1. あのさ、
  2. #56 褒められることの複雑さ
#56 褒められることの複雑さ
2026-05-03 46:43

#56 褒められることの複雑さ

index🐾

褒められると認められるはちがう / 褒められるためにやっているわけではないから / 評価が自分の受け取られ方に直結している感じ / 自分のベストを自分で認める難しさ /「もっとできたのに」という気持ち / 外からの評価と自分の内側の納得感にギャップがある / テストの順位で評価される環境で構築した思考パターン / 研究における自己評価の経験 / 書いている最中は充実感があり納得できた気がした / いろんな比較をしてしまう / ある程度自分の成果に納得するのはメンタルヘルス上重要なのでは?/ AIに自分の「できること・できないこと」を整理してもらう / できる・できないの定義自体が自分の思い込みに基づいている場合が多い / 第三者的な視点で自分を見ることの重要性を実感した / 容姿・体型への褒めってマジでいらない / 社会ではそういった発言が「普通の会話」として出てくる頻度が高すぎる / パワーバランスと褒め・ハラスメント / 利害関係が薄い人が関わることで、伝えられる可能性がある / 自分と関係ないと思えるトピックこそ、第三者が関わることのメリットが大きいのでは?/ 褒めの会話から社会のあり方について派生したね


SNS🗣️


感想や質問はこちらへ。ありがとう、大切に読みます。

[収録日:2026年3月11日]

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

このエピソードでは、「褒められることの複雑さ」をテーマに、褒め言葉が必ずしもポジティブに受け取られない理由や、パワーバランスによってハラスメントになり得る側面について掘り下げています。特に、自己評価と他者からの評価のギャップ、過去の教育環境が思考パターンに与える影響、そして研究における自己評価の難しさなどが語られます。また、容姿や体型への褒め言葉がいかに不要で、社会におけるその頻度の高さに疑問を呈しています。さらに、利害関係のない第三者が介入することの重要性や、自分に関係ないと思える問題こそ、外部からの視点が有効である可能性についても議論が展開され、最終的には褒めの会話から社会のあり方へと話が広がっていきました。 自己評価と他者からの評価のずれは、特にテストの順位などで評価される環境で育った人にとって、自分の成果を素直に受け取ることを難しくさせることが指摘されています。研究における自己評価の経験や、AIを活用して自己の「できること・できないこと」を整理する試みについても触れられ、第三者的な視点の重要性が強調されました。容姿や体型への褒め言葉は、その多くが不要であり、社会におけるその頻度の高さが問題視されています。パワーバランスが関係する褒めやハラスメントについても議論され、利害関係の薄い第三者が関わることで、より建設的なコミュニケーションが可能になる可能性が示唆されました。最終的には、自分に関係ないと思えるトピックこそ、第三者が関わることのメリットが大きいという結論に至り、褒めの会話から社会全体のあり方へと話が発展しました。

褒められることの複雑さと自己評価のギャップ
こんにちは、むぎほです。えおこです。
ポッドキャスト、あのさは、日常の些細なことから社会のこと、自分自身や人との関係性にまつわることなど、結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこうという番組です。
はい。今回も始まりました。
はーい。早速。
早速。なんか、エピソードとしては、理解が空いてるはずだけど、収録自体はちょっと連日なので。
また、また、って感じではあるんだけどね。
そうね。じゃあ、今日早速テーマ入っちゃうか。
そうしましょう。
はーい。じゃあ、りょうちゃんお願いします。
はーい。今日のテーマは褒められることの複雑さ。
で、なんかその褒められる時に、なんかそのどういう部分を褒められるかというか、なんかその結局受け手の問題というか、本人、言ってる側は褒めてるつもりで言ってても、なんかそれが言われた側の
なんだろう、例えば気にしている部分とか、逆にポジティブに受け取れていない部分だと、全然褒め言葉として機能しないこともあるし、
あとはそのパワーバランスによって、なんか結局それがパワハラとかセクハラになったりもするし、
なんか誰かを褒めることとか、誰かに褒められることを受け取ることみたいなのも、なんか結構難しいよねっていうのを、なんか考えたいなと思って。
今日のテーマは褒められることについてです。
はい、いやでもめっちゃ複雑だよね、それこそ今、りょうちゃんが紹介してくれた感じで、もういろいろな文脈でのその褒めみたいなものの定義とかさ、
なんかそれがそもそも褒めになるのかみたいなところから、結構いろいろ考えるところがあるなって思うし、
褒めるってそもそも。
なんかどういう文脈でパワーを褒められると嬉しいと感じる?
なんか私個人的には、たぶん自分がこう、なんていうのかな、すごい力を入れていたりとか、なんか結構労力を費やしたなみたいなものとかこととかに対しての、
なんかそれが褒められるっていうよりかは認められるみたいなものに対して、充実感ではないけど、なんかっていうのはあるけど、
なんかそのそれを褒められるためにやるとかっていうのはあんまないかなって思うし、
たぶんまあそれって年齢的なものもあって、
例えば子供の時とかはさ、こう例えばこう、こういう賞をもらって褒められる、親から褒められるとか、
なんかそういう友達から褒められる、先生から褒められるみたいな、
なんかその、そういう評価でその評価によるなんか自分の受け取られ方みたいのに褒めが結構関与していたなっていうのはすごい思うんだけど、
でもなんかわかんない、私たぶんそのまあそういう会社のあり方とか、
そういうなんていうのかな、業績とか評価の仕方によってまたそれも変わってくるとは思うんだけど、
私のまあいる、いた会社とか分野ではあまりそういうなんていうのかな、褒めみたいなものはそこまで重視されていないから、
なんかそこまでこう、あんま大人になってから特に意識したことはないなとは思うかな。
確かに。
りょうちゃんは逆にどう?
なんかその褒めの存在みたいな。
どうだろうな、褒め、でもなんか割と私は謙遜しがちっていうか、
なんかそれこそなんだろう、自分がやってきた何か成果に対してなんか褒めというか、
まあ認めるっていうのもそうだし、なんか良い評価をもらえた時に、
なんか私はあんまり自分のその、もちろんその時その時でベストを尽くしているつもりではあるけれど、
でも一方でなんかその自分のベストを自分自身があんまり、
なんか認めることの難しさみたいなのもちょっとあって、
なんかそれを純粋に相手は素晴らしいねっていう風に言ってくれても、
なんかその言葉に値しないみたいなことを思って謙遜しがちみたいなところがちょっとある。
なんかそれは結構その、なんていうの、自分で変えられないものとか様子とか体型とか、
なんかそういうものに対する褒めみたいなのは、なんか基本的にあんまり嬉しくないというかさ、
なんか相手が誰かにもよるけど、なんかやっぱり受け取ることの難しさって結構あるなという風に思うんだけど、
なんか一方でその自分がずっと取り組んでいることとか取り組んできたことに対しての評価っていうのは、
なんか一定程度自分自身に対して、なんかその認めるべきっていうか、
なんか全部そんな卑屈にならなくてもいいじゃんみたいに思うんだけど、
一方でなんかやっぱりそれを純粋に、なんかやったったでみたいな感じで受け取るのも、
なんか自分自身に難しさを感じてるっていう感じかな。
でもそれはあるかも。なんか純粋にその結果を受け取れないみたいな。
もちろん自分ではやったつもりではいるから、なんかその、
それを別になかったことにしたいわけではないんだけど、
でもなんか同時にそれがこう、
なんかその自分の中で納得できてたらいいのかなっていうのがあって、
だからなんかその例えばその、まあその外からそういう評価、
良い評価をもらったとしても、自分の中でこうあんまり納得がいってないとか、
なんかそこまでできた気がしないみたいなそのギャップがある時とかは、
あんまり私はうまく受け取れないなっていうのがあったり、
まあでもその、それってあるちょっとは自分のそういう思考の傾向みたいなのもあって、
やっぱりこう、もっとできたのにみたいなのが先に来てしまう、
思考傾向だとなかなかそこのギャップが埋まらず、
なかなかそれをうまく受け取ることができないみたいなのは割とあるかなって、
今リョウちゃんの話、分かるなって思って聞いてたけど。
だからなんかその、なんか多少昔の教育の弊害なのかもとも思ったりするけど、
なんかそのテストとか試験、まあテストとかのそういう結果とかが順位になって、
上から順番にこうあなたは何番目ですよっていうのが知らされて、
だからなんかそれでこう一定程度できていたとして、
でもなんかそれで褒められても、でも上いるじゃんって思うと、
なんかそれをもう純粋に受け取れない、そこの現状に対して評価をもらっても、
でもなんか自分このまだできる余地があったはずなのにできていないっていう風に、
やっぱ数字で可視化されると余計に思ってしまって、
なんかそれを受け止められなかったみたいな、
なんかそういう思考回路がいまだに順位とか除列化されているわけではないのに、
なんかというか除列化したとてみたいな話ではあるんだけど、
だからなんかそのキリがない、再現がないことに対して、
なんかまだできていないとか、まだ自分の現状に納得ができないみたいな、
多分そういうパターンが癖としてあるんだろうなと思って、
だからなんかその褒めを受け取れないみたいなのって、
純粋にその内容がちょっとラインギリギリみたいな、
なんかそういうものもあって、なんかその受け取れなさもあるけど、
一方でなんか自分がやってきたことに対する何らかの正当な評価であっても、
なんか自分自身のそういう思考の癖が邪魔をして受け取れないみたいな、
パターンもあるなあっていうふうに思った。
確かに、確かにそれめっちゃあるかも、今話聞いてて思った。
なんか、うーん、そうね、なんかそのさ、
特にその大人になってからのそういう評価テストとかじゃないから、
なんかその100点取るとかっていうゴールがないじゃん、
だからなんかいくらやったらやっただけ、
どこまでもゴールがないゴールみたいなものを追い求めてずっとできちゃうから、
なんかその自分の中である程度のそういうストッパー的な、
なんかここまでできたら自分の中でよしとするみたいなラインを作らない限り、
永遠にまだこれだけ足りてないみたいなものを追い求めてしまうなっていうのは、
すごい個人的に思っていて、
だからなんかそこら辺のバランスもすごい難しいし、
どうやったらそこ、なんかどうやったらそのなんていうのか見極め、
自分の中でここまでできたらいいって思えるみたいなラインとか、
ゴールみたいなものをどうやったら当てられるのか、
それでそれに自分が満足できるようにするにはどうすればいいのかみたいなのも、
結構大きな自分の思考の転換みたいなのが必要だよね、
それこそりょうちゃんさっき言ったみたいに、
結構そういう学校教育時代からの癖みたいな感じで、
割と長い間擦り込まれてきたものだから、
そこから抜けるのって、そう簡単ではないなっていうのは思うね。
ね、ほんとそう思う。
だからなんか、私は割と長いことアカデミアにいて、
それこそ学部卒の時の卒論とかって、制度上のいろんな問題もあって、
書いたこととかできたテーマ性的に、
自分が納得できなかったっていうのが結構大きくって、
その後2年後とかに終論書いたんだけど、
それはもう学部の時の卒論の二の舞にならないようにというか、
自分が誰かからの評価というよりかは、
ちゃんと自分が自分の研究してきたことを意義があるものだと思えるようになるというか、
そこに納得するっていうのが一つ目標というか、
それあったんだけど、
やってた時とかはめちゃくちゃ充実感もあったし、
納得できたような気がしたんだけど、
そっからさらに進学をして、
数ヶ月とか経ってたら、
やっぱり自分の終論とか読み返せなくなって、
もう無理みたいな。
そこに納得が多分しきれないというか、
やっぱりいろんな比較をしてしまうから、
当たり前だけど、
もっとこうできたんじゃないかとか、
もうちょっと問いをこうすればよかったんじゃないかとか、
それは多分どれだけやっても常に出てくる問題なんだけど、
常についてくるからこそ、
一定ラインで自分が常に納得をするみたいなことも、
自分のメンタルヘルス上重要なことだなとは思いつつ、
それをすることの、
それを新たに自分に学習させるみたいなことの難しさ、
っていうのがずっとある気がしていて、
それって自分の意思だけでどうにもならないっていうか、
そういうふうに納得がやっぱできないなとか、
いろいろ後悔したりとか、
いろんな比較をして落ち込んだりみたいな自分を、
いやでも自分はこうできたからよかったんだって、
無理やり思おうとしても、
やっぱりできなかった方の重さの方が重いというか、
そっち側にどうしても押しつぶされちゃうから、
それを今からどういうふうに変えていったらいいんだろう、
みたいなのを割と常に考えてるかも。
確かに。
どうしたって、自分の中でもちろんやったこと、
自分ができたことっていうのを認めることはできるけど、
それとやっぱり同時に存在するじゃん、できなかったこと。
できたことがあればやっぱりできなかったことも必ずあるわけで、
それこそ後悔したりとか、もっとこうできたのにみたいなものって、
後々特にいくらでも出てくるし、
だからこそどうしようもないことだから、
さらにそれに対しての思いとか、
それこそ一定のラインを超えると執着みたいになってしまう場合もあるけど、
もっとこうすればよかったみたいな気持ちの方が、
やっぱり大きくなりやすいみたいなのはすごいあるなっていうのは、
りょうちゃんの話聞いてて思うし、
でもやっぱりそういう気持ちって、
時には自分のものを改善させたいとか、
次やった時にもっと良くなるための糧みたいなものになる場合もあると思うんだけど、
多くの場合はそういうものが常にあって、
次やった時とかに、
それが次これやった時にまたこうなったらどうしようとかっていう、
そういう心配とか、
自信のなさみたいなものにどんどん繋がってくる場合もあって、
そういうふうにネガティブな作用をそういうものがしてしまった時に、
そこで一定のラインを引くとか、
教育の影響とAIによる自己分析
それを別に考えることがダメっていうわけではないけど、
そこにもうちょっと動きを置かず、
もうちょっと違う方向にシフトさせることはできないだろうかみたいなのは結構難しいなって思うし、
私もなかなか自分で思いはしつつ、
もうちょいそれをそういうふうに引きずられないようにしたいって思いながらも、
やっぱりなかなかそこから抜けるのって難しいなってすごい最近思ってて、
だからなんか、
私は最近やってるのが、
仕事に関してなんだけど、
やっぱり私がやってる職種的に、
いくらでも勉強しようと思えば勉強できるみたいな分野で、
やっぱり上には上がいてみたいなすごい、
それこそ趣味っていうか、
そういうコンピューターとかがすごい好きでやってる人みたいなのもいっぱいいるから、
そういう人たちに比べたら、
もちろん全然知識とかそれに対する熱量みたいなものに差があるから、
やっぱりそういうのを目の当たりにすると、
自分の知識の無さとか、
技術力の差みたいなものがすごく仕事をしていても感じられてて、
なかなか自分に対してのここまでできたみたいなものに満足するみたいなのがなかなかできないから、
AIを使って、
AIに自分のそういう今の状況、
今自分ができること、
逆にそれこそこれからもちろん伸ばしたいこととかっていうのを聞く。
やっぱり誰か第三者的な人から中立的な立場で、
そういうものを分析じゃないけど、
自分にメッセージとして伝えてもらうみたいなのを、
ちょっと最近実験してて、
それは割と自分を褒めるためとか、
自信を持たせるためとかじゃなくて、
やっぱり自分が逆にできるできないっていうふうに思っていることも、
結構自分の中でバイアスがかかっている場合が多くて、
だからそういうものをもうちょっと洗い出して、
どの辺が自分の中で自分に対してのそういうバイアスでできないと思い込んでいるかとかっていうのを、
可視化するためにAIを使って、
それこそできること、できないことみたいな感じで、
表を作ってもらったりとかっていうのは最近やってて、
それをやるようになってから、
ネガティブなものがなくなったっていうわけではないけど、
次のステップに行くためにこれをすればいいみたいな方にだけ集中できるようになった。
そこに感情が必要以上に絡まなくなったから、
それがわりと、もちろんあるんだけど、
それとこれは別みたいな感じで、
自分の中で分けられるようになったのが結構大きいっていうか、
良かった、いいなって思っていることなんだよね。
なんか良さそうだね。
自分の中だけで解決せず、
もうちょっと第三者的目線でやるっていうのは重要かも。
結局自分の意思の力とか、
自力で思考のパターンを変えるぞみたいにやっても、
やっぱり自分の感情もあるから、
そこに常にできないことと、できないことに対する、
そこに乗ってる自分の感情みたいな。
だからそこら辺を切り離せるのは大きいかなって思うし、
自分そういうのを見ると、
自分が思っていた以上に自分の中でのいろいろな思い込み、
できる、できないに対してのできるっていう定義とか、
できないっていう定義自体も、
自分の中での繰り上げた基準っていうものが、
ベースになってたりする場合もあるから、
そういうものをもうちょい第三者的な視点から、
そこは自分ではできないと思ってるけど、
実際はここまではできてるっていうのを、
わからせてもらうじゃないけど、
っていうのは結構自分の中で大きな発見っていうか、
自分ってこういうこと思い込んでたんだみたいな、
自分で思い込んでることって思い込んでるから、
多分思い込んでるってわからないじゃん。
だからやっぱりそこからメタな認知をすることによって、
またちょっと違う方向に転換できるのではないかみたいな、
まだ初めて2ヶ月ぐらいなんだけど、
キイチぐらいで定期的に、
定期的にそのできないの波が来るから、
その時に助けてもらってるっていうのはあるかな。
この褒めはどういう褒め?今話してるのって。
容姿・体型への褒めとパワーバランス
自分の中でのこういう評価とか、そういう褒め。
結局多分自分で納得できてないこととかを褒められたとて、
お世辞にしか聞こえないみたいなのはある。
褒めとして受け取れないっていうのはあるよね。
すごい謙遜して、
そんなじゃないですみたいに言いたくなっちゃう。
自分の中で自分をそういう存在だと認めていないからっていう。
そうね。
さっきリオちゃん言ってた最初にイントロの方で言ってた、
その褒めのいろいろな文脈があるってのだけど、
今話してる褒めとかは割とこういう、
自分のやっていることへの評価とか、
そういうやったことへの評価っていう文脈での褒めだけど、
例えば他のジャンルで言うと、
最初にちょっと話したのが見た目とか体型とか、
自分の人間の肉体として存在してるところへのそういう褒め。
みたいなものへのこう、なんていうのかな、
複雑さみたいなものから言うと、
いやもう全部いらないって思う。
私の感じだけど、どうだろう?リオちゃんそのへん。
なんか私も、
言われる相手によってとか文脈によって多少違いはあるけど、
基本的にはやっぱり難しいじゃん。
受け取る側もそうだけど、
言ってる側の例えば立場になってみた時に、
それを褒めるって、
いろいろ複雑な要素が絡み合ったりしてるから難しいなっていうのは、
思っていて。
だからなんか基本いらないけど、
でも家庭として例えば、
ダイエット頑張ってるみたいな人とかに痩せたっていうのは、
その人にとっては褒め言葉として、
こう作用するかもしれないけど、
それはなんか自分が結局努力してるわけだから、
その努力の結果が目に見える形になったよっていうのを言われるのが、
ダイエットしてるからといって、
全ての人がそれを褒め言葉として受け取れるかどうかは分からないけど、
でも多分一定数それを嬉しいと思う人もいるけど、
同じ言葉であっても、
人によってはそれは全然褒め言葉じゃなかったりするし、
太れないことが悩みっていう人だっていっぱいいるし、
だから体型について言うっていうのは、
結構難しくないかっていうのは思うかな。
私、痩せたのが努力の結果だったらいいけど、
病気とかによって痩せる場合もあるし。
確かに。
ある程度の距離と共有したものがない相手じゃない限り、
絶対にその人の様子とか見た目とか、
そういうものに関連するその他の褒めとされるものって、
発言できないと思うのね。
のに、この社会でそれが普通の会話とかに、
それこそあんまりそういうものを共有してない相手との会話の中に、
そういう発言が出てくる頻度が多すぎて、
私はいつもびっくりする。
なぜそれをあなたはその人に言えるの?みたいなのが結構あって、
いつもそういうものを言うたびにショックを受けてるっていうのは、
私だけ?
なんかもう嫌気が刺すなみたいに思うけど、
たぶんぶんちゃんは普段オーストラリアにいるから、
余計にたぶんギャップの大きさにびっくりするみたいなのはあるのかもしれないけど、
なんか日本社会に住んでても、またかよみたいなのは、
なんかもううんざりするみたいなのはあるよね。
なんかそうね、もちろんさっきも言ったけど、
そういうので結構文化的とか、
社会的な文化からだいぶそういう発言の有無とかも変わってくるし、
それの方向性とか価値みたいなものも、
たぶんその環境によっては変わってくるから、
一概には言えないとは思うんだけど、
こっちとかは結構厳しい。
もちろん職場とかでの範囲でとかはすごく厳しいから、
そういうことってたぶん一切、
そういうこと言ったらアウトだけど、
私日本の会社とかで働いたことないからさ、
あれだけど、
まあそういういろいろな人の体験を読んだりとか、
話を聞いたりした感じで言うと、
なんか全然やっぱり違う、違う環境だなとは思うし、
やっぱりそれが普通っていうかある程度許容されてると、
それに対してそこまで敏感というか、
ならない、離れちゃうみたいなところはあるのかなって思うけど、
アウトのラインが違いすぎるみたいな。
やっぱり一定、
もちろん年齢とか性別によってだけ決まるものではないけど、
傾向としてやっぱりある程度一定の年齢より上の男性たちからの、
女性に対する物言いみたいなのは、
本当に本当にもう玉抱えるレベルのこととかあるからさ、
例えば料理をしたとして、
それを食べてもらって、
味についてだけ言えばいいのに、
なんかうまいという一言の他に、
将来いいお嫁さんになれるね、みたいなことを言ったりするわけ。
味についてだけ言え、みたいな。
きもい、なんで、なんでそういうことを言う必要があるの?
本人は褒め言葉だと思って言ってるわけ。
それを例えば指摘したとて、
今そういう時代だもんな、
みたいな感じで済んでしまうし、
昔はこういうことも言えたけど、
今こういうの言ったらセクハラとかパワハラになっちゃうよね、
みたいなのを言って、
それをこっちはそれでいいですよって言われることを期待されてんのかっていう風にも思うし、
私なんか、そんなら今すぐ学べって思ったわけ、こっちは。
ほんとだよね。
笑って過ごすなって感じ。
なんでそういう風なあれになるのかな。
それこそリオちゃん言ったみたいに学べよって思うけどね。
知らなかったらさ、笑い過ごすことじゃないじゃん、それって。
今の社会がそうなんだから、自分取り残されてんぞっていうことじゃん。
それで別にいいんだったらいいけど、よくないからって。
なんかその人一人で自己完結してんならいいけどさ、
結局周りに損害を与えてるし、
しかもなんかやっぱりそういう文脈の褒めって、
やっぱめちゃくちゃパワーバランスあるなって思うことが多くて、
結局自分よりも下だって思ってるから、笑いに消化できたりとか、
自分の間違いを恥じるのではなく、恥じるとか反省するとかじゃなくて、
なんか冗談みたいに流してもいいだろっていう甘えがあるって思う。
確かに、嫌だね。
だからそれは結局その力関係が逆だったらさ、
絶対それ笑いで済まないじゃんっていうのが、
結局自分より下だって思ってるからそういうふうに言えるんだろうなっていうのはめちゃくちゃ思う。
確かに。
なんか自分も社会とか会社の一員なわけで、
自分で一人で働いてるんだったら別に何言ってもいいしさ、
別にそれで嫌って思う人は離れていくわけだし、
でも離れられる状態じゃないじゃん、そういう会社とかっていう場、
それこそみんな生活していくためにそこで働かないといけないっていう、
一種の縛りがあるわけで、
そういう身動きのできない場所でそういうことをするっていうのは、
やっぱりすごい暴力的だなって思うし、
笑いで済まされることではないなっていうのは結構あるから、
どうすればいいっていうあれではないけど。
第三者の介入と社会問題への関わり
結局こっちはさ、職場に限って言うなら、
だいたいやっぱり生活を逃げられてるっていうのがあるじゃん。
それに対して率直に怒りを表明できないとか、
ガチのトーンで指摘できないとかっていうのは、
やっぱりそこでしくじったら、
自分の生活が危うくなるかもしれないっていう、
ある種脅しみたいな部分もあるから、
だからすごいこっちはその受け答えをどういうふうに返すかみたいなのを
すごい考えさせられるわけで、
それ本来の仕事じゃないのにめちゃくちゃエネルギーを使わなくちゃいけなくなるっていうのが、
結局こっちにだけ課されて、
でもその結果として笑いで済まされるのが、
またモヤモヤとして残るみたいなのがめちゃくちゃあるなって思う。
私も日本の会社とかで働いたことは、
自分の体験としてはわからないけど、
人と人との関係性の中でさ、
相手にそういうことをまずそもそも考えさせる、
みたいな状態になるっていうこと自体に対しての、
そうならないようにしようみたいな意識とか、
危機感みたいなものがあまりにもなさすぎて、
そこからも多分そういう発言をそういう人たちって、
どこでもしてるじゃん。
その会社だけに限らず、
それこそ親戚の集まりとか、
それこそ自分の家族とかに対しても多分そういう発言をしていて、
だからなんていうのかな、
本当にその人と人との関係性の中で、
そういうふうに多分、
そういうことを相手に課している常にっていうのはあるから、
だからやっぱりどこかのそういう関係性の中で、
生活を縛られていない部分、
それこそ家族とかでそういうもので、
そういう人に対して親戚とかのほうがいいか、
そういうことは言っちゃダメだよみたいなのを、
ちゃんと知らせるみたいなのって、
結構重要だったりするのかなって思うし、
もちろんそれが本人に伝わるかどうかっていうのは、
なかなか難しいことではあると思うんだけど、
なんかどこかのその人間関係の座りの中で、
誰かが適度な距離から、
誰かがそういうものを知らせるみたいな形で伝わるとかじゃない限り、
会社の人がその人に対して何かを言うっていうことはまずないなっていうのはあるし、
でもだからこそそういうものってなかなか変わらない、
変わるにしても時間がかかるし、
変わらないことの方が大きいんだなっていうのはすごくあるなって思う。
と同時に、やっぱり自分がそういうことを言えるなみたいな距離感の人、
だから自分が例えばそういう生活を握られていないとか、
赤の他人ってほどではないけど、
何かを言えるっていうところにそういう人がいた場合に、
そういうものに対してのみたいなものを突きつけられるようになるのは結構、
社会の一員として重要なのではないかっていうのは最近すごい考えて、
そういうものに対してどういうふうに言葉を、
どういうふうに伝えたらいいかっていうのはまた考えないといけないんだけど、
自分ができる範囲でのそういう伝え方とか、
そういうものを伝えるみたいなことができればいいなっていうのは今話聞いてて思ったけど、
難しいね。
だから多分なんかその褒めとかの文脈だけじゃなくさ、
何らかの当事者性を持つ者同士で何らかの問題をどうにかするというよりかは、
当事者だとやっぱり何らかのそこで直に相手とやり合うことによるリスクみたいなのが、
多分一定程度生まれちゃうから、
だからリスクもそんなにないし逆に特にメリットもないみたいなぐらいの距離感の人たちが、
そこに積極的に関わるみたいなのも結構重要だろうなって思って。
だからなんか自分に関係ないみたいなふうに思えるトピックこそ、
逆にその人が関わることのちょっと遠くから見た時に、
その人が関わることのメリットの大きさみたいなのは結構あるだろうなと思う。
そうだね、だからなんか、だから多分そのたまにそういう対話の場だったりとか、
なんかその全く見知らぬ人たちが集まって何かをするとか、
そういう場で生まれる会話とか、そういうコミュニケーションっていうものに意味があるなっていう思う瞬間とかって、
そういうものにあるのかなっていうのは今話してて、話聞いてて思ったし、
やっぱりそういう家族とか、友達のグループ、会社とかっていう、
一種の交際関係がある、そういう閉じた場所って、
なかなかそこで行動に移すとかって両親言ったみたいにリスクが大きすぎるから、
やっぱりそうじゃない場所があることの意味、そういう場所でそういう会話をすることの意味って、
そういうふうなこと、そこの閉じたところから出た距離感で何かを伝えるっていう機会を存在させるっていう意味でも、
すごい重要なんじゃないかなっていうのはすごい思ったし、
そういうところでどういうふうにしてそういうことを伝えていけばいいかっていうのは、
なんか結構考えていきたいなって、そう思ってることだしね。
だからなんか、結構文脈広げすぎかもしれないけど、
割と自分が自分の問題ではないっていうふうに思えるような社会問題とかにこそ、
自分ができる仕方でだけど、ちょっとずつでもコミットしていくみたいなことは、
割と重要なんだろうなみたいなのを思うというか、
そこの問題に直接の利害関係がある人だけでやるっていうのは、
すごいやっぱりがんじがらめになっちゃうケースとかすごく多いし、
やっぱりエネルギーをすごい、自分の問題だからこそエネルギーをすごい費やすことがすごく多いから、
一方で多分その第三者というか利害関係のない人が関わることによって、
代弁されすぎちゃうみたいなことのリスクっていうのは多分常にあるとは思うけど、
だからといって、当事者の問題は当事者でやるべきみたいなのは、
それはそれで難しさがあるだろうなみたいなのを、
いろんな社会のあらゆる問題を考えながら今考えてた。
確かに。
自分、それこそ社会で起こっていることすべてに対して、
私はそういう人知らないからとか、私はそうじゃないからっていうので、
話をしないとか、そういうものに対して興味を持たないっていうのは、
やっぱり、りょうちゃんがさっき言ったみたいに、
自分たちでそれ解決してみたいな感じで、
一種の薙刀な形になってしまうし、
当事者じゃないからこそできることって多分たくさんあって、
そういうことの、それこそりょうちゃん今言ったみたいに、
そこに当事者じゃない人たちが入り込みすぎることによって、
起こるネガティブなこととかリスクもあるかもしれないけど、
それよりもそれを無視して、
無関心でいるっていうことの方が、私は怖いと思うし、
何らかの形で、それこそ失敗しながらも関わり続けようってする方が、
社会を良い方向に動かしていこうみたいなことにつながっていく、
一つの方法とか一歩であると思ってるから、
だからそういう面からも、
自分とは全く関係ないとか、
全然そういう人周りにないけどとか、聞いたことないけどそういうのって、
思っているようなことでも、
実は自分が関わることによって、
自分がそういうことを知ってることによって、
救われる人がいるっていうのは、
自分の中で意識っていうか、
そういうことが本当にあるんだっていうのを覚えてるっていうのは、
重要なのかなってすごい思ったし、
今の社会いろいろな問題がありすぎて、
どこから始めていいかわからないっていうのあるかもしれないけど、
本当に自分のできる範囲でそういうことをただ知るっていうだけでも、
大きな社会運動は一つ、
そういうものに多分貢献すると思うから、
すごい重要ではあるなって思う。
そうだね。
だからなんか多分いろいろ今もさ、
マジで問題が山積みだからさ、
デモとかもいろんなところで行われてるし、
そのデモに参加するっていうのも一つあるけど、
直接行動をそういうのしないからといって、
関われないかというとまたそうでもなくて、
例えば小学でもどこかの団体に寄付をしてみるとか、
そういうものじゃなくても、
自分なりにその問題についてリサーチしてみるとか、
いろんな例えばニュース記事でインタビュー、
当事者の声を読んでみるとか、
そういうのも関わり方の一つだし、
どれだけちょっとでも当事者性の薄い人が
関わることのメリットっていうのは絶対にあるはずだから、
何らかの形でみんなが少しずつ
いろんな問題に関わっていったら、
もうちょっとマシになるのではないかっていう風に思いたいっていう。
そういう風な希望を持つことは決して無駄ではないと思うし、
そういうことを思いながら、
それこそそういう発言をする人に出会った時に、
自分が何かを言える立場にあるならば、
そういうことに対してやっぱりダメっていう風に言えるようになりたいっていうのもすごい思うし、
それがやっぱり回り回って、
誰かのそういう状況とか環境に影響を与える可能性っていうのは
大いにあり得るっていうのを覚えておきたいなっていうのは思うかな。
なんか褒めからめっちゃ話…
鼻からめっちゃ飛んじゃった。
飛んだというか、あれだけどね。
まあ褒められることは難しいけど、
まあその褒め自体を考えることによって、
やっぱりそのそれこそ社会のあり方とか、
どういうことがやっぱり自分、
それこそ自分のことを考えることにもなるよね。
なんかその自分にとっては何が能で、何がいいのか、
まとめと今後の展望
何が褒めとして受け取れられるのかとか、
考えるのもやっぱり重要だから、
いい感じで話が広がってった。
いいと思いました。
うん。ありがとう。
じゃあ今日はこんな感じで終わる?
はい。
はい、ではまた次回。
はい、また次回。
46:43

コメント

スクロール