ニーバーの祈りの紹介
わたなべ夫婦のふたりごと。
みなさんこんにちは、わたなべ大輝です。
このチャンネルでは、自分を満たして自分らしく生きるをテーマに、心が安らぐメッセージをゆるりとお届けしています。
今日もいただいたご相談、人生相談にお答えしていきたいと思います。
ぜひ最後までお聞きください。
レターに行く前に、先日のニーバーの祈りというワードが出てきました。
これが第619回の放送ですね。
ここで出てきたワードです。
このニーバーの祈りというワードに対して、結構反響がありまして、
レターで意見というか、感想を教えていただいた方であったり、コメントをいただいた方がいらっしゃって、
何か、何だろうな、そんな刺さるんやと思って。
確かに僕もいい言葉だなと思って紹介したんですけど、
みんなにも伝わるというか、響く。
何か普遍的な魅力というか、そういうものがこの言葉にあるのかなと改めて感じました。
この言葉、祈りが、僕自身どこで出会ったかなと思ってたんですけど、
いろんな場所で聞いたことがあるんですが、
一つは、嫌われる勇気でした。
ちょっとパラパラって、ここやったかなと思って見返してみたら、やっぱりありましたね。
これがアドラ心理学を解説したビジネス本。
ベストセラーの本なので、表紙とか見たことあるよ、読んだことあるよという人も多いと思うんですけど、
嫌われる勇気。
この中に、自己需要というテーマがありまして、
自己需要というのは、自己というのは自己紹介の自己ですよね。自分という意味。
需要というのは受け入れると書いて需要。
自己需要ですと。これが大事。
という中で、このニーバーの祈りというのが出てきます。
改めて、この祈りの言葉って何なのかというと、
この本の訳の通りに読みますね。
神よ、願わくは私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、
変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵を授けたまえ。
はい、という言葉ですね。
つまり、変えられないもの、この私というのは変えられないですよね。
私の体は死ぬまで一緒やし、私の心というのもある意味変えられないですよね。
心を交換するなんてできないですよね。
自分の心は自分のもの。自分の考えも自分のもの。自分の体も自分のもの。
そんなありのままの自分を受け入れるということ。
そして、変えられるものというのもありますよね。
その変えられるものについては、もし変えたいのであれば、
その方が自分が生きやすいなとか、ありたい自分に近づくなということであれば、それを変えていく。
変えるということは、勇気が必要だったりもするんですよね。
なかなか変わろうと思っても変わらない。
怖いとか不安とかいろんな思いがありますけど、それを変えていくことが時には大事だったりする。
そんな勇気を与えてくれと。
そして、変えられるものと変えられないもの、この違いを見分けないと、
変えられるものなのに変わらないことを選択することであったり、
変えられないこと、本来は変えられないこと、そこにこだわっても仕方がないことなのに、
変えよう変えようとエネルギーを使ってしまうと、疲弊しますよね。
そんな違いを見分ける、知恵を授けた場合。
そんな言葉が書かれています。
変化の勇気と受容
そんなにニーバーの祈りに対してちょっとレターいただいたのでご紹介します。
メンバーのえりこさん、こりえさん、どちらでお呼びしたらいいかな。
12月の自分デザインという僕らのイベントにお越しいただいた方なんですよね。
その方からこのニーバーの祈りを受けてメッセージいただいてますのでご紹介します。
今回の放送で出てきたニーバーの祈り、知ってるよという人に家族以外で初めて出会い、
嬉しくご縁というか直感というかそんなようなものを感じました。
それで思わずレターを送った次第です。
初めて家族とこの祈りについて話したのが確か3,4年前で、
父が糖病中だったか亡くなった直後だったかそんな時でした。
それから目にする機会もなく思い出すこともなかったのですが、
ひしくも大輝さんが私の潜在意識をちょっとかすってくださったようです。
この祈りは私自身の今の状況に対するメッセージでもあるような気がしていて、
ちゃんと必要な時に思い出せるんだなと人生の面白さを感じました。
きっかけをくださりありがとうございました。
自己満足な話をつらつらと書いてしまいすみません。
これからもラジオ楽しみにしています。ありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
えりこさんはイベントに参加した時から結構潜在意識とか直感みたいなものを大事にされていた印象で、
そんなこともお話しいただいてたかなって思うんですけども、
僕らが何か繋がったんでしょうね、きっとね。
ニーバーの祈りを介して。
そう何かね世の中いろんな情報があふれてると思うし、
いろんな人といろんな話したり見たり聞いたりすることあると思うんですけど、
なんかこうピンとくるとかね直感、なんか大事な気がするとか、
昔そうやこんなあったけどたまたま思い出したとかね、
そういう直感的なものはね大事にしてもいいかなって思います。
何かのメッセージ、必要やから思い出したり必要やからキャッチした情報の可能性があるんでね、
それは潜在意識的にキャッチ、無意識ですよね。
理屈わからんけど、そういう時って大体理屈わかんないんですよ。
いろいろAだからBで、BだからCでって考えて組み立てて出た結論というより、
パーンって出てきたやつとかあるじゃないですか。
なんでやりたいかって言われてもちょっと説明できんけどなんかやりたいとかね。
そういう直感的なメッセージは一旦ね、その通りやるかどうか去っておき、
何かしたいとか出てきたら大事にしてみるとか、一旦受け止めてみる。
そんな姿勢も大事にしてみてほしいなと思います。
で、この2番の祈りなんですけど、
まあ良いこと言ってそうじゃないですか、そうじゃないですかってのは押し付けかもしれないですけど、
変えられないものを受け入れる、変えられるものを変える、
そしてその2つを見分けると、見極める。
なんか正論というか、そりゃそうやろうみたいな感じですよね。
変えられないものを頑張って変えましょう。
まあそういう教えもあるんかな、そういう教えもあるかもしれないですけど、
まあなんかこう普遍的な心理というか、そんな雰囲気を僕は感じるんですけど、
だから良いこと言ってんなという気はします。
ただ、これをじゃあできてる人ってどんだけいんのって言われると、
まあいないと思います。
いないっていうのはちょっと誇張なんですけど、
できてる、できてないっていう、なんかできてるかできてないかじゃなくて、
きりないというか、これを高いレベルで実践している人もいるとは思うんですけど、
やっぱりいつでもできてるかっていうとそんなことはなくて、
やっぱ人間なんでもちろん悩むこともあるし、
変えられないことやのに受け入れられないって何とかしたいって思っちゃうことももちろんあるし、
ほんまは勇気を出して変えたらいいのになかなか変えられない、
そんな自分がいるときもある。
で、もう変えれるもんなんか変えられないもんなんかもうようわからん、
もう悩みごといっぱいですって、
もうとにかく悩んでますみたいなときもきっとあるでしょう。
そして変えられないものを受け入れるというのも、
受け入れられるものもあればなかなか受け入れられない、
それこそ無意識の抵抗があって、
言葉と行動が一致しなくて、
なんでいつもこうなんやろうってなっちゃうこともあるし、
変えられるものを変えようとしたときに、
じゃあ勇気出そうってね、
じゃあ勇気出します、はいできましたって、
スッといかないこともありますよ。
そして変えられるものと変えられないものを見分けるのって結構難しかったりもする。
人間の悩み
なんかね、冷静なときはね、
いけたりとか他人のことやったらよくわかったりするんですよ。
いや、あんたそんなことで悩んでもしゃーないでとか言うじゃないですか。
関西弁なんですけど、
人の相談とか受けたときに、
あーもうそんなんすぐ転職しーとかね、
もうそんな彼氏すぐ別れーとか言ってね、
変わりなさいっていうことをすぐアドバイスしたりとか、
なんで別れへんのーみたいなね、
あったりするじゃないですかそういう人って、
もう早く転職したいのにいつまでグダグダぐち言ってんのあんたーみたいな、
私やったらすぐ転職するわーとかね、
人のことやったら言えるんですよ。
でもなかなか当事者になったときに、
変わるっていうのは難しかったりするし、
逆に変えられないものを受け入れる。
人のことやったらそんな悩んでてもしゃーないやんて、
もうそれで与えられた環境でどうやるか、
そっちちゃうかーみたいなね、
立派な意見を人のことやったら言えるんですけど、
いざ自分が悩んでるときって、
そんな冷静になれないし、
客観的にもなれなかったりするし、
割り切ることって難しかったりもするし、
なので結構これね難しいんですよ、
この祈りに書いてる言葉ってシンプル。
シンプルがゆえに、
難しいですってわけじゃないんですけど、
難しいこともある。
できるときもあるし、難しいときもあるし、
なんか私は常にできますなんて人は、
もう人間じゃないと思うので、
やっぱ人間として、
人間社会で生きてる以上悩むこともあるし、
うまくいかないこともあるので、
できるできないっていう話じゃないし、
できてるからすごいとかね、できないからダメとかね、
そんなんでもなくて、
自己需要の理解
これつまり自己需要なんでね、さっきも言った通り。
自己需要を表した祈りではあるんですけど、
自分を受け入れるっていうのは、
つまりどんな自分も受け入れるっていうことなので、
例えば変えられないものを受け入れられないって思った自分も受け入れるっていうことなんですよ。
受け入れなきゃ、受け入れなきゃみたいな。
こんなんでいちいち文句言ってブーブー言ってたらあかんみたいな。
2番の祈りできてないって。
私できてないって。
それこそ自分に罰つけてるじゃないですか。
でもこんな祈りね、もう知らんの。
こんなもんようやらんわって思っちゃう自分もいるよねって。
そんな自分も受け入れますっていう。
それが自己需要なので、
変えるものを変える勇気与えたまえって言いながら全然勇気出へんやんけと、
もうやっぱやめとこうかなとかね、
こんな私には無理って思っちゃう自分も出てきたりするんですけど、
それもOK。
どんな自分も受け入れますっていうのが自己需要なので、
2番の祈りに気になりましたってピンときましたっていうコメントとか反応もいただいたので、
これね、ほんまにすごい大事なことやと思うんですよ。
大事がゆえに、シンプルがゆえに、大事が大事がゆえに、
なかなかできないこともあったりするし、
できてんのかできてないのかわからへん。
特に人のことやったらなんかようわかる気がするけど、
自分のことってなかなかわからないんでね。
もしなんかようわからんなってなったとしてもOKよっていうことを一応伝えたくてね、
補足でお話ししました。
もうなんか自分ではようわからんって、
ようわからんってならんでもいいんですけど、
誰かとその気持ちを話し合う、打ち明け合う。
僕らはシェアっていう言葉で使ってるんですけど、
気持ちをシェアする習慣を作ったりとか、
カウンセラーとかにご相談。
相談というか話してみる。
自分でこれはどうなんやろってやってても自分のことを自分で見るってね、
東大元クラシーみたいな感じでなかなか自分のことを見るって難しかったりするときもあるんで、
人の力を借りたりするっていうのも一つの手なんでね。
とにかく自己需要はどんな自分も評価しない、受け止めるっていうことなので、
なんかようわからんなってなったとしてもOKですというのは強調しておきたいと思います。
いろいろ反応いただいてありがとうございます。
匿名相談者の体験
じゃあ、ここからご相談に行きたいと思います。
匿名の方です。
私はいわゆる毒親な母の下育ちました。
毎日怒りのネタにできるものを探し、怒号が飛んでくる日々。
成績に3があると夜遅くまで何時間も失績されたり、
母の幼少期は兄弟と比べられ、
お前は頭も悪く性格も悪いと言われる。
学校で何をしている。
バカな友達と遊んでいるからこうなる。
家を出ろ。
寺にでも頭を下げて泊り込みで生活させてもらえと荷物をまとめられる。
まだ小一の頃。
家では心が休まらず暴力は当たり前。
お前もお前の友達もみんなクズと言われ自己肯定感は下がる一方。
死ねと言われたこともある。
早く大人になり家を出たい。
しかし私が家を出て働き出してから母は評変。
母なりに小離れができたのか別人かのように優しくなった。
私も親孝行はたくさんしました。
しかし家庭を持ち子育てをしていると過去がまた蘇るように。
義理の両親は夫のことを人前で褒めていて、
夫は母に怒られたことがないと聞いて驚き、
改めて考えても私はなぜあんな仕打ちを受けたのかわからない。
本人を私にしたことを一切覚えていません。
最近は母と距離を置きたくなります。
過去の影響と感情
いざとなると母を頼るくせにこんなことを考えるのは甘いでしょうか。
お二人はご両親に対して嫌なところ許せないところはありますか。
失礼な質問ごめんなさい。
はい、特命さんレターありがとうございます。
いわゆる毒親な母の下育ちましたということで。
特命さんの中では幼少の頃のことをいろいろはっきり覚えていらっしゃるんやなと思って、
こんなことがあったっていうエピソードをたくさん教えていただきました。
家を出ろ。まだ小一の頃か。
小一って、個人情報を言ってもいいのかな。
いいか。
うちのね、あのめいっこちゃんが小一なんですけども、
あんなめいっこちゃんの年齢でもう、
家出ろ。寺に泊まり込みで生活させてもらえ。
いやまあ、きついですね。ってちょっと僕は思いましたね。
荷物をまとめられるやから、ほんまにもう見捨てられるかもっていう恐怖があったんじゃないかなって思うんですよ。
子供ながらに。もう捨てられるって親から。
家族から追放される。家から追い出されかけてるわけですからね。
それってすごい恐怖、不安、ストレスやったんちゃうかなって思うし、
まあ常に怒られてね、バカだと言われるって。
と思いました。
本当にね、セキュララにね、教えていただき、お話していただきありがとうございます。
そんな徳明さんが家を出て働き出してから、
表現したんですね、お母さん。
小離れができたのか、別人家のように優しくなった。
つまりこれはだから、優しくなったっていうのは、
これはだから、徳明さんの受け取り方なんで、
優しいって人の評価でしかないじゃないですか。
逆に言うと毒親とか、怖いとか、
そういう表現ですら人の評価でしかないじゃないですか。
もともとというか、毒親な母で育ってきたけど、
自分が独立してから優しくなったっていう認識なので、
徳明さんからすると、母の優しさが感じられるようになったとも言えますよね。
あんな毒をやったのに、表現、別人家のように優しくなったっていう、
その優しさを感じられる、受け取れる、
そんな状態に徳明さんがなったっていうふうにもなんか思いましたね。
ただ、やっぱり思い出すこともあるし、
過去がまた蘇る。どう蘇るのかな。
私はなぜあんな仕打ちを受けたのだろうか。
本人は私にしたことを一切覚えていません。
もう一切ですか。今まで前半で述べられたエピソード全部覚えてないですかね。
毎日怒ってたよねとか、成績3あると夜中まで怒ってたよね、怒られたよねとか、
母の幼少期は兄弟と比べて頭悪い、性格悪いって言われて続けたよねって。
バカな友達とかね、言ってますよねって。
言ってますよねって言ってたよねって。
寺行けみたいなね、もう寺で修行してこいみたいな話もあったよねとか、
もう全部忘れてるんですかね。一切。
そうだよね。
まあ本当にお母さんが今何を思ってて、なんか表現?表現っていうのは、
もちろん匿名さんの受け取り方が変わったとも言えるんですけど、
お母さんが変わった部分もあるんだとは思うんですよ。
何があったかとか今どんな気持ちなのかちょっとわからないですよね。
それはもうお母さんにしかわからないことなのでね。
気にはなるんですけどね、なんか表現何かあったんかなとかね。
でね、一つお聞きしたいのが、匿名さんのレターで書いていただいて、
すごい状況はよくわかるんですよ。
こんなお母さんのことで育って、こんなことがあって、あんなことがあって、
家を出てからこんな風に変わって、
でも義理の夫は全然私と違う育てられ方をしてきたな、
そんな比較もあってか、昔のことをやっぱり思い出して、
こうです、ああですっていう状況はすごいわかるんですけど、
お気持ちがね、匿名さんがじゃあこれで何感じてんのとか、
どうしたいのっていう部分が全然書かれてないんですよ。
全くね、全くと言ったら言い過ぎなんですけど、
直接こんな私はこんな気持ちですとか、
こんなことを感じてますっていうのが全然書かれてないんですよね。
で、これさっきの自己需要っていう話と繋がるんですけど、
自己需要ってどんな自分もそのまま受け入れるっていうことなんで、
自分が何を感じてるかとかいうのを、
もし蓋してたとしたら、それは自己需要できないんですよ。
こんなことを思ってはいけないとかね、こんなことを感じてたらダメだとかね、
そういうジャッジが入ると、その部分、自分罰ってなるんで、
ありのままの自分を受け入れてるとは言えないんですよね。
なので、なのでって言うんかな、とにかく、
なんかこうもやもやしてたりストレスを感じたり、
うーんって何かしら悩みがあるからこそレター送っていただいたと思うんですけど、
それに関して自分がどう感じてるかっていう部分も、
フォーカスを当ててあげるっていうのが、受け入れるっていうことに繋がっていくんですよね。
特命さんは、
毒を親な母のもと育ちましたっていろいろエピソードもあるんですけど、
その時こんなことを感じてましたとか、
それを思い出すと私の心の中にこんな気持ちが出てきます。
死打ちっていう言葉が出てきてるんで、
私はなぜあんな死打ちを受けたのかわからないって書かれてるんで、
何かこう死打ちっていう言葉に対して、
被害、被害者の意識が感じられるし、
毒親っていう表現もされてるし、
なんかこう被害者、母から被害を受けたっていう被害者の意識も感じるし、
なんであんな死打ちを受けたのかわからないってことは、
わかりたいっていう気持ちもある。
その理不尽な死打ちを受けたことに対して、
理解したいっていう気持ち?
理解したいっていうのは納得したいっていうことなのかなって思って、
感情を見つめ直す
自分の過去に整理をつけたい、区切りをつけたい、納得したい。
納得したいっていうのは母を許したいっていうことなのかな?
自分を許したいっていうことなのかな?
あんまり僕がどうかなこうかなって言ってもあれなんですけど、
そういう何かご自身の感じてるもの、
怒ってますでもいいじゃないですか。
あんな暴言吐かれて、母のこと恨んでますでもいいと思うんですけど、
お母さんに対する気持ちも全然書かれてないし、
そのことに対する自分の気持ちも書かれてなくて、
ここはきっと何かこう蓋をしている?
わーっとレターを書かれた時に出てこないってことは、
日頃からもご自身でその思いとかは、
あまり見ないようにされてるのかなって思うんですけど、
そこも含めて受け入れてあげるっていうのが大事なのかなって思います。
それを見ようとした時にしんどい時もあると思うんですよ。
その時は辛い過去とかしんどいことに向き合ったり、
気持ち整理しようとした時に、
やっぱ自分のことなんでなかなか見えにくかったりする。
その時に例えばカウンセリング頼るっていうのも一つやし、
信頼できるお友達とか、腹割って話せる人と、
喋りながら自分の気持ち気づいていくとか、
あるいはわーっと書き出したり、
書く瞑想というかジャーナリングみたいなものを使ったり、
ツールとか手段はいろいろあると思うんですけど、
とにかく自分の隠してた気持ち、
感じないようにしてた気持ちに目を向けてあげる。
こんな気持ちおったんやみたいなのを受け入れると、
また進んでいくのじゃないかなっていうのは思いました。
いざとなると母を頼るくせにこんなことを考えるのは甘えでしょうかってあるんですけど、
そもそも甘えてもいいじゃないですか。
その一文に甘えてはいけないっていうこの相談者さんのジャッジが入ってるんですけど、
世の中甘えてもよくないですか。逃げてもよくないですか。
甘えチラしたらいいじゃないですか。
甘えてはいけないっていう価値判断が入ってるからこそ、
お母さん頼ってるくせにお母さんのことを毒親や言うてこんな自分ダメ。
ってご自身のことをさばいているわけじゃないですか。
そらねしんどいですよ。しんどいじゃないですか。
親子関係の改善
特命さんね、今回レターいただいてありがとうございます。
いろいろお話ししたんですけども、
母が表現して優しくなったとも言えるし、
母の優しさを感じられるようになったとも言えるんじゃないかなって思うんですよ。
それってすごい素敵なことじゃないですか。
毒親な母のもとで育ちましたって一生お母さんのことを恨んで怒って、
お母さんが亡くなっていくそんなね、世界もあったかもしれないですけど、
特命さんはお母さん優しいって。
見違えるようになんか優しい。別人間のように優しくなったなっていうお母さんの優しさが感じられたじゃないですか。
毒親なあんな母のもとで生まれて育ってこなければよかった。
っていうね、今まで終わらずに、
あ、なんかお母さん優しいなって。
そんな母の優しさに気づくことができた。
これはね本当に尊いことなんじゃないかなって思うんですよ。
で、今こうやってレターを送っていただき、
何かこの私がこの毒親な母で育ちましたっていう感じている部分、
ここと向き合ってみたいっていう何か、何か思いが動機があってレターも送っていただいたと思うんですよね。
だからね、僕はなんかきっとこの特命さんがお母さんのこと大好きやわって感謝、
ありがたいなってありがとうって感謝の気持ちを感じながらお母さんと過ごせる日が来るんじゃないかなっていう。
来なくてもいいんですよ。来なくてもいいんですよって言うのはちょっとあれかな。
感謝しないといけないとかね、そういう話じゃないんですけどね。
でも何かこう、もっと特命さんの望む親子関係の絆をこれから築いていけるんじゃないかなっていうのはなんかすごく感じました。
頑張ってくださいと言うべきなのか、こういう時どういう声掛けをすればいいのかなかなか日本語って難しいんですけども、
とにかく応援しています。
レターいただきありがとうございました。
はい、というわけで今回の放送以上で最後までお聞きいただきありがとうございます。
このチャンネルへのレター、ご相談ご質問を引き続き募集しておりますので、
放送の説明欄から応援してください。またフォロー、またの方は是非チャンネル登録していただきまして、
次回の放送もお聞きいただければと思います。
それではまた次回の放送でお会いしましょう。