよ。
生々しい感情と15年後の和解
でね、当時、15年前ですけど、こういう出来事がものすごくたくさんあったんですよね。
やっぱり本当に大変な時期、命を考えるあの瞬間は、やっぱり日々人々が生きる上で持っている人に対する優しさだったり、気遣いっていうのはやっぱり持てないわけで、
そこにはこう、生きる上で出てくる本能的な、なんかやっぱあるんだよね。
そういうこう、人間とね、生々しい感情に触れる機会がたくさんありましたね。
だからなんか、15年経ったんだけど、今でもその生々しい感情、それはお母さんだけではなくてね、知らない人でも、
ファッとね、向けられる瞬間とかがあって、なかなかそれはこう、解消できない。15年経ってもね。
本当に、本当にね、いろいろありますね。いろいろあるっていう言葉で逃げちゃった。
まあでも、それがね、何年経ってからかな、数年後、お母さんと当時を振り返ってね、いやあの時大変だったよねって言った時に、お母さんがふとね、
ゆうこさん、あの時ごめんなさいねっておっしゃったんですよね。
そのごめんなさいねって言ってくださった時に、私は、なんかこう、どういう返事をしたかな、覚えてないけど、
ニコッと笑って、いやいやそんな、みたいな。それで終わったんですよ。
そのお母さんと私の会話で、なんかね、すべてが溶けていったっていうか、
あの当時、あの瞬間を、私とお母さんは共有して、共有したからこそ、言葉にできない当時の思いとか、
お互いにぶつけ合った感情とかを、言葉にせずに許し合ったっていうのかな。
あの瞬間は、やっぱりこれね、誰にも言ってないんだけどさ、夫にも言ってないことなんだけど、
私にとってはね、少なくとも私にとっては、宝物なんだよね。
お母さんと私にしか知らないあの時間、本当に二度と経験したくないけど、
でもお互い苦しいあの瞬間を乗り越えた時間でしたね。
お母さんがね、もう今、病気で亡くなってしまったので、
この話をね、また時間が経って話すことはできないんだけどね、
私にとっては、今もすごく印象に残っている大切な大切な時間です。
震災を伝えるイベントと語り手の決意
そしてやっぱりね、こういう話は感情的になってしまうから、
いつになったら感情的にならずに話せるんでしょうか。
嫌になっちゃうね。
でも今回この話をちょっと撮ってみようかなと思ったのは、
私、ウーマンズアカデミーっていうコミュニティに所属しておりまして、
そこで3月にね、とあるイベントがあるんですよ。
松島っていう宮城にね、素敵な観光地があるんだけど、
松島を巡るっていう、そこでそのイベントを企画しているフナッシーさんという方がいるんだけどね。
フナッシーさんが、そもそもこの震災とかをね、やっぱり後世に伝えていきたい。
娘さんもいらっしゃるんだけど、そういう娘さんにも伝えていきたいということで、
なんかこうイベントを企画してくださってね。
で、松島っていう素敵な場所も周りながら、
気仙沼っていうね、震災の被害も大きかった地域にも行って、
ちょっとね、語り部さんとかにも話を聞くのかな、ちょっと内容詳細はわかんないんだけど、
そういうイベントを企画してくださってね。
本当は私もそれに参加したかったんだけど、
まあこんな感じでさ、当時のことを振り返るとまだ感情的になっちゃうから、
ギリギリで、やっぱごめんフナッシーさん参加できないやということでね、お断りしたんですよね。
ただ、そういうイベントを企画してくれたことによって、
私もちょっと今回このエピソードを言葉にしてみようと思って、今回ちょっと収録させていただきました。
きっかけをくれたフナッシーさんには本当に感謝だし、
こういう企画をね、産み出してくれる、やっぱウンマンズアカデミーっていう福本春さんのコミュニティに所属していて、
やっぱり良かったなぁなんて思ってます。
リスナーへの呼びかけと感謝
これを聞いている皆さんの中で、
皆さんそれぞれの中でね、震災に対するエピソードって実は誰にも言ってないことあるんじゃないかなと思うんですけど、
もしよかったらね、この放送の概要欄、概要欄じゃないやコメント欄に書いてもらってもいいし、
私に直接メッセージいただいても嬉しいなって思います。
15年経ったからこそ、表に出せたちょっと個人的なお話でしたけれども、
良かったら何かどなたかのね、何かに繋がったらとても嬉しいです。
長くなりましたが最後まで聞いてくださった方、本当にありがとうございました。
最後になりますが、改めて15年経つけれども、
皆さん健康に気をつけて、それぞれがハッピーで暮らせますように。
今日も聞いてくださりありがとうございました。
それではまたお会いしましょう。
ありがとうございました。