幻想学の無前提性と直接経験
はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もフッサールの幻想学ということで、これまではフッサールがどういう人だったかっていうところだったりとか、どういうことをやったのかという大枠の話をしてきたんですけれども、今回からついに幻想学そのものの中身を見ていくという感じで良かったでしょうか?
そうですね。前回は、いわゆる学問の大切さってなんだみたいな、そういうところに疑問を持ったフッサールさんが、そこをある種、ちゃんと立ち戻って考えるぞみたいな、そういうモチベーションを持っていたぞっていうことをお話したと思うんですけど、
今回の質問は、実際に幻想学って何?とか、あとはこれまでもそうだと思うんですけど、哲学的に考えた時に世界観とか人間観とかが変わるみたいなのって結構あったじゃないですか。
まさに幻想学も、幻想学的な観点から見ると、世界がこうなるみたいなものが結構ガラッと変わる形があるので、
だからこそ、これまで言った通り、要は自分の考えとは違う考えを身につくってところに役立つんじゃないかって話も第一回でしたと思うんですけど、
そういう幻想学から考えた時に、世界ってどのように見えるのとか、そもそもその考え方ってどんなこと?みたいな話をね、今回からしっかり、皆さんにお伝えしていきたいなというふうに思ってますと。
お伝えするとは言ったんだけれども、改めて台本を作った時に、幻想学って頭で理解するとか、理論として身につけるというよりは、自分の体験とか感覚とか、物の見方とかを変えなきゃいけないという感じなんですよね。
なので、ラジオを1回やってどんだけってあると思うんですけど、兄貴にもこれどう思う?みたいなことをどんどん体験になったみたいなことを聞きながら、一緒にやっていけたらなというふうに思ってますと。
そうなんだね。自分の頭で考えるとか、そういうテクニックが身につくのかと思ったけど、もうちょっと根本的な価値観レベルというか、そういう話なんだね。
世界観とか人間観とかが含むから、そんなにツールみたいに使えるものではないんだけど、でもすごく面白いと思うので、ぜひ皆さんにもその楽しさを伝えたいと思っているんですけど。
じゃあ早速、幻想学の話をしていくんですけど、前回までお伝えしてきた通り、学問の正しさを基礎付けましょうみたいなことを問い通して立てたとしても、何からするのとか、どうしたらそれができるのってわかんないじゃないですか。
そうだね、本当に。そもそもそこに着眼点を持ったってこと自体が異常だって話を前回したんですよ。
そんなこと考えるの?って話をしたと思うんですけど、どう考えを進めていくの?みたいな話があると思うんですよね。
もちろんいろんなことを考えるんですけど、一言で言うとフッサールは無前提性、要は前提がないというか、他の学問を前提に幻想学は成り立ってはいけないということをまず言うのね。
どういうことかって言うと、例えば経済学とか物理学っていうのは大元に数学的な正しさがありますとか、経済学は数学を大元に成り立っているから、
例えば仮に数学の論理が何らかの理由で全部破綻したとしたら、例えば経済学も破綻しますみたいになっちゃうじゃないですか。
そう、こうやって前提性があるよね。ということは逆に、幻想学は他の学問を元に成り立ってたら、他の学問の正しさが崩れたら幻想学の正しさも崩れちゃうから、それを前提にしちゃダメだよっていうことを言うのね。
結構きつい縛りだね。極端な話を言うと、1たす1は2っていうところすらも忘れてからスタートしましょうみたいな話でしょ。
本当その通り。心理学っていう学問が、例えば1900年の前後とかって盛んだったんだけど、人が物を見るとか聞くとか、心に想像するとかっていうところも、心の動きっていう心理学を前提にしているから、それも前提にしちゃダメみたいなことを言うよね。
直接経験による幻想学的物の見方の変容
きついね。どこまでゼロベースに持っていくんだって話だね。
でも、そうしたら何もできないじゃんって思わない?1たす1もダメで、心に思うとかもダメだったらどうしたいの?みたいな。
確かにちょっとあれだよね、前やったサルトルの感じを受けるね。サルトルの基礎に原子力があるから、似たようなところを感じると思うんですけど。
無前提性とは言いながら、何にもないところに生み出すわけにはいかないじゃないですか。何から原子力学が出発するかっていうと、これが前回少しお話しした直接経験だっていうふうにフッサルは言いますと。
でも、直接経験とは何よ?みたいなところが今日のテーマなんですけど。
テーマになるぐらいの話だね。
大きい話だと思うよ。それで感じた際に、皆さんにクイズというか質問をしてみたいと思うんですけど。
兄貴にも聞くんだけど、ある場面を想像してみてほしいんだけど。
カンノ・キョウスケっていう人間が花瓶に刺さっている花に一輪パッと入っていると。
それを見ているっていう場面を想像してみてほしいですと。
どんな場面だよって言葉で後で説明してもらうので、一旦10秒待ちます。
良かったら皆さんも花瓶に花が刺さっているっていうのを自分が見ているっていうのを想像してみてください。
ではどうぞ。
ざっくり10秒くらい早かったと思うんですけど、どんなイメージが出てきたか兄貴に話してみてもらっていいですか?
イメージね。最近やった話みたいな感じになるんだけど。
うちの奥さんが花をもらってきましたと。持って帰ってきましたと。
それを花瓶にじゃあ入れようかって言って、キッチンの端っこに家にある花瓶一輪挿しに小さいヒマワリみたいなやつとか、
白い真ん中に緑のがある花みたいな名前知らないんだけど、それを2つ花瓶に分けて2箇所に置いておきましたみたいな感じかな。
なるほどね。
そのイメージの中で兄貴自身はどこにいるというか、どんな立ち位置でいる?
それ2種類想像して、1種類が自分視点だね。
シューティングFPSというか、まず自分視点か。
パーソナルパーソナルね。
フッサールの直接経験の概念
レースゲームでもいいんだけど、自分視点が1つと、もう1個がそれを俯瞰で見た感じかな。自分もいる風景の中で、外から。
なるほどね。いいですね。ありがとうございます。
兄貴が言った通り、例えば自分がカメラみたいな立ち位置で俯瞰的にとか、第三者的にいるみたいな視点と、
まず自分の目線で自分がこういう風に見ている視点とか観点というところで見るよっていう2つがイメージされるかなと思うんですけど、
パーソナルさんは兄貴が言った2番目の方では、自分の外に花があって、自分はそれを見ているとか、そういう自分を俯瞰的に見ているみたいなものを、
これをある種客観的な視点とか自然的態度みたいな風に言って、それは直接経験じゃないよっていう風に実は言うんですよ。
自分も含めたカメラみたいなのも直接経験ではないみたいな?
ではない。兄貴が想像してくれた一人称視点というのがあると思うんですけど、それも多分まだ直接経験ではないっていう風にサウルさんは言うと思っていて、
それが何が違うのかっていうのをぜひこの後の話を聞きながら、兄貴の中でもちょっと考えてもらえたら嬉しいなと思います。
そうね、直接経験。どっちかというかね、どっちも直接経験というか感じがするけどね、言葉だけ見るとね。
自分が見聞きしたこと、経験したことだと思うから、どういうことってなっているかもしれない。聞いている方もそうだと思うんですけど、
そこを今から僕が言うことを聞きながら、確かに何かちょっと違ったかもとかっていうのが感じられれば嬉しいなみたいな感じで話していきますよと。
どういうことかというとですね、これちょっとまず大きな話から行くんだけど、まずそもそもね、自分の外に花瓶とか花が自分と独立して存在しているって、
たぶんイメージするときにあるんですよね。花があって、その花瓶に入れてみたいなね。でもそれ自体がそもそも一個の家庭だよねっていうことをフッサラさんは言うんですよ。
おー、出た。
ちょっと考えていくんですけど、目の前に花が咲いていればさ、花はあるんじゃないかって普通に思うと思うんですけど、ちょっと待ってほしいですよと。
これをあなたはじゃあ、その花があるっていうことをどうやって経験してるんですかっていうふうにちょっと考えてほしいよね。
要は見たり触ったりするとか、あとは匂いを嗅ぐとかっていろいろあると思うんですけど、その花そのものとか、これが花であるっていうことをどうしたら直接、
カンノ・キョウスケっていう人間が、カンノ・ハヤトっていう人間が経験したって言えるんだっけっていう、そういうことを言うのね。
なるほど。
フッサール的見方の具体例
ちょっとね、サルトルの話をしたからサルトルっぽいなって感じる部分もあるかもしれないですけど。
そうだね、真っ白な世界みたいなね、まだ何も提示されてないみたいな感じがするね。
そのちょっと源流があるんでしょう、この幻想学なのでその話をしていくんですけど。
実際にフサールはどんなものを直接経験とか、直接経験的な見方だって言うかというと、
まず自分が立っている、フリに立っているとすると、たぶん自分の視覚、まず見るっていうところから考えたときに、おそらく自分のお腹とか腰のあたりが視界の下の方に見えて、
その少し前に床だったら、それがコンクリートなのか木なのかってあると思うんですけど、床が見えて、その目の前に花瓶がもし机が見えて、
花瓶っていうのも一個の存在として名付けられちゃってるから、本当は花瓶って言わないんだけど、なんかそういう筒状のものがあり、
そこに緑と黄色のものがあって、これは花瓶に刺さっている花なんだっていうことを理解するみたいな、そういう風にしか表現できないものだし、
これはもちろんそれを一個一個確認していくというよりは、視界でいうと一気にそれが広がってくるから、それを一瞬で自分に向かって立ち現れてくるものだよね、みたいな言い方になるかなと思います。
なるほど、本来はね、このフッサール的に言うと。
フッサール的に言うとだし、みんなが経験している世界もおそらく本当はそうなはずなんだよね。
ファーストパーソンシューティングとかのゲームとかのイメージを持っている方はイメージしやすいと思うんですけど、あれも一印象視点で自分が持っている銃とか、そういう自分の見えている範囲が見えると思うんですけど、
あれも本当だったら、ゲーム上表示されていない手とか腕とか、そういうものとかも本当は見えているはず。
なのでそこも含めてちゃんと捉えるっていうところが直接経験的に世界を見ているっていうことだっていう風にフッサールは言いますと。
なるほど、さっきのこの現象学そのものを始めに当たってと同じことって感じだよね。
知識が邪魔をすること
そういう前提を一旦全部取り払いましょうみたいな、見えているものとか、さっきほら緑のものとか赤のものとか言ったけど、本来はそこすらもってことでしょ。
緑っていう色とか赤っていう色、色すらもってことでしょ。こことこの色というか見え方違うけどね、みたいな色で言うとね、形じゃなくてみたいな、そこすらもって言う。
よく言う赤ちゃん目線じゃないけどね。
赤ちゃん目線ってやっぱり違うのは、言っても人間というか大人であれば言葉とか知識とか知見とかがあるから、それも全部なくしましょうっていうことではないんだよね。
そうなると、いわゆる人間は白紙であるとか、本当に何もないゼロの状態から物事を世の中を捉えていくって意味になると思うんだけど、そこまで行っちゃうとそもそも学問とかにたどり着く前に果てしないステップが挟まってしまう。
なるほど、言葉とは何かみたいなところから行っちゃう。
あくまでも一般的な常識とか知識とは言って持って行った方がいいんだけど、その知識が逆に邪魔をしてはいないかいと。
要は目の前に花があるっていうときに、その花そのものって本当にそれが花であるっていうことをあなた自身が確信を持った上で花であるって言ってましたっけっていうような地点にまずは原子力が立ち戻らせてくれるんだよね。
なるほど、どこまで戻るかの話ね。戻り方というか。
戻り方として。
なのでこれは何を表しているかっていうと、原子力ってすごく一人称的、まさにこの兄貴が書いたファーストパーソン的な視点っていうのを重視するよりも、そこからしか始められませんよねっていうふうに言うのね。
まずなら数学とかっていう論理とかもダメ、心理学的な心が騒動するとかもダメだとすると、今この自分が見てるとか聞いてるっていう、この経験、この直接経験から始めましょうっていうのが原子学のすごく特徴的なステップになりますよと。
その辺とかは結構、なるほどねっていう感じかな。
そうだね、サルトルの話を聞いてるからだと思うけれども、目の前に広がった世界を見た時に、やっぱりその存在そのものだよね。
例えば名前がつく前だったりとか、その意味をつけられる前だよね。
さっきの花だとね、花と草の違いはそもそも何?みたいなところがあった時に、それは学問的に分類されちゃってるわけで、多分我々はそれを知識として捉えてて、こっちは草こっちは花っていう。
今を言うと自分が目の前に知識がなかったとして、草と花っていうものを巣の状態を見た時に、それを本当に自分で確信を持って草と花を自分で分けましたか?もしくはそれについてちゃんと納得しましたか?みたいなプロセスを踏んでる?踏んでない?みたいな。
そういうスタート地点っていうのはサルトルを思い出すとちょっと想像しやすい気がしたね。
なるほどね。良かった、ありがとう。
やっぱりまさにサルトルは現象的なものを上手く使ったというか、それを自分なりに消化してやった人だなっていうふうに思うんですけど、
現象学がいわゆる一人称的な視点っていうことは、要は主観的に考えろってことなの?っていうふうな感覚もあると思うんですよね。
自分の主観とか認識というのを大事にしましょうみたいなことかっていうと、実はそれとも違います。
なんでかっていうと主観っていうのも、結局は自分自身というものを回り見たりとか、外の客観に対して事故っていう主観があるみたいな、これまでの人間論的な発想があるので、結局主観っていう概念も後付けなんだよね。
そう、直接経験として主観っていうものが立ち現れてくるかっていうと、そこの瞬間に立ち現れてはなかなか来ません。
そこもすごいね。あなたは主観っていうものを、もしくは自分っていうものを直接経験しましたか?みたいな話をしたらしたいわけで。
現象学的な世界観
どうやったら直接経験できるんですか?っていう話なんだよね。
なので、主観と客観の二元論とか、それを統合というか、ちょっと東洋の時に言いがちな一元論とかっていう話があるんですけど、それとも全然違う次元の世界観っていうのが現象学的な目線では立ち現れてくるんですよね。
なるほど、なるほど。なんとなく持つべき最初の視点というか、風景は共有できた気がするね、その世界観。
別に客観がないとか、何者も存在しないとかではなく、素朴に世の中というか、自分の見ている世界というのを表そうとした時には、そう言わざるを得ないですよね、というところから現象学が始まりますと。
結構ね、これだけでもすごく転換というか、ハッとする人もいるんじゃないかと思うんですけど、どれだけで普段自分が概念に先行されて生きているかみたいな。
そうだね、だしこれをサルトの前にやっぱりいてた人がいるからオリジナルなんだね、こっちの方がね。
そう、オリジナル。
そこをちょっと気を抜くと忘れちゃう感じがするけど。
これがあったから、その後いろんな思想が発展してきたよって話なんですけど、今の話って逆に言うと、さっき目の前の花瓶に座っている花っていうのをイメージしていただいたと思うんですけど、
その花っていうのはあくまでも自分、それを見ている人に対して現れるものに過ぎないというか、そういうような場の中に成り立っているんだっていうことを現象学とは言うのね。
つまり、さっき花そのものをどう経験しますかって言ったんだけど、花そのものっていうのはそんなに重要じゃなくて、どっちかっていうと自分にとってその花がどう現れてますかとかどう経験されますかっていうことのほうが重要だよと。
さっき言った通り、花と草ってどんな違いがあるのっていうことを問おうとした時にも、そもそもその違いが自分にとって何か意味があるとか価値がないと、そもそもそんなことは経験として現れてこないわけだよね。
なるほど、そもそも区別しようとするモチベーションというか意味がないってことですね、自分にとって。
自然的態度を乗り越える
そうそう、本当にその通り。
山に行って別に、自然が綺麗って言う時には別に草も花も一色とのものの自然として踏まれてるんだけど、植物再生をしようと思う時にはこれは何とかっていう花で、これ何とかっていう草でって分けていくみたいな。
自分の態度とかどんな経験の中に対象が現れているかによって変わってくる。
ここまで来ると冒頭にお伝えした無前提性というところが何となく伝わるんじゃないかと思うんですけど、
メイムの話自体に何かを分けるとか区別するとかっていうのも少し学問的な感覚というか、理解しようっていうようなモチベーションがあると思うんですけど、
その理解したいとかっていうモチベーションをさらに前提に、まさに自分の直接経験の中に花とか草とかっていうのはどう現れているか。
それが根源としてあって、そこから全ての物事、学問を始めていきましょうっていうのが原子力学が言ってることなんだよね。
なるほど、すごいね。
ある程度さっき言ったような、これは草でとかこれは花でとかっていうふうに何かを分けちゃうみたいなのが、
もっと言うと自分の外に独立した存在があって、それを自分が理解するとか把握するっていうのが、
それはすごく自然な態度、要は人間としては生きる上ではみんな普通にそう無意識にやっちゃってるんだけど、
そういう自然的態度っていうものを乗り越えて、一印象的な視点から考えていきましょうと。
自然的態度?
自然的態度っていうのは、自然に自分っていう主観がいて、花っていう客観が自分の中に存在している。
それを自然って表現してるんだ、フッサルは。
直接経験とエポケー
そう、自然。人間の生きる中での自然的な態度。
それが染み付いちゃってるよねっていうのはフッサルは言ってるんだよね。
なるほど、なるほど。それはしょうがないよねと。それが人間の自然な感覚だよね。ただやっぱり直接経験大事だよねっていう感じだよね。
そうそう。
直接経験っていうものを辿らないと見えてこないものがあるよね。それが原子学でやってることだよっていう話なんだよね。
ごめんごめん。自然って言うといいイメージになる。ポジティブな感じで捉えられちゃう。ここではそういうことあるよねっていう。むしろそれだから直接経験みんなさんしてないよねっていうような扱い方だってことだね。
ニュートラルって感じかな。普通にしてるとそういうふうにニュートラルに外に物がある、花がある。それを私が外の存在を理解するっていうようなふうに捉えちゃうんだけど、そうじゃないじゃん。
これは言葉としてなんですけど、そういうニュートラルな自然的な態度っていうものを一旦保留して、もっと直接経験的に世の中を見ましょうっていうようなことをフッサールの言葉でエポケーっていうね。
これは判断停止とか判断保留みたいなふうに言うんですけど、原初学フッサールエポケーみたいなのが結構よく言われるというか、概念として使われたりするので、それを知ってるとフッサール知ってるぜとは言わないまでも、ちょっと知識が1個増えるかなっていうのをご紹介したんですけど。
フッサールの現象は直接経験してないんじゃないかい?そう言っちゃうと。
そうね、頭で理解する話だね。
そういう手伝う的な態度をあえて取ることによって、初めてそもそも自分って何を経験したかとか、物事の基礎には何があるのかっていうところを理解することができますよと。
なるほど、面白いね。
さっき冒頭にも言った通り、こんなふうに世界の捉え方が変わったじゃないですか、今この瞬間に。
そうなると、当然世界がどう成り立っているのかとか、そもそも世界とは何かみたいな話っていうのもガラッと変わってくるんですよね、現象的に捉えた時に。
まあそうね、今まで自分がさっきの言った自然的態度で認識してた世界とか、知識は一体何だったんだみたいなところにちょっとなっちゃうかもしれないよね。
もっと言うと、現象的に物事を考えていきましょうってなった時に、全部をちゃんと定義し直さないと正しく説明できませんよってなっちゃいます。
なのでそういうことをふっさわれば、あれやこれやいろいろやってくるんだけれども、今回はそれをお話ししたいと思うんですけど、
今日残りの時間で、一番根本にある、そもそも物が存在するってどういうことみたいな。
もっと言うと、現象学って現象の学問じゃないですか。
ここで現象って何やみたいな。その現象学、現象学ってずっと言ってるんだけど、現象って何?みたいな。
これもちょっと今日はお話ししていきたいなというふうに思ってるんですよ。
なるほど、そっか。これ分かって見えた次第だね。ちゃんとここを土台にやってくれてるんだ。
あくまでも今、まさにスタートシーンというか、やっと始まりが終わったところだから。
ここからやっていくよって話なんですけど、
現象学とは
現象って言うと、普通の日常的な言葉で言うと、何かが起きるとか、それこそね、長寿現象とかって言うと、普段はありえないことが起きますみたいなね。
そういう意味で現象って言われたりすると思うんですけど、ここではそうじゃなくて、
あくまでも一現象的な、さっき言ったエポ系をした態度から見える世界にあるものの存在の仕方、それに対して現象っていうことを言葉として当てはめていますと。
おー、難しいね、なるほど。自然的状態じゃなくて、エポ系状態で見た世界のことを現象と呼んでるんだね。
そうそうそうそう、本当に。ニュートラルじゃなくて、あなた今エポ系してますっていうところから全部の話を聞いてほしいんだけど。
そうなんだね。みなさんエポ系状態でこれからの話を聞かないと理解できない、おかしなことになっちゃうんだね。
そうですね。よかったら試してみてくださいって感じなんですけど。
フッサルによれば、というのはエポ系した状態から話せばっていう話なんですけど、
物、さっきの花でも何でもいいんだけど、物っていうのは、原出者っていう、いわゆる物そのものみたいな話と、
小原出、原出は現れ出るっていう言葉なんだけど、いろんな原出、物が何か自分はこれこれですよっていうふうに表現するものっていうものが関係しあってできているんだっていうふうに説明するんだよね。
もうちょっと具体的に説明すると、例えばサイコロ、真四角の立方体のサイコロがあるとしますと、これは普通、直接経験的にというか一人称的な視点で見ると、本当にぴったり正面から見ると、ただの正方形にしか見えません。
奥行きとかが見えないからね。それが例えば自分が右に回り込んでいくと、それこそ右の面が見えてくるとか、上の面が見えてくるとか、さっきまで正方形だった面がちょっと平行地変形というかちょっと長方形っぽく長くなっていくみたいに、
自分の立ち位置とか見る視点によって形が変わると思うんですよね。でも僕らはそのサイコロが正方形だった面が長方形になってしまったとか、それまでなかった面が急に現れたとは思わずに、
そのサイコロそのものは立方体のままであるっていうふうに認識すると思うんですよね。
なので、このサイコロというものを現出者、物そのものみたいにすると、立ち上がってくる正方形の面があるよとか、でも横の面が現れてきてるっていう、その現れ方そのものを現出。
なので、現出者がどう現出しているか、それを自分がどう経験しているかっていうような関係として、いわゆるエポケ状態のふっさるさんは物を捉えるのね。ちょっとややこしいと思うんだけど。
すごいね。要素分解がすごい。変数の作り方がすごいわ。
物をパッと見たときにそれを素朴に捉えないんだよね。
物の捉え方とエポケーの関係
これがサイコロだったらまだいいと思うんだよね。物理的な存在としてあるから。
例えばさっき言った花っていうのがカーネーションだったとしますと、これ多分5月に出るからカーネーションで母の人があったと思うんですけど、自然的な態度で言うと、母親が受け取ってこれは日頃の感謝の印だよねみたいな。
お互いに言いますよね。この物みたいな感じだと思うんですけど、この現出とか、このカーネーションっていうものは日頃の感謝の印であるっていう意味って、なんで生まれるの?みたいなことが問題になってくるよね。
普通おかしいっていうかさ。
わかんないよね。エポケ状態で見たらわかんないよって感じね。
それって言うのは、いろんな文脈っていうものが影響してきますよっていう話が当然あって。
母親の一印象的な視点から見ると、赤と緑の物体っていうものに対して、いわゆる自分の子供である存在としての笑顔である表情とか。
あるいは、そういえば今日は5月14日であるとか、ありがとうって言葉は感謝を示すものだとか。
そういういろんな状況が起こったときに初めて、目の前の物体、それは現出者だよね。
それが感謝の印っていうものを表すっていう現実として受け取ることができるっていう。
そういう操作が実は一瞬のうちに起こってるんだみたいな。そんな理解になっていきますよと。
エポケしたお母さんがいたとするとね。
エポケお母さんがいたときにね。
はいはいはいはい。
だから、いわゆる直接経験で言うと、赤と緑の物体。
そもそも赤とか緑って言うのも何か言ってる通り、後付けっていうか意味を付与されちゃってるんだけど。
そういう物体があり、それが花であり、カーネーションであり、感謝の印でありみたいな。
いろんなものが赤と緑の物体っていう現出者から現れ出てきてますと。表現としてね。
それを僕らは受け取って、その物体そのものを受け取るっていうよりはそのやっぱり現出、表現されたものを受け取ることによってその存在と関わってるんだよっていう話なんだよね。
逆に言うとその現実、現れ出たものっていうのを突破しないとその現出者とか存在そのもの的なものにはたどり着けない。
突破。
これは突破するみたいなことを言ったりするんだけど、現実、要はさっきのサイコロの例で言うと、三つの面があるっていう現実だけにとらわれてると本当は六つの面に数字がそれぞれ書かれてるっていうサイコロにはたどり着けないわけよ。
でもそれは直接経験では絶対に出てこないんだよね。
見えてないし、裏の面に数字が書いてるかどうかっていうのは確認できないから。
その段階ではね。
その段階では。
全部の面を粒さんに見るとか、いろんなことをしないと、今のは例としてはわかりやすい例だけど、その現出者というものにたどり着けません。
こういった認識の仕方をフッサーレは自称そのものへっていう言葉で表現するんだよね。
自称そのものへ。
自称そのものへ。
単語じゃないんだ、これは。
そう、態度じゃない。エポケとかじゃなくて自称そのものへ。
やっぱりたどり着く、そういうような姿勢っていうのが現象学的な認識の仕方とか存在との関わり方なんだよっていう風に言うんだよね。
なるほど、じゃあちょっと前後するけど、さっきのお母さんはカーネーションを子供からもらったっていう現出者だよね。
お母さんから見たときにあったときに、それを突破した瞬間だったんだね、さっきのお母さん的に。
エポケお母さんはそれを突破することができるかもしれないっていう感じかな。
かもしれないか。
だから逆になっちゃうんだよね、やっぱり。
普通に来てると、まずその意味を先に受け取るとか、やっぱりカーネーションを受け取って、これは母さんの印だっていうようなその現出の方を受け取ってるんだけど、
エポケするとその現出者にたどり着くことが可能になるから、
そのもらったものは緑と赤の物体であり、それはこういう現出を持っているみたいな、そういう関係性が見えてくるっていう感じかな。
なんとなく伝わるだろうか。
今エポケ状態でこの話を聞かなきゃいけないから、そこの違いでは表面的に見たら同じなんだよね。
エポケのお母さんがいたときに、カーネーションをもらって喜ぶっていうのを旗から見たときは同じことが起こってる。
ありがとうって言ってるんだけど、そのエポケお母さんの方は、それを自分なりに処理していくと、本当に外から言われた母の人だからとかカーネーションだからとかだけの知識だけじゃなくて、
本当にそうだんだって言うのに、自分から本当にたどり着いて、自分から心から感謝することができるお母さんっていうものになるかもしれないみたいな話ね。
そこ難しいね、確かに。
サート地点、そっちからいくと。
うちらがそういうふうに生きてないからね。
捉えてないから。
やっぱりニュートラルな自然的な状態だと、今日は5月14日であるとかわかってるとか、何かもらったら喜んで見せればならないとかっていう。
例えば、大人の側にそういう捜査が入ったとすると、まさに心のそこから喜ぶとか、ありがとうっていうみたいなことはならないんだけど。
本当に現象相応みたいなところにたどり着いたときに、まさにそういうある種生々しい体験というか、本当に何が起こっているのかっていうところにある種目が向きやすくなるというか、それこそが直接経験として表現され得るだよっていうような感じかな。
はいはいはい、すごいね。
フッサールの原子学の方法論
だからこそ、フッサールの原子学っていうのは、やっぱりその概念とか言葉を当てはめるんじゃなくて、まずエポ系するから、あらゆる前提とかを一回取り除きますと。
一印象的に見えるとか考えるとかでもいいんだけど、想像するとかね。
そういう、ある種自分ができる限界のところから物事を考えていくとか、世界を捉えていくっていうことをやるのが原子学であるというような感じなんですけど。
これってやってみると面白いんだけど、結構難しいんですよ、やっぱり。
やってみるとわかる。やってみたんだね。
そうそうそうそう。
例えば、今僕はパソコンを目の前に話しているんだけど、そもそもパソコンを目の前にと言っている瞬間に、パソコンっていうものの知識とか知見を前提に話してるんだよね。
逆に言うと、自分はいつこの目の前の物体、この四角くってボタンがいろいろついていて、ボタンっていうのも物じゃんとか言われたら本当に何も言えなくなっちゃうんだけど、これをパソコンだといつ認識したかっていうと、それはなかなか言えないですと。
でもただ、今自分はパソコンに向き合っているっていう自然的な態度を一旦保留して、要はエヴォ系して、この目の前の物っていうのはまさに押すことができるとか、そういったことが可能なものであり、
それを押したことによって画面上に文字が表示されるとかっていうことは、何か文字入力をもとに使えるかもしれないみたいなことは、自分の経験からだけでもなんとかたどり着ける。
それは日常的には役立たないというか、そんな操作をする必要はないんだけど、要は学問を突き詰めるとか、物事を考えるときには結構役立つ。
なるほどね。ジャイアントはそうだもんね。パソコンとは、それこそ商品ページに載っているようなスペックがこうで、CPUがこうでとかっていうのをラレーチすることはできるんだけれども、
それに何ギガとかに対して、具体的にハヤトがどれだけの意味を持っているかみたいな話ってことだよね。文字が打ててとか、今こうやって離れた場所で会話ができてとか、
そういうところだけしか本来的には直接経験的にはハヤトが認識する必要がなかったりとか、それで十分だったりとか、もしくはそれしかできないのって疑問を持つことこそが直接経験的であるというか、エポティシャ態度からは出てきそうっていうのが感じるね。
学問に対する姿勢みたいなところで言うと、自分で答えを見つけていくんだっていうね。
これはフッサルの厳密な原初学とは違うというか、少し離れちゃうんだけど、自分が投稿の人とコミュニケーションを取りたいっていうことを思っている自分がパソコンと向き合った時に出てくる意味とか受け取るものっていうのが違うよねみたいな話っていうのも、
ある種原初学を発展させた考え方としてはできるんだよね。厳密な原初学ではこれはないと思うんだけど、そっちの方が第一回目っていうのは、ある種自分の考えを広げるとか、考え方のやり方を増やす、方法論を増やすっていう意味では使いやすいんじゃないかなとは思っていて、
あくまでも自分の経験というか、今起きていることから始めるとか、外部にあるものを前提としないみたいなことっていうのはすごく大事だよねっていう感じですかね。
学問とエポケー
なるほどね。それでも原初学的な感じなんだね。
まあそうだね。やっぱりそれはなぜかというと原初学っていうのは、同じ手続きを踏めば誰でも同じような手順に進むことができるって言って学問的な手続きを目指してるんだよね。
ああ、そうなんだ。
一印象的な視点っていうのも、もちろん物を見るっていうことが、みんなが本当同じようにやってるかどうかっていうのは難しいものだと思うんだけど、
ある程度、一歩一歩進む、ちゃんと手続きを進めていけば同じような理解に至れるよねとか、それ自体が共通で理解できるところがないと、
それこそただの主観とか俗が論って言われるような、世の中には自分しかいなくて自分が世界を生み出してるんだみたいな、そういうことに陥っちゃうんだよね。
ああ、そうなんだ。単純にみんな違ってみんな良いとかでもないってことなんだね。
じゃないじゃないじゃない。
はいはいはい。
それだとやっぱりね、なぜ学問の時にも言うと、なぜ主観が客観とか真理に至るのかとか、なぜ違う営みをしているのに同じ数学とか物理学っていう学問が成り立つのかっていうことを説明できないから。
ああ、そっかそっか。ふっさらはそこだったもんね。ふっさとしてんがね。なんで正解と言われるものがあるのだろうかっていう時にってことだもんね。合意みたいな話ね。
そうそうそうそう。だからね、やっぱり勝手に自分らしく考えましょうとかではなく、厳密に第一人称的な視点を取ろうと思う時にはエポケというものが必要であるっていう。
やっぱりそういうことを本当に厳密に突き詰めていくのがやっぱりふっさらの現象学なんだよね。
なるほどね、そっか。だから自分の頭で考えましょうっていうのも、パッとそれだけ聞くと好き勝手考えればいいみたいに捉えちゃうこともあるけど、ちゃんとエポケっていうところはちゃんと共通ですよって。
そこを見るとある程度共通の認識というかは出てくるし、もし違いがあったとしてもちゃんとお互い言語的にそこは説明もできるでしょうみたいな、ちゃんとそういう土台を作ってるんだ、エポケっていう態度によって。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
その通り。やっぱりこれはある種、番人がちゃんと使えるものだよっていう話なんだよね。
すごいな、ちゃんとその場を作ってるんだね。
やっぱりそれすごく面白いし、やっぱりそうはいえね、さっき学問の話をしたけれども、数学の計算であれ、物理学とかの実験であれ、あるいは物事を深く考えるとか、あるいはペガサスみたいな空想の存在を妄想するとかでもいいんだけど、
それも全部みんながやってることではあるんだけど、あくまでもこの一人称的な視点の中で行われるものにすぎませんと。
そもそも人間の痛みっていうのはこの一人称的な視点から逃れることはやっぱりできない。だからこそエポケお母さんみたいな視点そのものをちゃんと解き明かすとか、そこの構造を理解するとか把握するっていうことがまさにあらゆる学問の基礎になり得るんだ。
それがフッサールのやってきたことだっていう話なんだよね。
うーん、すごいねこれは。
すごくない?
すごい、そうか。
フッサールの超越論的主観性
なんかゼロベースに戻したとも言えるし、ある意味それまでのいろんな人たちが学問的にだったりとか哲学的にだったりとか、いろんな多分営みをしてきた天才たちがいると思うんだけど、多分そういう人たちが無意識的にやってたことを言語化というか、そこを解き明かしたみたいな風にも見えるね。
学問を作り上げてきたような人の頭の中の回路、考え方っていうものも見える化してくれてる気がする。
それまで光が当たってなかったところに光を当てたとか、光が当てても何もないと思ったところにちゃんとそういう場を設定してあげたみたいな。
そういう感覚が僕はして、やっぱりフッサルすげえというか、そういうふうに理解したときに原子力やべえみたいな、そういうことかみたいなね。
そうだね、確かに。知らないけどソクラテスとかさ、例えば、論パーすごく論パーが上手いとかってなったときに、それが果たしてただただ論パーが上手いのか、こういうフッサル的な、もう本当にエポケから考えて反論しようがないというか、
なかなか反論するのが難しい、どこまで考え抜かれた話をしているのかって、ぱっと見わかんないかもしれないんだけど、そこの違いっていうのをフッサル的な視点、エポケ的な視点でいうと、ちゃんと解き明かせそうな気もするよね。
声がデカいだけなのか、ちゃんとしてるのかみたいな違いみたいなね。ソクラテスには悪いけどね、ソクラテスがどうこうって話をしてるわけじゃないけど。
やっぱり見方が全然違うからこそ、現象的に見たときにまた全然違う角度から深掘れるとか、新しい築きがあるっていうことはすごくいろんなことに対してあって、
そういう意味では、ヘイゲルの弁償法のときにも、これってすごい強いツールだよねとか、なんでも弁償法できちゃうじゃんみたいな話だと思うんだけど、現象学もそれに近いというか、結構そういういろんな使われ方をよくもあるかもするところがあるかなと思ったりします。
その辺まで次回のハイレガーでもお伝えしていきたいと思ってるんですけど、
ちょっとね、このフッサールの話に戻ると、まさに今兄貴が言ってくれたような見えないものを見えるようにした、こういう視点そのものとか、そういうエポ系状態みたいなところの場のことを、フッサールは超越論的主観性っていう言葉を使ってるんだよね。
ちょっとこれは言葉として聞いておいていただけるぐらいの感じなんですけど、超越っていうのは要は、さっき言ってた原出者と原出っていうのがちゃんと分かれてて、物っていうものも単純じゃないぜみたいなことを言ってるような言葉なんだけど、
こういうような普通の主観、要は自分がただこう見てますが、自分かっていうものを見るんじゃなくて、その超越論的主観性に基づいて物事とか世の中を捉えましょうっていうのが、いわゆる現実を挙げたぞと。
はいはいはい、なるほどね。このエポ系状態っていう話ね。
そうそうそうそう。
はいはい。
それは一つの説明です。
えー面白いね。そうか、主観性っていうと多様性みたいなさっき繰り返しになっちゃうんだけど、その主観性っていうものに一定の定義だったりとか同じ土俵っていうものを作って、それがこの超越論的主観性っていうふうに名付けてるんだね。
そうそうそうそう。
なるほどね。
これ言葉だけ聞くときついけど、今日の話聞いた上だとなるほどねっていうような確かになるね。
なんでそんなことをあえてわざわざ言わなきゃいけないのっていうのも、なんとなく座ったとか理解いただけたんじゃないかなっていうふうに思うんですけど。
現象学的な視点での世界捉え方
なかったんだね、この定義がね。
なかった、なかった。
なんとなくそういうことを考えてる人はいたんだよね。もちろんフッサールがポンと出てきてこれを考えたわけじゃなくて、その手前にもブレンターノとかマッハとかいろんなそういう考えの人たちがいて、それがやっぱり受け継いでやってることではあるんだけど。
はいはいはい。
なんかそうだね、またやっぱ前回までの大枠の話聞いてもそうだけど、こういう具体的な話聞くとなんかそのすごさ、わかりきらないけど伝わってくるね。何をやってきたのかみたいなね。
嬉しいですね。
さっき言った通り、これもね、はじめ2が終わって、第1章1ぐらいな感じです。
次回以降ね、この現象学の考えっていうのを持った時にフッサールが何を成し遂げていくのかっていうところを、ちょっと次回以降ご案内していきたいなというふうに思っていて。
本当にいろんなことがあるので、一部にはなっちゃうんですけど、途中でちょっと言ってるのは、そもそも世界観、要は世界ってどんなふうに捉えるのとか、
あとは、他人、他者、要は今ってエポ系をお母さん状態で見た時に、出てくる他人とか他者ってどんなふうな存在なのとか、どんなふうな意味を持ってるの?
みたいなことがやっぱりすごく重要なテーマになるし、現象学的な視点で見ると、やっぱり日常的な感覚と違って全然面白いなって思うので、
ちょっとその辺をですね、次とか次の次ぐらいでお話ししていって、このフッサルの現象学ってどんなふうに物事を見てるの?みたいなところの感覚を深めていただいて、理解をちょっと深めていただきたいなというふうに思っております。
次回以降の話題予告
はいはい、ぜひぜひエポ系を直接経験させてほしいね、ちょっとね、疑似経験でいいや。
そうですね、じゃあエポ系お兄さんになれるかどうかは次回と次回でやっていきましょう。
はい、じゃあまた次回もちょっと楽しみにしてますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。