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2021-01-11 18:30

「千利休と天下人たち」第6話 豊臣秀吉

茶道の祖として名高い千利休。一方で天下人との関わりの中で戦国の世に絶大な影響力をもった利休の生涯を描いたボイスドラマ。
明智光秀による謀反「本能寺の変」の裏側には、茶会を開く権力、堺衆、そして三好の力が陰でうごめき、信長は志半ばで夢潰えることに。その後を継いだ羽柴秀吉と利休はどのような関係になっていくのか。


セリフ書き起こしはこちら:https://note.com/pitpa/n/n2b58c99fcfa4 

●作・演出:岡田寧
●出演:
 千利休⇒西東雅敏
 茶屋四郎次郎⇒濱嵜凌
 徳川家康⇒梅崎信一
 羽柴秀吉⇒小磯勝弥
 ナレーション⇒大川原咲
●選曲・効果:ショウ迫
●音楽協力:H/MIX GALLERY・甘茶
●スタジオ協力:スタッフ・アネックス
●プロデューサー:富山真明
●制作:株式会社PitPa

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千利休と天下人たち 第6話 豊臣秀吉
天正十年 1582年6月2日早朝
本能寺は焼け落ちました。
織田信長の遺体は、明智光秀らがいくら探しても見つけられなかったそうです。
跡形もなく燃えてしまったのでしょうか。
千利休がこの前日、茎を招いた茶会の茶道を務めたという記録は残っていません。
社会で天能寺や宗牛と一緒に家康をもてなしていたとも諸説ありますが、
ここでは京都にいたという説で話を進めていきたいと思います。
利休は本能寺周辺を悄然とさまよっていました。
本能寺は、まだ明智軍が取り囲み、近寄ることができません。
上様、信長様。
その時、馬上から呼び止める声がしました。
宗駅様、宗駅様ではございませんか。
な、何奴じゃ。
読みそれか。茶屋四郎二郎に御座いまする。
おお、これは茶屋様か。
茶屋四郎二郎は京都の裕福な御副将で、
この後、徳川家康の聖将としての仕上がった人物です。
利休とは茶会で何度か顔を合わせていたかもしれません。
上様が、信長様が。
信長様は討ち死にされたとのこと、御無念に御座いまする。
なんと。
ああ。
拙者、これより堺まで馬走らせ、この休をお知らせ申す。
堺へ。
宗駅様、ここは危なうございます。
明智の者に見つかれば、命さえ取られるやもしれませんぬ。
どうぞ、この馬に。
茶屋四郎二郎は、配下の者の馬に利休を載せると、
明智勢の囲みをすり抜け、一目散に京都を後にしました。
それ、それ、それ。
茶屋四郎二郎は、南へと早駆けにかけて、
昼前には河内の国の居森山付近に差し掛かりました。
あの三好永吉の居城であった居森山城のある場所です。
家康はここで茶屋四郎二郎と出くわし、
本能寺の変を知らされたことになっている。
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これをただの偶然と捉えればそれだけですが、
家康が坂井衆や三好家と共にことの成り行きを見守っており、
場合によっては二次的なリアクションを取る構えを見せていた、
とも考えられなくはありません。
居森山は大和川水系の水路と、
京や大和へ抜ける街道が交わる交通の要です。
京都に駆けつけるにも伊勢方面に逃げるにしても、
絶好のポジションなのです。
ちなみにこの時、居森山のある河内の国国首には、
あの三好将冠康永が復見していました。
家康様、明智光秀無本にございます。
白二郎、大義である。
おお、これは総益ではないか。
馬から降り立つ李宮に家康が声をかけました。
家康様、無念でございます。
それで上様は、信長様はいかがした。
李宮は首を振りました。
そうか。
この時、家康は京都知恩院まで行って、
腹を切り信長に順次ようとしたと伝わっています。
しかし家来の本田忠勝に、
仇討ちすることこそ忠義と諭され、
京には向かわず大和へ抜けて、
南所である伊賀越を観光したのです。
もちろん同行する家臣の手前、
逃げるという選択の前に、
自ら藩を示す必要があったのでしょうが、
家康が極めて忠義の武将であったことを示すエピソードです。
家康様、おやめください。
どけ、李宮。死んで上様にお詫びするのじゃ。
家康様は信長様の死を無駄になさろうつもりか。
何?
信長様は戦乱を沈め、
天下太平のよう実現されるために命を尽くされたのです。
このまま無本人、明智光秀の天下となって、
果たしてそれが実現されましょうや。
親が子を喰らい、
子が親を襲う畜生の世に逆戻りではございませんか。
おのれ、生意気な。
禅熊、これでいいか。
日が大阪湾を銀色に輝かせています。
今から十四年前、
私は信長様とここで初めてお会いいたしました。
我が友、三好長吉様の御霊を慰めんと思い、
登山すると、
偶然にも、信長様も、
長吉様を忍ばれていらしたのです。
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その時信長様は、
天下を治めると、
まさにここで、
長吉様に誓われたので。
はい、わかった。
宗益、
そなたの申す通りじゃ。
皆の者、
無本人明智光秀に天下を取らせるのは無門の恥ぞ。
見事お父上の仇を打ち、
天下をまとめられた三好長吉公に我らもならわん。
長吉公は、
一旦は阿波の国に惹かれたと聞く。
我らもここは何としても生き抜いて、
信長様の御無念をお晴らし申すぞ。
家康は大和から伊賀を越えて伊勢へ抜け、
そこから海路で三河に戻りました。
神宮伊賀越と呼ばれています。
六月五日、
明智光秀は、
厚地城に入り銀を持ち出すと、
九日に再び京都に入り、
区下や町衆の出迎えを受け、
戦勝パレードをしています。
そしてその後、
光秀は、
朝廷、
京都御山、
大徳寺と、
吉田金見に銀を献上しています。
朝廷の区下たちと、
御山の僧侶たちは、
ついたちの茶会に来賓していたと思われます。
また、
大徳寺は大規模な茶会を開く手助けをしたのでしょうか。
この日の茶道に、
僧宮や僧牛ら、
堺衆の名前がないところを見ると、
大徳寺の衆都が、
茶事を進行していたとも考えられます。
そして吉田金見に直使として、
朝廷と明智を結んでいました。
どうやら役者は揃っていたようです。
しかし、
明智光秀は天下人とはなれませんでした。
柱秀吉が異常な速さで中国から戻ってきたのです。
6月4日に、
日中の国高松の
毛利寺本と和儀を結んだ秀吉は、
2万以上の兵を率れ、
即座に反転。
6月13日までのわずか10日間で、
実に230キロ以上を攻軍して、
京都山城の国山崎まで戻ってきたのでした。
世に言う中国大返しです。
天章10年、
6月13日、
明智光秀軍1万5千と
橋場秀吉軍2万が山崎で激突しました。
天皇山の戦いです。
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結果は秀吉の大勝利でした。
明智光秀は敗走中、
落武者狩りの土民に殺されたと言われています。
秀吉は戦勝後も山崎に留まり、
京都に睨みを聞かせながら、
天下を伺っていました。
その間の慰みと、
サロン活動の場とするために、
李旧を呼んで茶室を作らせました。
確かな李旧作の茶室として唯一現存する、
大安です。
その屋根は、
桐妻作りこけら吹きで、
地下窓があります。
二畳だけの内部は、
角に廊を切り、
室床という床の間を持ち、
いわゆる、
隙屋作りの原点と言われています。
あれは、
信長様御上楽のおり、
河内の国の飯森山城でございました。
あの時のことを、
わしはよう思い出す。
飯森山から見た、
大坂、堺、
海をはさんで淡路まで、
美しかったの。
本当に。
あんな上機嫌で嬉しそうな上様は、
めったににゃ。
信長様、
もう一度お会いしてよ。
はい。
実はな、宗益。
わしは天下が落ち着いたら、
大坂石山本願寺の跡地に、
でっけえ城を築き、
日の下の鏡にしようと思うとののや。
わしは、大坂から天下をはさんで、
わしは、大坂から天下をつかさどる。
秀吉様ならばあるいは、
いえ、必ずできますでしょう。
そして、
帝をお茶にお招きしたいのじゃ。
いや、もちろん、
わしが宮中に出向いてもよい。
それは恐れ大きこと。
百姓の稼がりには無理だと思うすか。
聞こえよ。
ああ、
いや、
おお、かしこまるな、宗益。
どいつもこいつもかしこまるが、
腹ん中はわかったもんじゃやにゃ。
お宮にまでかしこまられたら、
わしは己を見失う。
そう思って、
この大案をつくってもろうたげん。
清洲での会議で、
わしは織田家の正当な後継者とはなったが、
まだまだ安心できん。
近いところでは、
伊勢やら越前、
そのうち九州も落ち着かせにゃならん。
12:03
しかし、
武士同士の争いの間に、
曲家に足を引っ張られるのも不安なことじゃ。
そこでじゃ、
なるだけ早いうちに、
味方とお会いしたいのじゃ。
これは弱りましたな。
そうか、
やっぱりな。
秀吉様、
そうではございません。
秀吉様は武家の当領である、
信長様の後継者。
帝にお会いする資格に不足はございません。
ですが難題は、
和尾茶そのものでございます。
どういうことだ?
そもそも和尾茶は、
和尾錆の心をたっとぶことはご存知のとおり、
古びた道具にも、
味わいや美しさを見出す境地にございます。
さよう、
それは知っておる。
しかるに、
味方は神でおあします。
神道では、
常若といい、
神は新しきに宿ると申します。
すなわち、
和尾や錆をけがれとして嫌うものではないかと、
推察いたします。
なんと。
離宮は後に、
離宮好みと呼ばれる、
和尾茶の古びた道具や、
茶室の和尾しいたたずまいそのものが、
神道において、
晴れではなく、
華に分類されるのではないかと危惧しているのでした。
もっと言えば、
和尾茶は茎のクラシックに対する、
武家や商人のロックだったのです。
しかし、
もし一度でも味方から、
華として拒否されたなら、
和尾茶そのものの崩壊を招きかねません。
はい、わかった。
だが曹易、
この難題、
そなたの知恵で解決せよ。
できなければ、
今後茶会を開くことは、
まかにならん。
途方に暮れて、
大徳寺にある、
三好長吉と織田信長の墓を参った離宮は、
その帰り道、
隣の南蛮寺から流れてくる、
丹美歌に耳を傾けました。
離宮はキリシタンではありませんでしたが、
弟子の多くがキリシタンでした。
また、三好長吉の家臣にも、
多くのキリシタンがいたと言われています。
織田信長もキリシタンには寛容で、
橋場秀吉も、
1587年に、
バテレン追放令を出すまでは、
柔軟な対応を見せていました。
これが黄金の国ジパングじゃ。
バテレンは日の下のことをそう呼ぶらしい。
15:02
黄金の国ジパング。
天皇山の戦いの後、
厚地城天守閣は火災に遭い、
消失してしまいました。
離宮は、
あの黄金の魔を再現できないだろうかと考えていました。
それは涅槃であり、
桃源郷であり、
キリシタンが説くところの天国です。
信長が望んだ世界でした。
天国、
常赤、
黄金の国ジパング、
そうだ、
これだ!
天守十三年、
1585年10月、
秀吉は、
漢白就任を記念して、
金中茶会を開き、
扇町天皇にお茶を献じました。
このとき離宮は、
天皇より、
正式な小字号として、
離宮を賜り、
秀吉の補佐を務めました。
そして、
離宮はこのとき、
道具はすべて新調したものを使い、
晴れを演出しました。
さらにその三ヶ月後、
天守十四年の正月に、
再び金中茶会を開き、
今度は金利に、
組立式の黄金の茶室を持ち込んだのです。
それは、
和美茶に常赤紫蘇を持ち込んだ画期的なものであり、
黄金の安土桃山文化の唇を切るものでした。
この黄金の茶室に関して、
離宮の製作であることを裏付ける確証はありません。
丹なる秀吉の金ピカ好みとやよする説もありますが、
この時代の日本を表すのにぴったりの色だと感じます。
まさに、
黄金の国ジパングです。
しかし、
この秀吉と離宮の密月に、
陰を刺す事態が起きました。
天正十四年、
1586年、
豊臣秀吉は、
石田光成を堺の大官に任命し、
堀を埋め始めたのです。
作・演出
岡田康史
出演
千利休、
斉藤雅俊
茶屋志郎二郎、
浜崎忍
徳川家康、
梅崎新一
豊臣秀吉、
小磯勝也
織田信長、
忠津勇輝
ナレーション
18:00
大河原咲
編曲
高架
昭咲子
音楽協力
エイチミックスギャラリー
アマチャ
スタジオ協力
スタッフアネックス
プロデューサー
富山正明
制作
株式会社
ピトパ
18:30

コメント

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