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前回からの続きです。今回は 楊 米食復興への挑戦
復興への挑戦 楊 前回のお話の中で粉食文化推進
委員会じゃないですけど、なんか そんな動きがガンガン出てきました
よね。もう米食ったらバカになる とか、一日一回粉食をみたいな
こと言いますよね。これに対して 動いてきた人たちのお話です。ザ
クッと大きく3つのステップですね。 1つは農業従事者が生産に精を出す
ことができる環境を作りました。って ことは今までそういう環境って
整ってなかったってことなんですよ そういうことか
次が、たくさん収穫できる よっていう観点から、おいしいもの
を作ったらみんな食べたくなる よねっていう方向に意識がスライド
してきます。3つ目は農業の効率 化が圧倒的に進みます。この3つ
が整うことで日本人は食を選ぶ という選択肢を得ることになった
ので結果としてパンだけじゃなくて やっぱ米うめえな米食いたいじゃん
米食べることを選ばせてよっていう 方向にまた振り戻していくと
やめられないよね
やめられないと思います
死んじゃってるから
だいたいもう2000年3000年 前から米食ってますからということで
さっと本編いきましょうかね。まず 農業従事者が生産に精を出す環境
を整えたのは何を隠そう日本政府 です。戦後の経済復興のためにこれ
を柱としてやるぞというので政府 が値出した2本の柱というのがあります
ね。1つは経営者生産方式でもう1 つが農地開拓です。経営者生産方式
に関しては詳しく述べませんけど 特定の業種に思いっきり注力して
ここだけグッと伸ばそうぜっていう 傾斜してって斜めに
そうですね今風に言うと選択 と集中ですね。ちなみにこの時
選択と集中の対象になったのは 鉄鋼と石炭が中心になってます
ので戦後の八幡鉄鋼場とかね あああああああああああああ
あったねその話
社会の教科書で見たこと あるでしょ
うんてかなんかどっかの回で 言ったぞそれ
はいこっちに寄せてきますね
需要の高い業種に寄せることで 収益性を効率化しますとこれが
一つと農地改革ですこれは昭和 天皇の発政の中でも食料を十分
に確保することが祖国再建の第一 歩であるというようなご表明も
あったのでそこに傾斜をしていく わけですねでこれがなぜ経済復興
につながるかという話なんですけど 当時機械化がある程度進んでいる
とはいえまだまだ労働人口が多い イコールgdpが多いという時代から
抜け出し切ってない時代ですね なので企業はたくさんの人を雇って
どんどんどんどん生産性を上げて きたい特に鉄工業とか石炭業に
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ねただ企業が人をたくさん雇う ためには人件費あんまり高いと
たくさん雇えないですよねだから 人件費を抑えるとでも人件費を
抑えちゃうと食べてけなくなります よ従業員はということは食費
をある程度抑えないといけない ですよねだから食費を抑えるために
安くたくさんの食料を提供して もらいたいと結果農業の効率化
をせないかんよねと現代社会とは 全く違う視点から社会構造を捉
えてるんですよ今は逆ですよね 人件費上げてどんどんどんどん
gdp上げていって生産性上げていき ましょうという方向ですけどこの
時代は凄まじく貧乏になってます から逆の方向で一回立て直そう
というふうに動きますでこの農業 の効率化をするのに当たって最も
ネックになっていたのが地主制度 です
地主制度 地主制度って分かります
土地の所有者とそこを借りて 使う人
そうですね地主と子作人と 言いますけどで地主さんから子作人
に土地を貸しますとで子作人は 地主さんに対して賃料を払うわけ
ですねこれ貸してもらってありがとうございました とこの賃料いかほどだったかと
これ農作物で取ったら農作物の 収穫の値何割かを渡すんですよ
さあ何割程度でしょう 2割
いいえ40%から50%程度です 半分持ってかれるの
約半分持ってかれます これやってたらさ子作人の人たち
頑張ろうにもなかなか豊かにならない しモチベーション上がんないんですよ
ね収入が少ない分だけ新しい機械 が出た肥料が出たとかあっても
買えないんですよなかなか 買えないでしょ
実は明治時代から大正期にも 助走剤とか価格肥料とかも出て
るんですよあるんですけど買えないん ですよなかなか効率が上がらない
ですねなので政府はかなりむちゃ くちゃします
むちゃくちゃする むちゃくちゃします笑っちゃう
地主の農地全部買い上げます 全部買い上げる
はい一部例外は財村地主って 言って村にいて自分も土地持って
自分も農業をやってますよという 地主さんは1兆10タンまでは持て
ていいよと 自分のところなくなっちゃった
そうそうであと不在地主東京 に住んでるけど北海道に田んぼ
持ってますよとか言う人いるわけ ですよ全部買い取りです
へえ強制的に 強制的に国が買い上げます
すごいな 買ってくれるならいいじゃん
いくらだと思いますいくら えいくらと
例えばこのときの単位が1 タン田んぼですから1タンていう
10rですね1タンの値段水田が760円 水田が760円です畑が450円です
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待って待って物価は当時の 通貨の物価は
これ本に書いてあったらそのまま 読みますけど当時のゴム長靴
の値段842円です ゴム長靴買えないの
ゴム長一足よりも水田の方 が安いんですよ
そんなことある はい
暴利じゃん むちゃくちゃですよこれが
っと買い取って政府がでこれを 戸作人の中で農業に情熱を燃や
している見込みのあるものを優先 的に同額で払い下げしていくんです
へえそうか国は利益は取って ないんだね
取ってないです全然払い下げ しちゃいます
すごいね モチベーションのある農家
さんだけが残るようにしたかったん ですよねこれがいわゆる農地開放
昔の教科書農地開放って書いて あったのは裏側はこれですね農地
改革これやるとさやる気のある 人たちだけが残るんでよっしゃ
やったろかいっていうふうにな るんですよ
なるんだろうね 僕らあんまりピンときてない
かもしれないですけどこれを受け て動き出した人たちがいるということ
ですねで次ですおいしいお米を 作ることに情熱を燃やした人たち
戦後から話したいところなんですけど 実はその放火というのは明治から
昭和のあたりで少しずつありました 当時は昭和初期から戦争が始まる
頃まではまだまだ米の収穫量が 足りてない状態ですのでどちら
かというと収量が多いたくさん 取れるよとかあとは風とか台風
とか病気に強い品種を作ろうと こういうような動きをしてたん
ですねで各県の農業試験場が競 って品種改良をしている状態です
1944年昭和19年場所は新潟県農業 試験場ですねここで高橋博之という
技師が閲南十七号閲南っていう のは上越新幹線の閲南の十七号
というのを開発します正確には 選抜をします現代の品種改良っていう
のは放射線を当てて突然変異を 無理やり人工的に起こしてその
からからいいやつを選んでいく っていうやり方ですね当時は自然
の中で突然変異起こしたものを 目で見て探すっていう作業ですね
昔からはそれだよね 楊 そうですね閲南十七号この高橋
さんという偉い人で20万株の稲 を一株ずつ観察して選抜これを
なんと一人でやってます 一人で20万株みたいな
楊 やばいよねマジで 連結ないなあ
楊 これ何で一人になっちゃった かっていうと戦争中真っ只中なんで
同世代青年世代の技師たちはみんな 行っちゃうんですよ戦場に高橋
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さんはたまたま農業士県庁の仲間 内でやった野球の試合かなんか
でスイズをボンって蹴られて怪我 しちゃうんですよだから戦争行け
なくなっちゃうんですね 一人ぼっち 残ってちょっとみんなの分働く
ぜ言って20万株一個ずつずっと 見ていっていろんな品種を見つけ
出していくんですよその中に一 つ閲南十七号っていうのがあって
これなかなか上手いし良かろう ってことになるんですけど決定的
な弱点があってですね背が高い からちょっとした風すぐ倒れちゃう
長かったんだ 楊 ダメですねこれねで胃もち病
に弱いだからこれは上手いけど 育てるの大変やし収量少ないし
これだめだろうつって半ば放置 されてちょっと置いとくんですね
で他の品種でもっといいのない かなっていうのを探すことに夢中
になっていくんですここから4年 後かな1948年実は新潟のお隣福井
県にも農業試験場が新設されます 新設されてるところなので品種
改良品種選抜をするための材料 がそもそもないですよね手元に
何もないんでどうなりすんねん なってこれを農林省に言ったら
隣の新潟県で前からやってるから そっから分けてもらいいということ
になるんです農林省からも言われる し試験場のトップ同士がもともと
知人だったらしくてちょっと分けて もらえませんかねって言って同士
もらうんですよ何十株か分けて もらうんですねで半ば見捨てられた
ようなやつもう農林省もいらん やつあったら福井にくれてやって
やっていくようなことを堂々と 言っちゃってるんですよ手紙で
まあお互い大変だからね 楊 ね大変だからもういいや何か
くれてやってよって渡しますという その渡された株の中に実はこの
越南17号が混ざってただって見捨て られてますからね
美味しいけどダメだったね 楊 そうなんです福井農業試験場
の石澄慶一郎という方がある材料 で頑張っていろいろと品種の選抜
をしていくんですねその中で越南 14号なんて新しいものを発見して
こっちのほうがより耐性に優れてる ちょっと味を取るけどこっちの
ほうがいいよっていうのをやるん ですけど実は越南17号っていう
のはその前年くらいに福井大地震 があって環境も劣圧な環境になった
にも関わらず生き残ったと14号 のがめっちゃいいなと思ってるん
だけどでも17号ももしかしたら 環境の悪いような土地で植えたら
そういう土地向きのだいぶ前の 回に赤米と白米の話出ましたよね
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そういう選抜体みたいにして使 ったらいいかもなと言ってとりあえず
残しといたんですよなんか噛み 向かったものがあるかもしれん
みたいなあったもんじゃないね 地震生き残ってるからこれ良かろう
と思って一応残すんですよ残っちゃ ったものは一通り試験をしなきゃ
いけないので1953年に全国的に試験 栽培をしますこれは別に新しい
品種が出てくるとみんなやるらしいん ですけど全国のいろんな土地いろん
な農家さんの協力をもらって試験 品種を育ててもらっていけるか
どうかというテストをしますこれが 1953年昭和28年ですねこの頃には
ほら土壌が土台が日本政府によって 整えられてますんで結構みなさん
やる気で協力してくれるわけですよ 農家さんがそしたら案の定ほとんど
の農家さんから越南十七号はすぐ 倒れると
おおまあね アカンと胃もち病になるし
アカンとなるんですけどこれまた 新潟なんですね新潟の農家さん
が新潟の農業試験場にこんな報告 をします倒れた米稲が生きている
倒れた米が生きている 倒れた稲が生きているとはどういう
ことやとというのも当時の稲っていう のは倒れるくらいの状態ってことは
もう稲が完全に実ってあれ米の分 って種じゃないですかだからあれが
地面についてパラパラってなったら それ田植えなんですよ稲がね倒れ
ちゃったら田植えされるんでそこから 発芽するんですよ使い物なんない
ですよねなのに発芽せずにそれを 維持したまま生きてるんですよ
身についたままね 身についたままそのまま成長
し続けてるとこれはどういうこと やとそれを調べてったら新潟
農業試験場はこれやり方次第でい けるんじゃないと
倒れてもいいんだったらなん とかなりそうだよね
これで弱点二つ言いましたよね 背が高くて倒れやすい倒れてオッケー
だったら別によかろうということ になりましたで元々この越南17号
ってそんなに肥料入れないのに 元々の今までの稲がすごいいっぱい
肥料入れるような感じだったら しんですよだから過剰に肥料入れ
すぎててなんか大変なことだった っぽいんですね
大変なことを それが原因で病気に繋がって
たりしたらしいんですよ 食べ過ぎね
そうそうそうそういうこと です昼やり過ぎ問題ですねこれ
新潟農業試験場の国竹雅彦さん という人が言ってるんですけど
栽培法でカバーできる欠陥は致命 的欠陥にあらずとだからこの胃もち
病問題は栽培方法でどうとでも なるからこんだけうまかったら
新潟ブランド米作れるだろう これやろうぜ言い出してなんと
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新潟県指定の奨励品種にするんです すごい抜擢というか進歩だね
昇給というか そう一気にここまでいくん
ですね だってランク外から上ランク
に行っちゃったでしょ 一気にこれは新潟の農家さん
が倒れた稲が生きているということ を見つけるからこういう反応するん
ですけどそれをまたちゃんと拾う 人が新潟農業試験場にいるんですよ
いたんだね
この試験を依頼した依頼 元はこれ福井県ですから福井県
が今主観握ってますねこの時点 でこれいけんじゃねえって言って
福井県側からもちろん新潟と協力 してるんですけど福井県側から
1955年昭和30年に新品種登録の申請 を農林省に対して出しますただ
弱点やばい大きすぎるから新品種 登録してもあかんやろっていうので
めちゃくちゃ議論が紛糾するんですよ でこの裏で新潟の国竹さんが頑張
って越南十七号育てたらよかろう という土地を探してあちこちの
県に声掛けをするんですこれ奨励品種 したらいいよこれに乗ったのが
千葉県です 千葉県
千葉県もこれに乗っかってこれは やり方一つでいけるぞと東京食料
なんだしここに出荷すればよい っていうの分かってるんでよし
行ったろかいって言って千葉県 も奨励品種に指定しますでこれ
でかいとこ三県が何々奨励品種 にしたのそこのカバーは自分たち
でやるんだね分かったお前たち が自分たちでやると言うんだったら
農林省としても指定しましょう と新品種登録受け付けましょう
ということで農林百合の名をもら って正式に新品種としての登録
がされますこれ登録をされると ルールがあってカタカナ5文字で
新しく名前を付けなきゃいけないん ですよ
カタカナ5文字 はいこれ決まりなんですって
この時付けられたカタカナ5文字 の名前がこしひかりです
ああこしひかりになるんだ はいこれがこしひかり現在
でも柵付け面積たら30数%あります よね日本最大量を誇る品種の誕生
ですねこれは福井新潟県頑張って こしひかりの元作りましたよね
これ上越とかいうようにこしの 国なんですよ北陸地方昔の呼び名
でねこしの国に光り輝く米となって ほしいという
すごい壮大な名前なんだね はいその意味を込めてこし
ひかりと へえこしひかりってそういう
由来なんだ そうなんですよねここで
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こしひかりが誕生したストーリー だけども僕はちょっとワクワク
してるんですけどもう一つすごい ことがあって今まで明治大正昭和
初期とずっと丈夫で多種多量に とれる稲の開発にずっと頑張って
きたわけですよところがこの食糧 団のご時世にうまい米作りに自
化しておいてるんですよ これが一気に全国に広がるんですね
このこしひかりのうまい米っていう 観点が秋田小松とか後の人目ボロ
とああいう動きにつながっていく と
こっから伝わってくるんですね はいこれはもともと品種改良
していた人たちがみんな口を揃 えておいしければ消費者は必ず
帰ってくるという思いが一つあった のと今の感覚だとびっくりするん
ですけど新潟の米って評価めちゃ くちゃ低かったらしいんですよ
当時 そうなの
昭和初期とかだと雀がまたいで 通るとかね言われた時期があるんです
って 相当ひどいんだね
米どころはその当時どこだった っていうと全国なんですよ
全国 戦国時代に全国各地で神殿
開発してますから 確かにお金だからね
もうどことっかとかないですね どこでも取れちゃうここで一躍
一歩前にグッと出るためにまずい と言われた評判ひっくり返すために
うまい米作らなあかんっていう のも一方であったみたいなこれが
かみ合わさってるんですよだから 粉食文化を跳ね飛ばそうという
よりはもしかしたら新潟とか北陸 地方の福井とかの米のブランド
を立ち上げたいっていうほうが 優先だった可能性は高いんですけど
でも結果として世の中にうまい ものを食うといいよねっていう
方向に行くきっかけになってるん ですよね
社会的には食料なんだけど やっぱりおいしいもののほうが
いいっていう そういうことです
認められたから広がったね ただこしひかりって収量が
あんまり多くないんですよ当時 の他の米に比べると
そうなんだ それより前の時代の米の
ほうがちょっと収量が多かった りするんですってそれこそさっき
ちょろっと出てきた越南十四号 のほうが収量多かったりします
からこれをなんとかするのにひと 役買ったのが農業技術の進化この
北国での米作りっていうのはいろいろ とメリットデメリットがあってまず
北国のメリットは農地がでかいん ですよ
そうなの というのも江戸時代明治大正
にかけて人口どんどん増加していく お話をしましたよねそうすると
お米作りたい場所と街を作りたい 場所がだんだんイコールになって
くんですねお茶の界でもありました よね埼玉の狭山あたりが人口増え
すぎて茶畑減っちゃったみたいな ああいう状況になってくので空いてる
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土地が東北になってくるんですよ ここなら大規模農家ができるんで
機械化もしやすい明治時代に機械 がちょっとずつ増えてきました
とこれは都合がいいぞっていう のが一つとあとそもそも水がめ
っちゃ豊富なんですよ 水が多いね
一番水が必要な時期って米 作りに関しては田植えでしょ雪
溶け水ありますからしかも元気玉 状態ですよ山からいっぱいエネルギー
もらってる雪溶け水これ最高なんですよ しかも冷たいよね水が
そう冷たくていいんですけど 弱点が一個なんですよ早植え栽培
ができない 寒いから
そうリスナーの方にお話し しておくと早めに稲を植えると
いいことがあるんですよそれまでの 東北北陸地方での田植え時期って
のはだいたい6月くらいなんですね 雪溶け待たなきゃいけないこれ
を4月に持っていくと収穫期が当然 早くなりますよね1ヶ月2ヶ月あった
かい時期に収穫ができるようになります よねつまりあったかい時期に穂
ができますよねこの状態で太陽 がいっぱい当たってると光合成
いっぱいするんですよだから穂が ついた状態で光合成するとその
本の中の種米ですね米自体にエネルギー がガンガン行くんですよ大きくて
立派でおいしいお米ができるんで いいよねしかも台風とかの被害
も前倒ししてる分だけね9月10月 過ぎちゃうと台風被害あるんで
北国はそれを前に取っちゃった ほうがいいよねいうことになるんです
けどなんせ雪積もてたら田植え なんかできっこないわけですから
まあそれは無理だな
この収穫方法早植えをする と気温が高い地域だと発芽しちゃ
ったりとかエネルギー行きすぎる んでで劣化したりとか西日本とか
ではなかなかやりづらいんだけど 北国は全然関係ないと発芽する
ほどあったかくなんないからこれを 何とか実行したいよねっていうこと
をやる気のある見込みのある農家 さんたちが考え始めます場所は
長野県飯山村立地的には新潟との 県境くらいですねほぼ新潟ほぼ
新潟っすと長野県民に怒られる あれちょっと問題発言だな
問題発言 長野県は長野県
長野県ですここの青年農業家 たちが集まって奥品の早植え研究会
というのを1952年昭和27年に発足 させますどうやったら早植えでき
んだろうなっていうのを一生懸命 考えるんですよねこんな雪の中
田植えできなかろうってみんな 開けられてる中で情熱的に考え
出すんですけど考えても考えても どうにもならんわけですよ
まあ雪をどうにかするって話 だからね
そうだから雪どうにもならん だろうっていうのでたまたま親しく
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していた長野県農業試験場の飯山 試験場師匠みたいなところですね
そこで研究員をやってた松田順次 さんに相談をします松田さんちょっと
変わってる人らしくて研究員同士 であんまり仲が良くなかったらしい
んですよただ1日に3軒4軒農家 さんをぐるぐる歩いてるっていう
ちょっと現場肌の人農家さんから 人気があってじゃあ松田さんどう
にかなりませんかねどうにかなる かなちょっと考えてみようかな
でこの人が思いついたのが室内 育苗苗をそもそも家の中で途中
まで作っちゃえばいいんじゃない 雪関係ないよね
それまでは違うんだ はい違うんです
それまでどうやって育てる の
室内だったり屋外だったり しますけど基本的には天然の気候
の中でやるんですよ今のような 温室で先に育てるという発想が
ないんですよ これを編み出したのが松田さん
ですこの松田さんねなんでそんな ことを思いついたかっていうと
若い頃に養産業講習所って養産 っていうのはカイコを養うって
いうところですねカイコを養う ところで勉強してた経験があるん
ですねカイコの幼虫チサンっていう のかなの飼育方法を知っていて
このチサンの方法が細長い木の 板の上にカイコの幼虫を置いて
クワの葉っぱを置いてそこで寒い とダメなんで家の中で焚火焚いたり
なんかそういうふうに暖かくして 育てたらしいんですよこの方法
でやればなんとか稲育つんじゃね 温めてしまうと
温めてしまうなんかひどい 話だと実際記録にあったんですけど
長火鉢の上にこの木の箱を置いて そこに田植えしておいて室内で
焚火をしたらしいんですよもう 周りの農家さんいつ火事になる
かと思ってヒヤヒヤしたみたい ですよ
そりゃそうでしょ火鉢の上に 乗せてるんでしょもうめちゃくちゃ
だな もう実際この飯山の農家さん
がそういう記録書いてますから 日記に1000センチいつ火事になる
のかビビってたってね それはビビるでしょ
でもなんか成功するんですよ ねで名前目出るじゃんなんだけど
木箱ちっちゃいんで狭いし密集 するじゃないですかだから大きい
苗にならないんですよ痴病って 言ってもう5センチとか10センチ
ぐらいしか伸びないですよね密集 してるんでこれどうすんじゃない
なんだけど松田さんはいろいろ と実験をした結果この短い青々
とした苗を植えたら意外と元気 に育つぜってことを実は見つけて
るんですよでこれを1954年昭和 29年の発表会みたいのがあるんです
って研究員同士のこういうのが いいということが分かりました
よっていうのを発表したんですけど そのときの種芸っていうのが種の
芸って書いてこういう農業のジャンル での経緯ですね寺田博史という
先生がいるんですけどこの人から めっちゃディスられます
27:00
ディスられるんだ 小さい苗を植えると良いな
と君には種芸をやる資格がない そんなに言われる
高就の免税で罵倒されますこの ぐらい異端の技術だったんですね
というのはもうこの当時は小さい 苗を植える今では当たり前ですけ
ど当時は小さい苗を植えるなんて いうのは非常識で精病精神の苗
ですね精病の田植えが常識だった でこの精病がなるまでに大体
30日から50日で茎が太くて分裂 もしていて葉っぱももう5枚から
8枚くらいになってて背ももう 30センチとかある状態で植える
のが常識だったのでお前何考え とんねんって怒られて寺田だから
怒られてこういうふうにしなさい 言われたのが木箱の中で言った
この痴病を一回別のもうちょっと 大きい縄代に移して精病まで
育ててそれを植えるっていうこと をやってたんですよ大先輩の寺田
からするとよしそれで良い良かった めちゃめんどくさいと思うんですけど
なんとかやるわけですよ松田さん はそしたら寺田からなかなか認め
られていくんですねだんだんと ねこいつ頑張るやないかと俺の
指導もちゃんと聞くし研究熱心 だしいいじゃないかというところ
で温室で栽培する温床温かい床 と書いて温床栽培って言うんですけど
君のこれはなかなか良いねと だいぶ変わったね評価は
だんだんと信頼関係できる んで認められてくるんですねこれ
ええやないかちょっとこれ手作業 とか火使ってると危ないから僕
知り合いの研究所があるからそこ に掛け合ってあげるよって寺田
が自ら農電研究所っていう農業の 農に電気の電で研究所ですね電気化
するその機械作ってるところに 交渉をしてくれるんですよ
だいぶ手のひら返したね
一気にね
信頼というとこね 信頼があるので見どころがある
からって僕も頑張ろうってこと になって電熱式育病機電気の力
で温めて苗を生やせるという機械 を作らせることになるんですね
この人がただ治病のまま植える ということをまだこの寺田さん
は納得してないんですよこの電 熱式育病機と苗白に植え直す
というセットを作ってこれを農家 さんに販売するんですよところ
が農家さんに全然普及しないん ですね植え替えめんどくさって
めんどくさいだろうね
なんたんも何十ヘクタール とかあるでしょやってられるか
ってなってみんな治病のまま植え 始めるんですで実はこれ裏でこの
1958年よりもさらに3年前にあの 飯山村ではすでに治病による田植え
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を実践してました もうしてたんだ
はいもう松田のお膝元ですよ 研究会のメンバーですね若手研究会
のメンバーは松田先生のことちょっと やったほうがいいって言って植え
たところこういう言葉が現在でも 飯山では残ってます松田先生の
おかげで一穀も余分に取れるよう になったと
一穀
これ知ってるんですよ松田 は
ああそうなの
これを知っててこのセット の販売を寺田が主導してるの見てる
わけですよで後追いで治病で植 えても全然伸びるじゃんっていうこと
をだんだんと寺田も知ることになる わけですね全国から反応返って
きますからこれで治病の田植え というのが現代では当たり前ですけ
どこの基礎はここで生まれるんですよ ね
ああまあロイヤル証拠みたいな
そうですね実績が出てきてる
これいいなとで実はもう一個機械 化ですごいことがあってこの少し
後ですね1964年に日本で初めて田植え の機械というのが登場するんですよ
そうなんだ
で一つは寝洗い式田植え機 という機械が出ますもう一つは
人力一乗田植え機農研校よくわかんない 長い名前ですけど二つ出てるんですね
これなんで全然違う種類のもの が出てくるんですけどこれはただの
明快違いじゃなくて方式が全く 違います寝洗い式は性病を使って
ます大きい苗ですねこれは寺田 を含めた先人たちは大きいのが
当たり前だしこっちのほうがいい と思ってますからかつこの時代
は苗の根っこについた土を全部 洗い流してきれいにしちゃった
ほうがいいと思われてたんですよ これ松田のやってた方法っていう
のは土付きの地病を植えるんですよ だめだろうって言われたんですけど
これが二大巨頭になってバトル んですねどっちがいいんだっていう
論争が巻き起こります大論争です 寝洗い性病対土付き地病この二つ
で別れるんですけどなんとこの時 寺田土付き地病派ですもう性病派
から外れてますというのは1958年の 仮植えセットで販売したときに
あかんっていう実績見ちゃいました から別に大きい苗じゃなくていい
よねっていうのを寺田も気づいて ますからね土付きでいったって
よかろうっていうのも実証でわか ってますからこれ行こうぜって
なってまたこの寺田が田植え機の 開発に着手するんですよこの寺田
がさっき言った電熱式育病機の 開発で手伝ってくれた関口雅雄
っていうこの人町の電気屋さん なんですけど当時ベータ版の開発
手伝ってくれたんで関口さん今回も ちょっと開発手伝ってくれません
33:00
かねもう先生いいっすよって言 って1961年ぐらいから60年頃から
かなでやり始めて翌年の61年昭和 36年にはベータ版を完成させます
町の電気屋さん作ったんだ 町の電気屋さんみたい
よね すごいな
すごいでねこのときすごい のが今でこそはダメだけど細長い
状態でブロックみたいにくっつ いたイネじゃ長方形の細長いやつ
あれをガチャンとセットしてあそこ からガッチャンガッチャンガッチャン
って今でも多分やってますよね あれの形がなんとあのカイコの
木箱が原型なんですって そうなんだ
だから帯なえって言って帯 状になってこの関口さんが作った
ベータ版っていうのはこの帯状 のやつをカッターでガチャンと切
ってポトンと落とすっていう土 付きの方が都合がいいわけだよね
帯状で土付きでちっちゃいやつ だからこそこの田植木が簡単に
作れたらしいんですよ 送るのも楽だよね
そうガッチャンガッチャン 送れますよねただこれ切って落とす
だけよりもちゃんとフックで引っかけ て一本ずつこうやって植えてった
ほうがいいよねっていう開発に ここから3年かけるんですよセキュリティ
さんが1964年同じ年にもう一回 見ますよ読みづらいんだこれ人力
一乗田植木農研号tm1-4型っていう のがね長えほんとこれ出るんですよ
これ機械とか言いながら電気じゃないん ですね手押し式なんですね人力
一乗仕組みでガッチャンガッチャン やるだけらしいんですよで重さ
も5.2キロ軽
軽おもちゃみたいなやつ なんですよで値段が15万円で買える
15万
でこれを使うと一旦を2 3時間度をやることができるどの
ぐらいのスピードかっていうと 人力の約5倍ですめちゃくちゃ速い
しこれすげえってなって4年間で 4万台売れます
売れるわね
でこれがなぜ売れるようになった
かっていうとまず治病だからですよ ねセッティングにあんな30センチ
40センチのやつ使ってらんないん ですよで根っこ洗ってあると絡
むんですって
そうなんだ
小さくて土つきだから簡単に
田植えができるからこの機械が できるこれがずっと改良を繰り返
されて現在の田植え機になってます よね
へえこっからスタートなんだ
そうなんですよいかに 腰光りのうまい米があってもこういう
技術革新があるおかげで収量を 爆発的に上げることができるわけ
ですねしかも少人数でたくさんの 田んぼを耕作することができる
ようになる完全なる効率化ですよ ねこれ効率化ですよ農地改革から
始まりのおいしい米ができの効率 化ですよ
この15万魅力的だな
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今欲しいと思ってるでしょ
田植え機高いんだよ物価違います からね一応ね昭和30年代の話なん
で そうかそんな違う
今だったらもう30万から50万
ぐらいは軽くいくんじゃないですか でも田植え機普通に買ったら
常用だからさあれだって500万とか 400万とかそういう世界だよ
確かに確かに
それが560万で買えるようになったら
この当時がちょっと僕はデータ がないので15万円がどのぐらいの
価値観なのか分かんないです でも5キロっていうのは魅力
的よ 軽くていいですよね
軽くてできるっていうんだったら
ちょっと田んぼ今余ってますから 田んぼそれを始めようと思う人
にはハードルが低いと思う 確かに
人力はマジでやったけど 相当時間かかるから10人がかり
でやっても半日とか変わるから 平気で
なるほど
やったなよえげつなく疲れる
ね 労力やばいっすもんね
田んぼはね現代時において はかなり労力がかかる
これ5倍速でできますからね ヤンヤン
全然違うと思う それは売れるわ
だからそれは今から逆に農業に
入る人たちにとってはちょっと いいんじゃないかなちょっと脱線
しましたけどちょっと魅力的だな と思って
多分当時の人たちもそういうこと を感じたんでしょうね
うん
これ早植えができるようになりました 田植えめっちゃ早くなりました
してうまい米取れますこれをさらに 頑張る人はどんどんやろうよっていう
環境を国が整えてくれました結果 日本中で米がいっぱい取れて食文化
がさらに豊かになった 米巻き返したね
これが北国での量産が可能 になった一因でもありますし後々
後々ですよ後々日本の米余り状態 を招く縁にもなっていきます
余るのこっから
余っていくんですよ残念 ながらやりすぎちゃうんですよ
なんかお米って食べすぎたり やりすぎたりなんか大変だね
これはお米だけじゃなくて主食
メインになる作物の宿命ですね どこの世界でもだってアメリカ
でも小麦余りやってますからね 確かに
同じです同じです
そうなんだ
やってしまうんですねそこは 言いたいわけじゃなくてこの
三つが揃って始めて動き出すよ みたいなこれが実際この後給食
を含めた粉食運動に対してどういう 影響を与えていくのかというのは
次回です
次回か分かりましたじゃあ 次回楽しみにしておりますありがとうございました
ありがとうございました