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2023-07-12 21:57

第339回 ラポルタ・カルロ氏(Mpowered Sales株式会社代表取締役)【前編】

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今回は、Mpowered Sales株式会社のラポルタ・カルロ氏にお越し頂きました。
調達戦略・人事育成・ビジネスインテリジェンスコンサルなどの経験をし「内発的モチベーション」に着目。待受社員に悩む企業から理想のチームを構築する事業から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
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■WizBiz社長塾
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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、Mpowered株式会社代表取締役、ラポルタ・カルロ氏様でいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。
1970年にイタリア人のお父様とイギリシのお母様からお生まれになっていらっしゃいます。
そして、フランスでお生まれになっています。
14歳までフランスで育たれ、
そして、ドイツ語圏内のスイスの学校に通われています。
その後、イギリスの高校に編入して、高校卒業後にイギリスの大学に入学する前に、
1年間日本への留学をして、日本語を習っていらっしゃいます。
日本滞在中に日本大学に入学できることにつき、
イギリスの大学をキャンセルして、日本の大学に行くことになさった社長様でいらっしゃいます。
ちなみに、この後聞いていただきました、日本語ペラペラでいらっしゃいます。
その後、コンサルティング会社等に勤められた後、KPMGコンサルティングに転職なさっていらっしゃいます。
その後、このMパワードを創業なさっていまして、
今もMパワード株式会社の社長様、経営者としてご尽力なさっているラポルタカルロ様でいらっしゃいます。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はフランスの方で、
こっちでいう小学校というか、フランスはどういうのか分かりませんが、
小学校時代はどんな少年でいらっしゃったのでしょうか。
私は小学校の頃、600人しかいない田舎の村にいたので、
本当に昭和70年代ですから、かなり古臭い環境でありました。
その中で、もとから性格的に何でもかんでもに興味を持つ性格なんですけれども、
実はその村に生きている人で、その村の親もおじいちゃんおばあちゃんも、
その村に生まれていない人って私しかいなかったんです。
フランス人でないだけではなくてという感じなんですけれども、
なのでちょっと特殊な状況だったんですね。
70年代というと、私の周りの子どもたちって、
実はおじいちゃんおばあちゃんに育てられている子どもたちは大変だったね。
親が農家、ワインを作る村だったので、1日中親がいないところだったので、
おじいちゃんおばあちゃんの世代といったら、イタリアが敵だったんですね。
日本と同盟国であるだけに。
僕はイギリスのハーフなんだけど、同盟国であったイギリスの部分は認識されなかったようですね。
そうするとそこでいくつか問題があったので、
ちょっと普通の人より多少難しい小学校時代であったかもしれないですね。
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なんかわりと農家さんというか、そういう感じだと、
野畑を走り回るというか、そんな感じでお過ごしでしたか?
それありましたけれども、結局今、すごくいい人ばかりだっただろうけども、
残念ながらも私はどっちかというと村はじぶだったんですね。
それこそという状況があったんですけれども、
その中で今思い出に残るのは、やっぱり一家族だけすごい仲良かった家族があって、
その家族はワインを作っている家族だったので、
そこのワインセラーの中で遊ぶという記憶もありますし、
毎年10月あたりにブドウの収穫を協力する。
大体ブドウを食べていてみんなが仕事をしているのを見ているだけなんだけど、子どもたちは。
一応収穫に協力していたという頃もあって、
春だとチューリップを取りに行くというのもあったので、
そのようなことも結構ありました。
なるほど。その後、スイスの学校に15歳で移られていらっしゃる感じなんですね。
14ですね、正確に。
14で移られていらっしゃる。
これだから、フランスからスイス、隣の国なんで行きやすいのかもしれないですが、
珍しくはないものなんですか、スラックフルスイスのほうに留学するみたいな感じは。
珍しいです、確かに。
いろいろ事情はあったんですけれども、
うちの家族は裕福ではなかったんですけれども、
貧乏でもなかったけど裕福ではなかったんです。
少なくともスイスの学校に行くほどの裕福さはなかったんだよ。
運のいいことに、父親の仕事のおかげで
そういう特殊な学校に行くことはできたんですね。
そこに2年しかいなかったんですけれども、
そこでおかげさまでドイツ語を習って、
初めて日本人で会ったし、
その頃には将棋も教えていただいたりしたわけです。
スイスの学校に日本人の方がいらっしゃったんですか。
3人ほどいたんですね。
珍しいですね。スイスで日本人もかなり珍しいと思うんですけど。
すごい特殊な学校なんですね。
今でも存在しているんですけれども、
学校のポリシーとして、
子どもは全部自分で選んでやるというポリシーだったんですね。
ですから3ヶ月ごとに自分が学びたいトピックを自分で選んで、
朝毎日3時間の勉強があって、
お昼からは毎日、
例えばお皿とかそういうのを作るって何と言うんでしたっけ、
峠でしたっけ、日本で。
峠があったり、
それこそ舞台のことだったりとか、
それも自分で選んだりして、
そういう条件があるんですね。
週最低1回はアートと言われるもので、
手を使う仕事を1つとかね、
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その中でも当然峠だったりとか、
家具を作るとか木で、
そこで私は初めてスノーボードを作ったわけですね、木で。
全然使えなかったけどね。
まだスノーボードがあまり主流じゃなかった頃にね。
そのようなすごい特殊な学校なんです。
毎日朝6時起きてですね、
まずスポーツ30分やって、
そこから自分たちが生きていた区域の掃除をする。
そこからシャワーなんだけれども、
シャワーは水なんですね。
本当に山の奥の中なので、
そのままの山から流れている、
凍っている寸前の水でシャワーするっていうのは、
すごい健康的になります。
それをやった後に、
朝ごはん食べてですね、
そこから学校全般の教室とかそういうのを掃除して、
そこからの勉強30時間ね。
例えば一次元目が数学とか英語とか文学とかということを
自分たち選んでやって、
それを3ヶ月間サイクルを書いたりするんですけども、
それぞれの生徒が自分たちの目標に合わせて選ぶわけですね。
私はイギリスの高校にこれから行くからって言って、
そのイギリスの高校に入るための科目をちゃんと選んで、
その必要なタイムを自分で選んでやっているから、
要は納得があって、
まさに今の仕事にすごい繋がるんですけども、
自分が選んだ以上にやる気が出やすい状況であったりする
ということを目指しているわけですね。
責任感の強い子どもを育つためのシステムなんですね。
日本ではそういう学校、
豊富ないんじゃないかなぐらい少ないと思うんですけども、
海外でもそういう学校は多いものなんですか?
いや、極めて普通の学校じゃないです。
その考え方、いくつかあるんですね。
フレンズという、港区にあるんだよね。
ちなみに多分同じ系列だと思うんだけど、
フレンズなんとかですけど、
でも多分そこまでその考え方を活かせていないと思うんですけど、
イギリスだとビーデールズとかね、
僕は知っているだけで多分、
ヨーロッパの中で10校ぐらいあるかないぐらいの学校です。
なるほど。
その時の思い出なんてございますか?
すごい良かったです。
多分今の自分があるのは、
8割近くその学校のおかげだと思っているんです。
どういう部分が良かったなと思う思い出としては?
やっぱり自分で物事を決めたりとか、
それに何の責任を負うということは大きかったりして、
やらないといけないからやっているだけではなくて、
自分が選んでやっている。
その結果何をしなきゃいけないかということを、
初めて自覚を持つことになったんですね。
それまでは結構、
それこそ飴と鞭の鞭で、
これやりなさいみたいな感じだったので、
勉強に対する、
勉強に対する感覚とか、
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勉強に対して、
勉強に対する考え方が、
その他ですごい変わった。
自分で勉強することを教わったというのは、
すごく強いかなと思います。
なるほど。ありがとうございました。
その後、イギリスの高校に編入されたりするんですか?
他はイギリスの高校に最初から行くけど、
スイスの学校を挟もうみたいな、
カロロイ社長様だと、
戦略的に考えられたのかな?
そこまで大きな戦略、
戦略という言葉が正しいかどうか分からないけれども、
スイスの学校から、
行ける大学って、
スイスの大学、フランスの大学と、
プログラムによってアメリカの大学、
それどっちも行こうと思ってなかったんですね。
じゃあどこ行きたいのかと、
イギリスの大学が狙いだったんですね。
そうすると、
イギリスの高校に行ったほうがいいでしょう、
ということですね。
正直言うと、今になって考えると、
そこから高校もその学校にして、
イギリスに行くべきだったんだけれども、
イギリスの高校に行ったほうがいいんだろうと、
当時に勘違いして行ったんですね。
ちなみに言うのを忘れたんですけれども、
あの学校の特徴として、
歳は関係ないです。
スイスの学校?
スイスの学校、はい。
だから同じ教室で、
16歳の人と12歳の人もいたりする。
それを勉強したいかどうかしか関係ないので、
歳は関係なくて、
1教室が8人から10人くらいなので、
上のほうになっちゃうと、
若い子どもたちを手伝うことになるので、
習うだけじゃなくて、教えることになるので、
それはすごい一つの大きな経験になったと思います。
ちょっと戻してしまいました。
なるほど。
イギリスの大学に行こうという思いがあったので、
途中でイギリスに編入しようと思ったわけですね。
イギリスの高校ではどんなことをして過ごしたかという思いでございますでしょうか。
イギリスの高校ではあまり良い子じゃなかったので、
長くお話したいわけではないんだけども、
本当に典型的なイギリスの映画に出てくるような、
それもお父さんの仕事のおかげだから感謝するばかりなんだけども、
学校に行ったんですけども、
正直それまで十字材にやってた学校だったのに、
いきなり何でもかんでもビシッと決められて、
廃校しなさいしなさいという朝、
教会行きましょうとかみたいな感じだったので、
順番として逆のほうがよかったかもしれないなと思ったりするんですけども、
それなりにいろいろお世話になってですね、
イギリスの大学に無理で入る権利を得たんですけども、
当時1988年、89年あたりだとヨーロッパは経済良くなかったんですね。
今も大して良くないんですけども、
そうするとあの当時で言うと、
政府が言ってた失業率が多分12%ぐらいだったね、フランスは。
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ただ若手は、若手というと20代大学卒下というそういう方は、
結構数字は曖昧なんだけども、
34%という数字もあったりしてたわけですね。
なかなか仕事を見つからないんですね。
これはちょっと余談で言うと、
弟を例にとりますと、弟は日本で言うと、
慶応大学とかそういう大学に行けるほどの人で、
本当に優等生で、彼も四角語を喋れて、
契約もそれなりに四角語で書ける、
法律に基づいた契約を四角語でちゃんと書ける人なんですけども、
卒業してから初仕事を見つからないまでは、
2年間かかったんですね。
マスターズです。
2年間かかったんだけど、そこで見つけた仕事というのは、
父のコネのおかげで、住んでた町スラーズブール、
50万人の町なんですけども、
日本で言うと窓際のような仕事を見つけて、
それも本当にコネのおかげです。
それがなければ入らなかったというところに、
やっと就職できたと。
お父さんも本当にそのコネに頼むから、
2年間探してるからどうにかしてくれと。
そこから稼働するまですごい大変なんですよ。
だったんですね、あの頃。
当時は日本も大きくなっていくわけで、
GDP的にアメリカを超えるんじゃないかと、
天皇陛下のところの価格だけで、
カリフォルニア全部買えると言われてた頃だった。
日本語を習えばフランスに戻って、
日本の企業に住められるかなと思って。
アルザーソ連にあの時はソニーと、確かにパナソニックがいたりして、
そこに就職できるかなと思って。
それちなみに間違ってた戦略なんだけども、
でもその企業の価格は、
日本のスイスの学校で会った人のおかげで興味があったし、
留学する機会があればしようということで、
日本語だけを習いに行った。
当時は大阪に2年間住ましていただいて、
保守人の家族に大変お世話になりながらも、
免許させていただいたんですけども、
最初は6ヶ月のつもりだったんですね、本当は。
で、その後、その後、
日本語の勉強を始めたんです。
免許させていただいたんですけども、
最初は6ヶ月のつもりだったんですね、本当は。
で、いいんじゃないの、ここに。
大学も行けそうだし、
いろいろすごい要素が良かったので、
一番大きかったのは、
当時は英語の先生というか9000円くらい、
儲かってたんです、時給は。
日本にいれば一石三鳥くらいだ。
日本語を習いて、大学の卒業券の証明をもらって、
かつ、自分で払って生きるという、
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一石三鳥くらいの価値があったので、
じゃあ、残ってやろうと思ったんですね。
残念ながらも、入学した直後にバブル崩壊になって、
英語の先生って2000円とか2500円になっちゃって、
とてもじゃないけど、GPで勉強しにくいことになって、
本当に朝、大学の廊下とトイレ、
夕方は大学の、
教室とトイレを掃除しながらも、
土日英語の先生を2500円でやって、
奨学金までいただいて何とかなった、
みたいな感じだったんですけども、
それもすごくいい経験だったので、
それをやって、卒業したということです。
なるほど、ありがとう。
ちょっと理事さんの皆さん方、
時代背景ちょっと、お若い方もいるので、
念のためご説明すると、
バーナーズナンバーワンというか、
ニューヨークのビルをほとんど買い占めたくらいの時があったので、
ラスベガスのホテルの8割が日本人オーナーになった時があったので、
その頃ですね、それで日本に来られたら、
バブルが崩壊して、急激に時給9000円が2500円に下がって、
大変なことになったというのが日本なんですが、
日本語をイギリスの国語の時に学んでいらっしゃったというか、
全くないです。
日本に来ちゃってから学び始めた。
日本に来る直前の2週間にわたって、
合計48時間の時間を勉強しました。
要は、ひらがなカタカナ、私はカルロです、みたいな、
当時私は19歳です、みたいなことしか言えなかったんです。
今のカルロさん、普通に漢字を読む仕掛ける感じなんですが、
ちょっとそれを置いておいて、またお聞きしますが、
日本に来られて、イギリスの大学をキャンセルするのは、
ご両親とかは、日本の大学っていいよって、そんな感じで、
日本人の親たちだと、なぜみたいな感じがするんですが、
そういうのはなかったんです。
あと、あまり記憶にないんです。
その話をしたときに、結構すんなりいた記憶なんだけれども、
そのためにわざわざ帰ったという記憶はあるんですけど、
その相談をするためにね。
ただ、6ヶ月だけでは日本の会社に雇われるほどの日本語ができないという、
現実もあり、目的を満たせないというのが一つ目の説明だったので、
どうしてもこれがよかったら、確かにもっといなきゃいけないということだったんですね。
もう一つというのは、
俺が日本に行けば自分で払うから、お父さんは楽になるよというのはあったので、
そのとき、ちなみに結局時給が大きく変わったことによって、
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ちょっとぐらいは手伝っていただいたのは事実なんですけれども、
それでもイギリスの役員よりも彼にとっては安くついたことをアピールさせていただきました。
今でも彼にアピールさせていただいているんですね。
でもそこまで、やっぱり相手がやりたい、息子がやりたいことだったら、
それでいいんだろうなということになるんですね。
金銭的な負担がなければということだろうなと思うんですけど。
この辺が一般的な日本人の家庭と外国の家庭の差がちょっと見えるなという気がしますが、
日本の大学、拓職大学の国際貿易学科にご入学されていらっしゃるのですが、
ここではこんな思いであるような思いでございますか。
英語研の留学生がほとんどいないというのは私にとって大きな利点で、
留学生とも日本語でしかしゃべらないということが良かった。
観光人とか中国人とも今まであまり接触がなかったので、
そういうたちの彼らの文化とかいいトモシもたくさんできていたし、
国際的な意味ではすごく良かった部分でもあったんですね。
あとはバイトばっかりやっていたという事情もあって、
勉強にすごく協力していただいたのは本当に、
他の東洋人に比べて同じ外人でも感じて難しいので、
日本人にも中国人にも韓国人にもすごく協力していただいていました。
そういう意味では人間的なところですごく良かったし、
大変はほぼ全部1年生で取ったんですね。
3,4年生はセミナー以外はずっとバイトだったんですね。
多分大学にあるべきすごい楽しく遊んだという思いではあまりないんですね。
別に苦しいなとは言えないんですけど、
そういう軽くみんながカラオケをやっている間に私はどちらかというと、
すごい五歳児の児で漢字を書いて、
大変努力をなさっていらっしゃったという話だったと思いますが。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
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本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。
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