87歳のときに、参議院議員選挙・全国区で278万4988票を獲得し、第1位当選した女性がいます。
市川房枝(いちかわ・ふさえ)。
彼女は、企業からの献金に頼らず、全国の支持者からの献金だけで政治資金をまかないました。
大音量の拡声器による演説を拒み、理想選挙を掲げた上での快挙でした。
惜しくも翌年、議員在職のまま、病でこの世を去りますが、彼女が生涯を賭けた「女性の地位向上のための活動」は、今も引き継がれ、多くの女性たちを励ましています。
全ての始まりは、幼い頃に見た家庭内の光景にあります。
気の短い父が癇癪を起し、母に暴力をふるっている…。
幼い市川は、必死で母をかばう。
「お母ちゃんを、ぶたないで!」
怒りの矛先を見失い、やがて家を飛び出す父。
決まって母は、言いました。
「女に生まれたのが、因果だから…」
家事、育児、出産、介護に、さまざまな労働。
働き続けて一生を終える女性たちが多かった時代でした。
幼いながらに、市川は思いました。
「女性に生まれたことが因果だなんて、おかしい」
理不尽さへの怒りと悲しみが、彼女の原点になったのです。
大正時代初期は、参政権どころか、女性は、政治的な集会に参加、傍聴することすら禁止されていました。
治安警察法第5条です。
1919年、大正8年。
市川は、平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)らと、日本で最初の婦人団体、新婦人協会を設立。
治安警察法第5条の改正を求める運動を開始しました。
さまざまな妨害や弾圧にも屈することなく、前に進む市川。
でも、彼女はいつも強く、いつも失敗をしない、完璧な女性だったわけではありません。
笑顔を絶やさない、人間味あふれた、ごくごくフツウの人間でした。
ただ、何かおかしい!と、ひとたび感じると、こう言いました。
「私は、憤慨しとるんですよ!」
自分の心が間違っていると叫べば、間違いだと言い続けたのです。
女性の地位向上のために奔走した政治家・市川房枝が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
市川房枝(いちかわ・ふさえ)。
彼女は、企業からの献金に頼らず、全国の支持者からの献金だけで政治資金をまかないました。
大音量の拡声器による演説を拒み、理想選挙を掲げた上での快挙でした。
惜しくも翌年、議員在職のまま、病でこの世を去りますが、彼女が生涯を賭けた「女性の地位向上のための活動」は、今も引き継がれ、多くの女性たちを励ましています。
全ての始まりは、幼い頃に見た家庭内の光景にあります。
気の短い父が癇癪を起し、母に暴力をふるっている…。
幼い市川は、必死で母をかばう。
「お母ちゃんを、ぶたないで!」
怒りの矛先を見失い、やがて家を飛び出す父。
決まって母は、言いました。
「女に生まれたのが、因果だから…」
家事、育児、出産、介護に、さまざまな労働。
働き続けて一生を終える女性たちが多かった時代でした。
幼いながらに、市川は思いました。
「女性に生まれたことが因果だなんて、おかしい」
理不尽さへの怒りと悲しみが、彼女の原点になったのです。
大正時代初期は、参政権どころか、女性は、政治的な集会に参加、傍聴することすら禁止されていました。
治安警察法第5条です。
1919年、大正8年。
市川は、平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)らと、日本で最初の婦人団体、新婦人協会を設立。
治安警察法第5条の改正を求める運動を開始しました。
さまざまな妨害や弾圧にも屈することなく、前に進む市川。
でも、彼女はいつも強く、いつも失敗をしない、完璧な女性だったわけではありません。
笑顔を絶やさない、人間味あふれた、ごくごくフツウの人間でした。
ただ、何かおかしい!と、ひとたび感じると、こう言いました。
「私は、憤慨しとるんですよ!」
自分の心が間違っていると叫べば、間違いだと言い続けたのです。
女性の地位向上のために奔走した政治家・市川房枝が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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