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#40 浜に散歩に行ったら大荒れで感性が10倍になってる自分がいた
2026-07-13 37:54

#40 浜に散歩に行ったら大荒れで感性が10倍になってる自分がいた

急に思い立って早朝の浜に散歩に行ったら大荒れ!いつもと違う風景を前にしたら、すごくよく見る、すごくよく聞く、感受性10倍になってる自分がいた。
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サマリー

早朝の海岸を散歩中に、荒波と多くのサーファーを目にした語り手は、普段見過ごしている日常の風景にハッとさせられ、感受性が高まっていることに気づく。この経験から、人は当たり前の景色を当たり前だと思っていると見ていないこと、そして、いつの間にか「こうあるべき」という思い込みに縛られ、本来の自分を見失ってしまうことに気づく。語り手は、過去の自分を取り戻し、本来の自分を大切に生きるための「手放す作業」を実践している。また、子供や動物の純粋な姿に触発され、自分自身も素直に生きることの大切さを再認識する。

早朝の海岸散歩と感受性の高まり
みなさんこんにちは、あそびやさんのばばさくらです。
今日はですね、珍しく早起きをすることはあるんですけども、
珍しく朝早くから寿司海岸に散歩に行きました。
今まで朝散歩行こうって思いながらも、なかなか行かずに朝バタバタと終わってしまうことが多かったんですけど、
今日は行ってみようと思って出かけていきました。
そしたら、台風が近づいているのかな、波がすっごく高くて、今まで見たことのない光景が広がっていました。
なんか、ゆいがはまの海みたいに、鎌倉の海みたいに、波乗りの人たちがね、めちゃくちゃいて、
普段、寿司って波乗りの人っていなくて、ウィンドーサーフィンの方なんかはいっぱいいるんですけど、
波乗りの人ってほとんど見かけないのが、今日はね、なんかすごいいっぱいいて、
朝の7時ぐらいに行ったんですけども、もう次から次へと、どんどん人が浜に到着しているような感じでね、すごいびっくりしました。
で、そこでなんだろう、思ったのは、いつものね、いつもの様子の波がない寿司海岸だったら、私こんなにハッとしなかったなって思ったんですけど、
今日は本当に、偶然か偶然じゃないのかわからないけども、目を見張るような光景だったのでね、すっごい海を見てました。
海も見てたし、波を見てたし、空を見たし、海の家を見てたし、人々を見たし、
あとその波の形、それから波で形を変える砂浜の砂とか、砂浜に落ちているものとか、脱ぎ捨てられている靴とか、もうね、すっごい一生懸命見ちゃいました。
だからその時に、あ、そうか、なんかこう、当たり前の景色を当たり前だと思っている時って、見てないんだなって、でも何かでハッとした時って、すっごいよく見るっていうことが起きるんだなって思いました。
なので、いろんなものがすごく記憶に残ったし、いろんな綺麗なものを見た、その砂浜の、波打ち際の砂が波で模様になっていて、それも本当に綺麗で、日本画で描かれた、日本画みたいにね、淡いグラデーションで模様になっていて、
それがね、太陽の光ですごい綺麗だったりとか、あと海藻がね打ち上げられて、それがピカピカ光っててね、本当に綺麗だったりとか。
実際本当に綺麗だったから、心に残ったっていうのもあるけれど、うーん、なんだろう、でも普通の、いつも通りの海の風景だったら、同じものが落ちてたりしても、こんなに気づかなかっただろうなって、すごく思ったんですよね。
そう思うと、なんかこう、普段いろんなものをどれだけ適当に見てるかっていうのがすごくよくわかって、例えばいつも通る通りでも、なんか急に建物が一つ取り壊されたりしたときに、
あれ、ここなんだっけって空き地になっちゃうと思い出せないっていうか、ここどんな家が建ってたっけみたいに記憶に入ってないっていうことにびっくりしたり、ここよく通っているはずなのに、どんだけか見てたはずのお家なのに思い出せない。
最近の自分はそういう風になってるなっていうのが身に染みたんですよね。
過去の自分と「こうあるべき」という思い込み
それで、浜でね、考えてたんですけど、若いとき、私が美術学校の学生だったときなんかは、すごいいろいろよく見てたなと思って、写真を撮ってたからっていうのもあったんですけど、私ずっと写真を撮ってたのでね、カメラを持って歩いてたからっていうのもあるけど、
なんかそれこそ道端のね、どぶの中に生えてる草だったりとか、本当になんでもないものもよく見てて、写真撮ってみたりとかしてて、
そんな時代もあったよなーって、そこからどうして今に至ったんだろうっていう、そんな風に思いをね、巡らせていました。
なんかどんなことにも理由があると思っていて、なんでもよく見ていた私がそれをやめたっていうのにも理由があったはずなんですよね。
それで振り返ってみると、その学生のときにいろんなものを写真撮りながら、なんかね、心のどこかでこんなにいろんなものに敏感じゃ生きていけないよって思った覚えがあるんですよね。
心のどこかで自分でも気づくか気づかないかぐらいのレベルで、心の奥底で、こんなに繊細にっていうか敏感にいろんなものに反応してたら生活回らないよみたいなそんな気持ちがどっかにあって、
その後、大学を卒業した後に写真スタジオで仕事するようになると、ますます自分の写真撮ってる場合じゃないよみたいな、もっと大事なものがあるような気がして、
それは頼まれた仕事を早く終わらせることだったりとか、そっちの方が大事に思えて、その延長で結婚したり子供が生まれたりする中で、
自分のことより相手のこと、子供のこと、周りのことをこなすっていうことがやっぱ大事だよねって自分の中でやってきて、
今に至ったんだろうなーって思って、だけど結局は、今ここまで来て、元の自分を思い出したいって思っているって思うんですよね。
結局は自分の中の幸せっていうものを、自分の中の幸せにたどり着こうと思ったときに、一番大事なものは何かって思ったら、
周りのために、自分を我慢して周りのために動くことではなかったっていうことなのかな。ぐるっと回って元に戻りたいって思った。
それを再確認するために、ここまでの道のりがあったんだと思うから、これが無駄だっていうことではないと思っていて、
一回こうなってしまうと、元に戻すのは意外と大変っていうか、結局は仕事をちゃんとしないと生活できないんじゃないかとか、
自分を優先しちゃダメなんじゃないかとか、いろんな思い込みがあるんですよね。
子供の頃にはなかった、子供のときって自分をとにかく表現する生まれた瞬間から、生まれた瞬間はお腹が空けば泣き、眠ければ泣き、
眠ければ欲しい、いらないならいらない、嫌なら嫌って、そうやって自分をとにかくストレートに表現するっていうところからみんなスタートしてると思うんですけども、
だけどそこからいろんな経験を積みながら、自分の中の思い込みみたいのを毎日毎日毎日毎日自分の中に詰め込んでいく。
お行儀良くしなきゃいけないとか、外に行くときは靴を履くべき、外に出るときは服を着るべき、人には親切にするべきっていろんなことを教わりながら、それを自分でもそうだなって思って自分の中に採用する。
教わったものを採用して、自分の中でもそれをそうだと思うっていうことをたくさんたくさん勉強できた方がいい、学校行った方がいい、男は泣くもんじゃない、女は親切にとか、
本当にたくさんたくさんの自分の中のこうあるべき当たり前みたいな思い込みをたくさんたくさん詰め込んできて、自分の中に。
そのうちに本当の自分がわかんなくなっちゃう。みんな大なり小なりそういうことをやるんじゃないかなと思うんだけども、本当の自分がわかんなくなっちゃったときに結局生きていくのがつらくなっちゃう。
そのときに本来の自分を取り戻さなきゃってなるんですよね。それを私も同じことをやってるっていうか、写真を通してやってきたのかなって思います。
だから今はとにかく本来の自分、本来の自分の気持ち、本来の自分が自分の中にたくさん取り込んできたこうあるべきとか思い込みみたいなものを
本当にそれ必要だったかなっていう、一つ一つ確認して、いらないものは手放す。必要なものは持ってていいけども、いらないものは手放していくっていう作業を今しているところなんですよね。
本来の自分を取り戻すための手放し作業
そうしながら成長っていうか、自分にとっての幸せとかちょうどいいとか心地よいっていうところを探していく。
そうすると、生きていて嬉しくて喜びでっていうところに戻っていけるのかなと思って、そしてそれができたとき自分の心が嬉しいっていうところにたどり着いたときに、
人に対しても愛してるっていうのができるんだなーって最近本当に思うようになりました。
だからなんだろう、私動物好きだけど、なんだろう、どこかで疑問を感じていた部分があって、犬でも猫でもすっごい自由奔放にしているようなときを見ると、
なんかね、もやもやするというか、なんだろうなーって自分で思っていたんだけど、それは自分の中にちゃんとしなきゃとかこうあるべきみたいなのがあるから、
だから犬も、あんまりめちゃくちゃやってるとそれはどうかなみたいに思っちゃうっていうか、そのふうに思ったわけじゃないけど、たぶんそうなんじゃないかな、心の奥ではここまではいいけど、これ以上はやめてみたいなのがもしかしてあって、
それで動物に対して、なんかすごい自由奔放な動物に対して、例えばなんだろう、あんまり気を使わない動物、猿とかそういうのを見るとなんかちょっとイラっとしたりとかする瞬間がある。
基本は好きなんだけど、なんかそういう瞬間があったりとかして、でもそれも最近、自分に対して自由になった分、自由になればなるほど、自分がどんな自分でも受け入れるというか、
そういうのができてくるように、できてくるにつれて、そういう自由奔放な動物を見てもすごくかわいいと思えるようになったというか、それはやっぱり自分の写し鏡なんだなってすごく思いましたね。
あんまり深く考えたことなかったけど、それは本当、動物好きなんですよ、好きなんだけど、好きなんだけどもやっとする瞬間があった。
自分でもなんかこう気のせいかなって思うぐらいのレベルで、なんかこうもやっとする部分があったんだけど、そういうのをよくよくよくよく考えてみると、まあそういうことなのかなって思ったんですよね。
素直な感情表現をする友人との対話
昨日は私の大好きなお友達がいるんですけど、そのお友達が久しぶりに家に遊びに来てくれて、その彼女はね、本当に自分の気持ちをストレートに表現してくれる人で、
嬉しい時はもうその瞬間に飛び上がって喜ぶし、悲しい時はもうその瞬間に大泣きしちゃうし、女の人でね、私と大人の人なんだけど、
なんかそれを、なんていうのかな、で、その彼女は会うとね、いつも一生懸命自分の話をしてくれるんですよね。
で、それがね、なんかいつも、なんでだろう、なんかすごく心地よくて、楽しい話もあれば嬉しい話もあれば愚痴みたいなものもあったりするんだけども、
だけど、どんな話も聞いてて、なんかこう、どこか心地よいというか、で、それはなんでだろうって考えたら、なんか彼女の言葉の中には、相手をああしてやろうとかこうしてやろうとか、
そういう、なんていうんだろう、柵がないっていうか、なんかコントロールしようみたいなことは一切ないんですよね。
自分の話をしてるっていうのかな。だから、どんなに腹を立てた話でも、うーん、なんていうんだろう、どこか安心して聞いていられるというか、うーん、それがまだちょっと、私もうまく言葉にできないところなんだけども、
嫌な気持ちにならないっていうのはどういうことなんだろうな、それって私の心の傷に触れないってことなのかな。
なんか人の話を聞いてて、嫌な気持ちになる時って、自分の中にある傷に触れちゃうような時、なんか思い出しちゃうとか、自分の中の傷ついたことを思い出しちゃうようなことだったりとか、なんかそういうことだと思うんですよね。
うーん、だけど、えー、どういうことなんだろう、彼女の話はね、どんなに聞いてても、ずっと聞いていたいんですよね。
いい話も悪い話も全部含めて、何なんだろう、私はその相手をコントロールしようっていうのが全然ないからなのかなって思ってたけど、
うーん、それでも、私の中にある心の傷に触れるようなことがあれば、私自身が動揺することがあっても良さそうだけど、そうならない。
何でだろうな、うーん、本当にずっと聞いていたいし、ずっと話していたいなっていつも思うんですよね。
うーん、あんな風に、あんな風に話せる人になりたいなって思って、こう、思ったことを口先でコントロールしてるんじゃなくて、もうそのまんま、そのまんまなんだけど、それが心地よいっていうのが最強だなと思って。
うーん、で、昨日そんなこともね、彼女に話したら、彼女が、いや、あの、さくらちゃんみたいに自分は話せたらいいなって思ってるって言うから、すごいびっくりして、わー、やっぱりなんか、ないものねだりなのかなーって思って、それもね、えーって思って。
鳥の姿から学ぶ、自然体で生きること
うーん、なんかこう、面白いなーって思って、昨日も話してたんですけど、で、うーん、最近、そのー、なんていうんだろう、人をコントロールしないっていうことだったりとか、うーん、なんだろう、相手のためにとか、
なんかそういうの、相手のために、えー、やってあげたつもりみたいな、なんかもうそういうの本当にやめたいなって思ってて、思ってるんですけど、うーん、思っているからか、思っているから、だから、うーん、
あー、例えば、自分が相手の役に立たなきゃいけないとか、えーっと、人のために頑張らなきゃいけないとか、えー、人に評価されなきゃとか、思っていると、うんと、すごく苦しいんですよね。
えーっと、役に立たなかったときに落ち込むとか、うーんと、評価されなかったときに落ち込むとか、そういうことが起こる。で、それ本当にもう、やめたいなって思っていて、で、そういうときに、なんだろう、庭に毎日ね、スズメとかね、
えー、ハトとかカラスとか、ヒオドリとかムクドリとか、よくわかんない鳥とか、いっぱい来るんですけど、で、それがね、なんか庭にお米とかちょっとまいてあげたりすると、みんなで食べてるんだけど、それ見てたらね、なんか、食べたいから食べてる?
ただ、食べたいから食べて、見つけたから食べてるっていう、なんかその、えーっと、食べ、ただでもらっちゃ悪いとかそんなのもないし、うんと、お礼しなきゃとかそういうのもないし、そこにあったから食べてるわけで、えーっと、他に鳥が奪いに来たときに、
まだ食べたければ遠慮せずに食べるし、うーん、なんだろう、食べたいから食べてる?お腹空いてるから食べてる?っていう、そういう姿を見て、あーもう、ほんと師匠だなと思って、私はこの鳥たちみたいに生きていこうって最近は毎日思っていて、うーん、思うんですよね。
そういう意味では、そのさっき言った友達もすごくその部分は同じで、うーんと、なんていうんだろう、彼女も人にこう思われたいから泣くとか、こう思われたいから笑うとか、そういうんじゃないんですよね。
あの、うん、彼女が悲しいから泣いた、彼女が嬉しいから笑ったっていう、ほんとにそれ、それに尽きるというか、うーん、そうするとそこは同じだなーって思って。
で、今私は託児所でよく手伝いしてるんですけども、託児所行くと小さい子供たちがいて、ゼロ歳から5、6歳の子まで来るんですけど、ほんとに小さい子なんかは、笑いたいから笑う?泣きたいから泣く?っていう世界で、うーん、あー同じだなーって。
思うんですよね。
子供の純粋さと人生の始まり
そうしたらその、あのさっき言ったお友達、前に、あのーたまたま居合わせた小学生の子が、その彼女を見て、彼女あのーほんと大人ですよ、あのー完全な大人なんだけど、あの人は大人なの?子供なの?って私に聞いたんですよね。
もうそれ聞いた時の衝撃が私忘れられなくて爆笑しちゃったんですけど、あーそうか、子供って何を基準に大人だ、子供だって思うんだろうって思ったし、
あー多分その彼女のそのまんまのところが、子供と共通する素敵な部分で、子供にはそれが見えるんだって思ってね、すごいなーって思いました。
うん、これだなーって思ったし、そう昨日もそれを思い出して、あーそういうことか、だから、あのー大人なの?子供なの?って聞かれたんだなーって思ったんですよね。
えー、で、託児症にお手伝いしてると、その0歳とか1歳とか2歳くらいの子いっぱいいますけど、なんかやっぱ見てると、あー人間はこっから始まるんだなーってお腹が空いたら泣いて、ねー嬉しかったら笑ってっていう、
本当にそのまんまを表現する、そのまんまを生きてるっていうところからみんなスタートするんだなーって思って。
なんかちょっと前までは、そういう小さい子は、こう別の世界の人たちみたいに思ってるところがあったけど、いやいやいや、ここから始まって、今の私もここから始まって、そういうところから始まって、今まで一日たりとも途切れずに人生が続く。
続いているんだよなーって思って、そういう中でやっぱりいろんな常識、当たり前、思い込みをたくさんたくさんたくさん自分の中に詰め込みながら来て、そしてまた手放す作業をしていく。
いやー人生ってすごいなーって思いました。
不登校を通して学ぶ、自分を大切に生きること
だから、不登校っていうテーマも、そういうテーマの同じもの、そういうことを不登校を通してやってるだけで、なんて言うんだろう、不登校が特別なテーマではないっていうか、私にとっては、
それを通して、自分の中にいっぱい詰め込んできた思い込み、常識、こうあるべきみたいなものを子どもが不登校を通して手放すきっかけをくれている。
私を楽にする、私を自由にする、私を元にいた場所に帰す手伝いをしてくれてるっていう感じかな。
そもそも不登校っていうこと自体が、子どもが自分に課せられた常識だったり、社会の当たり前みたいなものって本当かなっていうことを子どもが一人で頑張ってやってる状態なんだろうなって思って、
子どもはすごい前に進もうと思って、自分の人生をちゃんと自分で生きようとして一歩踏み出すから疑問が湧いて、違和感が生まれ、そうやってこのままじゃダメだってストップがかかるわけで、いいも悪いもなくて悪いわけがない。
そうなるにはちゃんと理由があって、自分の人生を前に進めるための、自分の本当の人生を生きるための違和感確認みたいなものをやってるわけで、
だから、私たち大人はそれに対していいとか悪いとかジャッジしてるんじゃなくて、一緒になって本当に生きるのに大事なものなんだろう、必要なものなんだろう、いらないものあったよね、いらないものはもう手放そうって一緒にやっていけること、それが必要なことだし、
それを一緒にやってくれる、なんていうんだろう、手伝ってくれる、むしろ大人に問いかけてくれる、本当に大事なもの何?って大人に問いかけてくれてるものすごいことだと思うときには命をかけて、
自分のすべてをかけて、そういうメッセージを送ってくれてるって思ったら、もうね、上から目線で評価なんかしてる場合じゃないんですよね。
本当に、って私は思って、そして、私自身は人生に本当に大事なもの、いらないものをどんどんそぎ落としながら、例えば最初は出席日数とか、そういうものを一個一個手放していって、
学校に通うこと、出席日数、世間からの評価だったりとか、先生からの評価だったりとか、そういうものも全部手放していって、
行ったときに、最後に残るものは何だろうって、本当に考えて、そこですごい答えをもらったっていうか、私自身の人生においての答えをもらったなって思います。
だから、私はよく、不登校になったとき、子供が不登校になったとき、真っ暗闇にいるみたいだったし、もう永遠に終わりのないトンネルにいるみたいだった。真っ暗だと思った。出口がないと思った。
けれども、そこを抜けたときには、もう絶景だったってよく言うんですよね。自分の人生において大事なものもとってもよくわかったし、そしてそのことを通してたくさん子供と話をするチャンスをもらい、
それを見つけ、トンネルを抜けたときに、いろんな話ができるようになってた、子供と。っていうのは、もうめちゃくちゃギフトでしかなかった、私にとって。宝物をいっぱいもらったなって思っていました。
しばらくはそんなふうに思ってたんだけど、トンネルを抜けた先は絶景。その絶景の先にまだまだ道があるんだっていうことを最近知って、うーん、なるほど、先には先があるんだなって思っているところです。
その先っていうのは、トンネルを抜けたときに、やっぱり自分を大事にするっていうことは大切なんだなーって思った。
で、そこで一段落してたけども、じゃあ自分を大事にするってどういうことだっていう、その次のテーマですね。それが今、私の中に来ているところです。
なんか今日は長くなってしまったので、今日はこの辺でおしまいにします。最後まで聞いてくださってありがとうございました。じゃあねーばいばい。
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