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今回は、フリートークということで、国語の先生がどれくらい古文や漢文とかそういうものって読んでいるのかなーとかね、
何なら本ってどれくらい読んでいるのかなーってことについてお話ししたいと思うんですね。
端的に言うとですね、人によりますよね。人によります。やっぱり国語の先生というだけあって、確かに本は基本的に好きな人が多いです。
ただ、本ってね、やっぱりいろんな本があるわけですよ、世の中にはね。いろんな本を読む中で、やっぱり好みってありますよ。
例えば非常に物語が好きな人もいれば、評論文が好きな人もいるし、詩やエッセイなんかが好きな人もいらっしゃいますしね。
同時にその古文とか漢文にしたって、一応その国語の先生になるためには、免許を取るためには大学で所定の単位、授業を取らなきゃいけないわけですね。
で、そうなってくると、もちろんいろんな授業を受ける中で古文や漢文にも親しむんです。必ず親しむ。
けれども、どれくらい、どんなものに親しむかっていうのは全然大学によっても決まってない、違うわけなんですよね。
ですので、もちろん、しかもその高校まででどんなふうに古文、漢文に親しんできたかっていうのも全然人によって違うわけですね。
場合によっては、高校まであんまり古文や漢文に親しんでなくて、大学に行って初めてそういったものに触れて、国語の先生になっている人っていうのもいっぱいいらっしゃるんですよね。
じゃあそれじゃあ、それはどうなのか、よくないんじゃないかっていう話もできなくはないんですけれども、そんなことはないと思うんですね。
国語を教えるっていうことと文章に親しんだことがあるっていうのは必ずしも一致しないと思うんですよ。
もちろんかぶるところはありますよ。文章にすごく親しんでいる人が国語の先生になることもあると思うんですね。
本が大好きでいろんな本、いろんな文学に触れている人が国語の先生になることもあるかもしれませんけれど、そうじゃないことだっていっぱいあるんですよ。
これは他の科目なんかでもそうですね。でも特に国語はやっぱり、そもそも国語っていうものが指すものがものすごく広いので、多分あらゆる学問、あらゆる教科の中で最も広いと思うんですよ。
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再現がないんですもん。扱うものについての。もちろん社会で扱うものだって、いろんな時に渡るものがあります。理科で扱うものだっていろんなものがありますよ。
だけれども国語っても、ある意味では文章として書かれていたらあらゆるものは国語で扱うものなんですよね。しかもそれが現代のものだけじゃないっていうのが恐ろしいところですよ。
遥か1000年前のものとか、ましてや2200年前くらいの中国の文章まで扱うわけですよね。これはなかなかひどいですよ。そこに至るまでの、いろんなひどいものを扱うし、深いものを扱うし、恐ろしいほどひどいんですね。
ですから、それを全部網羅するっていうことはまず不可能だし、その中の一部分であれ、ある程度勉強するっていうことすら、まあまあ限度がありますよ。
なので、もちろんね、その大学で勉強する分にはある程度勉強はしています。触れてはいるけれども、やっぱりいざ国語の先生になった時に教えなきゃいけないとか、実際にはね、国語で教えるっていうのはまたちょっと科目の特徴が違うので、少し話は変わってくるんですが、
ただ扱う教材の幅っていうのは、これは非常に広いんですね。もちろん、結論的には、結果的にですね、国語の先生って結構、授業で扱うときに初めてその文章に出会う。
で、それを材料として、どのように生徒の国語の力、この国語の力っていうのも非常に定義が難しいし、いろんな捉え方ができるし、実際いろんな要素が入っているんですけれど、それを身につけるために教材を道具とか材料として扱うんですね。
ですので、それ自体にどれくらい親しんでいるかっていうと、ほとんどもう初見だったり、初めて見るっていうものも多いんですよ。
もちろん、それ初めて見たものですぐ料理するんじゃなくて、それをどんなふうにして、材料、それを材料としてどんなふうにして授業を行うか、そしてそれを通してどういう力を生徒につけさせようと思うか、もしくはどのような体験を生徒にさせるかっていうことについての専門性を持ったのが、国語の先生だと思っています。
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ぜひご覧いただけるといいと思います。
ですから、逆に言うと、いろんな文章を読んでいても、国語の先生ができるわけではないんですね。
むしろ、一つにはその教材の魅力とかはもちろん大事なんですが、それ以上にそれをどのように調理するか、言ってみれば国語って結構その調理方法が大事なんですよね。
どんなふうに料理するか、またそれによってどのような味を楽しんでもらうかとか、そして結果的にどのような地肉となって栄養をとってもらって、どんな体づくりをしていってもらうか、むしろそういうところに目を向けるのが、この国語っていう科目なんですよね。
これはね、結構わかりにくいというか、他の科目と実は大きく違うところなんです。
語教科って呼ばれるようなものの中でも、特に特殊なものですね。ある意味では実技的な要素っていうのもあったりいたしますね。
もちろん、あと他の科目でないのは創作、クリエイションもするんですよね。
単価とか作文とか、そういう無から有を生み出すような行いもする。そういう意味でも実技科目に近いものを感じますよね。
基本的には数学や社会ではあまりその無から有を生み出したりはしないと思うんですね。
もちろんそういうような要素を取り入れることはあると思いますが、国語では非常にそれは当たり前に行ったりするわけなんですよ。
なので非常に特殊なものだということなんです。
となるとですね、やっぱりどんな作品を読んでいるかというとですね、必ずしも国語の先生だからといって読んでいるわけではないということはお分かりいただけるかと思います。
かといってですね、やっぱり国語の先生になりたいと思うってなる人がほとんどでしょうから、少なくともなろうと思った時が一瞬くらいはあると思うんですね。
もしくはその免許を取ろうと思った段階があるわけですから。
そうなるとですね、その国語っていうものに親しむにあたってはやっぱり本が好きだとか、本に親しんでいることも多いんですよ。
ただ先ほど最初に申しましたように、いろんな本が世の中にはあるし、いろんなジャンルもあるわけですよね。
偏ります、それは。むしろ偏るっていうのは自然のことです。
いろんな本もまんべんなく読んでいる人っていうよりは、好きな本があって、好きなジャンルがあって、そこにすごく熱心に取り組まれる、熱心にお読みになる人の方が圧倒的に多いと思うんですよ。
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そういう人が国語の先生になることの方が多いと思いますね。
いろんなものをまんべんなく好きだからっていう人はあんまり多くはないと思うんですが、
ただ国語の先生をやっているとですね、どうしてもそういった作品にどんどん出会ってまいりますよね。
なので、私なんかもそうですけど、やっぱり先生というものをやればやるほど、教師というものをやればやるほど、
どんどん新しい作品に出会って、どんどんどんどん新しく読んでいくことが増えていったというのが正直なところです。
あまり主体的に枕野草子をどんどん読んでみたいとか、そういう作品があったかというとそんなにはないですね。
もちろん古文だけに関しては、それこそ高校時代や学生時代から親しんでいたというよりは、
やっぱり一番読んでいるのは先生になってからですね。教える側になってから面白いなと思ったり、
あとはもっと読んでみたい、詳しく読んでみたい、全部読んでみたいという作品が非常に増えたと思います。
実際、短い高校生活、大学生活、もちろん本を読むということだけに費やすことはできないわけですよね。
いろんなことを勉強しなきゃいけないわけですから。もちろんそれは教師になってからもそうなんですが、
ただ寮としては、そういった素材に触れる機会は非常に多いわけですね。
ですから、いろんなものに触れたいけれども、なかなかそういう機会に恵まれない方なんかは、
もう国語の先生みたいなね、そういう仕事にお付きになると、もしかしたら強制的にいろんなものに触れることができるかもしれませんね。
これはもちろん古文だけではなくて、現代の作家さんたちについても言えることなんです。
やっぱり私も一番、言ってみれば評論文に属する、分類される方なんてもうめちゃくちゃ多いわけですね。
毎日何百冊とそういう新書だったり、ハードカバーの本だったり出されているわけですよ。
そういったものをどんどんどんどん読んでいくっていうのは難しいんですが、
ただ、テキストとか教科書なんか、あれ出てくる文章なんかだと、非常にそれがきっかけとなって、
もうちょっとこの人を読んでみたいなとか、そういう方って結構いっぱいいらっしゃったりしますね。
その辺、この仕事をしていてよかったなって思うことですね。
たぶんね、この仕事してなかったら出会ってなかったような作家さんとかいっぱいいると思うんですよ。
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そういうのはあります。やっぱり基本的には偏るものですよ。
ただ、教える仕事をしていると、それでも偏るんですよ。
それでも偏るんですけど、比較的いろんな作品に出会えるっていうことはありますね。
そんなふうなものです。
意外となので、学校の先生をする人なんかがすごい本を読んでいるかって言うと、
そうでもないことも多いです。国語の先生と言ってもね。
ただ、国語っていう特殊な授業を行う、特殊な教科を行う上での訓練っていうのを受けている。
訓練というか発想というか、かなり特殊ですので。
考えてみれば、わかりやすいのは、国語の授業をやってくださいって言われたときに、
じゃあ何をするかっていうと非常に難しいと思うんですよ。
例えば、走れメロスで国語の授業をしてくださいって言われたら、何をしたらいいのか。
例えば、算数、数学であれば、比例について勉強しますって言ったら、比例について、
こういうことを教えるのかなってことは、まだ想像できる。
もちろんね、実際プロの方からすれば、いろんな教え方、いろんなアプローチがあるんですけれども、
素人ないにもなんとなくは想像がつくと思うんですね。
ところがね、国語ってそれがなかなかできないんですよ。
何を教えるか、どう教えるか、そもそも何のためにするのかっていうのがですね、
非常に難しいのが国語っていう科目なんですね。
それがまた魅力でもあるんですが、難しいところではありますよね。
そういった目で国語の先生っていう人を見てみる。
なので、国語の先生ってやっぱり教え方だったりアプローチって先生によって大きく違いますね。
もちろん他の科目もそうなんですけれども、特に違うんです。
またね、面白いのが、多分違いがわからない人もいると思います。
それくらい国語の先生って何をしているのか、むしろ国語の授業って何のためにあるんだろうって思うくらいだと思うんですよ。
本当に国語の時間って何もしなかったんじゃないかなっていうふうに回想される方もいらっしゃるでしょうしね。
今授業を受けていらっしゃる方も、これ何をやっているんだろうって思いのある方もいっぱいいらっしゃると思いますよ。
それも理論的には一応ある程度定義もあったりしますが、ただ本質的にはやっぱり言葉にできないような部分が非常に大きいんだと思うんですよね。
その作品の持っている力、あとはその教師が持っている人間性とか観点とかそういう力。
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あとは授業に参加されたりとか、あとは作品を読みになる皆さんの力とか感性とかそういったものの相互作用で出来上がっていくものなんですよね。
これはなかなか他の科目では見られないものですね。
非常にやっぱり先ほど申し上げた通り、実技科目とちょっと近いところはありますね。非常に近いです。
ただまた実技科目ともまたちょっと違う技能的な面とか、あとはやっぱり修行効果を強化に入っているという点での入試とか受験科目、入試科目としての側面を持っているっていうね。
そのあたりのバランスとか、あとはその重視のされ方とか、いろんな側面を合わせ持っている科目なんですよね。ということでございましたね。
そんな感じで国語の先生がどんな本を読むのかなとか、本をどういう風に読んでいるのかなとか、あとは国語って科目について少しお話をいたしました。