1. ストーリーとしての思想哲学【思想染色】
  2. #77 詩+哲学=アフォリズム
2024-07-07 05:31

#77 詩+哲学=アフォリズム

サマリー

アフォリズムは哲学と詩の組み合わせによって成り立っており、レトリカルな手法が用いられることでテキストに多義性をもたせ、読者の身体にメイクセンスをもたらす効果があります。

アフォリズムの定義と背景
ストーリーとしての思想哲学
【思想染色】がお送りします。今回はアフォリズムがテーマです。
哲学というのは、隠喻的表現、メタファーなどの詩的表現に満ちています。
アフォリズムとは、真言、禁言のことです。禁言は禁の言葉と書いて禁言です。
アフォリズムは、辞書的には物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句のことで、
ことわざとか名言とかにも近いものです。
何らかの思想をワンフレーズで表現したものとも言えますが、
有名なところだと、パスカルの人間は考える足であるとか、
ニーチェの深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだなんてのがあります。
要は一言で、ピリッと真理を言い当てるというタイプの詩的表現のことです。
このように哲学と詩っていうのは関連性が深いんだけど、それがどういうことかという話です。
アフォリズムといえば、ニーチェや露志不幸が代表的な人物だと思いますが、
そもそもアフォリズムというのは詩的表現でもあります。
詩的表現、詩の形式というものは古代から哲学で使用されてきました。
古代ギリシアのエンペドクレスや古代ローマのルクレティウスは哲学をですね、
詩の形式を用いて語っていたわけだけど、
それは古代において、三文っていうのは人間界の言葉である一方で、
韻文、つまり詩は神や精霊といった超自然的世界、
あるいは刑事上的な世界に通じる言葉であるという観念があったようです。
古代から現代に至るまで、このような観念はずっと存在してきました。
詩の形式を用いると、なぜかはわからないけど、
感情の奥深いところへ刺さる表現をすることができるから、
真実を語るには詩の形式がいいんだという観念ですね。
じゃあ、なぜ詩の形式を用いると、
刑事上的な世界に通ずる感じになるのかという話です。
詩だとよく、詩の中に美と臭の対立や共存、
あるいは日常の醜さや堕落の中に美しさを生み出すみたいなテーマがよく見られます。
これは堕落の中に美しさがあり、美しさの中に堕落があるみたいな、
シェイクスピアの綺麗は汚い、汚いは綺麗みたいな量儀性を表すことで、
アフォリズムと詩の関係
頭の中に形成されるイメージに奥深さ、
表と裏の両方がイメージとして連想されるといった効果があるわけです。
さっきアフォリズムといえばニーチェと言いましたが、
ニーチェのアフォリズムについて、
コダマ・ハカルさんという方の
ニーチェの実験という隠喩についてという論文によると、
ニーチェは実験という言葉をメタファーとしてよく使っていて、
そのメタファーの意味合いとしては、
確証のなさ、厳密、能動性、歴史性、喜びという意味を表しているということでした。
これすごい今までの話を端的に表していると思うんですけど、
実験という言葉に確証のなさとか、厳密、能動性とか、
歴史性、喜びという意味が含まれている。
言い換えると、知的表現を用いることによって、
言葉にですね、多義性を持たせる。
実験ならこの実験という言葉一つが複数の意味を持つようになるわけなので、
必然的にテクストに多義性が発生するわけです。
そうすると読者は連想ゲームのように、
そのテクストを読んだ時に、頭の中に複数の意味がイメージされます。
このテクストを見た時に、
無意識に複数の意味が頭の中にイメージされるという状態が、
かなり物事をメイクセンスした時、
またアイデアを閃いている時の状態に近いから、
身体的な納得感をその時感じられるという、
これがアフォリズムが真理を言い当てていると僕たちが感じる正体であり、
詩の形式が哲学に好んで用いられる理由だと思います。
はい、いわゆるアフォリズムというのは、
哲学と詩の組み合わせによって成り立っている、
そして哲学においては、レトリカルな手法が用いられることによって、
テキストに多義性を持たせ、読者の身体にメイクセンスをもたらすという、
こういう効果が昔からあるよね、という話でした。
今回はここまでです。
次回もまたよろしくお願いします。
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