1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2024-02-04 1:08:17

#185 ソクラテスにはあって、ナポレオンには無かった「なんじ」の世界

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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サマリー

今回はユダヤ人哲学者のブーバーについてお話しします。彼は「我それ」と「我男児」という二つの世界観について説明しており、自分自身と他者の関係性について深く考えさせられます。このエピソードでは、「我それ」と「我男児」の世界の違いについて説明されています。ソクラテスは対話を通じて他者と向き合う姿勢を持っており、一方でナポレオンは自分を出発点として話をする傾向があります。この2つの世界観の違いが詳しく紹介されています。ブーバーは、ソクラテスとナポレオンの世界の違いを説明しながら、自己中心的な関係と真の愛について話しています。このエピソードでは、ブーバーの哲学を通じて人間の自己と他者、そして世界の在り方や生き方について考えることができます。「我男児」の世界について考える中で、ブーバーは神の存在についても深く掘り下げています。彼は、神は永遠の存在であり、多くの人が神との対話や関わりを持つことができると説明しています。

ブーバーの哲学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はレビナスということで、他人とはお互い宇宙人であるという話をしてきたというところでした。
だいぶ違いますけど、まあ宇宙人の例で話しましたね。
まあそう、めちゃくちゃ語弊があるけどね。
そうですね。あれではね、兄貴がさ、やっぱり他者とか他人っていうものもグラデーションがあるんだねみたいなところですごい気づきというかさ、面白いってなってくれたと思うんですけど。
いやーすごかったね。
で、今回も引き続き他者の話をしていくんですけれども、前回ねちょっとこうなんだ、他者を殺したいとするのだとか、結構ねハードな話をしたと思うんですけど、
ちょっと今回はもう少し穏やかな感じで、ブーバーっていうような哲学者の人をですね、取り上げて、
あと他者そのものっていうよりは、なんだろうな、この人こう対話とか出会いについて深く考えた人だみたいに言われることが多いんですけど、
もちろんね、対話とか出会うみたいな話って当然自分以外の誰かがいないと起きないことなので、
そういうふうなところの広がりでですね、この話を取り上げていきたいというふうに思っておりますという感じですね。
で、今回ね取り上げていくのがブーバーの有名な我と汝っていう本なんですけど、
これもうタイトルがいいよね、我と汝って書いてて、なんか何書いてるかなんとなく想像できそうみたいなさ。
まあまあね。
これまでね、存在と時間とかさ、論理哲学論考とか、ちょっと読む気なんないじゃないですか、やっぱり。
まあね、確かに存在と時間と我と汝は似てるような気がするけどね。
本当?
存在と時間なんだ。
なるほどね。
我と汝なんだみたいな、ある意味じゃけがいはどっちもしちゃいそうな感じはするけどね。
おお、なるほどね。
我と汝はじゃけがいしても全然大丈夫。
はいはいはい。存在と時間はじゃけがいしたら後悔するやつでしょ。
後悔しちゃうね、たぶん3ページぐらい後悔しちゃうやつ。
でもそんなに熱くないし、言葉はわかりやすいので、ぜひ興味持っていただいた方は読んでいただければと思うんですけど、
言葉はわかりやすいがゆえに書いてることは結構難しいというか、色々問いかけてくるような内容ではあるんですけど、
ちょっとお話いろいろしていきたいなと思ってます。
このマルティン・ブーバーさんという人なんですけど、この人はレビューナースよりちょっと前の人で、ほぼ同時代なんだけど、
1878年に生まれて1965年まで生きたこの方もユダヤ人の方です。
レビューナースと一緒ってことはね。
人種というかユダヤ人ということは一緒って感じだね。
ユダヤ人があっていいのかわからないんだけど、神とか宗教的な視点というのはすごく大事にする方々だという話があったときに、
このブーバーさんはですね、かなり思想の中にそういう宗教的なものとか、神みたいなものを割と普通に入れてるような人なんですよね。
そうなんだ。
哲学者ではあるんだけど、Wikipediaとか見ると宗教哲学者とかって書かれてて。
そうなんだ。
宗教哲学者ってのは何を指すかってのは難しいんだけれども、実際本を読んでてもやっぱりくさみの話とか、いわゆる絶対者みたいなものがスッと出てくるっていうのは特徴かなと思います。
面白いね。前回かな、他者っていうものは西洋哲学の中でデカルトぐらいから出てきたって話で、
結構神が他者っていうものを認識するときの足枷みたいな感じになってたと思うんだけど、
そこではちょっと同居してるというかね、そこはどんな執着家になってくるんだろうというのが不思議な感じだね、これまでの話にすると。
そうですよね。なので、その辺りがどういうふうに繋がってくるのかとか、いわゆる他者としての神みたいな話がテーマに入ってくるんだけど、
それが一体何なのかということも含めて今回見ていきたいなというふうに思っていますという感じですね。
早速、この本でどんなことが書いてあるのかというのをお伝えしていくんですけど、この本で面白いのが冒頭にかなり結論がバーンと出てくるんですよ。
結論。何が書いてあるか読んでみたいんだけど、今からね。
人は世界に対して二つの異なった態度を取る。それに基づいて世界は二つになる。
一つは我何時であり、他は我それであると。
そういう分かれ方ね。
我何時と我それっていう風なのがあって、人が我というとき、その我には二重の意味のあることがわかる。
たとえ言葉は同じでも意味するところは全く違っているからである。みたいに書かれてるんだよね。
ほいほいほいほい。
ブーバーはこの我何時という言葉と、我それという言葉を根源語と呼んでるんだけど、そういう風に全然違う言葉があって、同じ我なんだけど、その我は違うんだぜってどこから始まるんだろうね。
なるほど、言葉の定義的なね。
そうそうそうそう。
この言葉を聞いた時にどんなことをイメージできるとかするかな?
ここまで聞いただけだと、前もあったと思うんだけど、他人っていうものは明確に、いわゆるこっちはコントロールできるできないとかさ、
そういう意味で、いわゆるものと他人って結構違いよね、というような話が出てきたと思うんだけど、それと近い感覚なのかなっていうね。
コントロールしえない人間らしきものたち。それ以外みたいな。
そうだよね、こういう風に翻訳の問題とかもあるかと思うんだけど、イメージしやすいかなと思うのはそれだよね。
それの方はまさに、いわゆるただのものというか、自分の思う通りになってある種利用できる道具みたいな感じだよね。
自分と他者の関係
男児の方は、いわゆる実存的な他者って言うとあれだけど、まさに前回話したような自分の理解を加えたような他者とか、
ある種自分の思う通りにならないからこそ自分に向き合うことができるような他者っていうことをそれぞれ指していますと、ざっくり言うとなんだけど。
実際そうなのかな?
うん、実際そんな感じ。
細かい定義というからいろいろあるんだけど、ざっくり理解するとそんな感じの違いがあるんだけど、
ブータンが面白いのは、いわゆる我と、違う違う、男児とそれっていうのが違いがあるっていうのは前回レビューナスでも話したじゃないですか。
面白いのはこの我っていうものもそれによって全然変わっちゃうんだぜっていう話なんだよね。
さっき言った通り、我には二重の意味があるっていう言葉とか、
あとは、我・男児の関係と我・それの関係っていうようなものが、要は全然違う世界観の生き方なんだっていうふうにブーマンは言ってるんですよね。
ほうほう、なるほど、ちょっとずつ世界の広さというか捉え方が違う気がしてきた。
なので、これも例えば前回は、前々回からデカルトから始まって他者というものがどう問題になってきたのかっていう話をしたときに、
自分の理性とか自我が他者をどう捉えるかっていうところから始まったよって言ったじゃないですか。
逆にレビナスはあそこをちょっと変えて、反対に他者っていうところから自分にベクトルを考えたよっていう話をしたんですけど、
こうやって実は逆転してるから全然違うように見えて、少し引いてみると、どっちもやっぱり一方通り矢印の話じゃんみたいなことも言えるんですよね。
要は自分から他者へとか、他者から自分へっていうふうに始まりがあって、その矢印がどっちかに向いてるみたいな感じなんだけど。
はいはいはい。
このブーマンが言う、我と他者とか我と男児みたいな話って、要は双方向のというか、
一緒にこの世界が立ち上がってくるみたいな、結構そういう自分と他者が切り離せないんだぜみたいなことを表現してるんだよね。
なんかここって伝わるかな?どうだろう?
伝わると思う。
伝わる?
確かに。
そのデカルトから原子音楽だからフッサールか。
フッサールだね。
までは自分起点で話をしていたと。
そこからレビナスは他者起点だよね。
宇宙人起点で自分というものを殺そうとしてくるっていうか。
そうそうそうそう。
自分というものに新しいものを投げかけてくるって感じかな?
うんうんうん。
良くも悪くも。
そうだね。
それに対して自分は殺したくなっちゃうみたいな話をしてたっていうところだと思うんだけども。
もしそうだね、レビナスはそこまでしか話してないとすると。
前回レビナスのこっちからするとさ、自分からすると宇宙人が来たよね、だし。
ある意味宇宙人側からすると、同じようにまた得体の支援者が来たっていう意味で、そこは双方向で勝手に理解してたんだけれども。
もしレビナスのところで、双方向とこまで議論されていないとすれば、このブーバーがそういった自分というものがいたとして。
自分から見たら他者は他者だし、ただ他者からしたらその他者が自分であって、その自分から見た相手は他者であるっていう。
お互いやっぱり全員が自分を持っていると考えると、そういう世界観を考えることはすごく自然なこと。
だからそこにアプローチしたっていう意味で、すごく理解できる、このブーバーみたいな。
おもしろい。おもしろいのが2つあって、1個は兄貴のレビナスとブーバーの比較って面白いんだけど、ブーバーが言ってることはやっぱりちょっと違うんですよ。
自分と他者の連動
違うんだ。
それはまだ説明したいんで、これから話していきたいんですけど。
じゃあ何で聞くの?トラップだったのかな?さっきの質問は。
トラップじゃないよ。
違う違う。
何のトラップ?
正解かどうかっていうよりは、
何だろう。
要はこの感覚って、逆に分かるか分からないかが聞きたかったんだけど、
多分兄貴が今分かるって言ったことと、説明してくれたときの理解したのがやっぱりちょっと違ったから、
やっぱりすごく繊細な話なんだなっていうのを僕は逆に分かったっていう感じなのね。
はいはいはい。
何かっていうと、いわゆる自分がいて他者がいてみたいな話って、
これはずっと言ってるちょっと二元論的な考え方なんですよね。
要は自分と他者を分けるとか、自分と他人っていうのはやっぱり遠く隔たった人間、存在で、
それこそレビューのやつが言った通り、一生理解者園とか、自分の理解の範疇を超えておるみたいな感じになっちゃうんですよと。
もちろんブーバーの議論でも物理的にはそう、もちろん自分と他人っていうのは別々の存在ではあるんだけど、
その世界の秩序というか、世界の立ち現れ方としては、自分と他者っていうものは連動してるよねっていう考え方があるんですよ。
連動。
連動している、そう。
つまりさっき我、汝と我、それの二つの世界があるって言ったと思うんですけど、
わかりやすいのは我、それの世界なんだけど、
我、それの世界では、いわゆる自分っていうのは他人とか周りのものとかっていうのを、ある種自分の欲望を実現する手段だみたいに捉えちゃうような我なんだっていうふうに言うんですよ。
その時、他者か、汝かそれかってだけじゃなくて、その時の我の世界の捉え方とか、いわゆる世界の見方っていうものも一緒に定まっちゃうよねっていうふうなことなんだよね。
なるほどなるほど。その世界観に自分の認識だったりとか、そういう制約があるよみたいな話か。
そうだね。制約があるというよりは、そういう世界に生きちゃってるっていう感じなんだよね。
ソクラテスと我それの世界
例えば、空気みたいな話もそうだけど、空気が必要な人にとっては、空気の中で生きるのは当たり前だけど、魚にとってはそうじゃないみたいな話ってあるじゃないですか。
魚にとっては水の中で生きるのが当たり前みたいな時に、いわゆる我、それみたいな話も、
空気で生きるか水で生きるかみたいな話なんですよ。
なるほどなるほど。
だから、我、それの世界で生きてる人っていうのはもう、空気みたいに他人というものとか他のものっていう問題を自分の道具として使いますと。
それ以外の関係を知らないみたいな感じなんだよね。
そっちの世界も捉え方の話で、いわゆるその、うちらが他人と呼んでる人間みたいな人たちはいるんだね。
そうそうそう。他人もいるし他者もいるんだけど、他者もそれになっちゃってるって話なんだよね。
なるほどなるほど。
逆に、我、何時の世界では、もしかしたら物とかも何時になる可能性があるっていうところなんですよ。
へー、なるほどなるほど。
そこかもそこかも。
ごめんごめん、私そうだよね。何時とそれっていうと、何時は人の世界で、それは物の世界だって確かになっちゃうよね。
うん、そう理解してた。
ごめんごめん、そこでしたね。
わざとこういうフィン持ってきたわけじゃなくて、ファイトとしては説明してるつもりだったんだよ。
説明したいつもりだった。
無理だよ、無理だよ。
大変すぎました。
さっきトラップでしょって聞いたのは、そういうトラップを挟みながら理解を進めていくっていう構成だったのかなと思ったんですけど、
違うんだね、ちゃんと伝えてるつもりだった。
僕のコミュニケーションエラーでした、訂正いたしました。
ファイトは我それの世界に生きてるな。
申し訳ございません。
っていう使い方が合ってるってことでしょ、今の説明で言うと。
まあそうだね。
確かにちゃんと相手のことを得意者存在として捉えてなかったかもしれないですね。
すみません。
ちょっと改めて説明させていただきますとですね、
さっき言った通り、冒頭でこういうふうに書かれてるよっていう時にお伝えしたんですけど、
この我何時と我それっていうのは、世界に対する態度なんですよ。
はい、なるほどなるほど。
なので、我何時っていう態度で生きてる人は、いわゆる人も何時だし、物も何時だしっていうふうに生きていくんですよと。
で、我それっていう態度の人は人もそれだしっていうふうになっちゃって、そういう世界なんですよね。
なるほど、ちょっと前提が理解した気がする。
そうですね。
なので、せいか、いわゆるめちゃめちゃ大好きな愛してる人とか親友とかでもいいし、
あるいは思い出のぬいぐるみとか、もしくは最高の芸術品でこの存在って自分にとってあまりにも大きすぎるみたいなものがあった時に、
そういうものは全部我何時の関係みたいになるんだよね。
そうなると、我何時の中での思い出のぬいぐるみとかっていうのは、ある種自分の思いのままになるものじゃなくて、
やっぱり自分の世界を一緒に彩る存在みたいな。
そういうふうに自分の思い通りになるものより、自分の思っているものを超えてすごく大事だとか、
それをなくしたら自分の世界が壊れるぐらいに思ってしまうみたいな、そういうことが起きてますよね。
というのが、我何時の世界として生きるみたいな、そういう感じなんですよね。
なるほど、なるほど。ちょっと質問早いかもしれないけどさ。
どうぞどうぞ。
ここまで聞いて気になったのは、我何時と我それの世界って2つあるっていう話をしたんだけれども、
それって1人の人間が同時にさ、この部分については我何時、この部分については我それっていうふうに生きている可能性っていうのはあるのかな?
もちろんある。もちろんあるんだけれども、
後半でちょっと言うんですけど、基本的にはブーバーは、大体やっぱり我それになっちゃうんだ、人間の生きている現実っていうのはっていうふうに言うんだよね。
ほうほうほう。
なので、これも話を先をしたんだけど、永遠にやっぱり何時であるものっていうのは存在、基本的にはしないんだと。
思い出のぬいぐるみをいつかは色あせるし、愛していた人もいずれは色あせるみたいなことっていうのが現実にも起きるじゃないかと。
むしろそういうふうになるのが人間の生きている姿なんだぐらいに言うんだよね。
なるほど、なるほど。
ナポレオンと我男児の世界
なので、いわゆる同じ人が我何時の世界と我それの世界で生きるってことがあるんだけど、基本的にやっぱり我それの世界で生きているような人間はっていうような感じかな。
なるほど、なるほど。
でも、どうして聞きたかったのかも聞きたい。
どうして?
世界が二つっていう話をしてたから、何となく一人の人が片方の世界にしかいないのかみたいな、そういう感じなのかなと思ってたんだけれども、
今の説明を聞くと、例えば思い出のぬいぐるみでいいからじゃん。ぬいぐるみがあったときにそれに対しては我何時の関係がある。
別にそれ以外の興味ないぬいぐるみとかは、我それの関係みたいなことってあり得るよなって。
そうすると、どの世界観に生きるっていうよりは、自分が関係するものとそれぞれ我何時、我それっていう関係をただ築いていくだけなのかな、そういう感じなのかなって。
だからその世界観でさっき水の方で生きる、空気の方で生きるってあったけれども、
それが自分が必ずそっちの方に所属してるとかさ、そっちの世界観で生きていて、もう片方とは、では生きられないとかさ、生きてきないみたいな感覚なのかなと思ってたのが、
意外とそうじゃないんだなっていうふうに思ったってこと。
確かに。それで言うと、おそらく現実的な話でいくと、まずは我それの世界が、たぶん普段の僕らの常識的な世界なんだよね。
ある種やっぱり自分というのがいて、他のものっていうのはある種自分に奉仕するじゃないけど、それこそ自分の世界の中にあるものだみたいな、結構これまで捉えてきた考え方に近いですと。
でも、ある種その本当の特別な存在とか、自分にとって本当にこう、何だろうな、こう、偉大な存在で、やっぱりその辺りが結構神とかと繋がってくるんだけど、
そういう偉大な存在で、やっぱり自分の中に含めきれないみたいなものに出会ったときに、ある種我男子の世界っていうのが開けてくるみたいな、結構そういうふうな感覚じゃないかなと思うんだよね。
なるほど。
なので、やっぱり説明上というか、ブーバーの考え上は、まずそもそも2つの世界があってっていうふうになっちゃうんだけど、
僕ら普段生きてる人からすると、まずは我、それの世界で生きている中に、我男子っていう世界がある種開かれてくるというか、そういう瞬間があるよねみたいな方が近い理解かもしれないね。
なるほど。
そんな感じです。
結構ここで面白いなっていうか、さっき対話みたいな話が出てくるんだけど、
ブーバーは我それと我男子っていう世界がそれぞれこういう世界だとか、こういう違いがあるよっていうことをいろいろ言ってくるんですけど、ある種物を語るとか話すっていうときに、我それの世界っていうのは独り言なんだみたいなことを言うんですよ。
ほうほうほう。
相手のことをある種道具だと思っているし、自分の支配下にあると思っているわけだから、結局それに対して語る言葉っていうのも、結局自分で自分に対して語ってるってことと違わないじゃないかみたいな発想なんだよね。
なるほど。
結構これも前回のレビューナースに近いかもしれないけど、例えば僕と兄貴がこうやって喋ってても、我それの世界で生きてると、結局兄貴が喋っていることを自分の理解の範疇だけとか、自分の都合のように面白くしちゃうよねと。
それで結局対話じゃなくて独り言だよねみたいな。そんな感じなんですよ。
なるほど。まったく自分の価値観だったりとか意見に変わりがないってことだよね。
そうそう、変わりがないし、逆にそのことを言うなんてって言えば対話になるかもしれないけど、そもそも自分の理解にしちゃってるから別に兄貴と意見が割れるってこともないというか、そんなような話し方、コミュニケーションのことだね。
我男児っていうのはその一方で、いわゆる対話なので、ちゃんとまさに自分の価値観が変わるとか、相手の世界観っていうものが自分に覆りかぶさってくるみたいな。そういうものを対話という風にブーバーを呼んでるんですよね。
そうなるとその対話とか独り言っていう違いだけじゃなくて、やっぱり相手にどう向き合っているかとか、相手のことをどう理解しているかとか、自分の自我とか価値観というのは変わる可能性っていうものをそもそも前提としているかどうかみたいな感じで、やっぱり我っていうもののあり方も変わるよねっていう。
これがさっき言った2つの世界において、我っていうのが同じ言葉でも意味するところが全く違うんですよっていう話なんだよね。
我それと我男児の世界の比較
うーん、なるほどね。どっちのモードにいるかで全然違うってことはね。
そうそうそうですよね。
面白いのがその具体的な例として、ソクラテスとナポレオンっていうのが挙げられてるんですよ。
イメージソクラテスが我男子のほうの対話で、ナポレオンがいわゆる独り言、我独りの世界だっていう話なんだけど。
そうなんだ。
ナポレオンはフランスの皇帝だったかちょっと詳しく分かってないんだけど。
皇帝だね。
皇帝だね。
いわゆるそういう権力を手にしましたみたいな人だと思うんですけど。
まずソクラテスの話からすると、このストレスラジオでも何度か名前はよく出てくると思うんですけど、言わずとしられた無知の地の人ですよねと。
対話編っていわゆるプラトンの本の中で、ソクラテスがいろんな人と対話という話をする中で、いわゆる真実を暴き出していくというか、一緒にたどり着けていくみたいな話なんだけど。
それに対してブーブーはめちゃめちゃ絶賛をしてて、ソクラテスっていうのは無限に続く我男子の対話における現れの人だみたいなことを言ってて。
一瞬たりとも現存する人間に対する信念を失ったことがなかった人だっていうふうに評価してるんですよ。
現存する人間に対する信念とかってちょっと難しくなっちゃうんだけど、要は他者を物として扱ったりとか、一般論として煙に巻いて、ある種自分の考えを押し付けるみたいな。
ってことはしなくて、常にその人自身に向き合った人だったんだみたいなふうに言ってるんですよね。
なるほど。決してそれとして扱わなかったってことだよね。
まさにそういうこと。
逆に言うとナポレオンっていうのはどうなんだって話で言うと、まさにそれとしてしか扱わなかった人だぐらいに国評をされてるんですよ。
へー、そうなんだ。
そう、何時の偉大さを知らなかったとまで考えてるんだけど、なんでかっていうとそれはナポレオンっていう人が、ブーバーからするとね、
ナポレオンっていう人が自分のことを語ろうとしたんではなくて、自分を出発点として語ったに過ぎなかったからだっていうふうに書いてるんだよね。
自分のことを語ったんじゃなくて、自分を出発点として語った。
ある種、自分のことを語るっていうのは、相手が自分のことを知らないっていう前提で、自分について知ってもらおうとか、理解してもらおうとかっていうふうに語ることじゃないですか。
はいはいはいはい。
ブーバーの世界観と男児の関係
でも、自分を出発点として語るっていうのは、つまり常に自分が中心で、相手っていうのはそれにある種、やっぱり属するものだとか、従ってるものだっていうふうな価値観から語ってるんだっていうふうにブーバーからは見えてるらしいんだよね。
なるほどなるほど。
なので、ある種、相手をただの存在として利用するみたいな話なんだけど、やっぱり、ナポレオンが実際どんな人だったかちょっと僕もわからないんだけれども、
そういう権力の中で、自分の都合のいいように人を扱うとか、自分に対して何か喋ってくる言葉っていうのは自分の都合のいいように解釈してたみたいな、そういうことがあったんじゃなかろうかとは想像するんだよね。
そういう意味でブーバーは語ってるってことはね。
そうそうそうそう。なので、やっぱりソクラテスの世界というのとナポレオンの世界というのは全然違ったんじゃないかというふうなことを言いながら、やっぱりブーバーっていうのは、世界との関わり方とか我、何時と我それどっちで生きるかによって、やっぱり人との関わり方からその人としての在り方まで全部変わってくるんだっていうことを言ってたりします。
なるほどね。この世界観の説明としてソクラテスとナポレオンを持ってきたって話はね。
そうですそうです。
なるほどなるほど。これは確かにわかりやすいかもしれない。
どうかな。確かに兄貴に言って思っただけやっぱり世界観のことを普段考えることってあんまりないじゃないですか。生きててね。自分がどんな世界観に生きてるんだとか、そもそも世の中にどんな世界観があるんだみたいな話ね。
だから結構理解が難しいというか、確かにずっと張りにくいのかなと僕も思いながら話したんだけど、私ここまで話してきてて、そういう世界観って確かにあり得るよねとか、確かに自分の感覚でもあるかもとかって感じることってあったかな。
そうだね。たぶん前回のレビナスとまた違った感覚で、そうだよなっていうふうに説明してくれてるのかなみたいな思うのは、確かにそうだよね。
いわゆる人?今回他社だから人とかで言うと、確かに小学校の頃からさ、もちろん今でもさ、友達になる人とならない人っているわけじゃん。
あとは仕事とか知り合いとかでも、なんとなく付き合いのコインが出てくると思うんだけど、そういうところをうまく説明してくれるというか、その現実を説明すると、それぞれの人間はこうやってあらゆる人とかものに対して、
それっていう視点と、男児っていう視点というか態度で接してるんだよねっていうふうには思うんだけど、そうだね。もうちょっと深い話からここは出てきてるかな。
ある種の現実世界を見てっていうよりは、やっぱりこう、冒頭言ったら神とかと関わってくる話なんだけど、ある種は僕らが使うというか、ブーバーを役立てるっていう意味では、
それこそやっぱり仕事とかで、そもそも利益第一主義とか、効率性だけを重視するとなると、そもそもその世界で生きる我っていうのは、やっぱり我それの関係にしか生きられない我になっちゃうんだよね。
するとやっぱり仕事において仲良くなるってことはありえないとか、そもそも他人っていうのは自分の道具だみたいなやっぱり発想になりがちであると。そこに我男児みたいなものがそもそもあるよねってなると、ちゃんとその目の前の人を人として扱おうとか、そういうことの築きみたいにはなってくるよね。
うーん、なるほどね。相手は今自分をそれとして扱ってるなみたいなね。
そうそうそう、絶対あるじゃない、わかるじゃん、そういうのって。
うんうんうん。
これって自分のことを思って言ってくれてるのか、ただ自分の保身のためとか相手の都合のように扱われてるんじゃないかとかって感じるじゃない。
はいはいはいはい。
うん、まさにそれが我、それと我男児の違いみたいな風にも言えるとは思うんだよね。
うんうん、なるほどね。
うん。
はいはい。
実際どういうのが一つ面白かったのが、いわゆる世界観とかの話なので、例えばこっちでは男児と言いながら我の中ではそれと思うみたいな、そういうこともあるよねっていうことも言ってるんだよね。
あ、それ話してるんだ。
そう、してるしてる。
はいはいはいはい。
我それと我男児の違い
ただ、男児って呼びかけることが大事なんじゃなくて、その世界の中においてちゃんと男児っていう風に語りかけるとか、そういう風な我であるっていうことが大事なんじゃなくて、ただ言葉の違いじゃないよみたいな話なんだよね。
はいはいはい。
うんうん。
なるほど。
なんかでもちょっと宗教者っぽいというか、東洋っぽい感じから聞いてもそんな違和感ないような物事の捉え方な感じがするね。
うんうんうん。
ある種こう自分の意識とか捉え方が変わると世界も変わるみたいな話ではあるんですけど、ここからもう一段深くなるんだけど、さっきも言った通り、我男児の世界ってバラ色の理想郷かみたいな話じゃないですか、そうなっちゃうと。
我それってのはダメで、我男児っていう世界に生きるべきだみたいな感じ?
そうね、さっきもあったけど、多くの人が多分我それの方が多分割合が多い世界観だったり、モードみたいなさ、生きることが多いとしたら、じゃあその全部が我男児の世界観で生きた方がもう幸せじゃんみたいな、もしくはその交渉なように聞こえるよね、すごくいいことが聞こえる。
そうですそうです。僕も多分そんな風な温度感で言っちゃってたんだけど、それは違いますよっていうのが実はここからの話なんですよと。
はいはいはい。
これも実際ブーバーが言ってることなんだけど、やっぱりさっきも言った通り、我男児の関係にあったらやっぱり男児っていうのは基本的にそれに変わっちゃうんですと。
さっき言った話はね、いつか我男児は死んじゃうとか。
そうそう、死んじゃう。いや、実は死んじゃっても男児であり続けることはあるんだけど。
ああ、まあそっか。思い出みたいなね。
思い出とか、そうそうそう。あるいは今はもういない人に対して、やっぱりでもあの人を心の中にすごく大事にして、思い続けるとか抱き続けることもできるじゃないですか。
まあそれこそソクラテスとかナポレオンとか、このブーバーもそうだね。
そうそうそうそう。
あるいはその失踪だったりとか、行跡が残ってて後世にかかり継がれるっていうのは、多くの人って我男児の関係であるとも言えると。
そうそうそうですよね。
ああ、そっかそっか。
逆にどっちかっていうと、いわゆる真実の愛を持っていた人が、例えば普通の人になってしまうとか、そういうふうな感じなんだよね。
そういうことか。さっきハヤトがさ、例えばぬいぐるみが色褪せるっていうのを表現して、その後愛せる人も色褪せるとかってさ、すごく嫌な表現するなと思ってたんだけど。
そういうことじゃない。それは主観の話でね。その相手の人がめちゃくちゃ多いって見にくくなっちゃったりとか。
違う違う違う。そういうことじゃない。
すごいひでえ話してるなと思ったんだけど。
そうか確かにね。違います違います。
なんかすごく喧嘩しちゃったりとか、すれ違いがあって、愛みたいなものが色褪せていく、我なんていう関係が色褪せていくみたいな。そういうふうに気で使ってたのか。
そうですそうですそうです。
死ぬとかだったらわかるけど色褪せていくってすげえ嫌な表現だなって。
違う違う違う。
男児の関係と宇宙的な存在への接し方
なるほどね。
別に老いたりとか、その人の外見なりなんなりが変わるってことは別に、それを嫌と思うかどうかはこっちの話じゃないですか。
そうだよね。
どっちかというと実はそういう価値がなくなるとかっていう話ではなくて、逆なんだよね。
要は常に相手が自分に全身全霊で向き合ってくるってことを考えてほしいんだけど、要は我なんていう関係っていうのはやっぱりレビナスとちょっと近いところがあって、やっぱり他者っていうものが常に自分の理解の範疇を超えるとか。
だからこそ常に相手に全力で向き合わないと成り立たないような関係っていう感じなんですよね。
まあそうだね。すごく緊張感の…
そうそうそうそう。
殺して殺されるのをレビナスと言って、そんぐらい緊張感のある関係なんだろうというところね。
そうですそうですそう。だからもちろんそれは愛ではあるんだけど、やっぱり本当に相手を愛せるほど自分のことを本当に理解してくれてるだろうかとか、相手のことを自分は本当に理解できているだろうかとか、相手にとって自分っていうのは本当に良い存在であろうかとか、やっぱりそういうことに向き合わなきゃいけないですよねと。
重いなあ。でも男児っていうのは重いんだね結構。
男児っていうのはそのぐらい自分の価値観をやっぱりアップデートするっていうのはそういうことだから、常に想像と破壊みたいなことをやっぱり向き合わなきゃいけないわけなんですよね。
さっきサニーキーが言った通りさ、全部の存在と我々の関係になればいいかっていうと、あらゆる存在ものとそんなふうな関係になっちゃったらさ、壊れちゃうと思うんだよね自分が。
いやー、そうだね。きついし無理だし、ちょっと違うけどさ、実音書類を読むときにさ、このパンは食べられるのだろうかみたいなやつだった。
はいはいはい、常にね。
毎日常にね。この一歩前の道は崩壊しないのだろうかみたいな、一歩一歩考えるみたいな、そんなに近い感覚になる。
それの愛おしいバージョンみたいになっちゃうみたいなね。
まあそうだね。
愛おしいんでもないか。愛ってだけじゃないんだもんね。
愛だけじゃない。
ただ向き合うって話だからね、正面から。
うん、そうですそうですそうです。
でも近いかもね、やっぱり確かに。そういうものに常に問い返されるというか、このマイクは果たして自分にとってふさわしいマイクなのかとかさ、それはまあわかりやすい例だけど、
そんな風にさ、いちいち全部のもの、あらゆるものとやっぱり関係性を持っていくっていうのは、まあやっぱり普通は無理なんだと思うんだよね。
カロリーも時間も何も足りない気がするね。
そうなんですそうなんです。
だからやっぱりこう、それはそれで受け止めきれないからこそ何時って読むのもやっぱりそれの世界にならざるを得ないよと。
逆に言うと一般の人にとってはやっぱり逆にそれとしてあったものが何時に変わる。
要はただの人、ただの他人だったものがいわゆる愛する人に変わるとか、ただのぬいぐるみが自分にとってかけがえのないぬいぐるみに変わるとか。
そういうことがある種の喜びとか神聖さみたいな。
ちょっとそういうこの世のものじゃない崇高なものと触れ合うっていうようなことをうっとりした気分にさせてくれるよねみたいな。
結構そういう風に近くて。
逆にそれが過ぎ去っちゃうと、これブーバー書いて面白いんだけど、要はあんな素敵なものと触れ合えてよかったじゃなくて、
そういう素敵なものを失ってしまったみたいな不安になるじゃないかと人は。
なので、そういう高豪しいものとか自分をうっとりさせてくれた神聖なものっていうのが、実は何でもないものであった、それであったことに気づくみたいな。
そういうのをある種人間の宿命だみたいな風に考えているのがブーバーなんだよね。
面白い。はいはいはい。
これもちょっと例えとしてどうかと思いながら台本に書いたんだけどさ、いわゆるドラマとかであるワンナイトラブみたいな。
夜の間はさ、なんて世界は素晴らしいんだとかって思っても朝になったら、なんでこんなことをしてしまったんだって後悔するみたいなさ。
自我と他者の関係性
話があった時に、そういう理想と現実とか、聖なるものと横島なものみたいな。
その転換みたいなものがここにはあるなっていう風に思ったんだよね。
なるほど、そうだね。確かにワンナイトラブはちょっと違う気がするんだけれども。
面白いよね。前回のレビューイラストだと、他人の方に焦点が当たって、
じゃあ今まで散々語ってきた、それこそ2000年以上語ってきた自分、我、じゃあ何なの?ってところが結構スポッと抜けてる感じはしてたんだよね。
そこにこのブーバーはきちんと自分っていうものと、いわゆる何時とかそれっていう周りのものの環境を示しながら、
その中でそれぞれの自分っていうものが、どういう世界観だったらどういうモードで生きてるのかみたいな。
ここはすごく話してくれてて、確かに前回で他人の話でもいいじゃんって思ったんだけど、
やっぱり他人も一人の自分なわけで、そうするとやっぱり自分と他人っていうものはとってもひりはさい中で、
その関係を見事に、確かに上からだけど、ブーバーの師匠みたいな。
よくやったブーバーみたいな、ちょっとそういうお前なりさまだなんだけど、
その噂みたいなものは伝わってきてる気がする、その早田の話から。
嬉しいですね。
すごい話だよね、確かに。
今さ、やっぱりこれで言うと、普段我それで生きてる人の方が多くて、
そうすると普段の何時化したものだよね、何時になったものと出会った時とかは、
すごい喜ぶ、嬉しい、恍惚しいみたいな。
それをなくすとすごい寂しいっていう。
たぶんそれってすごく人間がさ、やっぱり友達とかでもさ、
あ、親友と出会った、で裏切られたみたいな話。
あーそうね、そうそうそう。
すごくその、いわゆる素朴な感覚だったりとかさ、
もしくは実際に営まれているこの社会の中でさ、
世界ってものをすごく納得感のいい、すごく納得感のいいと言うかさ、
あーそれそれみたいな感じで言い表してくれてるし、
あと逆に一方でさ、
たぶん一定数、すべてが何時みたいなセンサーを持ってる人もいるはずなんだよね。
なるほどね、いると思う。
そうするとさ、逆にさっきハヤトが言ったように、
全員が、あらゆるその囲われるものと何時、何時っていう関係になっちゃいそう。
だけどそれは無理じゃんっていうところで、
たぶん意識してすべての何時をそれ化しながら生きてる人もいるはずなんだよね。
うんうんうんうん、なるほどね。
たぶんブーバーとかさ、一定のこういうのに気づくような人は、
そういう感覚を持ってるのかもしれないって聞きながら思ったんだけども、
そういう感覚の人もちゃんと言い表してる?
そうだねそうだね。
っていう意味ですごく面白いなと思ってね。
嬉しいです。
そうね、実際ブーバー自身も書いてるんだけど、
我々はセキララな現存のうちに生きることに耐えられないっていうふうに書いてるんだよね。
セキララな現存、ほうほうほう。
つまりこれは我、何時の世界、いわゆるすべてが何時の世界だっていう話なんだけど、
はいはいはいはい。
やっぱり兄が言ってくれた通り、それは普通の人間に耐えられない話なんですよと。
もしかしたら宗教的な指導者とかプラティスみたいな偉人レベルだったらできるかもしれないけど、
やっぱりそのぐらい奇跡的な出来事なわけなんだよね。
やっぱり普通の僕らとしては、我々何時っていう生き方に、
やっぱり僕は結構魅力を感じはしますと、
そういうね、崇高なものとか聖なるものみたいなところは、なんかいいなとは思いつつ、
結構本当の意味は相手の全存在を受け止めるっていうことはすごく難しいことなんだと。
やっぱりそういうこともすごく教えてくれるような話だなと思うんだよね。
あとやっぱり面白いのは、逆にそれはできないというか、
我何時の世界っていうのはある程度理想なんだけど、
でもその理想を考えるからこそ、ある種我それの生きる、
我それの世界に生きる僕らも、例えばちゃんと相手と対話をするとか、
本当の出会いっていうものがあるんじゃないかというふうに思いながら行動をするとか、
そういうことができるじゃないかと。
そういう感じでちょっとかけげんめいてるんだけど、
ブーバー曰く、人はそれなくして生きることを得ずと、
されどそれにおいて生きるものは真の人間にあらざるなり、みたいに言ってるんだよね。
はいはいはいはい。
そういうのがかっこいいよね。
うん、すごいすごいすごい。
だからそれの世界で生きてていいんだけど、そうなんだけど、
それだけじゃダメだぞというふうなことを言って表しておりますという感じなんだよね。
すごい良い言葉だね。
ちょっとやっぱり宗教っぽいというか、そういう感覚があるでしょ、言葉から。
うん、そうだね。あるし、ただやっぱり言った通り、さっきの通りで、
やっぱりそれ側で生きる人と何事側で生きちゃう人みたいな話があったときに、
ちゃんとどっちもそれぞれの、どっちがいいわけでもないみたいなね。
あーそうだね、そうそう。
ただやっぱりそれで生きる人が多いから、何事という感覚を持っておいた方がいいよみたいな、
そういうね、分かっている人が思わずにちゃんと真実を伝えてくれてる感じ。
うんうんうんうん、そうねそうね。
確かに。
みんな何事の感覚で生きろよって言った方が簡単じゃん。
間違いない、確かにね。
そっちの方がみんなそうだそうだって言って、俺も何事ってわかるぜとか、
お前まだ何事わかんないのかよみたいなさ、
世界でもいい人でもいいわけじゃん、ある意味で。
分かりやすいね。
そっちの方がブーバーも人気者になったりとかさ、儲かるかもしれないけど、
ちゃんとそういうフラットな感じ。
そうなんだよね、だからやっぱりこれはさ、現代批判、現代批判ってそこまででもないけどさ、
分かりやすい方がやっぱり広がるとあるじゃん、特にね、Xみたいなツイッターみたいな話でいくとさ、
言い切っちゃった方がなんかいいよねとか、その方がかっこよく見えるんだけれども、
やっぱり人間そんなに割り切れないよねとか、やっぱり本質的なことっていうのはやっぱりAでもない、
CやっぱりBでもないとかで、AでもありBでもあるみたいな、
そういう要素を含むんだろうなーと思うよね、こういう話を読んでると。
そうだよね、だって前回のレビューナースで一番わーっと思ったのはさ、
いわゆる複数人、ABCDって4人くらい何人かいたときに、
それぞれの世界観を全員が共有したりとかアップデートするとかって無理じゃん、
ってことは、そこにさらにもう一個倫理的な、仮のこれでOKみたいなものを作って、
その4人がその上で合意をするみたいなさ、そういう世界観が必要で、
それが倫理だみたいなさ、話があったと思うけど、これも同じだよね、今流行った話で。
やっぱ正解のないものっていうかさ、お互いの意見みたいなものしか絶対的な正解がないものを
対話し始めたときには、絶対に着地点というかさ、
お互いが同じようにアップデートされることなんて多分少なくて、
1対1であってもね。
そういう中で、これでいいじゃないみたいな着地点というかバランス点みたいなものを、
とりあえず置いとく、もしくはバランスできないんだっていうことを、
お互いが納得するみたいなね。
それもまた一つの倫理観というかさ、
納得できないのっていうのが一つの着地点だと思うんだけど、
そういう話ができる土台を作ってくれるっていう意味で、
レビナスもルーマンもすごいなって。
なんか、ありがとうって思うよね。
逆に言うと、こういう人たちが作ったものの中、
世界観の中でうちらは多分生きてるんだ、みたいなところを含まれてるんだろうなと。
だから言葉でちゃんと説明されたときに、
なるほどと納得しやすい部分もあると思うんだけど。
そうだと思う。やっぱりこう、ある種の空気が見えるようになるというか、
自分が当たり前だと思って生きてたものが実は、
そういう風な歴史があるんだとか、そういう発想があるんだとかっていう風に
言葉にされるってことだとは思うんだけど。
確かに確かに。自分たちが吸ってたものって空気か酸素だったんだと。
必要なのは酸素だったんだみたいな話だよね。
窒素はやらなかったんだみたいなね。
まあ、空気中の窒素は利用できないんだっていう話だよね。
確かにそうだよね。
水の中で生きてるものと空気の中で生きてるものって全然違う気はするんだけど、
ただ酸素の取り込み方が違うだけでみたいなさ。
実は酸素っていう共通項があるんだよって。
それって実は、水と空気で生きてるものってお互い殺し合ってもいいものぐらい違うと思うんだけど。
実はそこに着地点としても、つなぐものとしても酸素があるみたいなさ。
多分そういう話だよね。
絶対に水の中で生きるべきだ。
絶対に空気の中で生きるべきなんだっていう。
ツイッターでさ、空気系がすごい優勢で、水派がすごい強いてあげられてるという時が、
いや、酸素じゃね?みたいな。
俺らどっちも酸素を必要としてるじゃん、みたいな。
そうそうそう。
深政にそういう第三の立場に立つというか、ちゃんと間を繋いであげるっていうのはすごく大事みたいな話があるんだよね。
それは難しいからね、困るとね。酸素っていう答えが分かればいいけど、議論がある中で酸素っていう存在が解明されてることって多分ないんだろうね。
ないね。本当にそうなんです。
だから対立というかね、いろんな意見が生まれるっていうのは、また面白いと思うんですよね。
いやでも本当に兄貴が今言ってくれた通りなんですよ。
前回のレビナスは他者の問題にやりすぎちゃったので、レビナス自身もちろん自我とかそういう社会的なこととかも言ってはいるんですけど、
やっぱりブーバーの話をここまで聞いてくださった方は感していただけるんじゃないかと思うんだけど、
我何時の世界
いわゆる他者っていうのは、ただ他者っていうだけの存在だとか、自我がどう他者を捉えるかっていうことじゃなくて、
やっぱり世界の在り方とか僕らの生き方とか、かなりそういう次元になってくるんですよね。
はいはいはい。
これは哲学の進歩みたいに取るか、それとも問題が永遠に広がっていくよみたいな、そういうところもない話だというふうに取るかは、
そういう人それぞれかなと思うんですけど、個人的には繰り返しになっちゃうんだけど、
このブーバーから学べるというか感じたいこととしては、やっぱり人間、我それの世界で生きるのが常なんだけど、
やっぱり我何時の世界っていうのも知っておきたいというか、そこを考えておかないと、
やっぱり何か本当に豊かな人生にならんのじゃないかというようなことが素直に思うんですよね。
まあそうだね、まさにさっきのブーバーの言葉だよね。
全部何時かしないまでも、何時っていうものがあるんだぜっていうようなことをきちんと意識しておく。
ことは大事だよって話だよね。
そうじゃないと、結局我としての自分っていうのは他人とか他のものっていうのを自分の支配下に置くような、
そういう生き方に意図せず無意識的になっちゃってるんだぜみたいな、結構そういうところが強いかな。
僕は多分そういうふうになりがちだったからだと思うんだけどね。
どっち側?
我それ側で他人を支配に置くじゃないけど、やっぱり自分の思考で世界を覆いたいみたいな。
ちょっと前回も言ったと思うんですけど。
ああ、なるほどね。すべて何時で理解したいとかじゃなくて、
全部それ化してたみたいな。
全部それ化してることを自分は何時にしてると思ってたみたいなぐらいの感じかな。
そこまでも思ってない。
何時っていうのはやっぱり自分の思い通りにはならないから。
逆に思ってると自分の理解の及ぶ範囲に世界をとどめておきたかったんだよね。
その方が楽じゃないですか。
絶対楽だよね。コントロールできる。
コントロールできる。だから楽なんだけど、やっぱりそうじゃないよと。
やっぱり自分の理解できないものがあるっていうのが当たり前だし、
むしろそういうところの方にウーバーがあるところで、
やっぱり真の人間の生き方みたいなものがあるよっていうことは本当にそうだなと思ってて。
ちなみにウーバーは、さっきあらゆる何時はそれになるって言ったじゃないですか。
うんうん。
あらゆる何時はそれになるんだけど、
もし彼にそれにならない何時があるとしたら、
これを永遠の何時って呼ぶんだけど、これこそが神だっていう風に言ってるんだよね。
へー、なるほど。
神がいるんじゃなくて、もし永遠の何時というものが存在するならばそれが神だと。
うんうんうん。
神っていうのはもちろん自分の理解とか判断値を超えているし、
決して自分と交わることはないんだと。
いわゆる絶対的な神だからね。
はいはいはい。
そう繋がることはないんだけど、だからこそ神と出会うこととか神と対話することはできる。
もっと言うと神に向かって呼びかけるっていうことができるんだよね。
うんうんうん、まあそうだよね。何時だから対話可能ですからね。
対話可能です。
いわゆる対話のようにキャッチボールが成立するかどうかっていうのはまあわかんないんだけれども、
物理的なね。
物理的にね、そうそう。でもやっぱり全身全霊込めた神に向き合うとか、
神に向かってもう心のそこから呼びかけるっていうことがやっぱりできるし、
そういう説明さっていうものがやっぱりあるんだと、いうようなことを言うんだよね。
そこはなんかちょっと宗教者と言われるゆえんかもしれないね。
そこに永遠っていうふうに入れちゃうのがね、神は永遠じゃなきゃダメなのか。
神は永遠に何時であるっていうことかな、確かにどっちかというと。
だから神という存在が独立に永遠に存在するっていうことよりは、
我にとって永遠の何時として神というものが存在するって感じなんだよね。
その違いわかる?
わかると思う。さっき神は永遠じゃなきゃいけないってあえて導入したんだけれども、
それはそうだよね。神の存在を前提にしちゃうから、
多分今回言っている永遠の何時が神であるとは多分ちょっと認識が違うんだよね。
そうしちゃうとね。
そうしちゃうと二元論的な独立な存在があっての存在が先になっちゃうから。
これからでもブーバーは多分世界が先というか、その世界の立ち会われ方が先で、
その中に個々の存在の関係が定義されていくみたいな、結構そんな考え方だと思う。
面白いね。そうなると神というものが何時かした人たちがいたとすると色あせないから、
結構神は相対的になっていいっていう話をしてるのかな。どうなんだろうね。
そういう程度はないのか。
相対的っていうのはどういう意味かによるかな。どんなイメージ?
今回の話とずれちゃうかもしれないけど、神の存在みたいな話になっちゃうけど、
多分ブーバー的にはあれなのかな。それとしても神は存在していて、
それとして神があるものを、多分一定程度その神を何時かできる人たちがいるという風にすると、
だからそれとしてまず神が存在するよね。
どうなんだろうね。
それは違うんだよね。要は永遠の何時だから、永遠の何時がそれになることはないんだよね。
なるほど。ちょっと待ってね。これは面白いかも。
それとしての神はないんだ。
それとしての神はブーバーという神ではないという感じかな。
要は道具として人間が使う神がいるとしたらそれは同じ神という言葉かもしれないけど、
それはブーバーの言う永遠の何時としての神ではないよね。
いつか祀られるみたいな話だね。
神と自己の関係
そう。あくまでも自分の都合のよい使われてしまう神。
なるほど。
そうすると、なんで永遠にみたいな話を使っちゃったんだろうというところに気になったんだけれども、
確かにそれになるものは神ではない。神に値しないみたいな感じで考えると、
確かに神という言葉をつけていいのは永遠に何時であり続けるものだけと。
そうです。
あり得るな、でもね。
すごい一神教的だけどね。神がたくさんいるとか、
日本人は神にお願い事はするけど、会話をしようとか切実に向き合おうという発想はちょっと薄いとは思うんだよね。
もちろんそういう方もおられるとは思うんだけど。
なんかでもそれに近いかも。今回何時かそれかと言われたらそれに近いかもしれないよね。
八百代の神なんて。この時はこの神様にすがろうみたいな。
そうね。現実的に生きる僕らにとってはそれに近いと思う。
そこはわれの方の問題か。
われの問題。われがそういう態度だから。
面白いね。でも何時の方で生きる人にとっては神がその何時に。だから神がいる可能性が十分にあるって話か。
そうですそうです。だからそれこそご先祖様の霊があった時にそれをの何時としても本当に一生涯そこに尽くして生きるという人ももちろんいると思うんだよね。
それはブーマーでいうと神に近いもの。一神教の神ではないけど自分のご先祖様というものがまさに神として存在することになるよね。
ブーマーはそこまでは許してないのかな。ユダヤ教の神こそがみたいな話はあるのかな。
他者との関わり
そこまではね、どうだろう。われと何時の中では言ってないかな。この神こそがみたいな。
そういう話もしてるかもわからないけどね。
本人の価値観としては。
ただ、どうだろうね。神はって言ってるくらいだから、永遠の何時こそが神だとすると、その神というものが複数存在するということはロジックとしてはあったんじゃないかな。
その感情的にそれが受け入れてたかどうかはわからないけどね。
ロジックとして、頭では複数の神がいてそれぞれ対話をするっていう世界観もあり得るっていう、許される世界観ではあるのか、一応ブーバーも語ってるのが。
おそらくね。
そういうふうに解釈して、許されるかどうかですとしてね、ブーバーに。
そうですそうです。
面白いね、こういう自分も含めて、我の感覚とかも含めて、他のものとの関わりをここまで解像度高く語る準備というか、概念を準備してくれてるってすごいね、ブーバー。
そうそうそうそう。
このブーバーの話を踏まえていろいろ話そうとするとさ、多分終わんないから今回。
終わんないね。
世界観の話だからね。
すごいね、なんとなくね、もうちょっとあれこれ話しながら深めていきたい感じがするけど、なんとなくブーバーの言い口っていうものをふわっと理解はした気がする。
ありがとうございます。
あ、そしたらあれかもね、一回さ次ちょっと脱談的な感じを挟みつつ、これまでの話を振り返って話して、それやってから有意識の他者の話に行ってもいいかもなと思った。
あーそうなの、はいはい、それはもうお任せしますよ。
うん、なんかね、有意識の他者の話はまたちょっと全然違う話になるので、一旦ちょっとこの辺でさ、兄貴が感じたこととか、まさにさっき言ってくれた通りで、
神、例えばヤオロズの神がそれであるっていうのは、自分が我それの世界で生きてるからだっていうふうに自分に投げ返されちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
夢になると、やっぱり自分をすごくさ、何だろうな、復元する機会もなると思うんで、
うん、なんかね、こんなふうに他者っていうのをテーマにしながらも、やっぱり事故とかさ、やっぱり自分とか、やっぱり神とか出会いとかさ、
会話とかそういうね、いろんなことにテーマが広がっていくみたいな面白さもちょっと感じていただけたんじゃないかなって思うんですよね。
うんうんうん、いやあ、そうだね。こんなに考えたことなかったわ。考えさせられたこともなかった。
確かにね、なかなかね、こんなふうに他者について何時間も話すことないと思うんで、あれなんですけど、
せっかくだからちょっと雑談を一回挟んで、ちょっと短めに、で、その東洋の優位識における他者みたいな扱いをちょっと話して、
いうような感じでちょっとね、進めていきたいななんて思いました、今。
分かりました。では次回も楽しんでいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
01:08:17

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