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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
プラトンの哲学の形成
はい、前回からヘレニズム哲学ということで、まずはソクラテスですね。そこを見てきて、今回はプラトンでいくという話でした。
はい、プラトンについてはですね、結構ね、そういった哲ラジオの中では、二元論を作った原教だ、みたいなさ、イデア論なんてダメだ、みたいなことを結構悪く言うことが多いんですけれども。
そうね、初戦レスラー、脳筋レスラーだ、みたいなね。
よく覚えたね、プラトンが。
そこは覚えてる。そこしか覚えてない、プラトン。
逆にね。
別に脳筋って訳じゃないんですけど、今回は改めて一面的な見方は何事にも良くないという話もあるんで、
イデア論の積極的な意味というか、なんでそういうことを考えられなかったのかみたいなことも含めて深掘りしていこうかなというふうに思っておりますよと。
そこに関しては、プラトンがどう考えたってだけじゃなくって、やっぱり先ほどのソクラデスの影響が、ソクラデス以前のいろんな哲学者の影響がっていうこともあったりするんで、
そこともちょっと絡めてね、お話しできるといいのかなと思っております。
という感じなんですけど。
で、これは前提からなんですけど、これも言ったかな、プラトンから言ったかもしれないんですけれども、
彼って別にもともと哲学者を目指したわけでは全然ないんですよね。
はいはいはい。そうなんだ。
そうなんですそうなんです。むしろ普通に政治家だよね。
いいになりたいなぁみたいなことを思ってて、政治家じゃないかもしれないけど、いわゆる国家のために役立つ仕事をしようという感じで、若い頃から思ってたらしいんですよ。
確かに結構いい家の生まれだったんだけど。
そうそうそう。だから結構そういうことも、除ればできたんじゃないかって話もあるんだけれども、
ただある種それを簡単に許さない出来事がいくつかあったんですよ。
歴史的出来事と哲学的探求
1つ目がね、前回もお伝えしたんですけれども、ペロポネソス戦争でアティーヌが負けましたっていう話と、
負けた後に作られた政権に30人政権っていう話があって、これはどうやらスパルタの後押しを受けてできた反民主的な政権らしいんですよね。
負けちゃったからちょっと介入されてるわけね。
はいはい。
だからそれこそ日本が敗戦後にGHQがみたいな話に近いと思うんだけど、
これも別にめちゃめちゃ悪かったわけでもないし、この中にそれこそプラトンのいとことかおじさんっていうのが参加してて、
結構近い人がいたからこそプラトンも入れたとか書かれたんじゃないかって話もあるんですけど。
本当に介入具合は割と緩やかというか。
そうね。スパルタ人が来るっていうよりはアティーヌの人たちでやってるんだけどっていう感じ。
いわゆる反民主制なので、それまでのように市民全員が議論してとか投票権を持ってるってことではないんですよね。
やっぱり最初は良かったんだけど、どんどん独裁化していくとか、これは歴史の常だと思うんだけど、
縮成が起きますとか、財産が没収されますとか、そういうことがどんどん起きていきますよと。
そこまでスパルタ狙ってたのかな。
どうなんだろうね。
独裁になるだろうみたいなね。そこに仲間割れを起こさせてやろうみたいなね、アティーヌのね。
そういう混乱が起きた中で、やっぱりプラトンとしても、やっぱりある種様相を見てた部分があったんだよね。
そのふうに悪くなっていく、アティーヌという街を悪くしていく政権にはもちろん倒されないし、他の民の心も離れていきますよと。
ある時代、政権って独裁性が高まっていくと腐敗して内部分裂していくとかってあったりするんで、
そういうこともあって崩壊していくと、改めて民主的な政権というのが誕生するわけなんですよね。
元に戻るような感じではあったんだね。
そうそうそう。だから良かった良かったと思ってたんですけれども、ここで第二の事件だよね。
まず前回お伝えしたソクラテスの死刑というのが起きちゃいますよと。
ああ、こういう流れなんだね、政治的な話というと。
反民主的な政権が起きて、それが無くなった後にもう一回民主的になるんだけど、それがまさに首相ソクラテスを死刑にしましたと。
はいはいはいはい。
プラトンからすると、前回もちょっと言ったんだけれども、独裁的なものが無くなって民主的なものになって、良かった良かったと。
これでまたアテナも良くなるよねって思ってた矢先、民意、民主的なものがソクラテスを有罪死刑判決にするってことが起きますよという話なんだよね。
なるほど。
なのでここにきてプラトンは、純粋に政治に参加するっていうのが良いのか、それで本当に自分がやりたいことやるべきことができるのかっていうことを考えたに違いなかろうって話なんですよ。
昔から純粋に政治家になりたいとかって思ったかもしれないけど、本当にそれでいいんだっけって思ったときに、
これもちょっと前回お伝えしましたけれども、なんでソクラテスは死刑にならなきゃいけなくなったのか。
結局ソクラテスがやったことって何だったの?みたいな、そういうことが疑問として出てきたときに、それを探ること、それに答えを出すことっていうのがプラトン自身の哲学の道筋になっていくんですよね。
なるほど。かなり難しい問いを持っちゃったんだね。
やっぱり宇宙がとか、この世の原理がとかってことじゃなくて、なんでソクラテスはみたいなところになっていきましたというと。
そこから結構各地を遍歴していって、ギリシャからイタリアに行くとかもしてたらしいんだけれども、そういうことを経ながらいろんな人と交流する中で自分の思考も深めていって、
アカデメイアの設立とイデア論
そこからアテイに戻って、実はその後にプラトンが学校を作るんですよね。
はいはいはい。
それがアカデメイアっていうところなんですけれども、彼自身が哲学者になるんじゃなくて、理想の政治とか国の指導を行えるような哲学者を作る。
そういうふうな機関というものとして、学園、学校というものを作るんですよね。
だからやっぱりプラトン自身としては、自分が哲学者になって産むんじゃなくて、自分が育てた哲学っていうものをある種広く伝えていくとか、
その社会の仕組みの中にちゃんと埋め込んでいく。これはちょっと僕の想像だけれども、そこは一人で突っ込んでいて、一人で死んじゃったわけじゃないですか。
やっぱりそれじゃダメだと。ちゃんと社会の中で哲学、あるいは即労使い哲学っていうものがちゃんと位置を持つというか、営みとして認められる、そういうふうにしていくことが必要だというふうに考えたんだと思うんだよね。
なるほどなるほど。はいはいはい。
マジでソフィストがちゃんとお金をもらって教えるっていうことを、ちゃんと制度というか仕組みとして作っていきましょうというふうに近いとは思うんだけど。
なるほど。哲学はもう同じように教育をしていこうと。
ちゃんと教育をするってことによって、哲学って社会の一部であるっていうことをちゃんと位置づけていこうと。
だからこそ、哲学する人が勝手に弟子とか指定関係が増えていくんじゃなくて、明確な目的っていうのを持って、哲学者をちゃんと育成していきましょうと。
そういうことをやっぱりやったっていうのは、プラトンがやっぱり育りついた答えでもあったし、大きな功績でもあったんじゃないかっていうふうな感じ。
なるほど。最初プラトンが持った疑問に対する答えだったんですね。
一つの答えだね。やっぱりただプラテスの死を無駄にしないというか、それを人間の行動じゃなくて、やっぱり哲学者、愛知者全体の行動にあるし、高めていく、広めていくみたいな。そういうふうなことだよね。
確かに。あれだもん、確かにイデアだけじゃなくて国家だけか。本も確かに書いてたもんね、確かね。
そう、めちゃめちゃ有名な本です。プラトンの国家というかですね。
やっぱり彼にとっての哲学者っていうのは、ただ物事を考えているだけじゃなくて、やっぱりより良い国を導いていくとか作っていくっていうふうなことを直結するんで、そのための育成機関っていう感じだね。
はいはい。だからある意味では、どっちも上下はないけれども、そういう国とは何か、人はどう生きるべきかみたいなことをめちゃくちゃ考えている中での、出てきたものの一つがイデアだったみたいな、その抽象的な部分がイデアだったと言えなくはないというか、副産物的なね。
副産物というか、そこにたどり着いたからこそ、何だろうな、哲学ってみんなでできるんだっていうふうに分かったりとかも多分あるんだけれども。
そこはもう分かれてるっていうよりは、プラトンの中の大きな軸として根前一体となって存在してるんだね。
そうなのです。まさに今日この後、そのイデア論について話していきたいんですけれども、なんでそういったイデアっていうのが必要になったのかっていう話なんですよね。
これも実はプラトン独自のものっていうより、やっぱりソクラレスがやったことっていうことを踏まえて考えたときに出てくるもの。だからソクラレスの延長線上にあるものだっていうふうな話があるんですよと。
で、これどういうことかっていうと、前回までお伝えしたとおり、ソクラレスは哲学だって言って論破活動していくわけなんですけれども、
ある種、何をしてるかっていうと、要は相手が実はよく知ってると思っていること、例えば技術でもいいし、それこそ政治とか徳とか、いろんな抽象的なものでもいいんですけれども、
それについてよく知らないんだっていうことは暴いていくわけなんですよね。
で、どうやるかっていうと、要はそもそも論だよね。
これこれとは何であるかっていうふうに、例えばさっきで言うと、徳とは何かとか、勇気とは何かとか、
そういうものをある種問いかけていくことで、例えば勇気とはこれこれだとしたときに、これは勇気とは言えないのか、いやそんなことはないみたいな話を重ねていくことで、
実は勇気はこうじゃなかったよね、じゃあ次行きましょうっていうふうにどんどん議論を重ねていくみたいなことをやっていくんですけれども。
しかもこれがテーマとしては、勇気とかってみんな聞いたこともあるし、これは勇気があるとかこれは勇気がないとかって言えるんだけれども、
深掘りされると確かにわからないみたいなことをテーマとして取り扱ってるわけなんですよね。
そうなんだね。
そう。そうなったときに最終的に、これこそ第1回というか第2回かな、友情についての話をよかったらまた聞いていただきたいんですけれども、
友情とは何かって言って話して話して話して挙げく、よくわからなかったねで終わるみたいな、そういうことも結構あるんですよ、残ってる話としては。
なるほど、はいはい、そういうことか。1さす1は何でしょうか、とかっていう話はしないんだね、そういうことじゃないっていうね。
そうだね。
テーマエレビューもちゃんと、ソクラテスの中で整合性があったりとか、ソクラテスの中で言えただったりというか。
そうですそうです。
ひっかかりポイントがね。
そうそうそう。私もプラットフォームはそういうものを選んでたって話もあると思うんだけれども。
はいはいはい。
いろんな議論の中で。
そうするときにある種このイデア、プラットフォーム考えたイデアっていうのが、この〇〇とはこれこれと何であるかっていう問いがあったときに、答えっていうものがイデアなんだっていうふうな発想を持ってるんですよね。
はいはいはい。
つまり勇気とは何であるかっていうと、それは勇気のイデアであるっていうふうに言えるもの。
つまりその、勇気それ自体、これこれそれ自体っていうものを指すものとして、イデアっていうものを私考えましたっていうふうな話なんですよと。
でこれね、僕もちょっと勘違いしてたんだけれども、
例えばさ、そのイデアって何でもあるっていう話があるんで、
例えばそのリンゴみたいなもの、目の前にリンゴがあったときに、いやこれは本当のリンゴじゃないと。
いわゆる偽のリンゴで、本物のリンゴはリンゴのイデアだけなんだみたいな感じで、
世の中をいろいろ観察した結果、例えば丸いリンゴ、本当に丸いリンゴもあればちょっと長細いリンゴもあるけど、
それも全部リンゴだみたいな感じで、
そういうちょっと抽象的な、要は理想の丸々みたいな、
そういうものを指すのがイデアなのって思ってたんだけど、
実はそうじゃないんだよっていうふうな話があったんですよ。
へー、あ、そうなんだ。
で、どういうことかっていうと、今読んでる本の説明でいくと、
イデアっていうのはある種基準なんだよね。
その、比較とか、何かものが同じだとか違うとかっていうことを考える基準となるもので、
へー、ほいほいほい。
要は、ある基準の中で最高度に優れたものっていうふうなものじゃないんだっていう話があったんですよ。
うーん、そうなんだ。それはプラトンのイデアの解釈としてね。
プラトンのイデアの理解
結構ね、プラトンのイデアっていうものをちゃんと読み取れていくと、そういうふうにしか取れないみたいな話?
そういうふうにも取れるじゃなくて、そういうふうにしか取れないっていう話もあると。
そうだね。たぶんそっちのほうが正しいんじゃないかなと思うんだけれども。
それは今の学術的な話。
そうね、今の学術的な話でいくと。
じゃあそっちのほうが主流って言っていい?
いいと思う。
へー、そうなんだ。
ただね、当然これ、プラトン自身も晩年自分のイデア論を批判したりもしてるんで。
はいはいはいはい。
別にプラトンのイデアっていうのはこれこれだって確定させるもんっていうのは難しいんだけれども。
うーん、その時点でのみたいな話だね、プラトンの。
そう、イデアっていうものを正しく捉えようとした時に、いろんなリンゴがあって完璧なリンゴっていうものがリンゴのイデアなんだじゃなくて、
あるものを見た時に、これはリンゴである、これもリンゴであるっていうふうに判断するための基準っていうもの自体がイデアなんだっていうふうなものですよと。
へー、はいはいはい。
だからこそ、基準であればこそ、例えばすべてのリンゴっていうものはリンゴのイデアを一部なら一部でも持つし、
その個々のリンゴがあるのが背後にというか、このどこかにいわゆるリンゴのイデアっていうものがあるからだっていうそういう関係っていうのが成り立つわけなんですよね。
逆に言うと、例えばさっきのこれこれと何かみたいな話で、リンゴとは何かっていうと、リンゴのイデアを持つものだっていうふうなことも言えますよと。
これはリンゴのイデアがリンゴの一部だとしたら言えないじゃない。そういうものもあるとしか言えないから。
哲学的探求とイデアの関係
そうですね。どこまでいっても下下であって本体には言えない。
そうそうそうそう。っていうふうな感じなので、まとめると、プラトンのイデアっていうものは、ソクラテスが問い続けた〇〇これこれとは何かっていうふうなものを、
ただしAとかB、C、D、Eって全部やったんだけれども、ただし包括する形で、そもそも哲学者が追い求めるべきものは何であるかっていう問いに答えたときに出てくるものがイデアなんだよね。
何のイデアかわかんないけれども、哲学者がこれこれとは何かっていうものを問おうとすると、そこにはイデアっていうものがあるんだと。リンゴのイデアかもしれないし、有機のイデアかもしれないけれども、そういうものがイデアなんだっていうふうな話なんだよね。
はいはいはい。わかると思う。本来のソクラテスの問答の終着点がイデアであるべきというか、感覚だよね、たぶん。
答えが出てくるとしたらそれはイデアであるっていう話なんだよね。
これはちょっと僕の感想というか想像なんだけれども、イデアっていうものをある種発明することによって、これまでの多くの哲学的な営みとか探求っていうものが、全部イデアの探求と一つの概念というか、構造にまとまるんだよね。
そうするとやっぱめちゃめちゃ扱いやすくなるなっていうのがあって、例えばこれまでは万物の根源はってことを解いたりとか、あるいはあるはある、あらねはあらねみたいな感じで、変化を否定しますみたいな、変化なんないんですとかっていろんなパラダイムの変化ってのがあったと思うんですけれども、
ここにきて、ある種の変化しない猛突のイデア、要はパルメイディスが言うところのある種のイデアに向き合うことが、哲学的な営みっていうものを全部包括して説明できると。
やっぱ万物の根源は何かっていうことが、その根源のイデアっていうものを探求すれば見えてくるし、ある種のパルメイディスとかも、いやりんご食べたらなくなるっていうのが嘘だ、みたいなこと言うと思うんだけど、確かにりんごは食べたんだけど別にりんごのイデアはなくなってないから、それは全然OKなんですよみたいなふうに、パルメイディスも納得できちゃうわけなんですよね。
はいはい、そういう、今の話を聞くと、アリストテレスが万学の祖っていうふうなのの意味がわかる気がした。
あー、なるほどね。
わかるかな、ちょっと答えからやっちゃって。
もうちょっと聞かせてほしい。
なんでアリストテレスってそうやって、いろんな学問を分けて整理してると思うんだけど、確かにデモクリティスの原子論みたいなやつ、万物の元は原子であるって言っちゃえば、別にそこと分ける必要がないし、どう分けようもないなっていう感覚は確かにあったなと今回思って。
そこそこっていうのは?
あと万物の根源を探求してる状態と、
はいはいはい、なるほどね。
あとアリストテレスの、いろんなものの学問が追求するっていうものの間が、ここなんだなっていうのを今の話を聞くと思って。
そこをね、架け橋となったのはプラトンのイデアっていう概念だなって、今のタイトルの話を聞いて思って。
なるほどね。
イデアを想像することで、初めて今までデモクリティスとかがやってたのは万物のイデア探しだったんだけど、
そうそうそうそう。
プラトンのこのイデアっていう概念があることで、万物の根源ではある意味捉えきれなかったような、正義のイデアとか、
だからその正義とは何かも、ある意味万物の根源に吸収されちゃって、ちょっと扱いきれないんだけど、
そこが、イデアっていうものが丸々のイデア、丸々のイデア、丸々のイデア、そして万物のイデアもあるってなると、そこが同居可能になる。
あ、そうそうそうそう。
虚無主義じゃなくなる。
まさにまさに。
それから扱い用がある。だから人工のイデアもあるけど、それをたどっていくと、万物のイデアっていうものに構成されてるよねみたいな、その相互関係みたいなものが生まれてきて、
取扱い可能になっていく。そうすると、アイソテルスみたいな、いろんな学問だったりとか、自然哲学みたいなものもあるし、
そこまで言ってたか忘れたけど、確か神秘学的なものもあったような気がするんだけど。
そういうものも確か取り扱い可能だなって思うんだっていう話かな。
本当にそうで、まさにこれまではゲームチェンジみたいな感じで、いろんなゲームをやってきましたみたいな話をしたと思うんだけれども、
このプラトンのイデア論っていうものは、まさにいろんな分かれたゲームっていうものはまた1個のテーブルに乗せて比較可能にしたみたいな。
要はその、哲学っていうのはイデアを追求することだって言っちゃうと、今ね、言った通り、万物の根源のイデアとかもできるし、
正義のイデアもできるし、そもそも存在するとは何かってこともイデアとは何かってことを突き詰めれば、それができるみたいな感じで、
パルメイネスもパレスもデモクリドスとかも全部、このイデアっていう中に包括できちゃうんだみたいな話なんだよね。
アカデミアとプラトンの影響
しかも、うまい例えじゃないんだけど、それこそスポーツにするようになれば、サッカーとかバスケとかっていろんなスポーツがそれぞれあったときに、
それを球技としてくくります。しかも球技ってことを実際にスポーツとしてやれるみたいな、なんだろうな、そのぐらいのことをやってのけてるんだよね、プラトンって。
球技もスポーツとしてやれる?
要はイデアを探求できるじゃない。僕らさ、球技っていうスポーツはない。要はカテゴライズしてるだけなんだけど、プラトンのイデアっていうものは、
それを全部くくった上でかつイデアの探求っていう風に、一応探求するっていうゲームもできるっていう風なものなんだよね。
今まで言うと、サッカーとか野球とかだったときに、それぞれを探求する音楽、サッカーとは何かとか野球とは何かを探求することももちろん自由だし、
あるいは球技とは何かっていう球技のイデアを探求することも自由だし、みたいな意味で使ってる。
まあ確かにそれもできるか。それもできるね、確かにね。
これちょっと思ってたのが、要は球技っていうスポーツはないじゃん。
だから球技っていうものはゲームとしては存在しないと思うんだけど、イデアっていうものは、イデアを探求するっていうゲームが存在してるんですよ。
そこは比較ね。だからスポーツだったりとか単なるカテゴライズっていう風なイメージでいると意味不明なんだけども、
だからさっき言った、球技やろうぜってなると、何するの?ってなるんだけど、
一方、イデアの場合はサッカーのイデア探求しようぜって言ってもできるし、球技のイデア探求しようぜって言ってもできる、こっちは。
できる、できる。
そこの比較ね。
そうそうそう、比較です。
わかりました。
はい。っていうぐらいの、やっぱりこう、何だろうな、視野を持った発想っていうのがやっぱりイデアなんだなっていうことを改めて思ったんですよね。
なるほど、だから単なるカテゴライズじゃないぞと。
そうそうそう、そうなんです。ただそこにラッピングして、これはこうやってやっただけじゃなくって、
そもそも哲学の営みとはイデアを探求することがあるっていう風に、もう何だろうな、定義しちゃった。
はいはいはい。
その定義のもとで、これまでやってきたタレスやら、エリア派とかミレトス派とかっていうもののことも全部含められちゃうようにしちゃったっていう。
なるほど。
これがイデア論の破壊力というか、プラトンの強さなんだなっていう風に改めて感じたんですよね。
確かにすごいね、そう考えると。
やっぱり分ける必要が無くなっちゃって、分けられなくなっちゃった。何かを考えると思っても、そうやってイデアについて考えてるのって言われちゃうというか。
だったら一緒にやろうよって言われちゃうみたいなね。
あー、うわー怖っ。
怖いでしょ。
なるほど、すごい力だねそれは。
そうそうそう。
なるほど、だから言い争いみたいなことがあった時に、いわゆるねじれだったりとか同じ土俵に立たないっていうことができなくなるんだ。
めちゃめちゃ難しくなるって感じだね。
引っ張ってこれるんだ、基本的に。
そうそうそうそう。
怖っ。
怖いぞ。
怖いでしょ。
確かに、ソクラテスがやりたくてできなかったようなことな気がする、それってなんか。
そうそうそうそう。
もしくは、やってたけど誰もがそう。
ソクラテスは相手をどっちも乗り込んでたのかな、そう考えると。
いやー面白い。
多分ね、乗り込んでるというよりは、ソクラテスはやっぱりその対話を通じて、どっちも知らない、要はこれこれと何かってことに対して、知らなかったね、分かんなかったね、でも一緒に追求していこうねっていうことをもうやり続けるしかなかったんだけど。
相手の土俵を壊しまくってたのかな。
そうそうそう、壊しまくって。
自分は土俵を持ってなくて、土俵を壊しまくってたのかな。
そうなのよ。
サラトンは自分の土俵を作って、あらゆる人をそこに引き込めるっていう恐ろしい場所を作っちゃったんだ。
作っちゃった。それがアカデミアっていう学園だから、それを学校だって言われたら、もうなんか否定もできないじゃない。
なるほど、私はそう信じてるとか伝道師だとかじゃなくて、学校ですと。
学校です。で、イデアというものを追求する方法をみんなで学びます、教え合いましょうっていうようなことなので、そうなるとその営みっていうものが定着しちゃうというか、世の中に存在し続けちゃうんだよね。
そうだね、そこの、確かに出来立てはなんだあの学校ってなるかもしれないけど、ある程度ちゃんと人が集まって定着して、世に人が排出されていくと、気づいたらもう世の中の一部になってると。
そうそうそうそう。
サラトンやばいね。
やばいでしょ。そうなんです。
なるほど、馬鹿にしてすみませんでしたね。
なんか言っちゃうからね、人間論作りにかかってとかって。
そうそうそう、やってとかね。
あの、スラークの根源とかって言ってたんですけど、やっぱりそこはですね、以前の流れから見ていくと、
それこそさ、やっぱりパラメディスが出てきたのも、それの時当時はやっぱりこう、万物は何々ゲームの混乱があって、
それを乗り越えるためというか、そこに対してのある種カウンターとして出てきたわけなんだけど、
そういうスタンスを取って対立軸を作るんじゃなくて、全部をまとめちゃうって、やっぱり意外となかったというか、他にあんまり例が見当たらんなって思ったんですよね。
まあ確かに、そっか。結構あれだもんね、ちょっと正しく理解してないかもしれないし、アテレの話じゃないような気もするんだけど、
スパルタだったかな、後でもそうだったかもしれないけど、なんか昔の民主制ってさ、昔スピーカーとかマイクもないから、声が大きい人だったんですよ。
良いぞ良いぞみたいな。結構雰囲気みたいださ。
本当にそうだよ。
プラトンのイデアと善のイデア
だからさ、ある意味そのペラトンが、なんでこんな優秀なアサクラテスが死ぬとかさ、
こんな優秀じゃない人たちがなぜかトップに立つみたいな、多分すごい葛藤だったりとか、気になることがペラトンはあった時に、
そこをどうしようという中で、この土俵を作ったっていうのは、かなりやっぱり、本人からすると、本当に成し取りたかったことというか、
そうね。
そういう感じがして、なんか熱いね、なんとペラトン。
そうそう、熱い。やっぱりちょっと前もあったけどさ、いわゆるビジネス的にやったら、本当にない市場を作って、
それを当たり前にした、超敏腕経営者みたいな、超敏腕企業かみたいな感じじゃない?
やっぱりそれだけで苦労もあっただろうし、やっぱり、なんとなくペラトンがイデアを考えましたっていうことではない営みがあったんだろうなっていうふうに思うんだよね。
そういう意味では、イデアというものを発明しましょうというような感じなんだけれども、かつね、この中でさらに一歩進んだ発明っていうのがあって、これが善のイデアってやつなんですよ。
あれなんだっけ、イデアの中のイデアだっけ?
そうそう、善のイデアっていうものが、いわゆる一番大物というかね、それもあんだけれども、これがね、何だろうな、さっきも言った通り、イデアっていうものはある程度、哲学者が追い求めるべき何かなわけなんですよね。
何かというか、物ってなったときに、やっぱりこう、そうなると、逆に何でもありになっちゃいますよね。
私のことはリンゴのイデアもあれば、勇気のイデアもあれだっていうときに、じゃあリンゴのイデアと勇気のイデアっていうものがどうやって考えたらいいのとか、そうやって比較できるかどうかっていうのが出てくるじゃないですか。
比較、ほうほうほう。
さっき言った通り、リンゴAとリンゴBを比較できるのは、リンゴのイデアがあるからなんだけど、リンゴのイデアと、例えば、勇気のイデアがあったときに、それって何で両方イデアなの?っていうことがまた言えるわけなんだよね。
イデア同士の、はいはいはい。
そうそう、イデア同士の。
そのときに、それをまとめあげるのがこの善のイデアってやつなんですよね。
ソクラテスの影響
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
で、プロトン自身っていうのはこの善、いわゆる良いだよね。善人の善なんだけど、これが何であるかっていうのは、ちょっと正面から答えることができないんだみたいなことを断ってるらしいんだけれども。
はいはいはい。
いろんな比喩、例えば太陽の比喩とか、洞窟の比喩とかいろんなものを使って、この善のイデアっていうものを説明してるんですよね。
え、あ、そうなの?
うん。
そっか、イデアのことを洞窟の比で言ってるんじゃなくて、この善のイデアの話だけなのかな?
そうね、メインでいくとそう。
あの、要は、聞いたことある方もいると思うんですけど、要は我々っていうのは洞窟の中に住んでて、太陽の影を見てると。
で、本当の太陽って見れないんだっていう話があると思うんですけど。
太陽っていうのは善のイデアのことなんだよね。
へー、そうなんだ。
で、哲学者っていうのは洞窟に映った影じゃなくて、太陽そのもの、善のイデアそのものを見なきゃいけない。
そういう風に、視点というよりは魂なんだけど、魂の向きを変えるっていうことが哲学的な修行というか勉強なんだよっていう風な話が洞窟のイデアなんだよね。
洞窟の比喩の説明なんだよね。
はい、わかりました。
なるほど。
そう。
あくまでも、その、天とあるイデアというよりは善のイデアってことはやっぱ大事なんだけれども、
これもさっきの話から踏まえて分かりやすく、要は、イデアとは何ですかって言っても立てれるわけじゃないですか。
これこれ何かっていうときに、じゃあイデアとは何ですかっていうと、その答えになり得るのがこの善のイデアなんですよと。
そう、イデアのイデアね。
イデアのイデアです。
イデアとはこれだよって話ね。
なんで善なのかって、やっぱりこれ答えは明らかではないんですけど、
これもちょっと前回お伝えした通り、スクラテスっていうのは、ただ生きるんじゃなくて、よく生きる。
まあよくっていうのは善なんだけど、
人が大事だよっていう風な話を言っていて、
要は集団の規範とか取り決めに従って生きていましょうってことを言ってたじゃないですか。
これもおそらくなんだけど、プラットフォームがスクラテスを見ていたとか、そういう発想を受け取ったときに、
やっぱりスクラテスの人生を踏まえて、よく生きることってなんだみたいな。
何がよく生きることになるんだっていう風なことでいくと、
結局はスクラテスっていう生き方は、人生の中で常に善、良いことっていうものを追い求めていたよねと。
ある種スクラテスのそういった活動自体が哲学、地を愛するフィロソフィーなんてするのであれば、
哲学者っていうものは善に向かっていく、そういう風なある種族というか生き方なんだと。
だからこそスクラテスは善っていうものを追い求めて生きていて、
哲学者っていうものもイデアを追い求めて思想を深めていくんであれば、
それを掛け合わせていくと善のイデアになっていくっていう風な、
そういう発想もあったんじゃなかろうかっていう風な話があります。
それは想像というか、別にそういう風に説明されてるわけではないんだけれども、
っていう風なものがありますっていう感じなんだよね。
だからここにきて、やっぱりプラトンの中でのスクラテスの人生の意味というか、
哲学的探求の意義
前回とおりなんで死んでしまったのか、スクラテスの人生とは何だったのかっていう時に、
スクラテスっていうものはやっぱり善、もっと言うと善のイデアに向かって生きていた哲学者だったんだと。
だからこそ我々も善のイデアっていうものに基づいて、
そういう営みを続けていかねばならぬ。
それっていうことがスクラテスから学んで我々が受け継いでいくことなんだみたいな、
そういう風な流れになっていくわけなんですよね。
すごいね、そっか。
もっとこのイデアとかって、プラトンの個人的な価値観みたいなものが反映されてるのかな、
みたいなのはあったんだけど、
自分で哲学した結果、そこにたどり着きました、みたいな、
そういう感じがあったんだけど、
すごくフラットだね、思った以上に。
だからその善に対しても、
もちろん善のイデアっていうものをプラトンが考えた場合のプラトンの価値観だったり、
それこそスクラテスが言ってた良いじゃないかっていうような、
そこにはプラトン価値観は存在し得るんだけれども、
このプラトンが規定した善のイデアそのものはすごくフラットで、
そこの違いを今回すごく感じたね。
だからそこは感じてなかった。
プラトンなりにスクラテスの善のイデアが善のイデアだと思ってたんだけど、
それは違うんだね、善のイデアはあって、
あくまでスクラテスだったりプラトンの価値観での善のイデアはあるかもしれないっていう、
そこの二段構えみたいな構造はなかった。
僕は確かにそこなくって、
善っていう言葉自体が良いこととか、いわゆる倫理的な面があるじゃない。
意外と言った通り、スクラテスとかプラトンにとっての良いことっていうものが、
善のイデアなのって思ってしまったんだけれども、
そうじゃなくて、やっぱり本当に、
それこそ万物の本源は水だとか、あるはあるないはないだって同じくらいフラットに、
この世の中のちゃんと哲学っていう営みを定義しようとか、
ちゃんと構造として取り上げようと思ったときに、
善のイデアってものがあって、いろんなイデアがあって、
そこから目の前にあるものだったりとか概念があるっていう風な構造を作ったときに、
哲学者っていうものは目の前の現象とか、さっきの洞窟っていうところの影じゃなくて、
やっぱり大元そのもののイデア、何とかだ何であるかっていう、
その本質をやっぱり見るべきなんだっていうことに結びついたっていうのは、
なんかすごいこう、まさにフラットだよね、何かやってくれるストーリー。
いやー、そうなの。
そこ自体はね、ぶつかる可能性はね、良いとは何かっていうところでぶつかる可能性はあるけれども、
そうはいいね、そこのさっきハヤトが言った土台でもね、そこはしっかりしてるから、
ある程度ぶつからせることはできるんだよね、数値が合わせて。
そこは交わらないことはあるかもしれないけど、ぶつかりはするというか。
そうね、ちゃんと建設的な議論になるっていう感じだよね。
そうはね、建設的に。とりあえずしてることはできる。
そうそうそう、土台がちゃんとあるからね。
もちろんね、このイデア論っていうのは、いつも言う通り、
やっぱりいろんな問題もあるし、ロジックの穴もあるんで、
それこそね、さらに弟子であるアリス・ゼルスとか、
プラトン自身も晩年にちょっと違うんじゃないか、みたいなことも言ったりはするんですけれども、
やっぱり一個の体系とか仕組みとしては筋が通ってるよねと。
かつやっぱりソクラテスの人生も踏まえたり、
それまでのいろんな哲学の流れも踏まえたりっていうところでいくと、
すごく綺麗というか、ちゃんとまとめた形で提出したっていう意味では、
やっぱりすごいことなんだな、すごい発想だなっていうことを感じたんですよねと。
めちゃくちゃすごいね。
だからこんなにフラットだと思ってなかったから、
今アリスとゼルスの話もあったけれども、
だからこそ今度は、デモクリの原子論は虚無主義に走るじゃん。
今回のプラトンに関してはあまりにもフラットすぎるから、
ちょっと相対主義に走る可能性が出てくるんだよね。
何でもありみたいなね。
いわゆる善のイデアにしても、それこそ悪人だよね。
悪の方がいえば悪の哲学があるし、正義には正義の哲学があるし、
ある意味ね、正義の反対はもう一つの正義みたいな話だよね。
そうやってある意味相対主義的で、
で、アリスとゼルスはそこに一定のベクトルだったりとかカテゴライズしたみたいな、
そこで行くとその流れもすごいスッキリくる気もするし、
それも必要だったのかなと思うしね。
そうね。
だからやっぱりね、このプラトンっていうところはやっぱりこうね、
偉大さというか、
ホワイトヘッドの時もちょっと話したと思うんですけど、
ホワイトヘッドが後世になって、
全ての正義の哲学っていうのはプラトンの客中に過ぎないみたいなことを言ったぐらいの言葉があるんですけど、
意味薄めだったけど、そうだね。
そうそうそう。やっぱり何々とは何かって問うってこと自体はプラトンのテーブルの上なんだよね。
はいはいはい。ここに立って納得だね、それは。
ちょっとこれも余談だけれども、
ハイデッカーだよね。20世紀最大の哲学者と呼ばれるハイデッカーもいますけど、
彼も何であるかではなく、あるとは何かを問うたみたいな話でいくと、
それはプラトンのテーブルから出ようとしている人並みなわけなんだよね。
ほうほうほうほう。
つまり、存在するっていうことから始めるんじゃなくて、そもそも存在とは何か、あるとは何かってことを問うっていうことがされてこなかったなと。
だからこそ、私はそれを問うんだっていうことが、やっぱり哲学的な大きなテーマになるんだよね。
なるほどね。
っていうふうに、僕も改めてプラトンのことを、イデアのことを見たことで、そのすごさがわかるし、
逆に言うと、このテーブルから出て考えることも難しさだよね。
いや、恐ろしいなって。
そうそうそう。
ある意味、このプラトンワールドから出ていくために、存在とは何かみたいな抜き道みたいなものを発見しようとしたけれども、
ある意味それも存在のイデアとかでなっちゃうと、まだ包み込まれちゃうみたいな。
そういうこと、そういうこと。
なかなか出ていけないっていう、大変さというか、
多分本当に、頭に哲学者からすると、何やってくれてんだみたいな話なのかもしれないね。
そうなんだよね。
っていうふうな話もあるんで、
今回ちょっと一つ一つが、そもそもプラトンの主張とはとかってことまで踏み込んでないんですけれども、
どういう流れの中でとか、スクラテスっていうものの生き方をどう受け継いで、
物事を考えたのか、イデアっていうものを考えたのかっていうことが、
プラトンのイデアの理解
ちょっと多少のアイテムを関していただけたんじゃないかなというふうに思っておりますと。
なるほど。
その細かくは覚えてないけれどもさ、
イデアって何だろうねみたいな話をした時に、
辞書かなとかいろいろ話してた気がするんだけど、
一旦、イデアは基準であるで、ある程度もういいんだね。
そんぐらいフワッと。
多分ね、理解。大まかな理解としてはね。
やっとプラトン、成仏したかな。
自分の中でね。
一旦ね。
分かる。分かるというか、
なんとなくそう捉えたらいいんだっていうところが感じるよね。
だからちょっとこれはもうごめんなさい、余談なんだけど、
古代みたいな人たちはやっぱりやるの大事だなと思って。
ちょっとね、今回もう少しヘリンジム哲学って続くんですけど、
次ね、西洋じゃなくて東洋の古代の人たちを取り上げたらいいのかなってちょっと思ってて。
ぜひぜひ。
それこそブッダ以前だよね。
インドの中で哲学者として呼ばれていたとか、
そういう主張をしていた人たちっていうところを取り上げるのもいいのかなとか。
あと中国とかにも行って、
孔子とか孔子はちょっとやったけど、
他の人はどうなんだとかっていうのをちょっとやってもいいなみたいな。
はいはいはい。そう思ってはいるんですけど。
今回ソクアティスプラトンをやって、ここまでいわゆる復讐でしたと。
復讐というか、ソクアティス以前とこの後のヘリンジム哲学をつなぐような話だったんだけれども、
次回から新しい話として、
またいろんな考え方を取り上げていきますよと。
ここには以前に取り上げたストア派とかもまた出てくるんですよ。
ストア派。何となく覚えてるかな。
あんま覚えてない。
じゃあよかったってあるんですけど。
アリストテレス以降です。アリストテレスまでやっちゃうと、
それだけでまた膨大になっちゃうんで。
一旦ちょっとアリストテレスは別の機会に取り上げるとして、
アリストテレス以降ですね。
ギリシャ世界っていうものがアレクサンドルトン帝国として広がっていく中で、
そこに生きる人たちの世界観があるし変わらざるを得ないみたいな。
こういう時代にプラトンがイデアっていうものを作った後の時代に、
どういう哲学が発展していったのか、
世界観っていうものがあるし生まれてきたのかっていうところを、
次回ね、ちゃんとヘリニズム哲学っていうのが国の中で見ていきたいという風に思っておりますという感じですね。
ヘレニズム哲学の展望
なるほどなるほど。
じゃあ聞き直さないとね、古典ラジオのアレクサンドが来るよね。
そうね、確かに。
そうですね、ぜひそちらも聞いていただけると、
僕も聞いてないんで、あの1回も。
時代背景がインプされた中で、
そういった哲学の話も入ってくるんじゃないかなと思いますね。
今ボディタンだけどね。
あ、そうなの?
自分のラジオのストア派聞けよって言ってほしかったんだけど。
ストア派聞いてもわかんないもんだって。
聞くならそっちの方がいいかもって。
マジで思った?
普通に思った。知らないもんだって。
じゃあハヤトはついてきてほしいと思うんだけど。
ちょっと勉強してこようと思います。
では次回ですね、アレクサンドロス第4の活躍を見ていきたいというところで。
違います違います。
ボケ飛ばされるとさ、ちょっとわかんないんだよ。
もう終わらせる空気だからさ、こっちとしては。
次回はヘレニズム哲学見ていきたいというところで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。