00:06
こんばんは、あきらです。
はい、今日なんですけども、やっとね、ちょっと話せるテーマですごく嬉しいなと思っているんですけども、
内容はね、すごいディープでマニアックな話になりますね。
というのもね、私はこれまで、スピリチュアル、気功、エネルギー、そして認知科学、科学でね、この3つをそれぞれ渡り歩いてきたんですけども、
今振り返ると実はね、それが線で繋がっていたんだなっていうことに最近気がついたんで、
今日はその繋がったことと、さらに今ね、自分がその先のどこにいる感覚なのか。
そこまで含めて体験ベースで話していけたらなと思います。
まあこの話はね、すごいこう、わかりやすい言葉で言った悟りとか、人間とは何かとか、自我って何だろうとか、
そういった人間哲学にちょっと興味がある人にはかなり面白いんじゃないかなと思います。
まずね、スピリチュアル時代から時系列ごとに行くんですけども、
スピリチュアル時代の私に足りなかったものっていうのは、自分の基準値と現実を見る理論、ロジックだったんですよ。
当時はね、やっぱり能力っていうふうに思うんですよね。
例えば何かもっと見る力とか、もっと受け取る力とか、もっと高次元と繋がる力とかね、
思ってたんですけども、まあそういうもんじゃなかったんですよね。
当時の私はね、そういった何かわからないこと、自分の中でどうしてうまくいかないんだろうなとか、
いろいろ疑問とかあるじゃないですか、悩みとかあるじゃないですか、
それっていうものを常に外から答えをもらうっていう状態だったんですね。
自分の中ではなく、外から受け取る。
だから高次元の言葉とか、存在とか、見える映像とか、降りてきたメッセージ、
あとはその日常の中で起きる不思議な現象、
そういったものの中に自分が求めている真実っていうものがあると強く思っていた時期なんですよ。
もちろんさ、今だからもちろんそうやって言えるんだけども、
当時はさ、そんな風に思ってなかったし、
当時は当時でそれは本気だったわけですよ。
本気っていうのは普通に、高次の存在とかを真剣に。
私はさ、ポッドキャストをやって長いんで、5年前、スタンドFMだよね、当時は。
スタンドFMの初期の話とか聞くと、
やっぱり分かりやすいんですけども、
03:00
そういったものを大事にしていた内容っていうのが音声の詩の中でありましたね。
いっぱいあった。
だから、別に嘘をついたわけでもないんですし、
実際に何かを感じて体験していたことというのも事実なんですよ、当時はね。
ただ、今振り返ると、あの頃の私っていうのはずっとね、
答えは外にあるっていう前提で動いていたんですよ。
これって一見すごく探求しているように見えるんですけども、
行動で見るとかなり危うい状態だったんですよね、私自身が。
なぜかというと、外に答えを置くということは、
自分はいつまでも受け取る側、要は受信者のままなんですよ。
何かが来た、何かが見えた、こう言われた気がする。
ここはこういう場所だ、この人にはこういうものがついているとかさ。
そうやって、外で起きたことの意味付けがどんどん外に求めれば求めるほど、
なんかね、振り回されちゃったんだよね。
実際振り回されたエピソードもあります。
ただ、別に何だろう。
そうね、まあ、それが良い悪いではないんですけども、
ただあの世界観に行くと、こういった構図で生きている人っていうのはものすごく多いです。
実際私もそうだったし、当時受けたセッションとかあるじゃないですか。
スピリチュアルセッションとかで受けた時に、
いろいろ伝えてくれる人も常に外に答えを求めている状態でしたね。
例えば、工事の存在がこう言ってましたとかね。
こう言ってたからこうなんですよとか。
あとは、僕はこの仕事しかできないようになっているみたいですみたいな、やらせてもらえないとかね。
っていう、自分の人生なのに自分で舵を握っていない状態の人がものすごく多いなっていう風に今振り返ると、
私は感じましたね。自分自身もそうだったしね。
でもあの世界はそこの構図になりやすい。
それは仕方がない。
ただ私が体験して思うのは、その構図で生きていると答えって外にないんですよ。
常に外にないので、だから確実に自分が思っているようなものにはなりにくい状態ではあるのかなと思います。
06:01
最終的にね。それでもちろん幸せになっている人もいると思うんだけども、
ただ私はね、最終的に習った認知科学とか科学の中で、目の前で作っている現実っていうのは自分で作ってるんだよっていうのを理論として学び、
そしてそれをね日常に落として体験したからこそ、
そうですね。外に答えを求める。自分のハンドルを誰かに握らせるっていうのはすごく危険、危うい状態になるのかなと思います。
そうなので、そういったスピリチュアル時代を私は過ごしていたんですよね。
で、その後に振り回されて嫌だって思って、エネルギーのことを学びたいっていう気持ちからたどり着いたのが気功なんですね。
これはね、別に気功を習おうと思って、そういったサイトを探したわけでもなんでもないです。たまたまでした。
たまたまたどり着いたブログで、なんかセッション受けるなった時に気功の先生だったですね。
それがまあ、ケイケイなジェラボになるんですけども。
じゃあここでね、何を得たのかって言ったら、自分軸って言ったらいいのかな。
これが私の基準ですっていう軸が確立できました。
ここはね、ファーストステップとしてはすごい大事だなと思いましたね。
気功、そうですね。気功って外の何かとつながる技術、スキルというよりも、
自分の気とか自分の感覚とか自分の変化、自分っていうものを軸に識別できるようにしていく実践なんですよね。
セッションを通して。
つまりここで初めて感知の主体が自分に戻ってきたんですよ。
だから自分がフラットな時はどういう感じなのかとか、違和感がある時はこういう感じかとか、どういう風にずれるのかとか。
基本的には自分から始まってるんですよね。
その自分軸みたいなものができたことによって、自分と外っていうものが違うんだ。
外から来たものに対して、これ自分のじゃないなっていうのもわかるようになったんですよ。
エンパスの人も前に収録で話したんですよ。
この識別がすごくあやふやな部分があるから、自分自身の基準値っていうものを作るとだいぶエンパスの症状ってすごい緩和するかと思います。
気功の世界ではそういったものが確立できて。
私自身もエンパスみたいなんですけど、あんまり気にしたことないから、みたいっていうふうに言いますけど。
09:09
実際エンパスの影響としては、あるっちゃあるけど、スピリチュアル時代の時ってひどかったんですけど、それなんかと比べたら10分の1とかそれぐらいまで減りましたね。
なので気功とかエネルギーを学んでから自分の基準値というものを確立していったんですけども、その後ですね。
同じケイケナジーラボのところなんですけども、そこで認知科学が登場したわけですよ。
科学の世界ですね。脳科学とかね。認知科学機構っていう部類にはなるかと思うんですよ。
現代機構ってやつか。
脳みその理論とかロジックとかになってくるかと思うんですけども、
そこで得たものっていうのは、人間は外の現実をそのまま見ているわけではなく、
現実って認知、解釈、予測、注意、意味付け、そういうものを通して出来上がってるんですよ。
つまり、私たちというのはそのままの世界を見ているわけじゃないんですよね。
この理論ですよね。もっと細かいんですけどね、習ったものが入ったために、
なるほどって、私はいろいろ目の前で起きてる現実っていうのはある意味、自分で作ってるのねっていうのが理論として入って、
そしてそれを実生活のとして体現することで理解できるようになったんですよ。
すべては自分から始まるのねってなったんです。
ここがね、大きかったですね。
だから、スピリチュアル時代の時は、外の高次元とか宇宙人とかさ、宇宙人は私結構触りましたね。
アルクトゥルスヒーリングは、私はやり方を自分で作ったことがあったんで、
その音声とかも昔撮りましたね。今はちょっと非公開にしてますけど。
そこが性だったんですよね。そこに自己をしたのが、自分じゃんみたいな、すべては自分なのねって思うから、
もっと生きていく時にすごく楽になってたんですよね。
現実って、自分次第でいろいろ変えれるのねって。
ただここで勘違いをしてほしくないんですけども、事実は変えられないです。
12:01
魔法みたいにさ、いつも良いことが起きるとかじゃないんですよ。
事実として、自分に不利なものっていうのは絶対普通に起きるんですよ。生きてれば。
ただ、起きたことに対してどういう風に自分が解釈をするのか、どういう風に受け取るかによって、
全然、たとえば普段だったら、私ってついてないなーって思ってたのが、そう思わなくなったとか、
あとは、いつもうまくいかないな、なんでこういうこと起きるんだろうとか、
そういうネガティブにとってたものの見方が変わったんですよね。
そこがすごく、かなり認知科学を習った時に大きかったですね。
ある意味、今振り返ると私は思うんですけども、この認知科学機構、コーチングでもいいんですけども、
これってある意味、すごく一言論的なものなのかなと思ってて。
二言論、一言論ってあるじゃないですか。その一言論というものを理論として教えてもらい、それを体現できたのかなと思うんですよ。
そして次のステップですね。今現在のところになってくるんですけども、これが今回のメインディッシュですね。
これね、今さらっと綺麗に整理をして話していったんですけど、おそらく道がぐちゃぐちゃになるかもしれないです。
そうですね、この一言論ってあるじゃないですか。一言論ってすごいもっと深いところがあって、それがある意味悟りの部分でもあるんですよ。
悟りっていうと、すごい崇高なものっていう風に受け取っている方って多いかと思うんですけども、私はね、昨日の収録でも言った通り、別にその日常にあるものなんですよ。
なんかこう、すげーストイックに修行した人が悟り王とかじゃないと思ってて、私はね。
常に身近にあるものなんですね。
それが究極の一言論のところの到達だと思ってるんですよ。
で、私は母の影響で、母が大分前に亡くなってるんですけども、母が生前、生きていた時にすごく大事にしていたものがあって、それがインドの神秘家って言ったらいいのかな?
15:04
オショーっていう方がいるんですね。
オショーって言うと、寺のオショーさんですかって、そうじゃなくて、そこから気に入ってつけてるっていうのもあるんですけども、インド人の方ですね。
オショー・ラジニー氏とか、ウィキペディア出てくるかな。
ロンドンとかのタイムスとかでは、20世紀を作った1000人のうちの1人とか言われたりとか、インドの雑誌とかでも、ガンディとかブッダとともに、インドの運命を変えた10人の1人っていうふうに言われてるらしいんですよ。
そうだったんだと思って。
でも実際、本当にブッダは私は会ったことないですけども、それと同じっていうふうに言われてる人だったらしいですね。
1990年くらいまで生きていた方かな、確か。
母もそこに影響を受けて、母もね、すごく昭和の時代で結婚して、今までとは違った生活環境とか、そういったいろんなもので疲れてたと思うんですよ。
小学校、多分3年、4年くらいだったかな、私の記憶の中では。
そこがピークで、その寄り所が欲しかったんだなぁと思うんですよ。
日本って無宗教じゃないですか。他の国って宗教って確立していて、ヒンドゥー教とかもそうですけども、ちっちゃい頃からその教えて習うから、そこがある意味軸になってるんですよね。
自分の寄り所の軸になるんですけども、日本っていい意味でも無宗教なんでないんですよね。
だから、そういうふうに悩んだ時とかっていうのが苦しくはなるんですよね。
母もすごい苦しい時期があったのかと思うんですよ。子供の目線からだとちょっとね、わかんなかったんですけど。
その中でオショっていう存在を知って、それで本を買って読んで、自分自身を見つめるっていうことをやっていたのかなと思うんですよ。
私も母との距離っていうのはすごく近く生きていたので、その母の影響からオショって何なんだろうみたいな。
中学2年生の時に本を読んだんですよ。
マイウェイだったかな?忘れちゃったな。
読んで、もちろん中学校2年生の子供がオショの本なんか読んでわかるわけないんですよ。
オショの本は最近も読みましたけど、抽象高くてやっぱりわかりにくいですね。私にとっては。
18:03
マイウェイですね。これですね。ありますね。
そう読んだんだよね。
今でもどんな内容だったか覚えてないですけど。
そこから高校生の時にオショが作った迷走のひとつのダイナミック迷走とかっていうものをやったりとかしましたね。
だからって別に私はすごいオショのことをお母さんのように心のよりどころにしてたのか、そうでもなくて、
思い出しては、ああそうだったなみたいな気になって読んだりとかっていうぐらいでしたね。
一応本は3冊、全部で3冊ありますね。
一番売れてる本…タイトルなんだったっけ?忘れちゃった。
あと絶版になってる反逆者みたいな感じのタイトルと、あと絵本みたいなやつがあるんですよ。
モジュット、これも絶版になってますね。日本語のやつは。その3冊だけです。
モジュットに関しては、昔お母さんがそれ気に入ってて、いつもトイレに置いてあったんですよ。
なぜ言うかトイレですよね。
すごく抽象的な話を物語として出してるんですよね。
私は全然最初本当に理解できなくて、何の話?みたいな。
ただ、今はちょっと理解ができてる部分があって、それが要は今、科学の次の…
って言ったらいいのかな?究極の一元論のところなんですよね。
これはね、別に悟りを得たいとかじゃないんですよ、私。別に。そんなのどうでもいいですし、ある意味ね。
ただ、最近、そうですね。4月、もう本当に4月ですね。4月の中で大きく変わった部分っていうのが、体験として、体感としてもあって。
お匠はね、常にね、観察者でいなさいとかっていう風に言ったりするんですよ。
観察者って言った時に、私は昔は、ちょっと前の私は、メタ認知ですか?みたいな。
自分を客観的に見ることがすごい大事なのかな?とか、そういう風に思ってたんですけども。
いや全然、もっともっと抽象度の高い話で違うんですよね。
この私たちが自分だと思っている肉体っていうのは、実は本体じゃないんですよって。
本体って別のとこにあるんですっていう話を、その別のその本体っていうのを観察者っていう風に言ってるんですよ。
21:04
ここに似たような話をしているのが、ねどじゅんさんかな?
彼女も、何だっけ、UNOSANOとかで、あとPNSEか、悟りとかの部分で多分言ってると思うんですよ。
アプローチ方法がちょっと違うんですけど。
実は私たちってこの肉体だと思っているものっていうのは、本質部分ではないですね。
自分っていう本質ではないんですよ。
それは聞いたことはあったんですよね。
でも何を言ってるんだろう、いやこれ自分だろうと私は思ってたんですけども、そうじゃない体験をしたんですね、実は。
例えば世間一般的に言ったら、それがワンネス体験とかって言ったりするんですよ。
その境界線がないんですよね、全てにおいて。
EVAとかでもありますよね。
なんだっけ、あの生き体。
人類保管計画とかでありましたよね。
EVAわからない人からしたら何の話してんだろうってなるんですけども。
実は自分の本体っていうのは、この肉体じゃないんですよって。
それを見ている人っていうのが本体なんですっていうふうに言うんですよ。
本体さんだっけ、ネドジュンさんが言ってるのは多分。
そこに近いかなと思うんですよ。
実際、私はその観察者とか、本体さんでもいいんですけども、その体感、それだっていうのが4月の中で結構あって。
すごくね、今までって気功とか認知化学で、
要は自分の自分軸とかさ、自分から世界は作れるとかね、極端に言えばね。
そういうふうに思ってたんだよね。
自分っていうのを基準値っていうのを確立してたからこそ、
気功のセッションの時にエネルギーワークを後半やるんですけども、
その時に上の経絡、チャクラで言ったら5番、6番とかのチャクラになるんですけども、
そこをエネルギーを通して回している時に、気功は消臭点なんですけども、
その時に、あのね、要は、
有体離脱って言ったらいいのか。有体離脱みたいな状態になりそうになったんですよね。
抜けそうになったんですよ、私。
私、ちなみに有体離脱、OBAって言うんですけども、その状態は結構日常で、
寝ている時とか、昔から結構あるから体感としてわかるんですけども、
24:02
それがエネルギーワークをやっている時に、セッションの中で起きたんですね。
起きて、ハッ!ってなって、めちゃくちゃ怖かったんです。
それって要は、自分の基準値がめちゃくちゃあるからなんですよ。
もし、自分の基準値がなく、要は境界線がない状態、さっき言った究極の一元のもの、
要はこの世界って、世界に溶け込んでいる状態であれば、何ら怖いことってないんですよ。
だって自分がそれだというふうに思っているから。
でも当時の、去年の10月とかだったと思うんですよね、セッション受けてて。
その当時は、怖くてしょうがなかったです、それが。絶対嫌だみたいな。
この肉体から離れるとか、意識が飛んでいくみたいな感じは、もう嫌って思ってたんですよ。
だから、それはね、本当に強く強く出てて。
エネルギーワークで、地球から宇宙に出るみたいなワークがあったんですよ。
その時もすごく拒絶があったんですね、私。
行きたくないみたいな、苦しいとか。
それも自分の基準値っていうのが、めちゃくちゃ持ったためにできたものだと思うんですよ。
デメリットとしてね。
でも、最近は自分の基準値っていうのが、もちろんある中で、
今目の前に広がっている空間ってあるじゃないですか。
そこが自分なんだっていうのが分かるようになったんですよ、体感として。
ある意味、流体離脱してめっちゃ怖いとかっていう体験って、
自分が肉体だから抜けるから怖いと思うんだけども、
今はもうちょっと薄くなってるんですよ。
境界線っていうのが、いい意味で広がってる、曖昧になってるんですよね。
曖昧になってるから、
OBAで、流体離脱で抜けた時も、あまり恐怖心が湧いてない。
実際、最近も昼寝している時に、ガチであったんですけど、
全然何も思わなくなりましたね。
それは、もちろん認知科学の、自分自身で全部作っているっていう部分も大前提としてあるんですけども、
感覚的に、この広がる空間が自分だっていうふうに思っているからなんですよね。
なかなか説明が難しいんですけども。
ここってまだ科学で解明されていない領域なんですよね。
27:04
でもね、面白いですよ、それ。本当に。
でもスピリチュアルの世界観って、こういう見えない空間とかって扱うんですけども、
そこよりも、もうちょっと違う、次元って言ったらいいのかな?
次元とか言ったら、なんかね、勘違いされそうですけども。
その感覚で、今私は生きてます。
だから何だろう、なんかいろいろ変わりましたよね。
ただ別に、あれですよ。
この肉体は肉体で、肉体があって、こうあるからこそいろんなものを感じれる。
感情もあるし、感じれるし、体験ができる楽しさっていうのがあると思うんですよ。
でもそれと同時に、この肉体があって何かあった時に、痛みとかそういったもので苦しみっていうのもあるじゃないですか。
その時に、この苦しんでいるのはある意味で、この体だけであって、自分自身ではないっていう視点があるんですよ、常に。
そこが今、別に全部が悟ったみたいな、そういう状態ではないんですよ。
まだまだ、私は悟りっていう部分で、入り口の部分でしかないんで。
ただその世界はすごく、なかなか面白いですよ。
今まで見えてきた世界とはまた違った見方で捉えられるし、
日々感じる苦しさとか、辛さとかっていうのが、もっとない視点になっていくんですよね。
この視点になるとね、私が提供している大終点ってあるんですけども、
大終点はね、私が提供しているものは3段階にできるなと思ってて、
まだ1段階目なんだよなと思って。
それをどうするかというのを若干悩んでいる部分もあるんですけども。
今日やっぱり話が長くなっちゃったな。
そうなんですよ。だから、そういった感覚の中で、今私はいるんですよね。
これはね、インドの古い哲学の、ヤージャニャバルキアの哲学でもありますね。
ボンが一如ですね。
今日はね、今回すごい長くなってしまいましたけども、
これに関しては、私の日常の中のメインになってくると思うので、
30:04
少しずつね、ポッドキャストでも発信していくものになるかなと思います。
はい、ということで今回は以上となります。またです。