損得勘定の始まり
さあ始まりました、タダの箱庭ラジヲ。本屋では買えず増札もされない、読み手から読み手へとギフトされる、1万冊の箱庭本についてお話ししていきたいと思います。
今回から第2章が始まっていくのですが、第2章のテーマは、損得勘定が損なうもの。
もしかすると、私たちがお金を買い財させた時にモヤモヤするのは、損得勘定が働くからかもしれません。
あるいは見返りを求める気持ち、ギブアンドテイクの関係と言ってもいいでしょう。ギブアンドテイクな関係は、私たちの何を損ねているのでしょうか。
ということで、こちら第2章もこれから10人の方々のエピソード、インタビューを通して、皆さんと一緒に考察していけたらいいなと思っております。
ということで、突然ですが皆さんは、恋愛における無償の愛というのを信じていますでしょうか。
今日はそんなテーマで、レンナさんというライター兼編集者のエピソードをご紹介したいと思います。
彼女の恋愛体験、特に損得勘定との葛藤について触れていきます。
レンナさんが経験した恋愛の話。
彼女が出会ったのは、まだ独立したばかりのカメラマン。
彼は夢を追いかけていたものの、経済的には非常に厳しい状況にいました。
そんな彼をレンナさんは無償の愛で支えようと決意します。
彼の生活費はもちろん、車の修理代まで負担し、彼のために惜しみなく自分を捧げていたそうです。
それだけ尽くすってなかなかできることじゃないですよね。
でも、恋ってそういうものだと思った方もいるのではないでしょうか。
相手のためにできることをしてあげたいという気持ち。
レンナさんもまさにその思いで彼を支えていました。
ところが、彼が少しずつカメラマンとして成功し、自信をつけ始めた頃、
仕事の関係で別の女性と距離が縮まり、
2人の関係、レンナさんとの関係は終わりを迎えてしまいます。
この時、レンナさんの心に芽生えたのが孫徳感情でした。
あんなに支えたのに、なんで?
そんなですね、彼女の愛情が深ければ深いほど、
失った時の傷は大きく苦しいものになってしまいます。
そしてそこにですね、損をしたという感情が生まれてしまったとお話しています。
そんなレンナさんのエピソードはですね、ここで終わりません。
彼女は実はもう一つ、5年間続けていた不倫関係についても語っています。
この不倫関係もどこかで無償の愛を信じたいという気持ちで続けていましたが、
やはり心の奥ではこれまで積み重ねてきたものがあるという孫徳感情が消えなかったそうです。
その前のカメラマンの彼との関係もあったのかもしれませんが、
だからこそこの5年費やしてしまったこの不倫関係を手放すことがなかなかできないと、
彼女は振り返っています。
愛の本質と尊徳感情
無償の愛と孫徳感情、この2つの間で揺れ動くレンナさんの心、
それは決して特別なものでもなく、誰しもが感じるものなのかもしれません。
私たちも恋愛の中でどこかバランスを取ろうとしてしまったり、
何かね尽くした分だけ報われたいなんて、どうしても思ってしまうことっていうのもあると思います。
そんなレンナさんはですね、感情を正直に表現して受け入れているように思います。
さてですね、ここで皆さん少し考えていただきたいことがあるんですが、
ある夫婦のお話です。
長年連れ添った夫婦がいましたが、妻が病気で寝たきりの状態になってしまいます。
旦那さんは献身的に妻を看病し、仕事も減らしてほとんどの時間を彼女のために使っていました。
友人たちは自分の時間をもっと持つべきだと忠告しましたが、
旦那さんはですね、彼女を支えたい、それが自分の生き甲斐だと言い続けてですね、
毎日のように看病を献身的にしていたんですが、
妻の妻の様態が悪化してですね、数年後には亡くなってしまったと。
その時、彼は初めて自分の人生は何だったのだろうかというですね、
一人になったその空白感も相まってですね、この寂しさ、虚しさを感じてしまったと。
愛していたはずの妻のために全てを捧げたはずが、何か心のどこかで何かを失ってしまった感覚が、
ひょんな時に尊徳感情みたいなものと混ざり合ってですね、
自分がしてきたことは何だったのかなんていうことをですね、
考えているようなお話なんですが、
連那さんにしてもですね、こんな老夫婦のお話にしてもですね、
どこかこのエピソードを通して、僕は愛することの本質みたいなものを
何か深く考えさせられているのですが、
リスナーの皆さんも無償の愛を捧げたい気持ちと、
どこかで尊徳を考えてしまう、自分の間で揺れ動いたことがあるのではないでしょうか。
ここで少し愛するみたいなことと、この尊徳感情っていうことについて、
もう少し考えてみたいんですけれども、
私たちが誰かを愛する瞬間、
特に最初は純粋な気持ちで尽くしたいというか、
本当に尊徳感情なんてものはなく、
とにかく相手が喜んでくれることが自分の幸せで、
喜んでくれるんだったらお金でも時間でも何でも捧げますっていう、
そんな気持ちになった経験って、
誰しもがあるんじゃないのかなと思っているんですけれども、
いつしか気持ちが落ち着くというか、
冷めるという表現もあまり使いたくないんですけれども、
そんな関係が情熱と言ったらいいのか、
それが冷めていったときに、
ちょっと尊徳感情みたいなものがひょっこり顔を出して、
相手の喜びが自分の喜びでっていう、
その関係に見返りを期待しないっていう理想的な愛というか、
無償の真実の愛みたいな、
そんなところから、
どうしても月日が流れていったりとか、
現実の世界では愛情が継続する中でも、
ふと自分の努力とか犠牲が報われているのかななんて考えてしまう瞬間が訪れるのも現実で、
それは必ずしも悪いことではなく、
人間が持つ自然な感情でもあると思うんです。
愛は時に自己犠牲を伴うものですが、
その犠牲が大きくなりすぎると、
れんなさんのようにですね、
この耐えがたい尊徳感情みたいなものに囚われてしまう。
愛することは無条件の献身か、それともバランスを保つものなのか。
この問いに明確な答えはないのかもしれませんが、
このれんなさんのエピソードを読むとですね、
愛と尊徳感情が交差する瞬間にこそ、
私たち自身の感情だったりとか、
自分がこの尊徳感情によって囚われてしまっているその一面というかですね、
そういったことに向き合う機会が起こっているのかもしれないなというようなお話でした。
どうでしょう、ほんと難しいですよね。
この無性な愛の時、献身的に捧げている時の方が、
すごい幸せなんだけど、
何かの表紙で尊徳感情みたいなものが顔を出し始めるとって言ったらいいんですかね、
私がこんだけ愛してるんだからあなたも愛してよみたいなね、
あの関係に変わって、
どこか今まで本当にそんなことを考えてなかったのにとか、
こんな関係じゃなかったのにみたいな、
作前としない関係になっていってしまうなんてことはね、
僕も何か振り返ると、
そういうこともあったなぁなんて思うんですけれど、
そんなね、恋愛感情と尊徳感情が合わさった瞬間にですね、
ふとこのレナさんのエピソードもちょっと思い出しながら、
今自分のこの中で起こっていることについて深く洞察して見てみたら、
またそのそこから乗り越える何か、
解決法が見えてくるのかもしれないなぁと思っております。
それではですね、また次回、
尊徳感情が損なうまた別の方のエピソードをご紹介していきたいと思います。
はい、ということでまた次回お会いしましょう。
今日も素敵な一日をお過ごしください。
ありがとうございました。