庄子潔の経歴
本日の社長に聞くinWizBizは、株式会社ダイブ代表取締役社長 庄子潔氏さまでいらっしゃいます。
まずは、経歴をご紹介させていただきます。仙台高校卒業後、2年間アメリカに留学。
その後、人材ビジネスの会社へ御就職。そして、その後、観光地に特化した人材会社ダイブの設立に参画。
そして、2012年には代表取締役に御就任。そして、2024年に東京証券取引所グロース場に上場されている上場企業の社長さまでいらっしゃいます。
庄司社長さま、本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
まず最初のご質問ですが、ご出身は仙台ですか?
はい、仙台です。
小学校時代はどんなお子さまでいらっしゃいましたでしょうか?
そうですね、小学校時代は本当にヘイヘイボンボンというか、サッカーに熱中していたサッカー少年でしたね。
その当時はJリーグとかも始まりまして、プロサッカー選手になりたいという淡い夢を持ちながら過ごした記憶がありますね。
じゃあ、ベガルタ仙台に入ろうみたいな。
そうですね、プロサッカー選手になりたいというのがありましたね。
中学時代はどんなことして過ごしたか?
中学も同じようにサッカー部で開けくれたんですけども、そこが結構一つの転機になったんですけども、中学校のいわゆる高校受験ですかね。
高校受験の時に全然僕勉強してなかったものですから、学年の中でも下から数えて5番とか10番くらいの成績だったんですけども、
当時、両親が寿司屋を営んでいたんですけども、木吉、僕木吉って言うんですけども、木吉は公立高校に向かったらアメリカにおじおばが住んでいたので、
アメリカ旅行をプレゼントしてあげるからなんとか公立高校に行ってくれと、要は学費の面とかそういったことだと思うんですけども、
それで1年復帰して、中学校3年生の前半くらいで塾とか通い始めながら勉強したという記憶があります。
でも一気に勉強されたら、ちゃんと受かられたんで、本当に頭がいい、地位頭がいい、そういうタイプじゃないですか。
下からようやく平均に戻ったみたいな感じですね。
なるほど、ありがとうございます。高校時代はどんな個室で過ごしたのか、思いでございますでしょうか。
高校1年生、公立高校は地元の仙台市仙台高校に入ったんですけども、サッカー部には入ったんですけども、
そこでちょうど一つ上に自分の姉がいまして、僕が高校1年生の時、高校2年生当たり前そうなんですけども、
姉から当時クラブに音楽がかかっているクラブに行かないかって誘われまして、
一つの上の姉なんで、結構思春期なんであまり嫌だったんですけども、
クラブっていうのもちょっと怖くてですね、一人でも行くのもちょっと億劫だったんで、
姉と2人で仙台のクラブに行った時に、そこでやっぱり僕の人生の転機もあったんですけども、
衝撃を受けまして、熱中していたサッカーから今度は音楽の方にのめり込むというような形の高校時代でしたね。
音楽はどんな活動はなさったんですか。
アメリカ留学と帰国
音楽はヒップホップっていって、いわゆるDJですね。
あれに目覚めまして、高校3年間は音楽活動にずっと没頭していたというような形ですね。
クラブは国分町とかそっちの方にあったんですか。
国分町にもクラブがありましたけど、いくつか多数のクラブがありまして、
そこでイベント的にやらせてもらったりとか、あとはレギュラーDJとかも高校3年くらいの時にやらせてもらったりとかしまして、
そこで一生懸命頑張っていたというような形でした。
なるほど。DJでプロを目指そうなんてことはお考えにならなかったでしょうか。
思ったので、高校を卒業するのは大体皆さん進学とか就職とかというような形だと思うんですけど、
僕の場合は熱中するとそれにはまり込んでしまう性格もあるので、
DJ音楽でご飯、飯を食べていきたいという気持ちがすごい強くなったので、
プラス、先ほど言ったように両親が海外旅行を高校1年生に行かせてもらって、
それもあいまって高校を卒業してすぐアメリカの方に留学をさせてもらったというような形です。
なるほど。アメリカへの留学は短大か大学かみたいな感じですか。
正確に言うと地元のコミュニティカレッジのESLという語学学校みたいな形ですね。
なるほど。2年間アメリカにいらっしゃったということなんですが、
アメリカではどんなことをして過ごしたかという思いでございますか。
今も言いましたように、音楽活動、DJでご飯を食べていきたいという淡いその当時の希望があったので、
学校に結構、自分で言うのもあるんですけど真面目な性格なんで、
学校にはしっかり毎日通っていながらも、週末とかはちょうどニューヨークの隣のニュージャージーというところで、
ニューヨークまで車でだいたい40〜50分くらいの距離に住んでいたんですけども、
週末とかはクラブとかに行きながらみたいな形の生活を2年弱くらいしていたというような形ですね。
DJはそちらではプロになろうというのは、途中で諦めた的な感じでしょ。
そうですね。結局2年弱で帰国してくるんですけども、現地の方で車社会なんで、
車も僕も中古車を買って、学校とか通学とかしてたんですけども、
大きな交通事故を起こしちゃいまして、幸い怪我もさせることもなくなったんですけども、
車が全損というか塌下してしまって、それでなかなか学校に通う術が日本みたく交通も整ってないので、
通えなくなっちゃって、一旦日本に戻ってこようかという形で戻ってきたので、
まだその時は戻ってきても音楽の熱とかっていうのは冷めずに、
一旦ちょっとタイミングもタイミングがあったので帰国したという形でしたね。
なるほど。じゃあ日本に帰国してからもう一回プロのDJになれたらなみたいな、そんな感じで。
そうですそうです。そういった思いを持って日本に帰国、仙台に帰国いたしまして、
だいたい10月で留学して20歳に戻ってきたんですけども、
そこで音楽もやりながらもたらご飯も食べていかない、稼がなきゃいけないという形で、
音楽活動を並行して何の仕事をしようかなみたいな形で探しておりまして、
当時ちょっと勘違いしてまして、何を勘違いしたかというと、
留学とかしている周りの人たちっていうのはあまりいないだろうと、
実際いっぱいいるんですよ。めちゃくちゃいっぱいいるんですけど、本当にすごい勘違いしてまして、
それでどこでも就職できるなみたいな感じのことを思って、いろいろなところで受けてるんですけども、
ことごとくすべて落ち続けまして、それはそうなんですかね。
僕の履歴書上でいうと、仙台市仙台高校卒業、アメリカの短大中退以上で20歳の男の子なんで、
どこも取ってくれないというか、なかなか箸にも棒にもかからずという形で、
それでも別に就職をしたいというわけじゃなくて、お金を稼ぎたいという形だったんで、
何かないかなみたいな形で探していたんですけども、なかなか結構見つからずですね。
本当決まらなくて、それでいろんなところを受けたんですけども、決まらずで、
派遣会社の工場作業員に登録をして、そこで僕のキャリアの始まりなんですけども、
派遣工場作業員として勤めるというような形になります。
派遣に登録して働き始めたときは、どんなことして過ごしていたとか、どんな思い出があるとか。
ありがとうございます。地元仙台の工場で、結構大きな工場で、派遣スタッフさんも数十名ぐらいいた工場だったかなと記憶してるんですけども、
当時僕が所属していた派遣元の会社っていうのが、僕しか派遣スタッフいなくて、
他は大きい上場企業の派遣会社さんから来られているスタッフさんがいっぱいいらっしゃったところなんですけども、
案外、派遣会社の垣根を越えて、スタッフとして別にあまり関係なく仲良くやれるんですけども、
1点すごい大きく違いを感じたのは、派遣元の方ですね。
要は大きい会社の派遣元の営業マンの方が、2、3週間に1回ぐらい工場に来まして、
何やら工場の向こうのほうで工場長とお話しをとかをしてるんですね。
庄子潔の成長の過程
おそらく営業の話だと思うんですけども、それ終わるとスタスタスタって帰って行かれるんですけども、いつも。
ただ一方、僕の派遣元の方はですね、同じように2、3週間に1回ぐらいいらっしゃって、
工場長と営業の話をしてるんですけども、必ず終わった後に向こうのほうで、
おい、昌司君って呼んでくれるんですね。
僕がスタスタスタって行くと、最近頑張ってるんだってとか、
あとは最近フォークリフトの免許取ったんだってとか、
そういうようなやりとりとかをさせてもらいながら、
フォークリフトの免許取ったんで時給を上げてくださいとか、そういうやりとりをする中で、
いわゆる僕の中で、社会というか世の中の大人というか、
ヒップホップでどっちかというとそういうような、
ところの様子もあったりとかするんで、
ただそういった、いわゆる大人とか抗っていたような人たちに対して、
初めて自分が認められたみたいな感覚になりまして、
それで、自分も今度は逆側の人、当時その方佐藤さんと一緒だったんですけども、
佐藤さんみたくなりたいと、佐藤さんみたくなって、
僕みたいな人たちを、こういう僕と同じような経験、体験とかをさせていただけたら、
すごい自分のやりがいを持てるんじゃないかなということを感じまして、
そこで派遣社員、あえて派遣会社の社員として勤務したいという希望が出てきまして、
そこから音楽のベクトルがそっちに変わりまして、
それでその佐藤さんに、佐藤さんのところの会社、
社員として僕を雇ってくださいって話をしたんですけども、
なかなかそこの会社なんて実は一人親方で、
社長が一人での会社だったんで、ごめん正直雇える体力がないみたいな感じのことがありまして、
そしたら僕の方では、派遣会社だったら正直どこでもいいやっても、
派遣会社じゃなきゃダメだっていうのがあったんで、
あらゆる仙台にある派遣会社に応募をしまくったんですね。
ただ先ほど説明した通り、僕の履歴書って実は仙台高校卒業、
アメリカ短大中退、今度職歴に工場、パイプを作ってたんですけどね、
パイプの工場で2年くらいですかね、2年の職歴があって、
免許のところには車の免許とコークリフトの免許、
これでじゃあ取ってくれますかっていう話で、
実は結果としては取ってくれたんですけども、
なんで僕のこと、まずこれは前職なんですよね、取ってくれたかっていうと、
これも自分の中の人生を振り返った時に大きな影響を受けて、
自分の中の人生を振り返った時に大きな1日というか、
あの日に繋がるんですけども、無事書類成功は奇跡的に進みまして、
最終面接の時に、僕言ったことも今でも覚えてるんですけども、
当時まだ22歳くらいなんですけども、おそらく面接に来られてる方っていうのは、
自分よりも経験もあるかもしれませんし、派遣会社の経験もあるかもしれませんし、
社会人の経験もあるような感じの方がほとんどだと思います。
自分は社会人の経験はありますけども、いわゆるサラリーマンというか、
そういった社会人の経験はないんですけども、派遣会社で働く意義は、
さっき話した話なんですけども、それを意義は誰よりも負けません。
なんで僕はそういった意味だと、必ずこの会社で自分のやりたいこととか、
派遣スタッフとしての気持ちも分かりますし、意義もしっかり感じてるんで、
お願いしますみたいな感じのことを話したんですね。
それを当時の上司が分かったということで、無事採用につながったという形ですね。
経営ノートと社長インタビュー
本日も社長に聞くインウィズビドをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければと思っております。
本日の社長に聞くインウィズビはここまで。また来週。