無駄な行動と日常のリズム
何の気なしに無駄なことをしてしまってるなーって感じることがあります。 冷蔵庫を無駄に開けてしまったり、
無駄にショート動画を見てしまったり、 あと夕方なんとなくコンビニに行ってしまったりとか、
別にお腹が空いているとかなんか欲しいものがあるわけでもないのに、なんかやってしまう。 その度に何やってんだろうなーって考えてしまうんですが、
同時にこれ嫌いじゃないなとも思うんですよね。 無駄なことをやって、そしてまたいつもの毎日にじんわり戻っていくようなあの感覚、
これ嫌いじゃないんですよね。 なんでかなーって思ったとき、日常にリズムがつく感じが気持ちいいのかなってちょっと思ったんですよ。
区切りがついて間延びしていた時間の収まりが良くなるというか、 長い運転中に目に入る広告看板へ思いを馳せてみたりとか、
徒歩で駅に向かうときに通りすがる公園をじっと観察してみるとか、 コストコ定員さんのローマ字で書かれた名札をね確認してみるとか、
そういう無駄なことによって一日にリズムがついている気がするんですよね。 そしてこのリズムを取るための行動っていうカテゴリーにおいて、
最も効果の高いものは何なのかって考えたんですよ。 一番リズムが取らされるものってことですね。
無駄な行動の究極形:ミニカツ丼
で、これミニカツ丼なのではないかって考えついたんです。 詰まるところ、無駄な行為を突き詰めた最終形態は、お蕎麦についてくるあのミニカツ丼になるのではないかと、
そういう話なんですね。
いやあの、考えてみてほしいんですけど、 お蕎麦についてくるミニカツ丼って、
ある種無駄なことと言いますか、 お蕎麦をね美味しく食べるっていう目的からは大きく逸脱したサイドメニューですよね。
ハンバーガーに対してのポテトとか、ラーメンに対する餃子とか寿司に対する海鮮汁みたいな、 それぞれが支え合って美味しさをね消化させているサイドメニューとは違って、
ミニカツ丼って、あまりにも歪というか異質なものじゃないですか。
麺類のね、大御所を蕎麦にカロリーバクダンみたいな形態のカツ丼をくっつけるっていう、 高等無形消費洗盤、無駄解の頂上と言っていいと思うんです。
でも実情ミニカツ丼を食べてから再び蕎麦に戻るときって、 とか安心感がねあって、
そこまで暴れている感じないじゃないですか。
これすなわち、ミニカツ丼がお蕎麦のリズムをしっかりとってくれていることの証査なわけですよ。
だから、すべての無駄なことの完成形態っていうのはミニカツ丼と、そう言いたいわけなんですね。
ということで今日はミニカツ丼への試作を深めることで、逆算的に僕たちが行う無駄なことって、
結局何を求めてやっていることなのか、何の意味があるのか、それを解き明かしていこうと思います。
ミニカツ丼の存在意義:飽きさせない工夫
じゃあちょっとここから、もうミニカツ丼のことだけを皆さん考えてほしいんですよね。
最初に言った無駄なこととかああいうの一旦置いておいて、ミニカツ丼とは何なのか、それ一本ちょっと考えていきたいんですけど、
ミニカツ丼を語る上で欠かせない重要な要素って、飽きるっていう要素だと思うんですよ。
蕎麦を食べている時に、飽きをこさせないためにミニカツ丼が入ってきている。
これがミニカツ丼のね、そもそもの存在意義というか、理由の、存在理由になってくると思うんです。
そう考えた時に、飽きるのを防止させるためだけの食べ物としては、カツ丼っていささか暴れすぎじゃないですか。
口の中をリセットしてまた美味しく蕎麦をいただくっていう観点だけで言えば、カツ丼じゃなくても良さそうなものなのに、
これなんでカツ丼なのかって、これ考えたいんですよね。
そもそも蕎麦とカツ丼って一見ミスマッチのような気もしますし、ミスマッチでいいって言うんだったら、
ミニラーメンとかミニステーキとかミニお寿司みたいに、どれもね、美味しさを追求したものを横に添えれば、
なんとなくうまくいくような気がするんですが、実際はそうじゃなくて、
なんかやっぱそのミニステーキとか横にあっても、美味しいは美味しいんだろうけど、なんかちょっとね、しっくりこないっていうか、いびつな感じがするじゃないですか。
ただ相性だけで言えば、蕎麦に対してミニカツ丼が付いているっていうのが嬉しいんだったら、
カツ丼に対してミニ蕎麦が付いているっていうセットだって、嬉しくて叱るべきじゃないですか。
でもね、あの実際にね、ミニ蕎麦っていうのが付いてきたら、これの魅力のなさったらありませんよね。
これだから、相性とか美味しさとか、そういう話じゃなくて、単純にカツ丼単体がミニにした時にも、その魅力を色褪せない形態であるんじゃないかって、それをね、僕は言いたいんですよ。
食感の重要性とミニカツ丼の優位性
で結論、そのカツ丼がね、魅力を褪せないまま、ミニになっても美味しいままいられる理由って何なのかって考えた時、
これ、食感っていうのが一番重要な要素なんじゃないかなって思うんですよ。ミニカツ丼の食感ですね。
そもそも蕎麦って、まあ語弊を恐れずに言うのなら、単一の食感を味わう系の食べ物じゃないですか。
つるつるした蕎麦をつるつる食べる。味ももちろんね、単一と言ってもいいかもしれませんが、味の方は食べて噛んでいる間に多少の変化があります。
でも食感って、まずない。蕎麦を食べている時に、蕎麦の食感が変化していく感覚って、あんまりないですよね。
つまり僕たちって、蕎麦もそうなんですけどほとんどのものに、味に飽きるよりも先に食感によって飽きる方が多いんじゃないかなって思うんです。
だからこそミニカツ丼なんですね。米粒、衣、肉、卵、玉ねぎと、様々な食感が一度に味わえるカツ丼がミニ界隈で無類の存在感を放っているわけですよ。
ミニカレーとかミニ天丼ももちろん美味しいんですけども、ミニ天丼にちょっと一歩及ばないその理由っていうのは、食感のバランス力なんじゃないかなって思うんですね。
どうでしょうかね。これがミニカツ丼というものの魅力の根幹です。
無駄な行動と食感を求める欲求
ここで最初の話、人生の話ですね。無駄なことっていうことに話を戻しますと、僕たちがやっている無駄な行動の完成形がミニカツ丼なのだとすれば、僕たちも実は無駄な行動によって食感っていうものを追い求めているんではないかってことなんです。
お蕎麦を食べているときにミニカツ丼が美味しいのは食感を求めているから。
じゃあ日常から無駄なことに行ってしまうのだって食感をね、求めている可能性あるじゃないですか。
これでも実際に退屈だと何かを食べたくなっちゃうっていうのは研究されているらしいんですよ。
お腹を満たすためだけじゃなくて俗に言う口が寂しいから何かを求めてしまう。
お腹を満たすためじゃなくて何かを食べたくなるって、それ食感を求めているって言っても差し支えないんじゃないかなって、僕は勝手に思ってて。
冷蔵庫を開けるのもコンビニに行くのもショート動画を見るのも、どこか満ち足りなさをね、やったとって感じるじゃないですか。
実はそれは最後のピースが埋まってなかったっていうのが理由で、その最後のピースっていうのがミニカツ丼のような食感なわけですよ。
はい、これが結論ですね。僕たちがやっている無駄な行動っていうのは食感を求めてやっている。
じゃあ、どうすれば僕たちの無駄な行動っていうのは最後のピースが埋まるのかっていうと、食感を最後に足せばいいっていう話なんです。
この最後のピースを知らないままだと、また何度も何度も無駄な行動をね、繰り返して、もちろんリズムはつくかもしれませんが、フラストレーションのようなのが溜まっていく。
だからこれシンプルに、自らの口内に食感を与えれば解決するんですよ。
自分の歯に舌を押し付けて歯並びを確認してみたり、氷を口に入れて、あえて前歯だけで噛み砕く。
しかもね、ピスタチオの殻みたいな食べれないものを口の中で転がす。これすべてミニカツ丼なんですね。
人生はミニカツ丼の代替手段にあふれているんです。
冷蔵庫を開ける前に歯並び確認、ショート動画を見る前に氷を噛み、夕方コンビニに来たくなったらピスタチオの殻をお口に入れると。
これで満たされるのなら、僕たちが欲しかったのは食感だったんだって、はっきりするかもしれないんですね。
今まで意味も名前もなかった数々の無駄な行動っていうのがすべてミニカツ丼の種として説明ができるというわけですね。
人生はミニカツ丼の代替手段に満ちている
はい、ということでね、今日はそんな話でしたけれど。
人生の中でなぜかやってしまうこと、その先にはいつもミニカツ丼がいます。
皆さんミニカツ丼はいつもあなたのそばにいます。ミニカツ丼だけに。
ご静聴ありがとうございました。