本日のご来店者は、前回に引き続きNPO法人PIECESの斎さんです。
斎さん、それはデンマークに行かれたっていうことを聞いたんですけど。
そんな話ししちゃいますか。
ぜひ。
偉そうにいろいろ喋ってますけど、基本的にはチャランポランな人間で、平らな人間なんです。
大学院の時にデンマークには行ってるんですけど。
そうなんだ。
大学院1年、修士課程まず行ってたんです。修士課程に1年半行って、残り半年で。
いや、でもまだなんか働くイメージわかんないなみたいなっていうのがあり、どうしようかなって思ったときに、たまたま家でおかんの持ってた雑誌を読んでいたら、
すごい牧歌的な写真が写っていて、なんかいいなとかってつぶやいてたら、
おかんが、あれ、それなんか私の知り合いがやってるところだよみたいな。
デンマークで、若年の障害者の方の施設を持ちつつ、そこに牧場とかもあっての、
そこでさらに体操とかを頑張ってるみたいな、そういうのをピックアップした日本人の方を特集した写真が写ってて、
その人がたまたまうちのおかんの学生時代の同級生だったっていう巡り合わせがあり、デンマーク住んでるの。
デンマーク30年住んでます。パートナーはデンマーク人でっていう日本の人で、
デンマークって言ったら福祉先進国と言われているのかなと。
元々もう少しソーシャルワークとか福祉っていうことの根底にあるものは知りたいなと思ってたタイミングでもあったんで、
これだったら1年間ワーホリとかで行って、少し逃げられるじゃんみたいな。
働くというところから逃げられるじゃん。もうちょっとモラトリアもみたいなのもあり、
連絡してみたらぜひぜひおいでみたいな、ホームステイもさせてきるよみたいな感じで行ってくれて、
じゃあもうこれは行くしかないと。
なんでいろんなところで、なんでデンマーク行ったんですかって言われたら、
基本的には福祉を学びにみたいな、福祉先進国のなんちゃらかんちゃらみたいなこと言うんですけど、
基本的には遊びに、逃げに行って。
有料期間はね、モラトリアも。
でも結果めちゃくちゃよかったんですけど、
その時にはカナダに行くっていう選択肢もあって、
あとカナダも結構ソーシャルワークを学ぶという意味では面白そうだなと思ったんですけど、
でもそういう縁もあったからデンマークに行こうかと。
でもお金ないやと思って、そこから1年間ぐらい大学にとりあえず休学して、
お金を稼いで、資金を貯め、1年後にその人の家を頼りに。
これがスタートですね。
具体的にはどんな感じですか?
例えばですけど、これもいろんなところで例として出している話ですけれども、
象徴的だったのは、本当に日常の一コマです。
ある本当に冬の寒い日に、朝通勤の時間に、たまたま、あんまその時間でやることないんですけど、
バス停に行ってバスを待って、そういう時間なんで、バスがもう満員だったんですね。
バス停に私と同じように何人か待っている人の中に、ベビーカーをしたお母さんもいて、
でももう満員ですと、もっと一人も入れないなみたいな感じで、
そしたらもう次のバス待つしかないので、みんな窓から来る。
でもそしたら、ちょっと時間が経ってドアが開いて、
3人ぐらいの大人の男の人が出てきて、
そのお母さんに声をかけて、
私のデンマーク語のヒアリング力なんて乏しいので、絶対にその通りではないんですけど、
寒いだろうから、子供もちっちゃいし、
自分たちはここで一回降りるから、代わりに入れないの、みたいな感じで声をかけて、
すごいと思ったんですけど、
そのお母さんの方も、日本だったらこれ、いいです、いいです、いいです、みたいな。
遠慮しちゃう。
ごめんなさい、みたいな感じなんですけど、
多くの場合、すごいさらっと、どうもありがとう、みたいな。
本当にさらっとお礼を言って、
すっと入れ替わっていくみたいな、そういう場面があった。
なんだろう、これ、と思って。
確かにね。
すっとそういうことをできるのもそうだし、
それがたぶん日常の当たり前の光景なんだろうなと思って、
きっとそれを受け取ったお母さんの方も、
もちろん子供はまだお赤ちゃんだったんでわかんないかもしれないですけど、
少なくとも自分がここにいるってことが認められてるというか、
通勤時間にレディーカーをしてバスに乗ろうとしてるっていう、
日本だったらちょっと空気読めよ、みたいなことが起こりそうなときも、
その人がそうしていることに周りは受け止めていく。
そのためにちょっとしたアクションが起こせるし、
それを自然と受け取って入れ替わっていくみたいな、
この日常が市民の人たちの手によって作られてるっていう、
こっちこそもしかしたら大事かもしれない。
その仕組みとか制度とかを作ってるのも当然人々なんですけれども、
その仕組み制度みたいなハードと言われるようなものだけでも、
やっぱり片手落ちなんだろうな。
一人一人が作っている日常みたいな、
そこをちゃんと育てていくというか、
そこなしには本当に先進国と言われるような、
世界の中でも一番貧富の差が少ない国で、
幸福な国とも言われてますけども、
そこを作っているのはこっち側も大きいなというのを感じて、
だからそれもあって、
帰ってきて何か活動していこうというふうになったときに、
もともとはどっちかというと志向としてはシステミックな変革というか、
より良い制度、仕組みをとかっていうふうに思ってたんですけど、
いや、そうじゃないなと。
俺は個々、一人一人のあり方みたいなものが変わっていくっていう、
そこを地道にやっていくことの方が大事そうだし、面白そうだしみたいな。
そんなことを持って帰った時間だった。
なるほど。
つながりますもんね。
市民性の醸成ってところと、すごくデンマークの体験が。
そうですね。
なのでデンマークで帰ってきて、それをすぐに実行しようということも思ってなかったんですけど、
それこそだから、PC図を1年、2年、3年ってやっていく中で、
そういえばあの時の感覚かっていうのをだんだん思い起こしていく。
それがすごいやったのと。
やっぱりその日常を織りなす市民の振る舞いみたいな、
それが共にみんな生きてるっていう感じというか、役割とか立場とか。
デンマークはデンマークで、すごい専門性っていうのを大事にする国なんで、
いろんなものが職業が専門職化してるんですけれども、
それと同時にそれだけでは埋まらない部分っていうのが絶対あるっていうことを多分分かって、
だからこそその日常を豊かにしている人たちの振る舞いとか、
まなざしみたいなものがある。
かたや日本だとどうだろうみたいなことを思ったときに、
なんかむしろいびつな形でサービス化しすぎちゃってる嫌いはあるような。
サービス化?
そうですね、サービスの市場化とか産業化とかいろんな言い方があるかなと思うんだけど、
この近くの領域で言えば、
保育っていうもの一つとっても、あるいは行政っていうものとっても、
行政サービスとか保育サービスみたいな、要するにお客さんとか、
提供者と利用者というか、っていうふうな構造が知らず知らずのうちに今どんどん広がっている気がしていて。
そうですね、明確化する。
そうですね。
そのほうがわかりやすい。
わかりやすいし、便利だし、楽なんですよね。
で、責任の所在がはっきりしてる。
してるし。
責められるし、なんでやってくれなかったんですかって、わかりやすい攻撃対象になる。
谷前みたいにサービスって使ってましたけど、果たしてサービスなのかって思えてきました。
それはサービスであるべきなのか。
だから、もちろん全部が全部がそうじゃないですけども、
今も子供も保育園とか行ってますし、
うちの今行ってる保育園とかは本当にサービス、保育と言われるものの真逆みたいなところにいるんですけど、
それは別にそれどっちがいいかというのはその人の価値観もあるかもしれないけど、
でもやっぱり保育サービスみたいなふうになっていくと、
やっぱり保育を提供する人とそれを享受する人、やっぱりそこがもう2つに分かれていく。極端に言えば。
本来、子供育てるって社会みんなですることなんだけれども、保育園に預けてるときには保育士さんが専門性を持ち、保育サービスを保護者が受け取るみたいな。
そうするとやっぱり保育士さんに対して、保育士の何々さんではなくて、保育士さんとしての専門性を強く求めすぎる。
だからやれ怪我をさせてしまったとか、もちろんない方がいいかもしれないけれども、そういうのにいちいち敏感になっていくと、
私も前にいた保育園とかを迎えに行ったときに、お父さんごめんなさい、怪我させてって、どこですかみたいな。
指のこの先っぽにやってると、どれですかみたいな。それですかみたいな。
子供が暮らしてたらそんなことは当たり前にあるから、全然報告もしなくていいぐらいだと思うんですけど、みたいなことを。
そういうわけには。
保育園ってそんな感じで、保育士さんもそうやって謝んなきゃいけない。
めちゃくちゃ大変だと思うんですよ。
そこらへんの感覚っていうのが、お互いに麻痺しちゃってる感じがあるんだろうなと思ってて。
そうすると、保護者と保育士の間にも見えない壁が作られていくし、
本来共にあれたらいいのに、一緒に子供を育てる仲間なはずなのに、そこに壁ができていく。
保育士さんたちも保護者同士のつながりみたいなものがなくてよくない。
お互いに支え合って子育てするじゃなくて、とにかく自分たちが保育園にいる間、保育サービスをしっかり提供する。
保護者同士のコミュニティ作るとかってそんな大事なことではない。
そうすると、一つのコミュニティじゃなくて、とにかくサービスモデルみたいなふうに言う人もいますけど。
こういうことの弊害がいろんなところに起きているような気がしていて。
これだとやっぱり支援する、されるもそうだと思う。
いろんなものを提供する、利用する、消費するみたいなものも含めて、全部がやっぱりそこの役割が2つに分かれてしまう。
その構造の危うさに知らず知らずになっているっていうのが一番多分怖いところで、その方が楽で便利だから。
あるというよりも気づかずそうなっている状態で誰も声を上げられないというのは。
そっちの方が楽なんです。むしろそうしたい人間はたぶんほっといたらそっちの方に行っちゃうんだけれども。
でもその効率的とか何か合理的とかじゃないところにめんどくさいことの中に実は大事なことっていっぱいあるはずで。
めんどくさいまま残しておかなきゃいけないところも今いろんなところで、効率性、合理性、生産性みたいな。
分かるんですけど大事にしたいのはどこだっけみたいな。
でも市民代表としてはめんどくさに嫌なんですけど。
どうしたらいいですかこれ。
そこを葛藤を抱えていくっていう。楽でありたい。それはもちろん楽でありたいし、
じゃあだからって言って手放しちゃいけない思いもあるような気がしている。
そこをみんなで握り合いながら。
さっきの透明化の話とかと近い感じ。
そうです。つながっていきますね。
あとなんか人肌がないっていうか、ぬくもりとか。
だから本当にさっきのそこにいる人がね、
岡田さんなら岡田さんっていう人、役割とか何々会社の人とか、
なんかそのソーシャルワーカーのとかじゃなくて、
なんかその一人の人としてなんかお互いが入れるっていう感じ。
やっぱりそこはすごい残しておかなきゃいけない。
時々吉野家とかで牛丼食べるわけですよね。
吉野家だけじゃなくて、そういうところに時々行ったりするわけで。
夜のそういう時間に時々なんかこう、
普段だったら3,4人がまばらにいる時間みたいな、
突然8人ぐらいのお客さんがなんか揃っちゃうときがあるじゃん。
そうするとやっぱ提供スピードが2分ぐらいで出せてても、
3分、4分とかかかっちゃうわけじゃないですか。
怒り出すおじさんとかいるわけです。
いやあ、さあ、みたいな。
見たらわかるよね、みたいな。
確かに。
なんなら俺も一緒になんかお水出すぐらいなら手伝いますよみたいな。
確かに。
感覚にもなって。
そこでだから、どう考えたって一人でやってるわけじゃん。
そこに8人のお客さんがいて、あなたもそこに加担しているわけじゃん。
そこを怒っても仕方がないし。
確かにね。
まさにだからね、そのサービスを売る人と買う人、受け取る人がいって、
その構造だったら結局そういう歪みが起きちゃうわけ。
かといってね、別に何だろう。
なんか手伝うんじゃない、現実的ではないですけど、
でもせめてちょっとだけそこは想像力を働かせてみたいな。
確かにね。
なんかそういう感じ。
サービスとかいろんなものはありますけど、
やっぱタグ付けするとすごく便利に早いみたいなのありますけど、
これってやっぱ気づかなくなっていくと、どうしてもそのレールを走っちゃうみたいな怒りがするというか、
なんでこれがそもそも起きてるんだろうみたいなのもちょっと不思議というか。
なんかタイパーコスパーみたいなのがやっぱり主流ですよね。
だから時間と効率化っていうのがすごくセットだから、
そうすると人間は透明化していくだろうし、
そこに感情はあんまりいらないのかな。
なんでこんなタイパーコスパー、気がついたら僕たちのトレーチになるんだろうってちょっとふと思ったり。
なんか加速する文化とかってね、よく言ったりしますけど、
いろんな影響があって何が良い悪いでもないんでしょうけどね。
日本だけがそういう状態でもないだろうし。
そうですね。
なんかそういうものを全否定する必要もないと思うんだけど。
確かに確かに。
でもだからこそやっぱりこう自分の心地良さ、本当の意味で何が心地いいんだっけみたいな。
なんかこの本郷三丁目のこの間も信号待ちで横断歩道で信号待ってるときにこの人がいて、
でもそれでも後ろから尚一歩でも前にみたいな人がいたりするわけですよね。
ちょっと僕わかるんですよ。
いやいやと思うんですけど、私もなんならですね、これやることもあったし。
でもやられたときにはちょっとなんか何かなって思うし、
冷静になってみたらそれをしてしまってる自分を、
じゃあ本当に自分が心地良いとしてることかそれみたいな、
何に忙されてんだ俺みたいな、なんかその感じもあるかなと思って。
だからなんかやっぱりどうしてもね、全ての時間を心地よくいるみたいな難しいかもしれないし、
自分の大事にしてるこうビーングというか、
なんかそこに忠実にいるってそんな簡単なことじゃないと思うんですけど、
でもどこかでそこをなんか自分でちゃんと手綱を持っているみたいな、
それは必要かなという感じですかね。
戻れる場所みたいな?
そうです、戻れる感覚、自分の中の、
これは小野さんがね、小野さんの話して大丈夫ですかって。
あ、いいと思います。
カフェマスターのね、元締めです。
カフェマスターの元締めの小野さん、小野さんがよく言ってますけど、
自分の真ん中を生き続けるというか、
自分で絶えずなんかその、ちゃんと自分の真ん中を射抜けてるかっていうのを、
に立ち戻り続けることってなんかすごく大事だよねみたいな。
それでさっきもおっしゃったその帰ってくるところじゃないです。
やっぱりそのためにはまずこうね、
自分の中での豊かさとか幸せとかっていうものを、
別に言語化をきれいになんかできる必要はなくて、
それこそ語感を持ってこう分かっていればいいかなと。
だからそこをちゃんと持っておくことで、
当然こう、私もそうだしなんか、
あんなこと言うんじゃなかったなとか、
男主義は良かったなとかって思うことがあって、
私もなんか時々こう、結構年下の性別で言うと女性に対して、
時々なんか冗談で言ったつもりが冗談と受け止めてもらえなくて、
あの涙流されてしまうみたいなことが。
なんかそんなことあるんですか。
あるんです。バイトしてた時とかも、
学生時代とかも結構あって、
なんかちょっとこう面白おかしく、
もうその場を盛り上げようみたいなとき、
そういうこともやっぱりあるわけです。
でもその時になんていうのかな、
変に意地張ったりとかするんじゃなくて、
自分がどう、何を大切にしてるんだっけみたいな、
自分がどうありたいんだっけみたいな、ちゃんとこう振り返る。
自分の感覚をベースに振り返るみたいな、
なんかそういうことができておけるだけで、
じゃあ次はもう少しこうした方が気持ちよくありるかな、
お互いが幸せにありるなみたいな、
そういうのをちょっと立ち止まってみたいな、
ことができている人間でありたいなと思って。
そのために自分の中の真ん中みたいな。
でも学校じゃそれ教えてくれないかったな、少なくとも。
今みたいな話せずになんかおしべめしべ覚えてますかね。
カフン飛ぶのか。
知性と感性で言えば感性みたいなことかもしれないですし、
自分が好きなこと、
自分が嫌いなこと、
好きじゃないなっていうことを言えるとか、
そういうことに気づけるとか、
そういうことも含めて大事にする、
もうそういうことの積み重ねだと思う。
ソーシャルハイブ、ウェイティングカフェ、天秤の子。
新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
PCSさんがやってるのは、
自分の軸に戻る場所を作ったりとか、
それも戻り方の方法ってみんなで考えようみたいな。
そうですね。
PCSのプログラムを受けてくれる人たち、
PCSの近くで関わってくれる人たちの中に、
やっぱり社会のために、子どものために、
誰かのために力になりたいというか、
何とかしたいみたいな思いを持ってくれている人たちも
たくさんいて、めちゃくちゃ尊い感覚というか、
だとは思うんですけど、
一方で、何とか目の前の人だったり、
気になっている子だったり、
そういう人たちのために頑張ろうとしすぎているところもあるので、
自分が何とかしてあげなきゃとか、
そういう思いを持って関わっていくこと自体は
本当に大事なことであると同時に、
そこで力入りすぎてしまうと、
自分が力に慣れていないというときに、
すごく自分を責めてしまったり、
自分の無力さみたいなもので落ち込んでしまったり、
変わってくれない子どもになるなら、
エネルギーが剥き始めたりとか、
そういうこともやっぱり起きがちになってしまう。
そういうときに、
もう少し自分にとっての心地よい感覚というか、
自分がそのことを言って楽しいと思えることとか、
子どもにどう思われようと自分がその瞬間を楽しいとか、
豊かだと思えるという、
その感覚を持っておけるということも一方で大事だと思うので、
そうすると少しだけその人の力を抜くというか、
ネジをきつく締める方向に私たちも働きかけるんじゃなくて、
それをちょっと緩めて遊びの部分を作っていくというか、
模索してる感じですね。
学習プログラムとしては今一定できていて、
学習プログラムみたいな枠組みで乗れる人は、
乗ってきていただけるっていう感じなんですけど、
でもみんながみんなね、
プログラムみたいな。
確かにハードル高い。
ハードル高い、絶対高いので、
今まではそれでよかったんですけど、
もう少しその感覚を多くの人たちと共有していこうと、
ないんですかね。
ないんですかね、本当答えないですけど。
大人が結構ある程度すごい楽しんでるものがあって、
それがあふれ出て伝わっていくっていう、
自然にみたいなのはすごくいいなと思ったりしたんですけど。
そうですよね。
だからそっち側から課題とか重さファーストではなくて、
何かそっちの軽やかさが思わずにじみ出てしまう。
まさに何かそういうものから自慢。
それに触れる人がっていう。
まさに感覚的にはその感じです。
楽しんでる人、ロールモデルが欲しいと思うんですね。
ロールモデルもいらないかもしれない。
ちょっとそこまでいくと固いですけど。
桜でいいかもしれない。
桜で、桜ぐらい。
1年に1回数日しかもう咲かないよってぐらいのゆるさ。
ゆるさ。
ゆるさと、もうすごく限定的でもあったりして。
だからみんなが何かしら、結構こういう話をいろんな講演とかですると、
みんな何かそういえば何か子供の時、
そういう人いたなとか、
自分の中で温かいなって思えた感覚って、
結構みんなそれぞれ持っていたりするんですよね。
でも言われてみればみたいな、
あんまりこう全意識というか、
言われないと思い出せないみたいなこともあって。
でもみんなそれなりにそれぞれのそういう感覚とか、
現体験、現風景みたいなものとか、
持ってたりはするような。
それに何かちょっとでも、
1年に1回の桜なのかわかんないけれども、
何かちょっとそれを喚起するというか、
思い起こせるという仕掛けとかも作れたらいいなとかって思ったような、
そこが結構クリエイティブな話になってくるので、
だからいろんな人たちと一緒に、
人々のこの生活動線の中で、
ゲリラ的なのかわかんないですけど、
何かこう思わず自分の市民性に触れちゃうみたいな、
そういうことって何かできないのかなみたいなと思って、
ぜひ安心のある方は、
ご一緒に。
市民性の情勢に、
ご協力を。
花見みたいなものみたいなのが、市民性みたいな感じでもあると。
やってもし、やらなくてもいいけど、
やったら何か楽しそうみたいな。
ついやっちゃう?
でもね、しっかりとシートひいて、
なんか機材を持ってきてみたいなものもあれば、
ちょっと川のほとりを歩きながら、
いろんな形があります。
縛られるのがあんまり好きじゃないですもんね、人はね。
そうですね。
何かしなさいって言われたら、したくなくなってるし、
逆にしなくていいよって言ったら、何かしちゃったりするじゃないですか。
何か求められなくてもついついやっちゃうやつで、
その制限さえなければ何でもやっちゃうみたいな。
何かそういう選択肢があるといいなと思ったりしましたけど、今聞きました。
そうですね。だから何かちょっと変なことやれるゆとりとか、
ですね。
過去に押し押しのプログラムを受けてくれた人の中で、
分かりましたと、何ヶ月間のプログラムを受けて、
一旦すぐ私にできることは何かって思ったら、
家の外、マンションに住んでるんだけど、
マンションの外に備え付けてある水道があり、
自分の今まで家の中で洗った子供の浮気をそこで洗うことにしました。
要するに家の中で閉じたところで子供の浮気を洗っているのよりも、
マンションの前で浮気洗ってるってわけわかんない。
でも何してんのって、ちょっと足を止める人が出てきて、
こんにちはとかっていう言葉のやりとりが、
実は生まれてくるんですみたいな。
後ろに。
ちょっとしただから自分の日常を少しだけ開いていくとか、
そういうことを、
その人は試しにやってみたそうなんですけど、
そうするとそこから今まで話を交わしたこともないような人と、
話が始まっていったり、名前を知るきっかけに。
なんかそういうのでもいいですよね。
すごい本当にちょっとしたことですね。
いや本当に。
洗う場所変えただけっていう。
究極はなんかちょっと真面目にじゃあ、
あんまり真面目にではなくていいと思ってるんですけど、
本当に誰でもできることとして、
見つめる、微笑みかける、話しかけるっていう、
そこがすごい大事なことだと思ってて、
さっきの電車の中でちょっとこうにこって微笑みかけた外国の方みたいな話。
でもこれ意外と順番は大事でよく言われるんですけど、
今いきなり話しかけたら、子供に話しかけたら防犯部座を押されてしまったので、
確かに。
ちょっと見つめてみて、
ちょっと目が合ったな、そしたらにこって、
微笑みかけて、
もうちょっといけそうだなと思ったらちょっとこう声かけてみてみたいな、
なんかそういうことなんだと思って、
でもなんかそれがこうできるって、
ちょっとしたやっぱりこうゆったりというか、
ないと難しいかなと思いつつも、
でもなんか誰もがちょっとこうできる。
だから時々本当にすごい力が入った感じで、
なんか私にできること何がありますかねとかって言ってくれる熱心な、
本当に市民の人たちとかいたりするわけですけど、
いやなんですかねみたいな、
まずはちょっと見つめ、微笑み、話しかけるみたいな、
そんなところからじゃないですかねみたいなこと言うと、
なんか物足りなそうにするんですけど、
いやでもそれが当たり前にやったらめちゃくちゃ豊かだと思う。
確かに確かに。
一時すれ違った人がちょっと微笑みかけてくれるみたいな、
なんか子供連れて散歩行くときとかに、
なんかちょっと見ててくれる人がいるみたいな、
安心感全然違うと思う。
話し取れますけど、私なんか目そらされますもんね大体。
ピンクの髪してるからね。
ピンクの髪してるからね。
見ちゃいけない。
すごい見てるんだけど、パッて見ると、スッて見ない。
なんなら、見ちゃダメみたいなことを言ってる保護者の顔とか、
なんか浮かびますね。
ちょっと見ないほうがいいわよみたいな。
だからやっぱり人に興味があるのに、それを隠してるみたいなところはある。
だからそれがちょっと歪んじゃうのかもしれない。
普段放出してないから。
日々放出してれば、それなりにいい適温でPCSのプログラムにも来れるかもしれないのに、
それを封印しちゃって、緩めないでっていうのはそういうのもつながる。
日常にニコッとしたり、なんかちょっと知らない人と会話したりする場面があれば、
もっとね、自然な流れで。
ほんとそう思いますね。
なんかみんな誰もがやっぱり何かしなきゃなとか、
今このままじゃいけないなって感覚って多くの人が持っているような気もしていて、
そこは結構希望だと思うし、
でもなんかそれをどう発揮していいか、発露していいかがなかなかやっぱり難しいところだと思う。
でも意外と些細なところに転がってるんだよね。
責任を背負いたいって思うんですけど、