毎週主事デハイでは、待降節の福音というテーマで、
イエス様がなぜ来られたのか、イエス様が来られた理由を、私たちが少し学んでいるところであります。
今日は、イエス様が来られた理由を、地獄から天国に導くために来られたという対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
待降節の時期、イエス様が来られたことを記念する時期ですけど、なぜ来られたのか。
今日は、全人類を地獄から天国へと救うために来られたということを申し上げます。
私たちの人生に、絶対忘れてはいけない聖書の見事場があります。
これ、ヘブライ賞9章27節です。
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっているということです。
人間はただ一度死にます。この後、何もないことではありません。
この後、必ず裁きがあることを定まっているということです。
ですから、私たちは人生を全てを行う時に、神様の裁きを受ける覚悟で、私たちは毎日毎日の生活を過ごさなければなりません。
ところが、人間は、みんな地獄に行くしかありません。
なぜなら、人類の先祖であるアダムとエバが、神様が禁じられた全悪の知識の木の実を食べて、罪を犯したからです。
これを原罪と言います。
人間はすべて原罪のもとで生まれ、人間には原罪が流れることによって、原罪のもとにある人間は罪。
その罪によって死ぬこと、その後、罪によって地獄に行くこと、これは避けることができない、これは仕方がない方法です。
なぜなら、罪人は自ら自分自身を救うことができないからです。
人間の罪の罰として、創世紀3章16節から19節まで、神様が女性には子供を産む腹身の苦しみを与えたと言います。
その前はどうだったのか分かりません。
とにかく子を産む苦しみ、男性には生涯食べ物を得るために苦しむと言いました。
その生涯苦しみをずっと経って、最後に地理に過ぎないお前は地理に帰れと言います。
地理に過ぎない人間、地理に帰る、これが死ぬことなんですけど、この死んだ後には、人間には地獄という結果が待っています。
では皆さん、地獄はどんなところですか。
まだ地獄には誰が入るようになりますか。
もともと地獄は、マタイ25章41節を見ていますと、神様を敵対した、創造秩序を破壊した悪魔と悪魔に従った家来たちが入るために備えられたところでした。
また、牧師録に現れる獣、また偽りの預言者たちがそこに入ります。
その悪魔を罰除するために作られたものですから、ものすごい怖いところです。
ところがそこに悪魔の誘惑によって騙されて罪を犯した人間も、また福音を断った人間も入るようになっているということは怖いです。
聖書は地獄を永遠な火の池、また外の暗いところ、また永遠な罰、永遠な滅亡、火と硫黄が燃える池と、
書かれてあります。
また、マルコ9章48節からは、地獄では渦が尽きることも火が消えることもなく、火とは見な火で塩味をつけられるものだ、ところだと言います。
このような地獄に、罪の結果によって人間が行くしかないということです。
ところが、地獄に対して、聖書で誰が一番たくさん語られたのか、皆さんご存知ですか。
旧約聖書では、呼ぶ気に地獄という言葉が出てきます。
また、支援にも地獄が出てきます。
神言、またイザヤ、エジケール書、そこに少し少し地獄という言葉が出てきますけど、一番たくさん出てくるところは福音書です。
また、人たちの召喚にも地獄の言葉が出て、最後の黙示録のところに地獄がもっと明らかに発見されます。
地獄に対するメッセージは、イエス様が一番たくさん語られたんです。
なぜイエス様はそれを語られたのか、イエス様が、全ての人が地獄に行くしかないこの状況の中で、
人々は地獄から天国に導くために来られたからです。
私たちはこれからわからないことが、将来のことです。
将来のことについて聖書は明らかに表しています。
第二次ペテロ三章六節からです。
当時の世界は、その水によって洪水で押し流されて滅ぼされました。
ノアの時代、全世界は洪水によって裁かれました。
しかし今、地と天と地は、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取り上げられ、
不信心な人たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれたと言います。
だから、昔は水で滅ぼされたんですけど、今は火で滅ぼされるために、
この地球全てのものが、今そのまま置いてあったということです。
そうしながら、聖書は、主のもとでは一日は千年のように、千年は一日のようで、
だから裁きのところが来る、裁きが来る、裁きが来ると言いますけど、
みんなが早く来ないから、裁きが来ないんじゃないかと思います。
しかし、裁きが来ないんじゃなくて、一人も滅びないで、みんな救われて天国に行けるように、
神様が悔いを改めることを待っている。
どのくらい待っているか、一千年を一日のように待っている。
神様には一千年が一日のように、神様が待っておられる。
ですから、あなたたちは全て滅び去ることですから、
あなた方は、正義なる、信心深い生活を送らなければいけないと言います。
最後の時が来たら、火で滅ぼされることが分かりました。
その時、住みびてあるというある人間は、地獄に行くようになるんですけど、
神様がそれをあらかじめ、早めに悟って、悔いを改めることを待っておられる。
皆さん、人間は、罪を犯したから地獄に行くんじゃなくて、
罪を悔い改めないから地獄に行きます。
悔い改めない罪が、私たちは引っ張って地獄に連れて行くんです。
ですから、罪を犯すことは仕方がないんですけど、
悔い改めない罪が、私を地獄に連れて行くんだと思って、
私たちは悔い改めに力を入れなければなりません。
では、悔い改めはどうするんですか。
イエス様が、十字架で、私たちは罪の身代わりとして、全ての罰を受けられた。
だから、私たちはイエス様の功労を信じて、私たちは救われるんだということを信じること。
そのイエス様の前で、私たちの自分の罪を全部告白することです。
大智和音1章9節。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
罪を許し、あらゆる不義から私たちを清めて下さろうと言います。
聖書の中で一番素晴らしい単語は、私たちが罪を犯すしかありませんけど、
この罪を悔い改めることができる人は、幸いな人だと言います。
神様は、神の見姿で作られた人間が、地獄に行くことを絶対願っておりません。
神の見姿である人間は、全てを救いたいです。
ですから、ひとり子まで犠牲されて、十字架で私たちの贖いとして、
この死を担ってくださったんです。
その理由は、ヘブライシア9章22節。
地の流しがなければ、罪の許しがない。
誰かが私たちの罪のために、地を流さなければいけないということです。
そのことを、イエス様は担ってくださいました。
世の中で誰も、私たちのために地を流して、代わりに身代わりとして死んでくださった方はいません。
イエス様しかいません。
ですから、このイエス・キリストを通して、神様は、
罪と死、地獄から私たちを救い、永遠の命と天国を受ける道を備えておいて、
私たちに悔いを得るため、福音を信じなさい、信じなさいと言われています。
皆さん、救いということは、地獄に行くべき人を天国に生かしてあげることです。
そのために、この世の100年が用意されています。
なぜ?皆さん考えてみてください。
世の中のすべての人は、どこから来たかわからないんですけど、
この世で100年過ごして、どこかわからないところに行ってしまいます。
この100年の期間、これは何のために与えられたと思いますか?
私たちはこの世で生まれたから仕方がなく、
食べて生きるために精一杯お金を稼ぐために頑張るんですけど、
そのためにいろいろ工夫したり、いろいろ準備したり、精一杯頑張りますけど、
私たちはこの世で頑張って得た富、またいろいろなものは、
一つでも天国に持って行くことはできません。
この世で頑張って成し遂げたすべてのものは、
事実、天国に行くこと、そのところには何の役にも立ちません。
この世で得たものは、この世の中の生活を少し楽にしてあげる手段にすぎません。
大事なのは、この後の永遠の世界ですけど、
私たちが天国に行くことができなければ、
この世の中でいくら頑張っても、いくら成功しても、その人の人生は失敗です。
反面、この世の中でいくら貧しくても、いくら苦しくても、
天国に行くことさえできれば、その人の人生は成功です。
なぜなら、この世は百年、天国地獄は永遠だからです。
ですから、この世の中で天国のために準備することよりもっと大事なことはありません。
そのために私たちは信仰生活しています。
信仰生活の目的は救いです。
救いが得られない信仰生活は何の役にも立ちません。
救いを得るために、私たちは何か感じて悟って、
この信仰を持って神様に求めながら天国に行くことですけど、
そのために旧聖君の創始者ウィリアム・ブースは、
旧聖君新学校の卒業式で、新学生たちにこう言ったそうです。
あなたたちは4年間学校で熱心に勉強したと言うんですけど、
私はそれより、あなたたちが地獄を10分でも1分でも地獄を経験することを、
それを私はもっともっと望んでいるということです。
あなたたちは地獄を体験したとするなら、人生の目的はただ一つになります。
それは地獄に行かないこと。
人生の伝える、新学生たちがこれから伝えるメッセージは、
絶対地獄に行ってはいけませんということをあなたたちは伝えるだろう。
そのために私たちに一番大事なのは、イエス・キリストしかいない。
イエス様を信じて、イエス様を従って、イエス様の中に留まる。
そのように伝えるだろうと言われたことがあります。
皆さん、神様の見姿で作られた人間。
神様の見姿で、神様は不滅の方です。
ですから、私たち人間も不滅です。
私たちは絶対死ぬんですけど、それは体的に何か変わることがありますけど、
私たちは霊魂はもう滅ぼされることはありません。
天国は地獄で永遠に生きます。
ただ、それが永遠な命なのか、永遠な罰なのか、これなんです。
永遠に生きる世界のために準備すること、これは一番大事です。
しかし、人間は永遠に生きる世界をわからないから、
この100年のためにどうすればもっとうまく食べるか、どうすればうまく生きるか、
そこをたけに気をつけて、ここでうまくお金を稼ぐために、
罪を犯すことをもう怖がらないで、とにかく豊かになろうと頑張ります。
罪のゆえに地獄に行くんですけど、罪を犯すことを怖がらないで、
富を得ようと頑張る人間のこの愚かさ、どうすればいいでしょうか。
以前、私は新学校で日本の方に福音を伝えるとき、ある話に話を聞きました。
キリスト教の聖書に比べたら、私たちの父母は地獄に行っているのは仕方がないので、
父母が地獄で苦しんでいるのに、私だけあなたの話を聞いて天国に行くんだとするなら、
私は親孝行するべきなのに、それはどれほど間違いなのかという話を聞きました。
ところが皆さん、もし親が地獄に行っているとしても、その親が子供のために何を願っているでしょう。
これをルッカの16章、金持ちとラジャロのたとえで教えてくださいます。
そこで現れるラジャロ金持ちは、神様はその金持ちの名前を覚えていない。
この世の中にいるときに、たくさんの財産を持って贅沢な生活をしました。
しかし死んでみれば、よみ地獄に行っているんです。
しかし、そのとき生きていたときに物語りだったラジャロは、
アブラムの懐で楽園で天国でいることを見ます。
金持ちの人は地獄で苦しんでいるんですけど、彼がこう言います。
ルッカの16章、24節。
そこで大声で言った。
父アブラムよ、私を憐れんでください。
ラジャロをよこして、指さきて、水をひたし、私の舌を冷やさせてください。
私は炎の中でもだい苦しんでいますと言います。
それができないと言うから、金持ちがこう言います。
父よ、ではお願いします。
私の親の家にはラジャロをつかしてください。
私には兄弟5人がいます。
あの人たちまでこの苦しむところに来ないように、
よく言い聞かせてくださいと言います。
地獄に行っている人の願いはただ一つです。
地上にいる家族までこの苦しむ地獄に来ないように、
誰かが言って、この地獄というものがあるんだということを
伝えてくれればいいのにということです。
地獄には絶対に愛する家族が来ないようにしてくださいということ。
これが地獄に行っているかもしれない私たちの親しい家族、
また愛する家族たちの切なる願いです。
皆さん、救いはこの世の中のすべての人に関わっている問題です。