スピーカー 2
倉抜きです。中山です。ザッソウラジオは、倉抜きと学長こと中山さんで、僕たちの知り合いをゲストにお呼びして、雑な相談の雑草をしながら、威力をしゃべりしていくポッドキャストです。
2024年9月のゲストは、株式会社コーポレートディレクション代表取締役小川達弘さんです。第2回目となります。よろしくお願いします。
スピーカー 1
お願いします。小川です。
スピーカー 2
第1回は、小川さんのところのコーポレートディレクションさんが都定制度を採用しているということで、僕らがここ最近3年ぐらい都定制度を始めて試行錯誤している中、もう20年近く都定制度を続けてこられているということで、非常に参考になる話を、
僕が知りたくて聞く話になりましたが、第2回は方向性を変えまして、ザソラジオらしく小川さんからの雑な相談をお受けしようかなと思っております。
何かありますか。
はい、ありがとうございます。
スピーカー 1
この3人で話してみたいなと思ったトピックってことなんですけど、今たまたま読んでる本で、ハイブリッドヒューマン達っていう本があって、
これはアメリカの元軍人で、戦争で両足を失った人が自分の義足をつけるようになって、自分の生活がどう変わってきたかみたいなのをつらつらと書いてるっていう本なんですね。
その本によると、その義足っていうテクノロジーというのはローマ時代からずっとあったものらしく、かなり人間とそのテクノロジーっていう関係は長いんです。
で、本の中で自分という存在、自分の体とそのテクノロジーで作られた義足というものが、全然別の物質として認識される瞬間と、
まるで一体になって自分の体の一部かのように認識されていて、その義足の先っぽが自分の体の先っぽであるっていう感覚になる瞬間もあるみたいなのが、ほんとちょっとしたことで動くんですね。
足をつけるソケットの部分のちょっとした怪我があると、そのずれてる部分というか接合面がめちゃくちゃ認識されて、
膝から先がもう完全に物化するんですけど、めちゃくちゃ調子いいときはもう完全に一体化していてみたいな。
そういう人間と機械の関係とか、体と精神の関係とか、そういうものが行ったり来たりしながらずっと語られているのが超面白くて。
こういうテーマってひょっとしたらお二人って日々考えていらっしゃることの中に含まれてるんじゃないかなと思って、ちょっと投げ込んでみたっていう感じです。
小川さんは、今のこの本のどこが一番興味ポイントなんですか。
人間の体とか心ってどこまでなんだろうなとか、自分と他者の線引きってどこなんだろうなってすごい面白いテーマだなと思ってるんですね。
例えば僕らって日々生活してる中で、本をたくさん読んだりとか、いろんなメディアを自分のパソコンに保存したりとかして、
そうやって自分の脳みそを外部化して生きてるとすると、本棚も含め自分だなーとかって思う瞬間もあるし、
とかってなると、自分ってどこまでが自分なのかなってすごい面白い問いだなと普段から思うっていう感じですかね。
典型的というか、日々の生活で言うとパソコンのキーボードって、ブラインドタッチしてる時はキーボードも含め自分になっており、
スピーカー 2
直接パソコンに入力してる感覚になるんですけど、急にあのショートカット機なんだっけなーと思うと、この目の前のキーボードが言うこと聞かない物質に変わるじゃないですか。
スピーカー 1
それでちょっとした瞬間にこの線引きが変わるって、なんか人間って面白いなと思うっていうことなんですけど。
なるほど。それ、なんか機械?機械だと今の話になるけど、人でも同じような感じなのかもしれないなって今思いながら。
あーそうですよね。
スピーカー 3
自分の言うことを思い通りに動く人は、なんか拡張自我の中に含まれて、
なんか思ったことと違うことを言ってくる奴は、なんか他人みたいな、他人っていうか、拡張自我の範囲に含まれない。
あと、前回のリトル師匠がいるっていう話も、どこまでが自分なのかみたいな。
リトル師匠と対話をして判断をする時に。
師匠と自分の関係というか、全体という部分がどうなのかとかね。
スピーカー 1
そうなんです。自分と他者みたいなことで言うと、数学の研究家の森田正男さんが時々講演とかでおっしゃるんですけど、
人間という体があったときに、その真ん中には口から喉までの腸っていうのがあって、
でもこの中っていうのは、理科で習った通り自分の外部なんであるっていう。
その外部の中に大量の菌が住んでいて、実は自分の最も中身だと思ってるものがそもそも外部だし、
外部に他者がめちゃくちゃ住んでるっていう。でも腸内環境によって、自分の体調って明らかに変わるし、
一説にはそれ自体が思考を考えてるんじゃないかみたいな話もあったりするじゃないですか。
実は外部にコントロールされてるんじゃないかみたいな話まで行けば行くしっていう。
中と外とか自分と他人って思った以上にファジーだし、ずっともやもや考えちゃう話ですね。
スピーカー 2
自分で決めてることも、これ自分で本当に決めてんのかなみたいな。
人類は小麦に支配されているみたいな。
スピーカー 2
小麦が繁殖しやすいように人類が動かされてる。
小麦を育ててるって思ってたら、小麦の方に人類がコントロールされてるみたいな話とか。
実は自分で決めたと思ってても、外部環境とかによって決めさせられてる可能性があるって。
でも別にそれが本人にとって幸せだったらそれでいいのかみたいなのもありますよね。
スピーカー 1
そうなんですよね。
なんで僕がこういうのに興味湧くかっていうのの理由の一つとしては、
コーポレット・ディレクション・CDIって日本で生まれたコンサル会社でっていうことでずっとやっており、
日本から育まれたものの考え方とか、それが経営の考え方とか、組織の動かし方とか、
そういうものがアメリカで生まれたものとは別のアングルで、
だからこそ見出せるものがあるんじゃないかなみたいなのはずっと思っちゃうんですよね。
そうやって、自己認識とか個人主義がどれぐらいとか、
そういうものがめちゃくちゃ投影されるんだろうなと思うんですよね。
そういうテーマっぽいなあと思うと、ちょっと覗いてみたくなるっていうのが常にある感じがあります。
スピーカー 2
確かに前回の話、都定制度の話、コンサル会社とシステム開発の会社っていう、
一般的に考えたらもうちょっと合理性の高い育成とか採用とか思想なのに、
いわゆる職人とか都定制度を取ってるって、
多分外資のコンサル会社だとそんなこと絶対しない気がするのは、
スピーカー 1
これは日本初だからなのかみたいなのは、そのへんにつながってるところがあるのかなと思って。
あると思います。
短期的な合理性とかではなく、短期的には非合理なことをやるのが、
中期的には合理的になるみたいなので、きっとあるなと思っていて、
むしろそういうところにその会社の思想みたいなのが宿る気がするので、
そういうものをちゃんと味わって、面白がれるような、
スピーカー 2
そういうビジネスの世の中になってたら、もっともっといいんじゃないかなと思いますけどね。
西洋的な部分と東洋的な部分の違いなのか、中長期で見るのか短期で見るのか。
ちょうどこの間、僕が会社で合宿をよくやるっていう話で、
合宿をテーマにFacebookに投稿して、
前回、どっかで雑誌ラジオに出ていた本庄さんにコメントもらったんですけど、
合宿をやると、会社としては短期的には経済合理性全然ない。
その時間、仕事をしたほうがよいし、交通費、宿泊費かけて合宿するのかみたいな。
日常から離れたことを会社の仲間とやるのも合宿として言うんだけど、
短期的には合理性ないけど、中長期で見たら意味があるからやってるんだけど、
中長期意味があると思ってやったら、逆に意味が薄れる可能性があるんじゃないか。
そもそも短期的に意味がないってことではなく、
合宿自体が短期的にも本当に意味があるっていうロジックが作れたらいいですね、みたいな話をしていて。
コンプレッサーさんでも、短期的にはそんなにある意味がないかもしれないけど、
中長期で意味があるって言ってたことが、実は短期的にも意味があるんじゃないっていう話って、
それを表現できたら、それこそ日本初でやってることの言語化ってできるのかもしれないというか。
それを日本初という表現ではなく、こういう物差しなのか、
何らかの合理性があるから都定制度もやってるのか、
スピーカー 1
マネジングディレクターによる採用もやってるのかみたいな。
スピーカー 2
それが言えたら、最強だなと思って。
スピーカー 1
そりゃめっちゃそうですよね。
スピーカー 1
ガンダムなのか、エヴァンゲリオンなのか、
ウルトラマンなのかって、それぞれあるなと思って。
ウルトラマンだと単位がそもそもでかくなってウルトラマンになっていて、
エヴァンゲリオンだと乗ってる人と外っていうのが、
シンクロしてる状態じゃないですか。
ガンダムはただ機械に乗ってるだけっていう。
だとしたときに、そこの一体感というか、
同一性っていうのがかなりバリエーションがあって、
とかっていうので見ると、それぞれの見方ができるなって、
昔思ったことがあるんですよね。
スピーカー 3
めっちゃ考える。
スピーカー 1
超高モードになってますね。
スピーカー 2
超高モードになってしまった。
いいやつですね。雑草時間。
スピーカー 1
さっきのすり合わせをたくさんするっていうのは、
ただコミュニケーション量が多ければいいのか、
もう1個別の時空がありますよねみたいなのをどう理解するといいんですか。
スピーカー 3
くらなきさんとか、僕らよく自転車乗れるようになるときに例えるんですけど、
チームも同じだなと思ってるんですけど、
補助輪外すときに練習をして、
全体のバランスが整うと乗れるようになるじゃないですか。
それまで練習が必要で、
あれがすり合わせが進んでるっていうか、
チューニングが進んでる。
スピーカー 1
その場合って、チームメンバーの方から
いいサプライズがあることっていうのを
どう位置づけるといいかなっていうのを今ふと思って、
人によって1個のプロジェクトチームがあったときに、
一番いい状態って、5人のチームだとすると、
自分が5人いて、それが一番いいんです。
それが一番シンクロされてる状態なので。
それが実現不能なので、そこまでのぶどまりというか、
どんだけ引き上げることができるかっていうのが勝負ですよねっていうパターンもあれば、
自分が5人いてもしょうがないじゃんっていう。
違う人間が5人いるからいいじゃん。
それは自分の考えの外からもいろんな動きやアイデアが出るのでっていう。
この2パターンが大きくてあるなと思ったときに、
さっきの自転車の例で言うと、
スピーカー 3
自転車は意外な行動を自分に起こしてこないじゃないですか。
スピーカー 1
とかっていうのをどう位置づけると、
より理解が深まるのかなと思いながら聞いたんですけど。
スピーカー 3
そうですね。
なので、自転車って物なわけですけど、
日本人って対人、人に対してすり合わせをするっていうのが苦手で、
逆に物に対してすり合わせをするのは、
根気よく成功するまでコツコツ実験を繰り返すみたいな。
要はプロジェクトXみたいなのに出てくる製品開発した話とかって、
大仏ストーミングを超えた話だと思っていて。
だけど人間に対しては、
要は自分、何か思ってないようなことを言ってくる相手に対しては、
めっちゃ弱くなるとこあるよなって思っていて。
なので、多分それは怖かったり不安だったりするんでしょうね、きっと。
それが心理的安全ではないっていうことだと思うんですけど。
なので、また普通の話になっちゃうけど、
心理的安全性がある関係性において、
思ってることを言い合えると、
お互い別にびっくりすることも少なくなっていって、
そういう選択肢もあんのねみたいな、
自分が見えてない選択肢を言ってくれる人みたいな関係性に。
例えば僕とくらいの人だったら、
僕プログラミングとか全くわからないので、
僕の一人で考えた選択肢の中には、
プログラミングすりゃいいじゃんみたいな選択肢は出てこないけど、
2人でやったらこれでできるよみたいなことが起こるのが、
スピーカー 1
チームの意味だよなというか。
スピーカー 3
あとだから、リーダーとメンバーみたいなところで、
スピーカー 1
メンバーが思いもよらないことを言ってきたみたいな状態とかって、
スピーカー 3
もしそのアイディアを採用したら、
主導権が自分から失われるみたいなのとか、
その人いなくなったら、
そのやり方続けられないけど、
その時どうしようみたいな、
スピーカー 1
そんな感じですかね。
スピーカー 3
関係性について、あれこれ、思い悩みすぎなんですかね。
スピーカー 1
その壁を越えた後は、
スピーカー 3
すごいさらに関係性が深くなるんですよ。
スピーカー 1
この壁を高く感じすぎてるから、
越える前でも止まっちゃって、
いい擦り合わせのチームが作れないみたいなことになるんですか。
スピーカー 3
そう、それはありますよね。
スピーカー 1
面白いな。
うちじゃないんですけど、
あるコンサル会社さんが、
企業再生の案件とかでコンサルティングで入る時って、
コンサルタントとクライアント企業側って、
敵対関係になったりしがちなんですけど、
一番最初にとりあえず相撲を取るっていう、
スピーカー 3
本当かどうかわかんないですけど、
スピーカー 1
受け止められるみたいな、
そういうのがあるっていう。
体を使うっていうのも擦り合わせにおいて大事なのかなと思って。
スピーカー 3
楽天のお店出してる店長さん、ある店長さんが、
楽天側はECコンサルタントっていうのが、
スピーカー 1
アポート担当なんですけど、
スピーカー 3
ECCって言われてるんですけど、