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はい、tantotの時々読書日記第19回です。
今日はですね、谷崎潤一郎の猫と庄造と二人のおんなという、ちょっと短めの小説、こちらについて話したいと思います。
谷崎潤一郎といえば、陰影雷散だとか、ささめゆくとか、あちじんの愛とか、そういうのが有名な作品かなと思いますけど、
この猫と庄造と二人のおんなは、すごいそれと比べて非常に短い文庫で、一冊なんですけど、150ページ分ぐらいの、中編という感じですかね、という感じの作品です。
僕、谷崎は、あちじんの愛とか春勤賞とか、読んではいるんですけど、
意外とそんなにちゃんと通ってきてなくて、ただ知り合いから、意外と好きそうですよね、こういう単美派的な小説好きそうですよね、という風に言われて、
言われてみると、むしろちゃんと履修してないなと思って、少し読んでみてもいいかなという風に思っていた頃に、
たまたまこれもXか何かで見かけて、この猫と庄造と二人の女っていうのが面白いぞっていう話を見かけて、読んでみたという感じになっています。
話としては、まず庄造という人がいて、庄造はちょっとお育てのいい若旦那みたいな人で、
その庄造の前妻、しなこという妻がいて、しなこは若干性格がやや暗めな感じの人で、
今は離縁されているという、別の所に住んでいるんですけど、住んでいて、今の妻の福子っていうのがいて、福子はわりと明るくて明らかんとした感じの人で、
ただ庄造、福子のことが好きになっちゃってというか、気に入っちゃって、しなこと、いろいろちょっと手をつけてしなこと離縁して、福子と一緒に住んでいるというような感じで、
ただしなこの方は不本意に捨てられた感じになっているので、何とかしてもう一回庄造の心をこっちに奪えないかみたいなことをちょっと考えていると。
その中で大事な庄造人物として猫が出てくると。これが肖像画も猫のこともとにかく可愛がっていて、若干気持ち悪いくらい可愛がっていて、猫に口移しでご飯をあげちゃうくらいの可愛がりようで目がないんですね。
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しなこはその猫ちゃんを何とかして自分のところに上手い子と猫ちゃんが来るようにして、猫を出しにして庄造にもう一度一緒に暮らそうみたいなのを迫ろうとするみたいな、そんな感じのお話で、
話の中身的には時代だなという、捨てられてしまうとか、前菜が捨てられてしまってでもそれでも何とかしてもう一回頼りを戻そうとするみたいな、そういう話は時代感があるなって感じなんですけど、
それよりも何よりも猫ちゃんに対する愛情というか、人を狂わせる、リリーっていう猫ちゃんがめちゃくちゃ人を狂わせる魔性の猫みたいな感じなんですよね。
しなこも猫のことそんなに別に好きじゃなかったんですけど、何とかちょっと裏の手を使って、死などの庄造のとこにいたはずのリリーを自分の住んでる家に連れてくることに成功した。
そして庄造を呼び寄せるために自分と一緒に暮らしてるんですけど、一緒に暮らしてるうちになんかすごい猫ちゃんのことが気になってきちゃうみたいな、めちゃくちゃ大好きになってきちゃうみたいな、そんな感じで猫に対してこんなにも人はゼロゼロになってしまうのかとか、
なんかもう骨抜きにされてしまうのかみたいな、そういう人と猫の関係性みたいなものをまざまざと管理させる、そういう意味ですごく面白い作品だなという感じです。
なので、タイトルも猫と庄造の二人の女っていうように、一番大事なのはやっぱり猫なんですよね。
それと庄造と二人の女、要は庄造と二人の女の話なんですけど、全てはリリーっていう猫ちゃんを軸にして回るし、猫ちゃんのご機嫌とか猫ちゃんの動きにみんなが左右されていたり来たりするみたいな、
そんな感じの話で、僕猫飼ったことないし、そんなにめちゃくちゃ猫好きというわけでもないんですけど、猫に狂う人の気持ちがちょっとわかるなっていう感じで、
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逆に言うと猫好きの人とか、本当に猫飼って猫大好きみたいな人が読むと、もしかしたらまたすごい共感したりするところがあったりするんじゃないかなと思うので、
そういう意味でも面白い、そういう人に読んでみて、ぜひ聞いてみたいなというふうに思っています。
これ後ろのうんこの後ろにも、愛猫が筆読の風刺激。ニャーと一声鳴くや、たちまち地帯を晒す人間の不思議。愛猫が筆読の風刺激。
愛猫が筆読の風刺激。愛猫が筆読の風刺激。
要は猫に狂う人たちをちょっと技術的に描いている。
でもやっぱりその描かれ方がすごく、なんかわかるよねっていう感じもするっていう、いい感じですね。
あとは、谷崎純一郎の本を久しぶりに読んで思ったのは、関西、ここ舞台が関西、大阪、大阪かな、なんですけど、やっぱり谷崎さんの描く関西弁の会話というか、関西弁が何とも響きが素晴らしいなというふうに。
関西弁の会話の流れとか、流れるようなやりとりみたいなものが、やっぱり読んでいてリアリティをすごく感じるし、その時の人たちの関係性が浮かび上がってくるみたいな、関西弁の会話を読んでいるだけでやっぱり気持ちいいみたいなのはあるなと思うので。
そうですね、そういうところもやっぱり谷崎文のことによくなるんじゃないかと改めて思った次第です。
そんな感じかな。
どっかを読んでみましょうか。
後ろの方がいいかな。
ちょうどこのデロデロした感じが。
あれですかね。
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あの貴重面で鑑賞なシナ子のやり方が、ほんの些細な端々にもよく現れているように感じた。
彼女は自分で食い口を固いでいるので、決して楽ではないであろうに、貧しい中でもリリーに需要分を与えると見える。
いや、そういえば彼女が自分で敷いている座布団に比べてリリーの座布団の綿の厚いことはどうだ。
一体彼女は何と思ってあんなに憎んでいた猫を大事にする気になったんだろう。
考えてみると肖像は、いわば自分の心が、心柄から前の女房を追い出してしまい、この猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、
今朝は自分が我が家の敷居をまたぐことができないで、ついにフラフラとここへやってきたのであるが、
このゴロゴロ湯音を聞きながら、むせるような粉紙の匂いを嗅いでいると、
なんとなく胸がいっぱいになって、シナ子もリリーもかわいそうには違いないけれども、
誰でもましてかわいそうなのは自分ではないか、自分こそ本当の世の主ではないかと、
そう思われてくるのであった。
こんな感じで肖像はリリーを撫でながら自分のことを、
肖像がしょうもないのは最後自分がかわいいとか自分がかわいそうみたいになる、
このへろへろした、フラフラしたその感じのしょうもなさみたいのも面白いなと思いました。
そんなわけで、今日は谷崎純一郎の猫と肖像と二人ともすごく短くて読みやすいので、
谷崎文学をちょっと味わってみようかなという入り口には、結構意外といいんじゃないかなというふうに思いました。
ちょっとこの後、できればささめゆきとか読みたいなと思っております。
では今日はこんな感じでありがとうございました。