今回は「ゆかか」(https://x.com/@sora_no_hishaku )様からテーマをいただきまして
「宇喜多秀家」
について話しております
よろしければお聴きくださいませ
うっちーの別番組「くすけんラジオ」はこちら→ https://spotify.link/QJUjuFn39Hb
「マンラジ」はこちら→
https://x.gd/pYzzB
ご意見やご感想など.いつでもお待ちしております!!
[X] https://x.com/kusukenradio
[Instagram] https://www.instagram.com/kusukenradio
[gmail]kusuken.radio@gmail.com
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
サマリー
本放送回では、戦国時代に豊臣秀吉に重用され、五大老の一人にまで登り詰めた宇喜多秀家の生涯を辿ります。父・直家の急死後、幼くして家督を継いだ秀家は、秀吉の後見を受けて順調に成長。四国・九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵と武功を重ね、岡山城の大規模な築城や城下町の整備も行いました。しかし、家臣との対立から「宇喜多騒動」を引き起こし、関ヶ原の戦いでの敗北により八丈島へ島流しとなります。それでも約50年間生き抜き、晩年は平穏な生活を送った秀家の波乱万丈な人生を紹介します。
宇喜多秀家の紹介と生涯の概要
おはよう、こんにちは、こんばんは。 武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸人を目指すととも考えていた、 歴史続きを生きている私、うっちーが、
毎月11日、ソロポートキャストの日に、 さまざまな武将について話をするという番組です。 どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回は前回に引き続きまして、リスナーであります、 ゆうかか様から頂きましたテーマで話をさせて頂きます。 ゆうかか様、誠にありがとうございます。
前回、ゆうかか様からテーマを頂きまして、 その際は岡山にまつわる武将ということで、
うきた直家について話をさせて頂きました。 このうきた直家、戦国三代経由とも言われまして、
さまざまな人物を暗殺して、国を大きくしていった人物なんですけども、 暗殺を繰り返した理由は、若い時の苦労があって、
さまざまな点でコスパを考えていた、そういった合理主義もありまして、 暗殺を繰り返していたんだという話をさせて頂きました。
そして今回はその前回引き続きまして、 今度は息子であります、うきた秀家で話をさせて頂きます。
このうきた秀家も、岡山の基礎を築き上げた人物ということで有名な方でございます。 それでは今回話をさせて頂きます。タイトルはこちら。
戦国のエリートから罪人へ、戦国君主の転落人生を送った男、うきた秀家。
うきた秀家という人物も、ほんと人生の楽さというのが激しいです。
後大郎という豊臣秀氏に使える、5人の大大名のうちの1人でしたけども、その後島流しの経緯にあったりもしました。
ほんと色々とネタに豊富な方でありまして、ネットではうきた秀家イコール泳いで参った人物、なんで言われるくらいにネタにされていたりもします。
この泳いで参ったはネット上で生まれたネタなんですけども、徳川家康が豊臣討伐に取り出した大阪の陣。
この時にもしもうきた秀家が大阪城にいたらなぁということで生まれたネタでございます。
このネタもし知らないという方は、よろしければうきた秀家泳いで参ったとかで調べていただければいいと思うんですけども、
ほんとこのネタ良くできてるなと思います。前置きはここまでにさせていただきまして、ではうきた秀家の生涯の話をさせていただきます。
宇喜多秀家の出自と秀吉による後見
このうきた秀家、1572年に岡山城で生まれたと言われております。
そしてこの秀家のお父さんはうきた直家。このうきた直家、一代で今で言う岡山あたりの領土を持つ大名になりました。
ほんと優れた人物でありますが、このうきた直家は暗殺とかを繰り返しまして、周辺の大名とかだけでなくて、遠く離れた織田信長とかにも警戒されるような人物でございました。
ただ優秀である反面、そういった意味で警戒される悪名の高い人物としてうきた直家は有名ではありました。
ただこのうきた直家は自身の配下の武将であるとか、また民からは好かれていたと言われております。
民や兵の消耗が嫌だったからそもそも暗殺をした。コスパですね。民とか兵を失いたくないよ、だから暗殺するんだよっていう考えだったりだとか。
また功績を挙げた人物にはしっかりと褒美をあげるということもありまして、怖い人物だと思われてはいたかもしれませんけども、愛されている人物でもありました。
またこのうきた直家なんですけども、妻や子供のことをとても愛していたと言われております。
息子であるうきた秀家が晩年に残した戒子録にて、父親であるうきた直家にとても可愛がられていたよということを残しております。
なのでこの優秀な人物でありますうきた直家が父親でありまして、さらにその調和、愛を受けているといううきた秀家も後継者としてこのうきた家の跡を継ぐ者として
順風満帆かなと思いきや悲劇が起こります。
父であるうきた直家は秀家がまだ幼い頃、数え年で10歳とか11歳と言われておりまして、今でいう9歳とか10歳ぐらいで亡くなってしまいます。
まだ若すぎる10歳とか9歳ぐらいのうきた秀家が当主となっては、もううきた家は終わりかもしれない、ダメかもしれないってそう思うんですけども、ここで秀吉が登場してきます。
秀吉、橋場秀吉、後の豊臣秀吉ですね。この橋場秀吉がうきた秀家の後継人となります。
うきた直家が亡くなって秀家が家族を相続する頃というのは1581年から1582年の初め頃と言われているんですけども、この頃は秀吉は中国攻め、毛利攻めの最中でした。
もともと秀吉が中国攻めを任命された頃は、織田家と毛利家との戦いは互角、むしろ毛利家の方が勢力で上回っておりました。
ここで秀吉とかその弟であります秀永とかは、中国地方の様々な人物に対して味方になるようにということで、調略を繰り返していきます。
そして徐々に仲間を増やしていきまして、織田家としても毛利家との戦いで盛り返していくようになりました。
その秀吉たちが繰り返した調略の中でも、このうきた家の調略が成功したことで一気に形勢は逆転していったと言われます。
もともと毛利を抑えていたのが織田が優勢になっていったと言われます。
その経験もありまして秀吉はうきた家に対して恩を感じていたと言われております。
またこの形勢の逆転を見て、うきた家の力というのを秀吉はとても感じておりました。
恩を返すのはもちろんここでうきた家が崩壊してしまうとか、うきた家がまた毛利家に寝返るとなりますと秀吉としては困ってしまうということもありまして、
うきた家を自分の味方として留めておくためにも、うきた家の貢献人となりまして、うきた家を支えることを選んだと言われております。
うきた家としましては当主はまだ若いし秀吉も被護家に入ることは当然喜ばしいことではあるんですけども、
実際このこと、うきた家が秀吉の被護家に入ることというのは、うきた直家も望んでおりました。
うきた直家は自分の士気が近いなということを悟った頃、秀吉に対してうきた家を守ってほしい、そう頼んだと言われております。
その際には直家の妻であるおふくの方、後の遠雄委員を秀吉の即位置にしてもいいよ、そんなことも言ったと言われております。
直家の妻であるおふくの方は戦国時代でも屈指の美女だったと言われております。
このおふくの方を促進できるならということで、喜んで秀吉もうきた秀家の貢献になったとも言われております。
ちなみに直家はおふくの方を秀吉に差し出した、人質のようにしたという話が聞こえますけども、直家はおふくの方ととても仲が良かったと言われております。
有名な押し取り夫婦だったとも言われておりまして、直家としてもこの判断、うきた家を守るためにも苦渋の決断だったと言われております。
ただなんですよ、うきた秀家は秀吉という強力な貢献人を得ることができます。
そしてこの秀吉、うきた秀家をめちゃくちゃ可愛がります。
もう可愛がりすぎまして、秀吉の養女になります郷姫と結婚させます。
この郷姫もともとは前田利家と妻松の間の娘なんですけども、前田利家の娘をそのままうきた秀家に結婚させるんじゃなく、まず自分の養女、秀吉の養女としましてその後結婚させます。
これいわゆる、うきた秀家を秀吉ファミリーに入れてあげるよ、秀吉の娘と結婚するんだよ、秀吉ファミリーに入れてあげるよということでございます。
なので自分の一族に入れたいそれくらい秀吉はうきた秀家を可愛がっていたと言われております。
実際秀吉はうきた秀家が豊臣秀家と名乗ってもいいよ、これを許してもいいよ、それくらい可愛がっていた、もう秀吉はファミリーの一員として迎えていたと言われます。
しかも後には20代という若さでご大老に抜擢することにもなります。
なのでこのうきた秀家は秀吉にとんでもなく可愛がられております。
ただこの可愛がられた理由というのは諸説ありまして、例えばおふくの方のことを秀吉がとても気に入ったと。
おふくの方に気に入られたいからうきた秀家を大事にしたという説もあったりしますし。
また1582年本王寺の辺、この時秀吉は毛利家との交渉をまとめて中国地方から機内へとてつもない速さで帰った、いわゆる中国大買い支援なんて言われますけども。
この時に毛利が逃げていく秀吉をしっかり追うことができなかったのは、うきた家が毛利家を牽制していたからだとも言われております。
なので秀吉がこの大買い支援を成功させる天下を取るためにはうきた家の活躍があったからだ。
なのでうきた家が大きく秀吉の天下に貢献していたからだと言われたりもしております。
なので秀吉はうきた家に対しても褒美ということであって秀家を可愛がったんじゃないかと言われております。
また他にも秀吉は秀家の父であるうきた直家にとてつもなく感謝をしていたと言われております。
まだうきた直家が生きていること、うきた家を協力できた、うきた家が味方になったということで、中国地方を取りまとうのがとても楽になったと。
その地域の大名であるうきた直家が味方になったということで、そこらへんの平定がとても楽になったと言われております。
またその中でも様々な商人とのパイプ作り。商人というのは物資やお金を豊富に負っております。
この商人とパイプを作られたことで秀吉としても物資の準備がとても順調になったと言われます。
中国大返しの時とかでも商人の協力もあって準備が進んでいたからこそ成功したとも言われております。
実際、うきた直家の紹介で知り合った商人、この商人に仕えていた人物を秀吉は後に大名にまで取り立てたりもしております。
それくらい、うきた直家の紹介によって秀吉は様々な面で恩恵を受けていたとも言われております。
そういった意味で秀吉は、このうきた直家にとても感謝していたんだ、だからその恩を秀家に返したんじゃないか、息子の方に返したんじゃないかとも言われております。
ちなみに、このうきた直家から秀吉に紹介された商人に仕えていた人物、後に大名になっている人物なんですけども、この人物は後の小西幸永でございます。
この小西幸永という人物も戦国時代でよく見る名前かなと思われます。
秀吉からの寵愛と武将としての活躍
なんですよ、この秀吉はうきた秀家のことをとても可愛がっております。
うきた秀家の秀という字も秀吉から取ったと言われております。
ほんとそれくらい可愛がってたと言われております。
ただ、いくら可愛がっていたと言いましても、しっかりと功績を残さないと秀吉も秀家をしっかり取り立てたりはしないです。
ご対応にまではしないです。
この秀吉の長愛に応えるように、うきた秀家自身がしっかりと活躍していきます。
まずこのうきた秀家、実戦に初めて出たのは1585年の四国征伐だと言われております。
この時、うきた秀家は10代仲間という年齢ながら、狭抜き方面の作戦に加わったと言われております。
八塚、黒田、戦国らと共に各地の城攻めに従軍したよと言われております。
この時は主に豊臣軍も一員として実戦経験を積むのことが主だったよと言われております。
そしてその後、1587年の九州征伐。
ここにおきましては、うきた秀家は竹前方面に出現しまして、黒田長政とか小林隆家と連携して島津との戦闘に参加したと言われております。
この戦いでは、うきた秀家は軍事の指揮官としての活躍をしていたと言われております。
これでしっかりとこいつは軍を率いることができるのは活躍できるなということで、秀吉の信頼を深めていたと言われております。
ただこれだけではまだまだご対応には程遠いです。
この後に1590年、小田原征伐が起きます。
この時、うきた秀家は前田利家とか植杉竹勝などのともに小田原城の皇位制に参加したと言われます。
ただこの皇位に参加しただけではなくて、伊豆半島方面のいろんな城を攻略したとか、さらには海上から下田城を攻めるなどの活躍をしたと言われます。
なので水陸両面での戦を展開して活躍したと言われております。
しかもこの時、うきた軍は補給体制をしっかり整えていたと言われております。
戦におきましては長い包囲戦とか続きまして、どうしても食料だとかそういったものが足りなくなってきます。
そうしますと士気も下がってしまいまして、どんどんどんどん攻める側としては困ってしまいます。
ただ、うきた軍に関しましてはこういった物資の確保とかしっかりできていたということ、士気を保ち続けたと言われておりまして、この点を秀吉とか様田武将たちは評価していたと言われます。
戦術面でうきた秀吉は才能があるなというふうに評価されていきました。
そして1592年から始まる朝鮮出兵、まずは文禄の役とかですね。
この戦いで秀吉は豊臣政権の主力の一人として参加します。
この時まだ21歳という若さながら十数万の兵を束ねる立場に任命されます。
そんな重責ですけれども、しっかりと役目をこなしたと言われております。
軍を率いての戦いはもちろん各大名との連携など、そういった実績が評価されたこともありまして、
うきた秀吉の豊臣政権内での地位がどんどんどんどん上がっていきます。
そしてうきた秀吉はこの頃から政権にとっての重要な会議とか、政策の調整、政治とかの調整するところですね。
この場に出席するようになっていきます。
そしてこの文禄の役と後々慶長の役を通じて、軍事面での活躍とかまた政務、政治面ですね。
こういった活躍をありまして秀吉からの信頼を深めていきます。
そしてついには秀吉を支える5人の大大名、五太郎が成立されますと、そのうちの一人でうきた秀吉は選ばれます。
まだ20代という若さながら57万国の大大名でありまして、
そして五太郎としては徳川家康、前田利家、植杉賀一、毛利照本だと肩を並べる存在となります。
岡山城と城下町の整備
戦の面でどんどんどんどん功績を上げていったうきた秀吉ですけども、うきた秀吉はこの軍事面だけではないです。
今回のテーマとも言えますけども岡山にまつわること。
もともと岡山城をうきた家のものにしたのは父であるうきた直家でございました。
このうきた直家はなぜ岡山城に目をつけたかと言いますと、城を守りやすい形にしたいなということももちろんありますし、川が近くにあるこの川を使った広域が富を生みますよね。
また城の近くには広々とした土地があると。
この土地を活用しても城下町の整備もできるよね。
こんなことをうきた直家は考えておりましたが、ただそれもうきた直家としては志半ばで倒れてしまいます。
そして父直家の志を息子秀家はしっかりと継いでいきます。
まず有名なこととしましては岡山城の築城事業。
父直家が構想した岡山の整備計画を引き継ぐんですけども、城や城下町の再整備をしますけども、
まずこの岡山城、石垣とか黒塗りの板張りとかの天守が印象的ですけども、
これ実際のものは太平洋戦争の空襲で破壊されまして、
現在あるものは再現されたものなんですけども、
再現されたものがとても美しいということで有名な観光スポットにもなっております。
それが素晴らしい城を築き上げたという築城事業。
それだけではなくて城下町を計画的に町とかを整備していきました。
道とかを整備してお店の場所とかも整備していきました。
他にもお寺とか神社とかそういったのを置きまして、
お祭りとかがあった時にどうやったら盛り上がるかなということで、
町全体がどう盛り上がるか、文化的にも経済的にもどう盛り上がるかというのを考えて町を整備していきました。
その結果、岡山城は政治や経済におきましてもとんでもない成長を遂げていったと言われております。
特に父直家も考えておりました川を使っての公益庁。
これによって地域経済がどんどん活性化していったと言われております。
まさに現在の岡山の基礎を築き上げていきまして、そして岡山を発展させていったのが浮北秀家でございます。
宇喜多騒動と関ヶ原の戦い
このように軍事面、政治面、そして御大老としての他の大名との外交面、こういった面でもどんどん活躍をしていったのが浮北秀家なんですけども、
ただ彼の人生に一気に波乱が起きていきます。
まず起きたのは1599年、浮北騒動。
これは主君浮北秀家と下陣団との間で対立が深まっていきます。
特に昔から使える獣神たちとも言える人たちとも下陣団との間で対立が起きていきます。
この騒動は浮北秀家が若い武将たちを悲喜していたということで、そこに不満を感じた獣神たちの怒りが爆発したために起きたんだとも言われておりますけども、
結果的にはこの騒動が起きた時には浮北秀家の後継人である橋場秀吉、豊臣秀吉はもう亡くなっておりました。
御大老筆頭の徳川家康が駐車場にすることになるんですけども、浮北秀家に対して不満を持った多くの下陣たちがこの浮北騒動によって浮北からいなくなっていきます。
その結果、この翌年に起きます、1599年に翌年、1600年に起きます関ヶ原の大会。
この時には昔から活躍していた多くの下陣を失っていた浮北賢は兵力は多く、そして浮北自身がやる気がとてもありました。
ただ、昔から活躍していた武将たちが減ったということもありまして、想定ほどの活躍はできていなかったんじゃないかと言われております。
この浮北騒動がなく、もしも浮北家がもっと力がある状態であれば関ヶ原の戦いももっと違った形になったんじゃないか、そんなことも言われております。
それほど大きな騒動となりました浮北総合。
下陣との対立が深まったということで、なんて馬鹿なことをしたんだということで浮北秀夫の評価を下げることになっております。
ただ、この浮北騒動、浮北背景には偉大な歴史であります浮北直江の船井さんというのもありました。
もともと中国人王では特になんですけども、各大名王といっても完全なるトップダウンとはないです。
例えば有名な織田信長とかでありますと、織田信長をトップとしました。
その下にどんどん色々な下陣の順番になってピラミッド形式になっておりますけども、
中国地方とかで言ったら有力者たちが集まって、その中でも一番力を持っているものが代表として大名王という感じになってきました。
大意にこれってみんな平等に意見を言えるという正しい形があるんですけども、代表者はもちろん一番力を持っていると言ってもなんですけども、
それぞれみんな力を持っているので、主君と下陣で意見が違った時とかに対立しやすいという問題がありました。
完全にトップダウンじゃないので、例えば10人下陣がいたとしても、7人は賛成するけれども3人は反対となってしまって、
その3人もある程度意見を言える立場、それぞれの領土とかをしっかり収めている立場なので、
せっかく良い王とかを良い政治をしたいと思っても、10人中7人は従ってくれるけれども3人は従わないという風になってしまいます。
なので本当の意味でのやりたい政治とかがなかなかうまくできないような形にもなっておりました。
ただこの構図、完全にトップダウンじゃないよというのは、これはもともと中国時代でそういうところだったよというところがあるんですけども、
ここになんですけども浮田直家が、しっかり人だが楽者という問題が生じてしまいました。
浮田直家はしっかり活力をした人にはしっかりと褒美を与えるという素晴らしい人物でした。
ただしっかり振る舞っていたからこそ、家臣たちが力をかなりつけてしまいました。
家臣にしっかり褒美を与えるということは、浮田自身、自分たち自身の力を添いでその分を家臣に与えるということだね。
家臣は力を増していく、自分たちは力を失っていくということもありまして、主家と輩家で意見が対立しやすいというか、輩家の方が意見を聞きにくい状況で生まれてしまいました。
また、家臣の中でも主婚がダメだなんて、家臣たちみんなが結託したら主婚を打ち倒せる、そんな状況も作りやすくなっていました。
なので浮田直家が本当にやりたいこととかうまくできないようという、そんな状況が続いておりました。
そして、直家としてはこの状態を改善しようと、いわゆる中央集権化、自分自身に権力とかを集中しやすいように構図を作り直そうということで、自分のところに権力を集めていこうとしておりました。
ただこれ結果的にはなんですけど、やっぱりこれが当然というのは当然ですけども、家臣と対立します。
権力を秀家に集めるということは、家臣たちからの権力を奪っていくということなんです。
それは家臣としても当然反発をしました。
なのでこれが結果的に秀家と家臣の間に対立を生みまして、浮田総同へと発展していくことになります。
なのでしっかりした人物浮田直家だからこそ起きた問題でもありまして、浮田直家がもしもこの点を改善できたら、もう少し中央集権化がうまくできたらこんなことになってなかったんじゃないかと思いますけども、浮田直家があまりにも早く亡くなりすぎてしまいました。
そしてこの浮田総同後、関賀藩とかだけが敗れました浮田秀家は、敗れた責任を取るという形もありまして、徳川家康に逆らったことから罰を与えられます。
八丈島への島流しと晩年
それが八丈島への島流しでございます。
そしてこの島流しの後は政治の舞台から秀家は消えていくことになります。
秀吉の懲愛を受けまして豊臣政権を支える若けり人は罪人とまでなりまして表舞台から消え去っていきました。
ただこういった風に聞くと、かわいそうな人生だな、悲惨な人生だなと聞こえるかもしれませんけども、浮田秀家の人生はこれで良かったのかもしれません。
浮田秀家、島流しになったのが34歳の頃と言われておりますけども、結果的に83歳まで生きたと言われます。
約50年間八丈島で過ごしております。
人生の半分以上八丈島です。
八丈島で島流しにあった罪人として扱いだと言いましても身分が高いので八丈島に興遇されていたとも言われております。
八丈島の領主とかにもよく宴に呼ばれて楽しんでいるとも言われております。
またここ定かではないと言われているんですけども、八丈島にいる間に浮田秀家の罪が解かれたと。
なので浮田秀家は別に戻ってきてもいいよという情報が作られたと。
そして浮田秀家の妻はもともと前田利家と松の間の娘でございますということもありまして、
妻の実家である前田家からは10万億負けるよ、だからもう大名家に復帰したらという誘いを受けたとも言われておりますけども、
浮田秀家はこの誘いを断ったと言われております。
なので浮田秀家、八丈島時代の生活気に立ったんじゃないかなと思います。
若い頃から浮田家という大名家の10月を背負って、さらには豊臣政権の10月も背負っておりました。
こういった10月から解かれた八丈島の生活っていうのは秀家にとってはとても良いものだったんじゃないかと思われました。
岡山の浮き草を築きました。
豊臣政権を支えた男でございます、この浮田秀家。
最後に手に入れたものはのんびりとした平穏な生活だったのかもしれません。
番組最終回と感謝の言葉
ただ、戦国好きにとっては様々なネタを提供してくれる浮田秀家。
歴史に残る間違いない名称でございます。
今回はこんな感じです。
改めまして、ゆかかさんのテーマいただきまして誠にありがとうございました。
前回から続いての浮田の話でございます。
浮田親子の話はもう本当、タイ語とかになってもいいんじゃないかと本当思います。
めちゃくちゃネタネタ書かないです。
本当魅力あると思います。
改めまして、浮田親子のことを話す機会をいただきまして、ゆかかさん本当にありがとうございました。
本来であれば、来月の11日にまた話をしたいですというような話をしたいんですけども、
実はこのブショラジ今回で最終回です。
まだ20章、話すことはまだまだあります。
三映決定とかまだ話しないですね。
本当にね、また多くの方に聞いていただきました。
元々このブショラジって、僕も先に読みちゃってるんですけども、
漫画で漫画について喋るラジオ、ここから派生して生まれた番組なんですけども、
最終的にこの漫画時の1話あたりよりもブショラジの1話あたりの方が多くなったんですよね。
根拠を超えたというね。
それから本当に多くの方に聞いていただきました。
めちゃくちゃ感謝しかないです。本当にありがとうございます。
本当にいろんな事情によりまして、本当に諸事情によりとしか言いようがないんですけども、
諸事情によりまして配信中止とさせていただきます。
また何かの機会にまた戻ってきたいなという気持ちもあるので、
一応配信終了とは言いたくはないんですけども、
復帰の目処が立たないのもありまして、一旦最終回とさせていただきます。
この中止となる理由に関しましては、いつか何かの形で笑い話できたらなと本当に思います。
何かの形でどこかで配信できればと思うんですけども、
ここに関しましても、とある方にもいろんな面で頑張ってもらうしかないということと、
ここで配信中止になる件に関しましては、
私も家族との約束が絡んできているので仕方ないなと思うと思います。
月に1回の配信にも関わらず、本当に多くの方に聞いていただきまして、
本当にありがとうございました。
また何かの形で戦国武将とかについて話ができれば、配信できる形ができればなと思いますけども、
ひとまずは最終回とさせていただきます。
今までご清聴いただきまして誠にありがとうございました。
25:41
コメント
スクロール